ひきこもり・医療化・障害理論

5月下旬、「ひきこもり・医療化・障害理論」というテーマでチャット大会を行いました。その模様を公開させていただきます。参加者は私(chiki)、上山和樹id:ueyamakzk)さん、井出草平id:iDES)さん、macska(id:macska)さんの4人です。



chiki
今日は「ひきこもり・医療化・障害理論」みたいなテーマでお話してみましょう。チャットは4人以上になると急に難しくなるので、今日はできる限り司会に専念します。ひさびさの田原総chiki朗です(笑)。


改めてご紹介するまでもないと思いますが、上山和樹さんは『「ひきこもり」だった僕から』やBLOG「Freezing Point」などをお書きになっているように、ひきこもり元当事者の立場からひきこもり問題に関して第一線で言論をはっている方で、ひきこもりの置かれている状態や内実、心情などを理解するための言葉を日々つむいでおられます。井出草平さんは上山さんと「論点ひきこもり」を運営されているように、理論社会学を用いつつ「ひきこもり」の理論化を試みてます。また、摂食障害の問題など、隣接領域に対しても高いアンテナを張っておられます。お二人とも、ネット上で「ひきこもり」に関する正しい知識の提供と濃密な議論を展開しておられることで有名です。一方macskaさんは、障害理論とフェミニズム、米国政治等を話題とするブログ「macska dot org」を運営していおり、「ひきこもり」を公的に支援するにはどうすればいいのかという問いに対しても、多くのヒントをいただけるのではないかと思っています。特に今回はmacskaさんのほうから、ひきこもりの医療化について上山さんらと議論してみたいという話があったので、このような機会を設けました。


話の導入として、上山さんが現在『ビッグイシュー』に連載している、斎藤環さんとの往復書簡である「和樹と環のひきこもり社会論」というコーナーについて触れると、議論が分かりやすいのではないかと思います。まずはお手数ですが、その往復書簡の論点がどういうものだったかをあらかじめ上山さんからご説明いただけますでしょうか。そうすれば、具体的にどのような論点や係争が重要なのかがクリアに整理されると思います。



上山
はい。 連載の冒頭は誌面対談だったんですが、焦点のひとつは、「ひきこもりというのは、いわば《自由の障害者》ではないか」というものでした。 つまり引きこもりは、身体障害でも精神障害でもなく、クスリや生化学的処方の効果も期待できそうにない*1。 ところが実際の状態像としては、《障害 disability》と捉えざるを得ないようなどうしようもないことになっていて、本人も家族も困り果てている。――ひとことで言えば、状態像の深刻さにもかかわらず、その深刻さの内実が、既存の公共圏を説得するための解釈枠(身体障害や精神障害)に収まってくれないわけです。 だから問題そのものが、「なかったこと」にされたりもする。


ひきこもっている本人自身、80年代の稲村博ショック*2以来、「障害者」や「病人」と捉えられることに激しく抵抗する。 にもかかわらず、「このままでは野垂れ死にだ」と途方に暮れている。――つまり引きこもることは、一方ではいわば「自由権」として主張されているのに、もう一方では「社会権」を主張していて、これは実情に即す限りそう考えざるを得ないのですけれど、こんなものは通るわけがないと思うのですね。


このどうしようもない事情は、そのまま「不登校業界」と「ひきこもり業界」の対立となって表現されています。こうした解釈上のジレンマを生んでしまう核心を、「身体でも精神でもなく、自由そのものが障害を持ってしまっている」という、ひきこもり独特の“障害”事情として表現できるのではないか――というのが、斎藤さんによる問題提起でした。私はこの辺の事情を、ブログでは「impairmentなき disability」と表現してみたのですが、そもそもこんな表現が許されるのかどうか…。


macska
差別の問題だと、人種差別とか性差別じゃなくて部落差別みたいな。はっきりと分かる物理的な何かがあってそれを理由に違った状況におかれるのではなく、そもそも差異がなんだかよく分からない。


chiki
部落差別は、差別のなかでも「スティグマなき差別である」と指摘されていたように思います。論者を失念してしまいましたが…。


上山
なるほど。しかしさらにやっかいなことに、ひきこもりは部落差別とちがって、「一生背負い続ける属性」ではなく、「一時期の行動選択」が問題になっている。だから「不自由の内実」について、固定的な枠組みを設定することも難しい。(「解放の主体」をどう設定すればいいのかが分かりにくい。)


chiki
上山さんの要約に補足しますね。「自由」の意味が変わってきたのではないかという議論は、ジャンルを問わず昨今非常に盛んに行われていますが、その文脈は今回はちょっと括弧に入れて話を進めます。上山さんと斎藤さんの最初の対談では、「いかに生き延びるのか? これだけでいい」という見出しが大きく印刷されていましたね。対談ではまず上山さんが口火を切り、ひきこもりはコミュニケーションに過剰適応しようとしている不自由な状態であり、「自由度を高める」というモチーフの重要さを訴えていました。


