擬態としての<神話>その3

舞台が「比島」と漢字表記なのは、単に当時の慣習に沿っているだけではあるまい。テクスト内に「フィリピン」と表記されている場面もあることから、「フィリピン」ではなく「比島」という表記をテクストがあえて選択していることが分かる。他の島名は全てカタカナであるにも関わらず漢字表記を採用しており、また正式に「比律賓」という表記をとらない。そのように考えてみると、テクストに「比島」と漢字で書くことによって、ある意味付けが行われていること知ることが出来るだろう。例えば大岡昇平は『萌野』で漢字表記の問題、音声表記と意味表記の問題を描いた。大岡昇平自身、フランス文学の研究者であり、記号的な意味づけに関して意図的な取捨選択を行っていたのではないかと推測することも可能であるが、その史実の真偽はさして重要ではない。ここで重要となるのは、その文字から類推される別の記号である。


「比島」と漢字で書かれたとき、私達は慣習に従ってフィリピンという音声を、そして様々なシニフィエ(例えば、日本の南東に浮かぶ島国)を読み解く。しかし、フィリピンと書かず「比島」と書かれたという範列(パラディグム)に注目すれば、直ちに二つの漢字の並びを発見するだろう。『野火』に描かれているのは「比島」(比べられた島)を通した日本の構造である。


例えばテクストの始めでは、敗戦が決定的になり、軍が軍としてまったく機能していないような状況で、にもかかわらず形式的な動作や慣習などを重視する日本兵が描かれている。

私は頬を打たれた。分隊長は早口に、ほぼ次のようにいった。
「馬鹿やろ。帰れっていわれて、黙って帰る奴があるか。帰るところがありませんって、がんばるんだよ。そうすりゃ病院でもなんとかしてくれるんだ。中隊にゃお前みてえな肺病やみを、飼っとく余裕はねえ。見ろ、兵隊はあらかた、食料収集に出勤している。味方は苦戦だ。役に立たねえ兵隊を、飼っとく余裕はねえ。病院へ帰れ。入れてくんなかったら、幾日でも坐り込むんだよ。まさかほっときもしねえだろう。どうしても入れてくんなかったら――死ぬんだよ。手榴弾は無駄に受領してるんじゃねえぞ。それが今じゃお前のたった一つの御奉公だ」
(…)
敗残兵同様となってこの山間の部落に隠れている我々を、米軍はもう爆撃しにも来なかったが、壕はとにかく我々の安全感のために必要であった。それに我々にはほかにすることがなかった。(…)古兵を交えた三ヶ月の駐屯生活の、こまごまとした日常の必要は、我々を再び一般社会におけると同じエゴイストに返した。(一 出発)


田村は、軍を離れ彷徨することで、「島=日本」の構造を形式的に反復する空虚な空間から「比」の領域へとさまようこととなる。その「比島」という舞台で戦後日本のアレゴリーを紡ぎだすとき、「煙草」は重要なツールとして登場する。「比島」において「煙草」は擬似的な資本として機能する。「煙草いらないか。葉っぱ一枚で芋三本だ。二本でもいい」(二二 行人)といいながら兵士永松は「商売」を行っている。ここで擬似的な貨幣が描かれているのだが、しかしその「葉っぱ」はテクスト内において交換機能をほとんど果たすことが出来ない。


資本としてほとんど機能しない「煙草」は、しかし象徴的な意味でのファルスとして機能している。但し、「煙草」が安田から永松へと渡されるとき、それは貨幣を供給する行為のみならず、同時にファルスを預かる行為でもあった。兵士安田に渡された「葉っぱ」を、永松は「洋罫紙で巻」いて「一服一服押し戴くように、差し上げて喫」むのだが、「安田は満足気に、そのさまを見やっ」ている。「煙草」という擬似貨幣の調節によって永松は安田に従わされているのではなく、安田にファルスを与えられること(永松が欲しているファルスを安田が握っていること)によって父と子の関係から抜け出られないでいるのだ。象徴的なのは、「煙草」をめぐる会話で、次のような件があることだ。

