本日のメインディッシュ

ベタもネタも
『魂の唯物論的な擁護のために』において、蓮實重彦との対話の中で浅田彰柄谷行人を引用し、「戯れ/真面目」という対立項はポストモダンの土俵の上での表面上の対立であって、これらと全体として対立するのは実は「現実」であると述べています。chikiは初めてその文章を読んだとき、それは典型的な「想像界象徴界現実界」の対立で、「現実」にイメージをかぶせている(シミュラークル)点ではどちらも確かに同じだ、程度の理解しかしていなかったのですが、ジジェクがリアル・ポリティクスを叫ぶあたりからどうも違うらしい、と感じ出しました。「現実」は他者には違いないが、否定神学的な他者ではあり得ず、むしろいままさに隣にいる「この他者」の問題に近い。他者が記号化されることで「現実」が損なわれる点は同じですが、露呈するのは物自体ではなくマイノリティの声、内に取り込んだ他者です。



聞く所によると、今現在でもこの対立項が「ネタ/ベタ」と言葉を変え、ローカルなところでメタゲームが繰り広げられているとか。文化的閉塞感からなのか、語彙の貧弱からか、それとも単にポストモダニズムを忘れただけなのかは分かりませんが、こうなると水掛け論とほとんど変わらず、批評の体裁をとった印象批評、もしくはただ別のジャルゴンを身に纏っただけの作家主義へと陥ってしまいます。例えば「あの作家はベタに見えるネタをベタにやっている」「いや、ベタに見えるがネタをベタにやることがネタなんだ」…なんですかこれ(苦笑)。このような言説でたどり着けるところは、漫画では『ボボボーボ・ボーボボ』、小説では佐藤友哉くらいにしかならないのでは、と今のところchikiは批判的だったりします。「郵便的」な態度というのも、「現実」に則していない限りは単なる言い訳に過ぎず、そのような振る舞い(所謂ロビー活動)を成功させるためにはアイロニーでもニヒリズムでもダメ(よって、宮台真司はニヒリストではない…?)。



例えば今回のイラク人質事件。「羽田で生卵をぶつけるオフ」「本人達に自作自演!と叫ぶオフ」を決行しようとした人が何人かいたようですが(まぁ、多分実際に行った人はほとんどいないでしょうけど)、それがネタのつもりでもベタな感情爆発でも、どちらも「動物化」の裏表に過ぎません。本人がそれをネタ(ニヒル)だと思い込んでいれば思い込んでいるほど性質の悪い冗談(アイロニー)にしかならず、もう見てらんない、と。今、「戯れ/真面目」の問題が言葉を変えてリバイバル(リサイクル?)されているのが「現実」の問題を再考する準備の兆候なのだとすれば(東浩紀もメルマガで「ハイパーリアル」の問題について考えているようですし)、『マトリックス・レボリューションズ』=ブッシュ政権のような過ち、即ち「ふたたび崇高なシミュラークルが立ち現れるという結末(アホか!)」を迎えることをEND(目的)にしてはいけません。そのような括弧付きのハッピーエンド、反対!



今回の事件が「テロ」であるかはともかく、帰国された3名の方がPTSD(心的外傷後ストレス障害)であると診断されたことはあくまでラカンに乗っ取れば象徴的だったりしますが(誤診か否かはともかく)、しかし「911」すら記号世界に回収しようとしているアメリカを見ると、どうも一抹の不安を隠しきれません。



このような現状で、例えば「イラク=テロ=危険」という論理は実は偏見で、テロの確立は都内で交通事故に合う確率よりも数値的に低い、ということを実証的に(メタに?)明らかにしたりするのも手段としては確かに有効だと思います。ただ、その作業の先に、潜在的な問題、「現実」の問題に目を向けるという目標(現実)が準備されていなければ、潔癖主義で終わる可能性があります(イラクと言えば、blogをやっているあの知識人もあの学者もあのライターも一様に沈黙を保っている)。
















と言うわけで今日はここまで。
あ、今日の戯言はネタですから。書いている最中に寝た、という意味で。うわ…。







【参照】
「イラク人質拘束事件からはじまった議論 目次」