斎藤さんはその意見に同意した上で、「考えるべきことは、いかに生き延びるかだけで十分じゃないですか」と答えていたのが印象的でした。そして、それからはいかにサバイブすべきかという内容として、家族の問題、モチベーションの問題、経済の問題などが提示されて対談は終了。それから往復書簡が始まり、今は2往復くらいしたんですが、その内容は「自由の障害」をいかに言語化すべきか、いかに克服すべきか(本当はもっと濃密な論点がたくさんありますが割愛)などが触れられていました。


このような流れを受けて、議論の枠組みを「自由の障害」の状態から「自由度」を高めるためにはどうすればいいかと考えたとき、macskaさんの一連の取り組みを踏まえた議論が大変参考になるかと思うんですね。


macska
えっと、その前に自由の障害というのをもう少し詳しくお願いします。自由度を高めようというときに、それは誰かが制限していて自由でないという意味ではないですよね。


上山
ええ。


井出
それは、特定の他者に阻まれるという意味だけではなく、個人に内面化された社会規範に阻まれるという意味もふくみますか?


macska
どちらでもお願いします。どこが自由でないのか、というのを聞きたいのですけど…。わたし、ひきこもりについては上山さんからこれまでいろいろ教えられただけで、直接あんまり知らないので。直感的に分かる部分もあるんですけどね。もちろん、当事者でも家族でもないお前に辛さが分かるかと言われればその通りですが、上山さんの話を聞いていて、ひきこもりは常にオンなんだとかいう話だとか、過剰に規範的なことが行動を縛っていることだとかは、感覚的によく分かります。実社会の側が、社会復帰を困難にしているという問題も、もちろん別にありますが。


chiki
ひきこもりの定義から解説なさったらいいのではないですか? 家族以外とのコミュニケーションを半年以上せず*3、なおかつ他の精神疾患などが主な原因でない、という定義でしたよね?


井出
そうですね。期間が半年になってるのはDSMの6ヶ月という期間を継承したんですよね。DSMでは6ヶ月という基準を採用してるんですよ。6ヶ月でなくてもいいといえばいいんですが、じゃあどこで区切るんだというと、それもよく分からないので、6ヶ月で一応区切っておきましょうということでしょうね。


chiki
「ひきこもり」の定義は2重の否定形であらわすしかないんですよね?


井出
そうですね。人が普通に生きている時にするはずの、他者との相互行為が無い。ひきこもりについては、ひきこもりに陥る過程と、ひきこもり状態から離脱が出来ない状態の2つを想定する必要があると思うんです。井出はひきこもりに陥る過程について中心に話をしてみます。原因論の方ですね。


ひきこもりに陥る場合、だいたい2つの経路を取ることが多いですね。一つは、不登校を経由します。学校に行かないという規範の内面化の一方で、行けないという現状がある。この状態は自己否定を生み出しますが、その自己否定を重ねることによって、不登校という状態が徐々に「ひきこもり」へと移行するパターンです。このパターンの時は、拘束的な環境にいる時が多いので、個人的には「拘束型」と呼んでます。


もう1タイプは、拘束的な空間から、まったく違う開放的な環境に移動した時ですね。大学が一番危険性があります。高校までのように毎日学校に行かなくて良いし、テストも少なくて、課題もない。今まで、高校で適応してきた人間が、そういう生活に入って、何をしていいか分からなくなってひきこもりに至るパターンがあります。あと、コミュニーケーション形態の変化も重要ですよね。高校までだと、毎日同じメンバーと長時間過ごしますが、大学では密な集団がなくなるので、気づくと一人ぼっちということになりかねません。開放的な空間でのひきこもりなので、「開放型」と個人的には呼んでます。



「中学・高校」と「大学」にそれぞれのタイプが多いというだけで、必ずしもこの地点で起こる訳ではありません。環境が「拘束的」「開放的」と極端に振れることによって「ひきこもり」が発生するわけです。


「自由」の点でいうと、拘束的な環境では「自由」が奪われてしまいますので人は不快になります。しかし、一方で、「開放的」になっても人は不快になるわけです。「自由」になればそれだけ良いことがあるようにも感じられますが、実際のところは、過度な「自由」というのは「不自由」以外のなにものでもない。


