黒沢清監督作品『叫』と継承の限界。

シネセゾン渋谷にて『叫』を観賞してきました。黒沢映画の集大成とも呼ぶべき傑作だったと思う。黒沢清監督が描く幽霊や暴力は面白く、実に滑稽。殴る。歩く。近づく。離れる。飛ぶ。逃げる、そして叫ぶ。以下、ネタバレ含む感想です。

「CURE キュア」「ドッペルゲンガー」の黒沢清監督が、再び役所広司を主演に迎えて贈るミステリー・ホラー。不可解な連続殺人事件の謎を追う一人の刑事が、やがて忘れ去られた過去の記憶の迷宮に呑み込まれ混乱と恐怖に苛まれていく姿を描く。
 連続殺人事件の捜査に当たる刑事・吉岡。犯人を追っているはずの吉岡は、しかしそこに自分の影を見て揺れ始める。被害者の周辺に残る自分の痕跡、さらには自らの記憶すらも自身の潔白を確信させてくれない。苦悩を深める吉岡は、第一の殺人現場に舞い戻り、そこで不気味な女の叫び声を耳にするのだが…。

http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=326311


舞台は再開発が進む湾岸地帯。海水を使った殺人が連続で起こる。暴行、物取りなどの形跡はなく、犯行動機は不明。事件を追う刑事吉岡(役所広司)は、犯行現場の水溜りの中で見覚えのあるコートのボタンを見つける。捜査後帰宅した吉岡は、自室で自分のコートのボタンが無いことに気付き、「俺、何やった?」と自らの“記憶”を疑いだす。捜査現場にボタンを拾いにいったその夜から、赤い服の女(葉月里緒奈)が吉岡のもとに現れだす。


映画内では頻繁に地震が起き、地震によってたびたび海水(過去にそこは海であったという痕跡)が染み出てくる。海水と地震、そして赤い女は奇妙な結びつきをみせており、地震ポルターガイストを連想させる効果を産むばかりでなく、忘れられていた痕跡(海、誰からも忘れられた赤い女)の表出を連想させる記号になっている。


赤い女は、吉岡が自分を愛するはずだったこと、自分が吉岡に殺されたことを告げる。吉岡は「知らない」と耳を塞ぎ、赤い女から目を逸らす。この赤い女は実に特徴的だ。顔がはっきりと映し出され、カメラ目線でずっと吉岡を見下ろす姿が長い間写され、過剰なほどに叫び声が響き渡る。ホラー映画では「顔が見えないこと=匿名であることの理解しがたさ」(『回路』や『降霊』などもそうだった)に恐怖を覚えることが少なくないが、赤い女が特徴的なのは、むしろはっきりと写された顔の無表情さ、はっきりと主張される叫び声の不快さのギャップに恐怖を覚える点だ。


刑事や探偵という役割は、映画や小説などにおいては“謎”に物語(時系列+動機)を与えて秩序化する機能を持つ(そしてその“謎”に対して、多くの批評家は時代的な心性やメディアの代入を試みる)。吉岡もまた、自分の記憶を整理すると共に、赤い女の物語化をはかる。「誰も思い出したくない、嫌なもの」を調べ続けた吉岡は、赤い女に「あなただけ許します」と言われるに至る。その後吉岡は、捜査の間心の支えになっていた恋人の仁村春江(小西真奈美)を自らの手で既に殺していたことを思い出す。春江は吉岡に対し、「しょうがないよ。あなたにはあなたの未来があるんだから」と囁く。


さて、かように整理すると、“吉岡は「誰も思い出したくない」過去の痕跡(叫)に対して、丁寧に耳を傾けたが故に「許された」”と理解することになりそうだ。しかし、それは誤りだろう。許されるのは吉岡「だけ」に限定されており、吉岡が許されたその直後、まったく脈絡もなく同僚の刑事(伊原剛志)が赤い女によって殺される。赤い女の“私は死にました。だからみんなも死んでください”という声が響き渡り、終わることのない暴力が仄めかされると共に、荒廃とした都市が写される。春江は吉岡に対して「思い出さなければよかったのにね」と言い、それでもちゃんと向き合うと空々しく応える吉岡の前から消え、赤い女の骨を拾い集める吉岡に対して悲壮な表情を浮かべる。


忘却することを許さないもの(赤い女)/忘却することを肯定するもの(春江)という対立、忘却することを許さないという叫びの不快さ。これらを踏まえると、吉岡の忘却を掘り起こそうとする作業に対する評価は大きく異なってくるだろう。そこには、「忘却される者の孤独」と「忘却を禁じる者の恐怖」、そして「忘却が不可避であるからこそ現れる“全部なし”にしようとする衝動」を同時に読み取ることが出来るからだ。


『叫』には、テクストを超えた他黒沢作品からの反復が多く見受けられたが、それがどれも重要な意味を持たされている。第二の殺人を犯す医者と殺された息子の、金を無心をめぐるやりとりは、『アカルイミライ』有田守(浅野忠信)の弟、有田冬樹(加瀬亮)と有田真一郎(藤竜也)とのやりとりの反復であり、世代間のはっきりとした断絶を思い起こさせる。また、精神科医、高木(オダギリジョー)が仄めかす“真実の声が限界を超えた”という言葉は、『回路』における、“「あの世」が飽和状態になってしまったため、生きている者には「死」ではなく「永遠の孤独」が訪れる”という世界観の反復になっている。(ついでに、吉岡がその後『回路』の「船長」に至る、という流れも夢想したが、それは留保)。


『回路』においては、(赤いテープのほかに)「染み」が重要な役割を持っていた。海水はその「染み」の反復だといえるだろう。『回路』における、「あの世」が飽和状態になったという世界観は、過去の声を継承するための装置がキャパシティオバーになったことを意味する。誰もが忘れられていき、意味の回路に回収されなくなる状態。その事実に感染した人々は、「タスケテ」と呟きながら消え入る。一方『叫』では、キャパシティオバーになった状態で赤い女の叫びが響き渡る。


これらの作品世界を継承しているように見受けられる『叫』を観るものは、「過去の声に耳を傾ける」ことの解釈は揺らがされ、混乱する。忘却も継承もリスタートも、いずれも困難であり希望を見出し難い。そこに“分かりやすい”答えはない。残るのは、「全部なしにする」「私は死にました。だからみんなも死んでください」という言葉のもつ恐怖感と滑稽さだ。意味の回路に回収されないのなら、すべての人が同じ目に合えばいいという「叫び」は、あまりにも生々しい。