嗤うヒッキーのナショナリズム?

【あらすじ】
トキの字「鴇」を自分の性に持っているため、以前からトキに関心があった17歳の主人公鴇谷春生(とうやはるお)。彼は故郷で好きな女の子との仲が絶望になったため(ストーカーをしていた)、都会で一人暮らしをしてインターネット漬けの毎日である(ひきこもっている)。そんなある日、中国からヤンヤンとヨウヨウを迎えての保護増殖計画を知り、その「欺瞞」に対して違和感を覚える。インターネットで情報を集め、「ニッポニア・ニッポン問題の最終解決」という周到な計画を立て、トキの純血と名誉を守るため武器を持ち、佐渡の保護センターに侵入する。選択肢は「飼育、解放、密殺」のどれかしかない。


鴇谷春生という「クソガキ」は、ヒッキーを連想させるキャラクターであるにも関わらず、よく移動をする。その移動によって何が強調され、何が暴かれるのか。2点指摘する。



一点目。小説内で鴇谷は、移動の手段として徒歩やジョギングだけでなく、(想像上とはいえ)自転車、車、電車、新幹線などを用いる。また、佐渡行きに「飛行機」ではなく、「たてにも横にも大した揺れは起こら」ないジェットフォイル「みかど」(空席有)をあえて「選択」したように、「ニッポニアニッポン」は水平の運動が多く描かれる一方、垂直の運動が極度に禁欲されたテクストであることがわかる。



制限されたが故に強調される垂直の運動は、本木桜をめぐってテクスト内で3度反復されている。はじめは、本木桜をからかった男子生徒を鴇谷春生が「階段の上から突き落と」したこと。2度目は「桜ちゃん」と「うりふたつ」である瀬川文緒が嫌いな人からもらった手紙を線路に捨て、弟が落し物だと勘違いして拾いに行き、そこで轢かれて死ぬこと。そして3度目は、「桜ちゃん」自身が「女子高の屋上から飛び降りて自ら命を断った」こと。いずれも上から下への移動であり、生/死の明白な対峙は保たれつつ、下から上への移動はことさらに禁じられている。それ以外には一応「えひめ丸」や「大韓航空機撃墜事件」が挙げられるが、この法則は守られる。



作中で、唯一下から上への移動を許されるのは、このテクストのグランドフィナーレたる「トキが逃げて、警備員が殺された」時のみである。このことによって、昭和天皇という時代のおわり、佐渡鉱山の終焉を既に迎えた現在において、「残滓」としてのトキをシンボルの無化(というよりは、シンボルの不在の暴露)ということになるのだろう。それは、あたかも「文学の終焉」たる現在において、同小説をかろうじて「文学」たらしめ、なおかつ自らその境界を無化(というよりは不在の暴露)しているものとさえ読み取れる。事実、同テキストが目的=終焉=エンディングたるトキの開放へ向けての、数字(記号)のカウントアップとして描かれないということ(時系列順に描かれず、「情報」がカットアップされる様)からも分かる。



二点目。鴇谷はヒッキーであるがゆえに、短期間のうちにインターフェイス上を絶え間なく巡回(=移動)することを許される。インターフェイス上の移動があからさまに記号上の移動であることは言うまでもない。天皇=金山=トキといった「貴の三角形」なる「真実」を「連想」する鴇谷の思索に、必然性はかけらも提示されず、あくまで「直感」によって「連想」されるのみである。このテクストを読む者には、ニッポニア・ニッポン=日本=日の丸=天皇(=北一輝)=昭和=金山=トキ=朱鷺=鴇=鴇谷(=桃矢)=フレディ・マーキュリー(=透明な存在=酒鬼薔薇聖人)=自分=22歳以上の「彼」=19歳の浪人生=…といった、「データ」の連鎖が起こり、そこにはシンボリックな機能は不在である。



斎藤環新潮文庫版解説において指摘するように、本木桜(=木之本桜=さくらたん)=瀬川文緒(瀬川おんぷ)を連想させ、他にも鴇谷が桃谷を、翼がツバサを連想させる(但し、ツバサは時期的に大変微妙)。また、佐渡+インターネット=佐賀+ネオ麦茶、を連想させるし、「スキンヘッド」「ぷちナショ」「サクラ」の三題噺といえば真っ先にヒキタクニオの『狂気の桜』を連想する。しかしこれらは「CCさくら」がコスプレアニメであったように、あくまで形式的なフックとしてのみ存在するようにも見える。そして、「いかなる隠喩的成分をも含まない」がゆえに、これらの形式的なフック…つまりお約束的な記号(萌え!)にリアリティを与えているよう見える。



一点目において指摘した、下から上への非常に滑稽な垂直移動は、スペクタクルの快楽として読み取られるようなものだろうか。最後に登場するトカレフの男が窓の外にトキを見たかのように見るのであれば、それも可能だ。しかし、ボヘミアンラプソディの使用のされ方に注意すれば、その読みすら「冗談」にもみえる。なぜか。



春生が車の中で聞いたラジオからは、「Mama just killed a man,Put a gun against his head, pulled my trigger, now he's dead.」(ママ、たった今、人を殺してきたよ。頭の後ろに銃を突きつけて、引き金を引いたんだ。もちろん彼は死んだよ)と歌われる(余談だが、ここに「おいおい(笑)」的な笑いや気恥ずかしさを覚えながら、しかし絶妙にマッチしていることに関心しつつ笑ってしまった者も多いのではないか)。ここで「トカレフ」の不在が強調される。また、その直後、「トカレフ」は存在せず、「トカレフ」をめぐるネット上でのやりとりすら「ネタ」に解消させようとする動きが描かれている。



形式的な徹底によって描かれた、シンボルの不在の滑稽な暴露。『ニッポニアニッポン』を読んだ者は、「人間の書いたシナリオ」(物語) をぶち壊そうとすることによって(文学的?)閉塞を打ち破ることが出来る、と思い込んだ鴇谷春生の姿を哂えばいい。あるいは、時には「文壇的だ」、時には「文学を神話化している」などなどと。しかしその滑稽さこそが文章に「形式」以上の力を与え、今なお魅力的な作品だということは強調されてもいいだろう。







【注釈みたいなの】
◆ヒッキー(ひきこもり)という言葉は日常会話などにおいて、ドロップインしたインドア派、という程度の意味で用いられることが多いが、もちろん実際の定義とは異なる。もちろんここでの「ヒッキー」を連想させるキャラ化も、ひきこもりの権威(とあえて呼称する)斎藤環があとがきにおいて「『ひきこもり』がキャラクターの形式として採用されているに過ぎない」と指摘するように、あくまで口実に過ぎない(今思えば、ニートではあるが)。
◆作中の「シージャック」から連想されるのは、9.11ではなく、「西鉄バスジャック事件」であろう。2000/05/03、17歳の少年"ネオ麦茶"によるバスジャック事件「西鉄バスジャック事件」が勃発した。人質の石橋優希ちゃんがCLAMPの登場人物と同じ名前であったこともあり、一躍さくら板のアイドルになるという、「CCさくら」との微妙な関連もある。
◆この文章は斎藤環【ひきこもり犯罪者の虚構的リアル――阿部和重『ニッポニアニッポン』】の骨子に大きく影響を受けていると思う。数ある「ニッポニア〜」評のなかで屈指のものだと思う。
◆『ニッポニアニッポン』が形式の無化を宣言する小説であることは、1年前に書いた駄文においても指摘。もう1年たつことにびっくり。そして、何も成長していない自分にびっくり。ぅぅぅ_| ̄|○