擬態としての<神話>その2

テクストが「記憶」の位置をめぐって大きく変化したことは重要だ。「戦争文学」が戦後に書かれたという意味においてのみならず、「戦後」をも描いたという意味で「戦後文学」と重なるのであれば、「記憶」の語り位置が大きな意味を持つ。特筆すべきは、『野火』においては、例えば加藤典洋が『敗戦後論』にて行っている議論が前提にしている、そしてそこでの大岡昇平『レイテ戦記』評価が前提にしているような図式、即ち「戦争=敗戦」を記憶の特意点=「トラウマ(心的外傷)」として位置付け、「トラウマ」と共に発生した「ねじれ」を解消するためのレトリックといったものからは明確に距離を取っている点だ。それは上記の「改稿」の事実によっても明らかだが、同時にテクストに明確に刻まれたスタンスでもある。


「失われた記憶」が「取り戻すべき記憶」として取り扱われる時、特異点への到達とねじれの解消がテクスト内で目的化される。だが、『野火』において「記憶」とは、失われた特異点を意味するものではなく、「逆手にとって、軍隊生活の喜劇性」ためのツール、或いは「擬態」の一つとして機能する。何のための「擬態」かを述べる前に、主人公田村が「曖昧な記憶」を自らあえて選び取っていることを示唆する場面を確認する。

 医師は私の手記を、記憶の途切れたところまでを読み、媚びるように笑いながらいった。
「大変よく書けています。まるで小説みたいですね」
「僕はありのままを書いたつもりです」
「ははは、そうです。そこです。あなたがありのままと信じているところに、真実を修正する作用が働いているのが特徴でして、これは小説家にも共通した心理なのです」
「想起に整理と合理化が伴うのは止むを得ません」
「なかなかよく意識しておられる。しかしあなたは作っておられますよ」
「回想に想像と似たところがあるのは、通俗解説書にも書いてあるじゃありませんか。現在の僕の観念と感情で構成するほか、何が出来ますか?」(三八 再び野火に)


田村の手記においては、「医師は私より五歳年少の馬鹿である。食虫類のような長い鼻に、始終水洟をすすりあげている」、「彼の精神病医学の知識は、私の神学の知識ぐらいなものだ」とあるように、あからさまに精神分析医に対して侮蔑のまなざしが向けられているのだが、これは単に精神分析医が「妻」と「媾曳して」いたからではあるまい。ここに現れている医師と主人公田村とのズレ、それは(「小説」ではなく、作られない)「真実」の記憶を想定しそこにたどり着くことで「回復」させようとする精神分析医の態度と、「ありのまま」に辿りつけないのであれば「観念と感情で構成する」しかないという田村の態度とのズレに他ならない。田村が「思い出す」ことを目的としていないことは、この会話や、田村が「研究を積み、むしろ進んで」精神病院に来たことからも明らかである。


例えば三七章の「狂人日記」に「私がこれを書いているのは、東京郊外の精神病院の一室である」という記述がある。しかし、一七章には「今平穏な家にあってこの光景を思い出しながら」と書かれている。妻と住んでいた「東京の家」は、空襲で焼けてしまっており、入院するまでの間妻と住んでいたはずの自宅はテクスト内で一度も描かれることがない。一度だけ「私の家を売った金は、私に当分この静かな個室に身を埋める余裕を与えてくれる」と描かれる程度であり、手記には同手記が「医師の薦めによって始められた」とあるため、自宅で書いていた期間はない。


では「家」を住居一般と解釈し、精神病院を表しているものだとするならば、それが「平穏な」と形容されていることに注目しなければならない。「平穏な」精神病院の外部には、「私の最も欲しないこと、つまり戦争」の「徴候」がある。「ああ、この世で自分が来るべきところはここであった、早くここに気がつけばよかったと思った」と記述されるように、戦争の風景へと導く語りかけを曖昧にせしめるため、田村が自ら「進んでここに避難してきた」というわけだ。ここにおいて田村の狂気を、虚偽か実態であるかを問うことが困難になるが、「私が復員後精神分裂症と逆行性健忘症の研究を積み、むしろ進んでここに避難して来た」という記述から、狂人の語りを作為的に構築しようとしたものとして捉えられる。


映像の記憶を欠く私は、推理によって、その未知の領域に入ろうと思う。推理もまた、想起作用の有力な一環である。(三八 再び野火に)


田村は、「観念と感情」で「記憶」を「構成」しようともくろむ。テクストの端々からは、このように作為的な記憶の曖昧さを読み取れることが出来る。田村が記憶を曖昧にするのは「人肉食」をめぐる経緯が理由であると表向きはされている。それは田村の手記自体が、人肉食を田村にさせなかったもの、そしてそれを語らせなかったものとして、キリスト教的な「神」の存在を繰り返し示唆するからだ。そのため『野火』は、高い頻度で「キリスト教的な“神”のイメージによって主人公田村が救済される物語」と読まれる。しかし「神」も、「記憶の曖昧さ」と同様に擬態であると捉えられる。では、何から何を隠すための擬態か。



その疑問を読み解くための重要な細部の記号を3つ提示したい。すなわち、比島、煙草、天皇である。


(つづく)