本日のメインディッシュ

小泉吉宏『戦争で死んだ兵士のこと』 ―はてなダイアラー絵本百選
子供の頃のchikiは絵本と紙芝居が本当に大好きで、図書館に通うことを日々の喜びにしていたのを覚えています。『いやいやえん』『スマーフ物語』『グリとグラ』『モチモチの木』『100万回生きたねこ』『くまの子ウーフ』『あおくんときいろちゃん』『三びきのやぎのがらがらどん』『シナの五人兄弟』『だるまちゃんとてんぐちゃん』などなどなど…何十回、何百回と読んだ絵本だけでも何十冊以上とあります。もちろん、グリム童話イソップ物語、日本昔話の類もほとんど絵本で読みました。ちなみに絵本を読みながら寝るのも大好きでした。夢で絵本の続きを必ずといっていいほど見れるから、というのもありましたが、本をマスオさんのように顔の上にのせて寝るのが大好きでした。そのようにして寝るのが大人の読書法なのだと思いこんでいたchikiは、早く大人になろうと何度も何度も本を読みながら仰向けに眠りました。父がいつもそのように寝ていたので、きっと真似たかったのだと思います。



もちろん今でも絵本は大好きで、時間があれば本屋で数十冊くらいを一気に読んでしまいます。Cocco作『南の島の星の砂』は、一時期、本屋に足を運ぶたびに読んでいました。ところがそんなchikiに、このリレー企画はたった一冊に選べと迫る。なんということだ! なんなら毎日絵本について語りたいくらいなのに!



…といいつつ、実は早々と一冊を決めてしまっているchiki。この企画を扱ったid:beach_harapekoさんの日記を読んだ時、実は「自分ならこの一冊にする」という一冊がすぐに頭に浮かんでいました(わはは)。その一冊は小泉吉宏『戦争で死んだ兵士のこと』です。



小泉吉宏という名を『ブッタとシッタカブッタ』シリーズでご存知の方も多いと思います。とはいえ、今回ご紹介する『戦争で死んだ兵士のこと』のイラストは『ブッタとシッタカブッタ』シリーズのようなカラフルでポップな絵柄と全く違い、非常にシンプルで最小限の輪郭しか描かれない、白黒の点描画のようなものになっています。この絵本は構成も実にシンプルで、1ページにイラストが一枚、コメントが一言添えられているのみ。20ページ弱しかなく、まさに典型的な絵本の形と言えるでしょう。



ちなみにこの本は、chikiが三年ほど前に本屋で立ち読みをして、その当時かなりの衝撃を受けた一冊です。今日はその「衝撃」の理由を明らかに出来たらいいな、と思っています。







『戦争で死んだ兵士のこと』は、次のように始まります。




今はのどかな森の中の湖のほとり、
ひとりの兵士が死んでいる。

(※湖の傍で倒れている兵士の画)



ただ一人の兵士が死んでいるイラストと短いコメントが添えられているのですが、この時点で衝撃を受ける方は多くはないと思います。「死」は、テレビのニュースやネット情報などによって日常に溢れており、「情報(要素)」として流れてきた「死」に対して私たちは鈍感になることに慣れています。この時点では、単に「死」というひとつの記号が提示されただけに過ぎません。



ところが、この絵本は次のようにどんどん進んでいきます。




1時間前、兵士は生きていて闘かっていた。

2時間前、兵士はひとり道に迷っていた。

4時間前、戦火に巻き込まれた子どもを助けていた。

8時間前、戦友といっしょに基地で朝食を食べていた。

2日前、この基地にやってきた。

3日前、本国の基地に招集された。自分が兵士であることを2年間忘れていた。

5日前、友だちと週末にヨットに乗る約束をした。

7日前、両親に恋人を紹介した。

10日前、恋人にプロポーズをし将来を誓いあった。

2年前、大学を卒業し就職をした。

2年と1ヶ月前、彼女と知り合った。

2年と2ヶ月前、陸軍予備士官学校のプログラムを終えた。8週間の訓練と35単位の学科を取得して、陸軍少尉となった。

4年と3ヶ月前、父の会社が倒産した。通っている大学の学費に困り、奨学金を得るため、大学内の陸軍予備士官学校に入ることを決意した。



物語内容の順序と物語言説の順序をずらす方法を「錯時法」といいますが、この絵本では徹底してその手法が使われています。つまり、タイムマシーンに乗っているかのように物語の時間がどんどん逆行していくのです。その点、この絵本は実にプロット的だと言えます。「プロット」という言葉は「筋」という意味ですが、それは「ストーリー」と差異化して捉えられる概念です。例えば文学理論の研究の場において、「プロット」と「ストーリー」の違いを説明する際、E・M・フォスターという人の『小説とは何か』の次のような一節が頻繁に引用されます。




