対岸の火事は、実は隣人の火事

「大学改革と監視社会」のレポの「ブックマーク欄」で、「マルチン・ニーメラー」というタグを付けている方がいました。はてなキーワードによると、

Martin Niemoller(ドイツのプロテスタントルター派神学者。1892.1.14〜1984.3.6)
(中略)
ナチスが行った数々の弾圧を傍観し、自分たち神学者にその手が伸びるまで行動を起こさなかった事を悔やみ、下記の有名な言葉を残している。

はじめにやつらは共産主義者に襲いかかったが、私は共産主義者ではなかったから声をあげなかった。
つぎにやつらは社会主義者労働組合員に襲いかかったが、私はそのどちらでもなかったから声をあげなかった。
つぎにやつらはユダヤ人に襲いかかったが、私はユダヤ人ではなかったから声をあげなかった。
そして、やつらが私に襲いかかったとき、私のために声をあげてくれる人はもう誰もいなかった。


とのこと。なるほど。史実や発言者の意図を括弧に括ってキーワードのテクストから考えてみるに、対岸の火事だと思い込んで放置しているといつの間にか自分に火の粉が降りかかっている。しかし自分に火の粉がかかっても他人にとっては対岸の火事であり、共有できる人もいなくなっているというようなことでしょか。シンポジウムの発言、特に松沢呉一さんの発言などと絡めていくと「○○だからいいんじゃないか」というような安易な肯定はまずく、表層からは見えない議論の根幹等にセンシティブでなくてはならないことがあるから難しい。しかし、良い参照項を教えていただきました。ありがとうございました。