上山
いずれにせよ、その「相互行為=社会的行為」の喪失状態が、おのれの赴くままに振る舞った「自由の結果」なのか、それとも「不自由の極北」なのか。ひきこもりが単に「甘えている」と見做されるのは、「自由の結果」としか見えないからですね。▼しかし斎藤さんや私の議論では、「不自由の極北」と考えられていて、それを「障害」と仮に言っている。【塩倉裕さんは、ひきこもりの定義に「本人の意思を越えて長期化」と入れているから、やはり「不自由」を問題化されている。】 ▼自由に振る舞おうとすればするほど、その試み自身が強迫化してしまい、不自由になってゆく。


chiki
うん。上山さんは、ひきこもりは24時間ずっとコミュニケーションにひらかれっぱなしでずっとオン状態で、異様に不自由な状態だといってますしね。言うなれば、絶えずコンテェンジェンシー(コミュニケーションの偶発性)とにらみ合っている状態。


上山
「コミュニケーションの偶発性とにらみ合う」というのは、事情のすべてではないと思いますが、すごく重要なご指摘ですね。▼いまchikiさんが説明してくださったように、ひきこもりの状態というのは、結果的な状態像としては「不適応の極北」なんですが、実はそれは適応努力が強迫的に暴走するのを止められない結果、と言える。本当にやりきれない話で、外部から見ればまったくバカバカしいのですが、本人は「適度」のポイントが見えない・・・


井出
「自由」の話でいうと、有名なフロムの「自由からの逃走」という話がありますよね。第一次世界大戦後の自由なワイマール体制によって与えられた過度の「自由」に不安感を持ったドイツ国民が拘束的なナチスドイツ体制を支持したという話です*4。過度な「自由」というのは「不自由」なのだと指摘した古典ですが、「ひきこもり」の強迫的な暴走とも関係関係しているかもしれませんね。外部から見ればまったくバカバカしいまでに、ドイツも暴走しましたから。


上山
ややこしいのは、自由に振る舞おうとする努力が、最初から適応努力の形をしていることです。自発的な順応努力以外の努力を知らない。▼「度外れた自己反省が強迫化してしまい、自分を監禁状態に追いやってしまう」ということではないか、と考えているのですが…。【斎藤環氏によると、ひきこもりは大きく「対人恐怖型」と、「強迫神経症型」に分けることができるとのことです。】


chiki
参照として、斎藤さんの該当部分を貼っておきます。

動くための条件は問題ないのに、動けない。何が障害なのかと言うと、自由が障害されているとしかいいようがないわけです。そういうエッセンスを極めていくと、ひきこもりこそがまさに「自由を失う病」。統合失調症に関しては、今後精神薬理や脳科学のレベルで新しい治療法が開発される可能性はある。でもひきこもりに関しては、そういう期待はいっさいできないわけですよ。障害部位を特定できない、ただ自由が傷害されているとしか言いようがない。


これも否定形ですね。否定形、消去法で表すしかない。


上山
何かができなくなっている状態について、既存の解釈枠を当てはめることができなくて、消去法の結果、「自由」しか障害部位が残らなかった、と。 「できなくなっている」という現状からさかのぼって、「このように考えるしかない」というような。


macska
具体的に拘束する他者がいる限りにおいて自由というのは意味がはっきりしているけれど、そうでない場合に自由というのはよく分からないですよね。


上山
「自由に振る舞うことに適応しようとして強迫的に苦しんでいる」という、なんともいえない奇妙な状態になっている。


井出
自由があるというのはとても不自由なものである。


macska
そう。自由であるはずなのに、どうしてこんなに自由感が少ないのか。


井出
開放型のひきこもりの人に調査をしてて一番思ったのは「自由ゆえの不自由」ですね。


chiki
斎藤さんが、最新号でカフカの『掟の門』*5を例に出してきたのも、そのあたりの話をしたいからでしょうね。


上山
次号以降で、そのあたりは重要な論点になります。*6


macska
というわけで、みなさんビッグイシューを買いましょう♪


chiki
たったの200円ですよー♪


macska
ってオイ(笑)


上山
重要なのは、ひきこもりというのは「適応努力のなれの果て」であって、だから適応しようとすればするほど、障害の度合いを強めてしまう、というジレンマです。


井出
「適応努力のなれの果て」というのは正鵠を射た表現ですね。


chiki
macskaさんの指摘は示唆的で、自由を阻害されている状態/自由を阻害されていない状態という意味での「自由の障害」というのであればすごく話は簡単に理解できる。でも、お二人(斎藤さんと上山さん)の話はそうはなっていないし、かといってこれは別にmacskaさんが「定義が曖昧なんじゃぼけ」といっているわけではないところに注意です。