「プロットを定義しましょう。われわれはストーリーを、時間的順序に配列された諸事件の叙述であると定義してきました。プロットもまた諸事件の叙述でありますが、重点は因果関係におかれます。<王が亡くなられ、それから王妃が亡くなられた>といえばストーリーです。<王が亡くなられ、それから王妃が悲しみのあまりに亡くなられた>といえばプロットです」



この絵本は「ひとりの兵士が死んでいる。」というところから始まり、そこからどんどん彼の人生を遡っていきます。高校時代バスケに熱中していたこと、13才の時の失恋では食事も喉を通らなかったこと、6才の時に初めてダンスを踊ったこと、ペットの犬と遊んだこと…。ページをめくるにつれ時間が遡り、どんどん一人の兵士にプロットが付随されていくのです。何故、彼は、ここに、存在しているのでしょうか? という疑問に答えるように。






24年前のきょう、この世に生をうけた。両親が結婚して9年目にできたひとり息子だった。




兵士の生まれた瞬間まで遡ると、最後にもう一度、最初のページと全く同じイラスト、全く同じ台詞が描かれます。




今はのどかな森の中の湖のほとり、
ひとりの兵士が死んでいる。

(※湖の傍で倒れている兵士の画)




このページを目撃したとき、chikiは衝撃を受けました。最初のページと全く同じ画、全く同じ台詞にも関わらず「そこに描かれているもの」は「既に描かれていたもの」にも関わらず、「全く別のもの」に変わっている。それは、実に不思議な体験でした。



この絵本は最小限の線、それも途切れ途切れの点描画のような線で、輪郭のみを描いています。色付けやトーン貼りは一切ありません。私たちは、そのようなたどたどしい線だけを見て「ああ、これは兵士だな」と理解する。点と点を繋いで線だと思い、その線を頭の中で「兵士」や「湖」だと見なすのです。そのことと全く同様に、私たちは描かれた最小限の「プロット」を結び、出来事と出来事を結んで新しい「ストーリー」を繋いでいく。たどたどしい線から兵士を読み解いていくように、たどたどしい語りと数枚の(たどたどしい線によって描かれた)画から兵士の人生を読み解いていくのです。『戦争で死んだ兵士のこと』を読むという体験は、例えば数枚のアルバム写真から、自分の思い出を振り返る作業に似ています。そこで私たちは兵士の過去を郷愁と共に眺め、兵士の死を絶望的な喪失として感じることが出来るのです。



最小限のことしか描かれておらず、語られていない部分(=空白)の方が多い絵本であるからこそ感情移入がしやすいということも一方ではあるでしょう。しかし、この本の特色はそれだけではありません。この本のタイトルは『戦争で死んだ兵士のこと』というものでしたが、しかしこの兵士が「何故死んだのか」というプロット(因果関係)は決して描かれていません。私たちが耳にする死亡事故等の報道では「何故死んだのか」を必ず流すけれども、それ以外のプロットは一切語らないことと実に対照的です。その差異も私たちに衝撃をもたらします。最初に見た画とコメントの意味が、(この絵本を読むのには1分くらいで済むでしょうから)1分もしないうちに全く別のものに変わってしまうという体験と共に、その本を読む前に考えていた「兵士の死」という言葉の意味が読後には決定的な変化を遂げていること。その体験こそがこの絵本を「読む」ことなのだと思いました。



ちなみに、戦争の悲惨さを訴える本は多くありますが、『戦争で死んだ兵士のこと』という絵本はその手の本と全く異なるものです。この本では読者は、「戦争の悲惨さ」等に衝撃を受けるのではなく、そのようなものを回避している想像力の欠如に衝撃を受けるのです。その意味で、この絵本には「読者が、決定的な衝撃を受ける」という「ストーリー」がこっそりと描きこまれているのです。



「絵本」というジャンルの特性をいかしながら、「なぜこの画なのか」「なぜこの語りなのか」という部分がことごとく成功している。絵本は「子供が見るもの」でもなければ「童心に帰るためのもの」でもなく、「絵本」というジャンルでしか表現できないことがあるのだ…そんなことを感じさせられる一冊でした。皆様も是非ご覧になってください。