擬態としての<神話>その4

田村が永松を撃つ事となった「銃は国家が私に持つことを強いたもの」であり、同時に「父殺し」の記号でもある。国家に与えられた「もの」である銃は、一度捨てても「父殺し」の記号と共に再び田村の手に戻ってくる。

(1)銃は月光に濡れて黒く光った。それは軍事教練のため学校へ払い下げたのを回収した三八銃で、遊底蓋に菊花の紋が、バッテンで消してあった。私は嘔気を感じた。
すべてはこの銃にかかっていたのを、私は突然了解した。いくら女が不要慎で、私が理由なく山を降りたにしても、もしあの時私の手に銃がなかったら、彼女はただ驚いて逃げ去るだけですんだであろう。
銃は国家が私に持つことを強いたものである。こうして私は国家に有用であると同じ程度に、敵にとっては危険な人物になったが、私が孤独な敗兵として、国家にとって無意味な存在となった後も、それを持ち続けたと言うことに、あの無辜の人が死んだ原因がある。
 私はそのまま銃を水に投げた。ごぼっと音がして、銃は忽ち見えなくなった。孤独な兵士の唯一の武器を捨てるという行為を馬鹿にしたように、呆気なく沈んだ。(二〇 銃)

(2)私は立ち上がり、自然を超えた力に導かれて、林の中を駆けて行った。泉を見下す高みまで、永松が安田を売った銃を、取りに行った。(…)私は私の手の中にある銃を眺めた。やはり学校から引き上げた三八銃で、菊花の紋がばってんで刻んで、消してあった。私は手拭いを出し、雨滴がぽつぽつについた遊底蓋を拭った。(三六 転身の頌)

(3)私が静かに銃を差し上げるのが見える。菊の紋章が十字で消された銃を下から支えるのは、美しい私の左手である。(三九 死者の書


「遊底蓋に菊花の紋が、バッテンで消してあった」。これは「天皇」に入ったスラッシュに相違ない。そしてこの記号は3度、差異を伴った反復を行っている。(1)において、田村が銃を意識した途端に「嘔気」を感じ、川に投げ捨てるのだが、(2)の場面で、まったく同じく〈×〉印の入った、即ちまったく同じ記号が刻まれた銃=捨てたはずの記号が何の説明もなしに田村の手に戻って来る。そして3度目の反復において、「十字」の記号が与えられる。


テクストにおいてはあらかじめ「天皇」にはスラッシュが刻み込まれているが、それは田村が軍を離れて彷徨っているからに他ならないだろう。ラカンの言葉を用いれば、「父の名」(Nom du Père)に「騙されない者はさまよう」(Les non-dupes errent)からだ。しかし、それでもなお「スラッシュ」の入った記号が反復的に田村に回帰してくる。


女殺しの後で「銃」を川に投げ捨てるとき、田村は女殺しの「すべて」を「銃」の責任にして、投げ捨てている。しかし、「銃」という「天皇」のファルスには既に(テクスト内では常に)〈×〉が刻まれている。嘔吐を感じるのは、その「重み」をひとつの身体が受け止めなくてはならないことへのリアクションであろう。「銃」を「天皇」のファルスであると思ったのは他でもない田村であるが、「銃」を投げ込むのは「天皇」を捨てることを意味するだけではなく、「天皇」にスラッシュが入っていることから目を背けるためでもあった。そのため、「銃」を持ち歩くことを拒み、川に投げ捨てるこの態度には、「天皇」の在‐不在をめぐる両義性への「嘔気」によるものである。


田村は、既に「天皇」に〈×〉が刻まれていることを知った。「天皇」が機能しない以上は、「女殺し」という「偶然」を田村が抱え込まなくてはならなくなる。「もの」として立ち現れた「天皇」へのスラッシュを見つめることによって、田村は全くの「偶然」に向き合わなくてはならない。「銃」を川に投げ捨てることは、その「偶然の系列」に耐えかねた衝動でもあったのだ。その時「神」は、自己を偶然性から守るための擬態となる。その際、このテクストのタイトルが『野火』であるのは、実に象徴的であろう。「比島人」がいる「証」であった「野火」の「映像」が繰り返し現れるとき、田村は「比島の女」を自ら「偶然」によって殺したと言う事実、そして映像(シニフィアン)のみが存在し、意味(シニフィエ)を把握できない「野火」自体に眼差しを向けなくてはならない。しかし「バッテン」(×)を「十字」(十)に置き換えたように、「野火」に「神」という記号を与えてしまうのだ。