上山
たとえば、ひきこもりの問題を「劣悪な労働環境や不安定就労の問題」に還元できるなら、「ひきこもり」という問題枠を別個に設定すること自体が無意味になります。実際、「労働問題以外は虚偽の問題」と考える人は、「ひきこもり」という問題枠の設定自体を、「人を強制的に社会復帰させようとする強権的態度」と見做します。 ▼逆に言えば、「ひきこもり」の個人レベルだけを見て、労働問題を見ないのはおかしいのですが。


chiki
斎藤さんが、往復書簡の最初のお便りで、「自由の障害」の対立項を提示しています。斎藤さんは、「自由」の対義語を「万能感」だといってるんですよね。この言葉、上山さんはどう理解しています? 斎藤さんはこの対立については、あえて詳述をしていないんですが。


上山
自由を極大化しよう、最大効用化しようとする努力に、「万能感」が関わっているかもしれない、ということかな。自己限定がうまくできておらず、その自己限定への使命感が強迫化している状態だから。 「自由の最適化」に失敗している。


macska
いや多分ね、繰り返しになるんだけど、自由というのは「自由がない」という状態において意味を得る概念だと思うのよ。


chiki
それは分かりやすいですね。多分ここにいる皆さん既に分かっておられると思うんですが、この議論、色んなレイヤーの「自由」が交錯しているので大変わかりずらい(笑)。


井出
おそらくバーリン的な表現を拝借するなら、「他者の自由」が極小化されていて「他者からの自由」は極大化されている状態なんですよ、「ひきこもり」は。「他者からの自由」は極大化されて保証されてる。なぜなら、他者からの快の信号も不快の信号もシャットアウトされてるから、外界からは非常に自由なわけです。他者からの介入もノイズもゼロな状態です。


しかし一方で「他者への自由」は極小化されている。上山さんが言われるように、ひきこもり状態から行動を起こそうと思っても失敗してしまう。他者との相互関係を結ぼうと思ってもできない。「他者への自由」が極小化されると、就労しようと思っても「就労の自由」がなくなる。2つの「自由」のバランスが悪いと、たとえ「働きたい」というような「意欲」があっても失敗してしまうんでしょうね。


「自由」というものは、他者という「不自由」を抱えることによって、逆説的に帰結されうるものです(参照)。「他者から自由」と「他者から自由」がほど一緒に存在して、はじめて「他者の自由が」生まれるのだと思います。


macska
自由の欠如という意味の自由でない、大文字の自由というのを求めたら、宗教に行くしかない。でも、宗教に行けない人が、ひきこもっちゃうんでしょ(笑)。


上山
そう。


chiki
この場合の自由って、「自由がない」という状態ではなくて、ひきこもりの内面や心情を言語化したものではないですか?


上山
「実存」という言い方に近づくのかな。 「実存の障害」。自由に振る舞う能力さえなければ、そんな不自由な状態に陥らなかったのに、というような。


chiki
それに対して、制度的にはそのような悩みにネットをはってあげるような状態を作ろうというレベルの話もある。


井出
制度的にむずかしいのは、ひきこもりの原因が両極端だってことなんですよね。拘束的でも開放的でも発生してる。大学は開放的すぎるから、出席とって、指導をちゃんとしてとすると、それでもまた、ひきこもりになる人がでてくるわけだし。


chiki
そこで、そのことをどのように表現するかという議論のほかに、その状態をどうやって見守れるような環境を社会で用意するか、そういう悩みを抱えているものや支援者をどうやって支えるかと言う議論がでてくるわけですよね。


上山
まったくその通りです。


chiki
もうちょっとでひきこもりに関する前提の話から進めようかと思いますので、もし質問あればガンガンどうぞ。


macska
質問ですか? あかちゃんはどこからくるの?


chiki
それはね、元巨人軍の河埜(コウノ)選手が運んでくるからだよ。送りバント!
*7


上山
どんなに深刻な状態になっているとしても、既存の解釈枠から言えば、「自分で勝手に思いつめて破綻したバカな連中」にしかならないと思うんです。わざわざそれを公共圏の問題として設定する必要があるのかどうか、というところから考える必要が出てくる…。▼さっきも言いましたが、ひきこもりを「ニセの問題」と言い張る人もいます。


井出
社会問題として構築されただけで、実際には「ひきこもり」なんて存在しないというやつですね。言説構成に焦点を充てることが、実態の隠蔽をすることに機能することに気づかない勘違い構築主義者たちは死滅した方がいい。