「糧秣はねえし、おっさんの煙草だけが、頼りだからな」(永松)
「そうだ。この煙草のなくならないうちに、パロンポンへ着かなきゃならねえ」(安田)
「こうなると、煙草もあんまり売れねえだろうが」(田村)
「そんなこともあるものか」と安田は傲慢に答えた。「人間どうなっても、煙草なしじゃ、生きて行けねえ。情況が悪くなればなるほど、煙草を欲しがるから妙だ。現にこうやって細々ながら、商売があるものな」
「そうでもねえぜ、おっさん」
「おめえの売り方が悪いからだ」
(…)
「まったくやりきれねえよ」と彼はこぼした。
「いい加減でほっぽり出したらいいじゃねえか。ああまでいわれながら、彼奴の世話をする義理もねえだろう」
「義理はねえが(…)彼奴の煙草がなくっちゃ、早い話明日食うものがねえもの」
「そんなに煙草が大切かな。お前だって、少しは持ってるんだろう。逃げちまえ」
 「そうは行かねえ。彼奴がちゃんと握って放さねえんだ。商売があるたんびに、一枚ずつ渡してくれる」
私は吹き出した。しかし気の弱い永松が、一度安田につかまった以上、なかなか逃げられない理由も呑みこめた。(二二 行人)


田村が「逃げちまえ」といくら薦めても永松が「逃げられない」理由は、「煙草」が貨幣として機能するからではなく、ファルス、権力関係を構築する剰余的記号として機能するからである。そのことは、永松が「商売」がないことを知っていながら、それでも「煙草」を必要としていることからも明らかであろう。田村は、このような関係に陥る二人に、「病院」の前で坐り込んでいた時点で既に「親子」の記号を与えていた。

「まあお前もなるたけ俺のそばにいるがいい。できるだけなんとかしてやるからな」(安田)
「ほんとか、おっさん。でも…」(若い兵士=後の永松)
「でも、なんだ」
「でも、あんだかお前は怖えな」
「一緒にいろ。でも働くんだぞ。明日は医務室へ行って、何でも手伝うんだ、水汲みでも、飯盒洗いでも、なんでもいい。何かやりさえすりゃ、たとえ芋の一本でもくれるんだ。わかったか」
「わかったが……できるかな、俺みたいな脚気に」
「何でもいい、やるんだ、馬鹿」
そしてあとはひそひそ話となった。こうして私はこの若い気の弱い女中の子が、シニックな女中強姦者の養子となったのを了解したが、この動物的な軍隊の余剰物の中に、まだこういう劇が行われる余地があるのを意外に思った。私はこれからまだ悪化すると思わねば鳴らない状況の裡で、この速成の親子の辿る運命を知りたいと思い、実際奇妙な偶然からその目撃者となることになったが、しかしそれはなんという結末であったろう。(六 夜)


言うまでもなくここでの「結論」とは、永松が安田を殺すという擬似的な「父殺し」のことである。父・安田は息子・永松に殺されるのだ。『野火』の中で「煙草」=ファルスは親子関係のメタファーであり、その「煙草」=ファルスを巡っての父殺しが描かれる場面はそのような関係の破綻を象徴的に的確に描いている。

「出て来い。煙草もみんなやるぞ」(安田)
「いやだ。もうお情けは沢山だ。手前をやっつけて、巻き上げてやる」(永松)
「出て来い。俺がここに煙草を持ってると思うと、大間違いだぞ。いいとこへ、ちゃんとしまってあるんだ。仲良くしよう」
「畜生。なんて悪賢い野郎だ」永松は歯ぎしりをした。
ついに声は止んだ。ただ草を匐う音が近づき、泉の向こうの崖の上に、頭が現れた。しばらくそうしてじっとしていたが、不意に、全身を現わし、滑り降りた。
永松の銃は土にもたせて、そこへ照準をつけてあった。銃声とともに、安田の体はひくっと動いて、そのままになった。
(三六 転身の頌)


『野火』にはかような「父殺し」が明確に描かれているのだが、しかし手記の最後で田村は「私が殺した人間、それはあの比島の女と、安田と、永松であった」と書く。安田を殺したのは永松であるはずだが、田村が手記の最後で「私が殺した」とあえて書くことは「父殺し」の隠蔽にも見える。一体それは何を意味するのだろうか。そのことを明らかにするためには「天皇」の記号が重要になる。


(つづく)