但し、実はテクスト内では、天皇の名のみならず神の名も「既に」切断されている。『野火』が「たといわれ死の陰の谷を歩むとも」というエピグラフによって始まることは実に象徴的だ。旧約聖書詩編第二十三篇には「たといわれ死の陰の谷を歩むとも、災いはおそれじ、汝われとともにいまし、汝のむち、汝のつえ、われをなぐさむ。」とある。後半部が切断されていることから分かるように、このテクストには「汝」によって「なぐさ」められる「われ」/「われ」を「なぐさ」める「汝」というものが否定されている。ここでの「むち」と「つえ」が、虚勢された主体を埋めてくれるファルスの代理をつとめる創造的なものであるとして、テクスト内ですでに「神」が否定され「父」が殺されていることから、超越的な「汝」、そして主体に入ったスラッシュを埋めてくれる存在はテクスト内に不在であることが明らかになる。『野火』は「死の陰の谷を歩む」「われ」しか描かれていないテクストだ。このとき擬態としての神話は宗教的普遍的なものではなく、信仰と切り離された「われ」のものであり、それはすなわち田村=われの端的な<弱さ>を意味することとなる。


しかしその語りは、<弱さ>を抱えた田村が、自らの<弱さ>とは無関係に押し付けられる「国家」の<強さ>を暴くための擬態でもありうる。田村は「私は外から動かされるのでもなければ、繰り返しは嫌である」と手記に書く。その告白にも関わらず天皇の記号を反復するとき、また、例えば田村が人肉を求めて彷徨う場面に「いた。人間がいた。射った。当らない。彼は勾配を走り下り、最早私の弾の届かないところまで行くと、自身ありげに背をのばして、すたすたと一つの林に入ってしまった」という記述があるが、この記述が永松が獲物を狙うときの記述「銃声がまた響いた。弾は外れたらしく、人影はなおも駆け続けた。振り返りながらどんどん駆けて、やがて弾の届かない自信を得たか、歩行に返った。そして十分延ばした背中をゆっくり運んで、一つの林に入ってしまった」の反復となっていることを知らされるとき、田村に「繰り返し」書かせる「外」がなんであるかを推察するのはたやすい。


『俘虜記』の序章において、「私は祖国をこんな絶望的な戦に引きずりこんだ軍部を憎んでいたが、私がこれまで彼らを阻止すべく何事も賭さなかった以上、今更彼らによって与えられた運命に抗議する権利はないと思われた」という語りがある。しかし「魂」の次元においてそのような負い目=<弱さ>を抱えたものが、構造的な<強さ>に抗うために人肉を追わせた「(不在の)父」を消した「(同じく不在の)父」を擬態として利用することは、自ら父を殺すという宣言なしに父の消去を発見する手段でもあったのではないか。


ここで「われ」が否定に耐え切れず(あるいは殺人には耐えられたがカニバリズムは耐えられず)神を希求したのか(田村はそこに宗教的意味を見出し、神という新たな父の名に「さまよう」ことを恐れ「騙される」こととなったのか)、記憶が曖昧な状態を選択した語り手=「われ」が、あえて既に切断された神の栄えを叫ぶことでそのような「父」の否定を描いたのか(さまようことを中断しても「父」に騙されないような道を模索したのか)、分析の位相が乖離する。前者のレイヤーにおいては、「野火」を神からの信号と読むことは、現地住民の生活の痕跡を覆い隠すことにもなるし(柄谷行人『倫理21』における指摘)、銃を父殺しの記号として読むことは、なによりフィリピンの女性を殺した事実から焦点をそらすこととなる。後者のレイヤーにおいては、そのような「倫理」がなくては乗り越えられない構造をほかならぬ形骸化した「父」が押し付けたことを明らかにする。『野火』にはおそらくどちらも描かれており、いずれかに回収すること自体がひとつの暴力であることを示唆しているのだろう。