あと、少しだけ議論の整理をさせてください。上山さんも井出も「ひきこもり」について述べている訳ですが、2人の記述の方法が違っていて、井出は今回は主に原因・発生について述べています。原因記述で、時間的には発生時期あたりについてです。一方で、上山さんは、原因・発生以後にひきこもり状態が継続すること(執拗に続くこと)を言語化をなされている。これは「ひきこもり」の状態記述ですね。


chiki
うん。それと、いかにひきこもりを公に対して認知させるか、ひきこもりを公において認識するか、と言う話だね。上山さんは。


上山
そうですね。こうやって抽象的に論じているとピンと来ないかもしれませんが、実際の状態像は、ご家族もろとも、本当に追い詰められています…。


chiki
そこで、そろそろmacskaさんの出番だと思うのですが、どうです? 私が上山さんと電話などで話すときに頻繁に話題になるのが、こういうことを考える「前例」や「類似例」が参照軸としてあると把握しやすいということなんですよね。その点、女性差別の歴史や障害理論の話から得られることは多いと思う。


macska
わたしが上山さんからいろいろ話を聞いて思うようになったことはですね、いろいろ問題があるのを承知で、やっぱり医療化というのをある程度受け入れないと仕方がないのではないかということ。それを当事者が主導することで、できるだけ当事者の利害に近いところで医療を「利用する」ような形にできないかとね。


わたしはインターセックスの当事者支援にかかわっていますけど、インターセックスの運動はもともと医療と正面から対決するものでした。インターセックスの身体は苦痛をもたらすわけでもないのに、ただ「正常でない」というだけで手術などによって矯正されるのはおかしいと。でもそれで脱医療化すれば良いかというと、中にはそれでは済まない症状の人もいる。障害全体について言えば、もっとそうですね。医療化によるスティグマは避けたくても、医療自体は避けられない人がどうしてもいる。すると、障害という扱いを受けることによるスティグマを隠避するために障害というカテゴリから逃れるのではなく、障害というカテゴリにまつわるスティグマ自体を解消するほうが良いということになる。


ひきこもりの問題で、「これはもう医療化するしかないんじゃないのか」と思ったのは、例の施設における死亡事件がきっかけです。医療の対象とされていないばかりに公的支援が入らずに家族ばかりに負担がかかることや、施設が公的な監視の外で運営されてしまうことなど、現状では問題がありすぎる。医療カテゴリというのは、ほんらいリソース配分を効率化するため「だけに」あれば良いはずです。その意味で、公的リソースの配分を必要とする人たちがいること自体が、ひきこもりの医療化というのを考える理由です。


井出
医療がひきこもりを担うのに適切だというのはその通りで、じっさいのところ、ひきこもりガイドラインは厚生労働省によって出されていますし。近代では人の知り得ない部分は専門家が分担を持つというシステムを採用してきたじゃないですか。例えば、日々使ってる電車の製作やメンテナンスっていうものは、普通の人たちには専門知識がないから、「知り得ないもの」を専門家に任す*8「ひきこもり」のような日常感覚からは「知り得ないもの」は専門家に任されるべきものと認識されるはず。


macska
うん、でも同時に、やっぱりそういう専門家に任せちゃうのは不安なわけで(笑)


井出
そのあたりに「ねじれ」があるんですよね。医療以外のひきこもりの支援者っていうのは、長田さんに典型的ですけども、ある種のカリスマ的なプレゼンテーションを行ってますよね。奇跡の提示のような感じで、「2時間でひきこもりを直す*9とかって。そういうカリスマ的行為がないと、専門性の権原が出てこないわけです。


でも、カリスマ的行為というのは特定のカリスマによってしか示されないものなので、日本全国で、しかも制度的に「ひきこもり」というものを受け止めることはできない。カリスマというのは「ありそうもなさ」があって初めて支配の権原になるので、「ありそうもなさ」が広く一般化して「制度」として確立することなんてあり得ない。とすると、「制度」的に可能性があるのは「医療」しかないんですよね。


もちろん「医療」しかないと言っても、「医療」によって「ひきこもり」が治るという実際的な効果の面ではなく、人々の認識において「医療」が引き受けるという意味です。今の社会システムでは「医療」以外にそういうものを引き受ける主体がない。


macska
わたしが思うのは、医療化を当事者運動の側が操縦していけないかなぁということなんですけれど。例えば、最近の性同一性障害の医療なんて、かなり当事者運動の側が力を持っているように思うんです。「性同一性障害」というカテゴリは、今の社会ではだいたいホルモンや手術を得る手段として機能している。だから、ホルモンも手術も戸籍変更もいらないという人は、診断すら受けなくていい。


