擬態としての<神話>その1

大岡昇平大西巨人神聖喜劇』を評して次のように書いている。

現代への鋭利な風刺
日本の軍隊は老朽化し官僚化し、各種「操典」や「令」の、文語カタカナ書きの煩雑な条文に縛られていた。敵が退却したのに、追撃しないと「作戦要務令」違反になるため、猪突して壊滅したりした。
大西巨人氏は、超人的記憶力をもつ主人公を設定することにより、この条文を逆手にとって、軍隊生活の喜劇性を生き生きと描きだすのに成功した。この喜劇性はまた、ますます官僚化しつつある現代の生産社会のものであるから、現代への鋭利な風刺になっている。
神聖喜劇 第一巻』(光文社文庫)巻末付録より

神聖喜劇』をかように評価する大岡の作品に『野火』がある。『野火』は、敗戦が決定的な「比島」において、軍(郡)から離れ彷徨した主人公田村が自らの記憶を書き綴る手記という形式を取る。形式化した軍隊を「超人的記憶」を持ってして描き出した『神聖喜劇』に対し、『野火』は記憶を失った、あるいは記憶が曖昧で虚構性を帯びたと位置づけられる主人公を設定している。それは「事実について書く」と位置づけられた『俘虜記』において、たまたま米兵を撃たなかったことが「あらゆる記憶を抹殺」したことと重ねられること、および手榴弾の不発によりたまたま自決できなかったという顛末の前後が「記憶の誤り」と「何の記憶もない」で括られていることをもって単に伝記的事実や単なる反復として位置づけられるものではなく、むしろテクストが記憶の曖昧さを「逆手にとって、軍隊生活の喜劇性」を描き出すツールとして機能していることを認められるものだ。


『野火』が改稿を重ねることによって生まれたテクストであることはよく知られている。大岡の「不断の改稿」という態度は、『野火』内の「記憶」の置かれ方についてひとつの示唆を与える。後に『野火』というテクストにたどり着く原案(ノート)は初め『狂人日記』と題されており 、その原案に大きな修正が加えられたものが『文体』第3号(1948年12月)に「野火」と題されて発表される。続く『文体』第4号(1949年7月)には「「野火」の2」という副題を付けられた「鶏と塩と」が掲載されたが、『文体』は同号をもって廃刊となり、連作は中断せざるをえなかった。二年ほどたち、新たに「野火」が『展望』の1951年1月号から8月号まで連載される。さらに翌年の1952年2月、創元社より『野火』と題された単行本が出版される。『狂人日記』から『文体』、『展望』、単行本『野火』にたどり着くまで、大岡は時には大幅の、時には細部の改稿を繰り返してきた。


改稿によって内容はどのように書き換えられたか。原案であった『狂人日記』では、記憶を失った主人公が徐々に記憶を取り戻しつつ、その原因(=比島人を食べようとして殴られたこと)へとたどり着く物語であった。『文体』稿では、ジャーナリストの「私」がかつてレイテの俘虜病院で出会った田村鶴吉の「小説」を紹介するという形をとる。その「小説」は、昭和22年秋、田村と東京の映画館で再開した「私」が書くように田村に薦めたものであり、その理由は田村が戦場での特定期間の記憶を失っているからであった。そして「私」がその「小説」を手にして紹介する際には、既に田村は「この世の人」ではなくなっている。このような冒頭部が『展望』に連載されるとすべて削られ、現在のテクスト『野火』のように、田村(=狂人=主人公)の「手記」からテクストがはじまるようになる。


改稿の過程で大幅に変わったのは、テクストが、主人公の失われた記憶を取り戻すという物語から(『狂人日記』)、田村の「秘密」が書かれた遺稿(=小説)を「私」が読むという形(『文体』稿)、そして今もなお書き続けられている私=「狂人」の手記という設定(『展望』稿以後)へと変化した点である。


(つづく)