上山
「医療カテゴリというのは、本来リソース配分を効率化するためだけにあれば良い」というmacskaさんのご意見は、すごく重要だと思う。 ▼この話は、ひきこもりよりも医療的支援の色彩が強い「摂食障害」の場合にも言えることでしょうか。


井出
それは、アイデンティティの問題としても、実際に医療があまり効果的ではない(ひきこもりや摂食障害に対して実質的な専門性を医療は持っていない)という問題としても、なんらかの当事者運動の必要性はありますよね。


macska
ひきこもりの医療化というと、すぐに「ひきこもることが病気で、ひきこもりを治すことが治療」と思われてしまうけれど、そういう定義にしないように当事者運動が引っ張る必要があると思う。医療が解消すべきは、人の状態ではなく人が感じている苦痛であるべき。


上山
おお。御意。


chiki
保険制度によって、家族の問題、経済の問題への救援手段にもなりえますね。


井出
とすると、ひきこもりという枠組みではなく、「社会不安」や「人格障害」という枠組みで医療に回収して、苦痛を取り除くという方向に?


macska
医療というのはいろいろあるアプローチのうちの1つでいいので全面的に医療に回収しなくていいわけですけど、だいたいそういうことです。パーソナリティ障害というのはよく似ているじゃないですか。病気だというわけでもないし、それ自体治療できない。でも現実に、本人や周囲の人が苦痛を感じているから、リソース配分の対象になる。家族の苦痛というのも、公的な支援を入れてなんとか解消しなくちゃ、今後もひきこもりによる家族殺しや家族によるひきこもり殺しというのがいくらでも起きますよ


それで、どうすれば公的な支援を入れられるかというと、やっぱり当人が何らかの医療カテゴリで診断されたというのを要件にするのが手っ取り早い。DSMから「同性愛」が外されたのに「性同一性障害」が残されたのは、要するにそういう利用価値があったからで。


井出
医療で回収というのは、いくつかの保留点をおいて妥当だと思います。


macska
もちろん、下手するとひきこもりにどんどん薬飲ませろとか、施設に収容しろとか、そういう事になりかねないから、当事者運動による操縦というのがすごく必要。


chiki
人格障害についてあとで解説きぼんぬ。


井出
DSMに性格悪いパターンが8つほど載ってるんですよ。それ。


上山
ボーダーラインとかですか。ひきこもりは、「回避型人格障害」と。


macksa
人格障害って、フェミニストにすごく評判悪いんです。ほとんど全部、男性中心社会で女性が陥りがちな状態のステレオタイプだと。1つだけ、反社会性人格障害というのがあって例外なんですが。


井出
現状で「ひきこもり」の問題っていうのはまだまだ第一の支援まで届いてないことで、保健所とかに行けばある程度の支援は得られるはずなんです。ただ、医療にしろ、精神保健センターにしろ、原則的に家にまでいって支援が出来ない状態でして。


macska
保健所に何ができるんでしょう?


井出
保健所に当事者が行けば、受け入れ能力を持ってる都道府県の「精神保健福祉センター 」への紹介であったり、精神科医などへの紹介であったり、自助グループがあれば紹介をしてくれると思います。ただ、当事者が保健所や精神保健福祉センターに行かない場合とか、閉じ籠もって出てこないとか、そういう場合には行政としては基本的に手が出せない。


上山
そうですね。macskaさんのご提案はとても示唆的で、ぜひ参考にしたいのですが、当事者自身が「主導権を握る」ということも、「医療をリソースとして利用する」ということも、社会的行為ですよね…? その「社会的行為」が失われてしまっているのが引きこもりなので…。


macska
それはそうだなぁ。困った。


井出
摂食障害の場合には、自分の「身体」で戦う可能性が残されてますよね。


上山
ひきこもりの場合は、「沈黙」でしょうか。


chiki
うん。身体を武器にすれば保険はおりるけど、沈黙してたら保険はおりない。でも、保険自体は定義にのっとればおりる、という状態にするとかはできないのかな。医療化するというのは必要で、課題はいかに当事者と医療の間のハブを作るとか。


上山
現実的には、先日の死亡事件に対しても、ひきこもりの当事者サイドからは連帯的な抗議の動きは出てこない…。▼過労死研究をされている大野正和さんに聞いたのですが、過労死も、論じ手がいないらしい。その「論じ手がいない」ということ自体が、いろんな事情を物語っているらしくて…。


chiki
なるほど。


上山
左翼系の議論では、過労死というのはあくまで「資本が悪い」ということにしないと、政治的にまずい。そこに本人の心理事情を考慮に入れて、「労働者自身が自分を過労死に追い込んでいく」などと言い始めると、裁判に負けてしまうわけです。いっぽう、社会学や社会心理学系の人たちは、「労使関係は触っちゃいけない」みたいなタブー感があって――柄谷行人さんもたしか言ってたけど、日本ではマルクスや労使関係に言及するのは、ものすごくややこしいものをいっぱい呼び寄せてしまうと。


ということで、社会心理学系の議論と、労使関係の議論は、棲み分けちゃうらしいです。そうすると、過労死という問題そのものをクリティカルに扱おうとすればするほど、既存の学問領域に収まらないので、結果的に「ポストが得にくい」ということになる(「学問の政治的布置連関」という言葉を教わりました)。だから、社会問題としては深刻なのに、「論じ手がいない」という奇妙なことになる。――これは、同じことが引きこもりにも言えないでしょうか。労使問題をやる人は、引きこもり問題の心理的ディテールを無視する傾向にあると感じています。


井出
たとえばプロアナはオルタナティブな人生の選択だという運動もありますね。また、そういう運動になっていなくても、医者に対抗するために「反治療的」な振る舞いをする「患者」はよくいます。いくつもの医者を渡り歩いて、その力量を測って回ってる「患者」とかね。


上山
プロアナ→(http://d.hatena.ne.jp/iDES/20060520/1148083550


macska
プロアナって、何年か前にすごい騒ぎになってましたね。メディアが騒いだだけかもしれませんが。


井出
そうそう。検閲とかウェブを削除されて、現在はアングラ化してしまっていますが。


macska
それまでの摂食障害のイメージは、メディアが映す「理想体型」に騙された被害者という扱いだったわけで、「そんなに痩せ過ぎても、ちっとも魅力的じゃないよ」とか揶揄されたんだけど、そういう見方に反発してでてきた動きですよね。べ、べつに、あんたに見てもらいたくて痩せたんじゃないのよ!と。


chiki
ツンデレキタコレ。


macska
心理的には、自己コントロール感というのに強く関係していると思っています。わたしがブログで批判してしまった人だけど、ベッキー・トンプソンという社会学者がいて、黒人女性やレズビアンなどのあいだの摂食障害というのについて詳しく調べています*10。メディアイメージ的には、アメリカでは摂食障害とは白人中流家庭の異性愛の女の子がかかるモノとされているんだけど、ステレオタイプではないマイノリティの女性の摂食障害を調べてみると、自己コントロール感というのと関連がはっきりと見えるらしいです。社会のなかでコントロールできるものが少ない人こそ、摂食という行為からコントロール感を調達する必要がでてくる。


上山
僕がダイエットした*11ときの心理事情が、ばっちりそんな感じだ。 「すべてに敗北して、体重の部分だけでプライドを維持」みたいな。


井出
受験期に摂食障害というのは典型パターンとしてありますよね。燃料補給ナシで、受験がんばる!体重制限がんばる!ってのを両輪にしてガガガと走っちゃう。自己コントロール感はすごくあるでしょうね。コントロールする快楽のようなものが。


chiki
電気グルーヴの「スネークフィンガー」の歌詞を思い出すなぁ。



macska
摂食というのはコントロール感を得るための行為だと思うんだけど。どうしてそんなにコントロール感を得たいのかというところでは、確かに強迫的なものも感じられる。ひきこもっている人が感じている強迫感とは似ていないかな。


井出
「ひきこもり」はどうだろう?


上山
「コントロール」の対象が違うのかな。


chiki
その類似性とジェンダーによる非対称性は、斎藤さんや井出さんも論じていたね。


井出
アディクションの観点で言うと、ギデンズは資本主義の精神と同じだと言ってますよね。ウェーバー的には、近代の資本主義というのは仕事へのアディクションによってなりたっていて、同様の構造が摂食障害でも見られる的な話。


上山
chikiさんもトラカレで紹介されてましたけども、この方なんかは、「追い詰められ型」というよりは、かなり確信犯的かな。


macska
資本主義の精神という話にちょっとだけ乗ると、ひきこもりというのは労働規範がないわけじゃない。上山さんの話を聞いていると、むしろある面では過剰にある。


上山
さっき私は「ひきこもりはキツイ」ということを言いましたが、むしろ規範としては、閉じこもっていること自体を肯定する必要がありますね。 現状を肯定されないがゆえに、ますます過剰に規範に呪縛されてしまう、という悪循環の事情が強烈にありますから…。 ▼「ニートは扶養控除外 自民が検討 (ニート税)」――これは制度的に外部から締め付けて、「規範を復活させよう」ということでしょう。


井出
「ひきこもり」は規範を内面化してるし、就労意欲はあるんですよね。もしかしたら、普通の人以上に「働きたい!」と思ってる。それに、規範からの逸脱を異様に恐れているし。


chiki
ひどいね、ニート税。 ひどいってか、普通に年齢制限って書けよ。


macska
扶養控除は子育ての負担を軽減するためだから、成年した人は対象としないことにしました、というならそれほど間違っちゃいない。でも、それでニートに罰を与えようとか就職させようと思っているとしたら、酷い話だよ。


上山
宮崎哲弥さんの案が現実化。→http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20041010#p3


井出
ほんとだ(^_^;


chiki
家にいることは許さないわ、それでいて野宿者に厳しいわでは、ちょっとなぁ。日本は「イエ」のお陰でドロップアウトせずにドロップインするっていう指摘もあるのに。


井出
そういえば、とある支援者の方にインタビューした時に散歩の話が出たんですよ。ひきこもりから出てきた当事者は自分で散歩をすると、特に欲望がないから立ち止まってしまう。でも、犬を連れてると、犬が行き先を決めてくれるからいいんだって。ひきこもりを語る時に(とくにひきこもり状態が長くなっている場合ですが)、ニーズの欠如、もうすこし正確に言うと、「人間」というものをつくって、それが「ニーズ」というものをもった「主体」になるという仮構がどうしても成り立たない。散歩の例だと、どちらの道に進むかということさえのニーズもが欠如していくんですよ。


近代っていうのは、「ニーズ」があってそれに対して「サービス」を提供するという社会設計で動いてるんです。医療でも同じ。「○○の具合が悪い。治してくれ」と患者が来て、医者は患者の「ニーズ」に応えて「治療」という「サービス」が行われるわけです。でも、「ひきこもり」状態が続くと「ニーズ」が欠如していくんですね。「ひきこもり」というものは、近代が前提としていた「ニーズ」と言ったものだったり、「主体」と言ったものが突然姿を消してしまう地点なのです。


しかも、生命の危険がある訳ではないので、医療的な強制的介入は許容されない。「ひきこもり」というものに関わるのは「ニーズ」なき「サービス」について関わることになる。そういう近代が前提としてなかったものを引き受ける専門性ってなんだろう?って。


chiki
医療と家庭をつなぐハブについてはもう少し検討が必要ですね。なにかの技術かもしれないし、人かもしれないし、訪問サービスシステムとかかもしれないけど、医療化の話は大きなヒントなので、そこを論じる必要はあると思います。


さて、随分時間が過ぎましたね。本日はとりあえず、ずいぶん論点は整理されてきた気がするのでここまでにしましょう。これをブレーンストーミングにしつつ、もしよいトラックバックがあればそれをフィードバックして第二、第三のチャット大会を開催したいと思います。お疲れ様。


井出
おつかれさんでした。しかし、医療化ってそういうことだったのか。chikiさんに「医療化についてチャットしましょう」って声かけられた時、なんのチャットかよくわかんなかったの。シュナイダーの話でもするのかと思って、困ったなぁと。


chiki
「医療化する社会」みたいな?(笑)


井出
そうそう(笑)


一同
(笑)

*1:対人恐怖や強迫神経症の苦痛を緩和するためなどに、クスリは有効とのこと。 ただし、「社会的ひきこもり」という状態像そのものを改善するには、クスリは「驚くほど効かない」(斎藤環)。

*2:不登校(当時は「登校拒否」)を、「治療対象」とした。

*3:【上山・注】:厚生労働省、斎藤環、塩倉裕のそれぞれで、少しずつ定義が違っている。 chikiさんのいう「家族以外とのコミュニケーションをしない」というのは、「社会参加がない」ということの内実を表す。 ▼「半年以上」というのは斎藤環氏の定義にある期間だが、これには異論も多い。

*4:フロムの示したロジックの「自由」についてのみを取り出した場合の解釈

*5:カフカ短篇集 (岩波文庫)』所収

*6:詳しくは「雑誌『ビッグイシュー*1』 第51号 発売中 」参照。

*7:わからない人は『タイガー&ドラゴン』を観よう。

*8:ギデンズの「専門家システム」の考え方

*9:「治す」ではなく

*10:参照:『A Hunger So Wide and So Deep: American Women Speak Out on Eating Problems』

*11:1年で30kg減