『スパイダーマン3』と“赦し(ゆるし)”の難しさ

キャラクター映画のリメイクは、リメイク前とリメイク後の二つの時代の相違点を、キャラクターの力によって浮きぼりにしようという試みだといえる。変わらぬキャラクターと、変わってしまった風景。浮かび上がった差異はノスタルジーとしても機能することもあるし、逆にキャラクターの力を借りて現代を承認していくためのメディアとしても機能する。また、旧世代と新世代が「キャラクター」を通じて、解釈装置を共有する機能も持ちうる。


「ヒーロー」が私たちの前に帰ってくる時、“一度失われたカリスマ性が回復することで世界が救済される”というパターンが目立つ。当時のカリスマ性が、その都度の“現在”で通用しなくなったことを受け、ヒーローに「“かつての物語”が通用しなくなった」ことに直面させ、“新たな物語”を打ち立てる。その仕方、その見方によって、時代観や世界観が大きく問われることになる。


スーパーマン リターンズ』では、スーパーマンなき世界において犯罪が溢れたという設定になっている。恋人のロイスは既に母となっており、「なぜ世界はスーパーマンは必要としないか」という記事でピューリッツァー賞を受賞。登場シーンからボロボロに傷ついているスーパーマン。映し方や音響、各登場人物のセリフなど、細かな仕掛けで“カリスマ”が既に通用しないという状態を設定する。


しかしその後、スーパーマンは相変わらずの大活躍。落ちて行く飛行機を受け止め(!)、ニューヨークの崩れ落ちるビル(!!)から人々を助け出していく。弱点である「クリプトナイト」で刺されてピンチになるも、ロイスとその子(スーパーマンとの間の子でもある)のキスによって回復。エンディングでは、「時にはよそ者扱いされるだろうが、決して一人じゃない」と息子に囁き、「いつも側にいる」とロイスに伝え、空をさっそうと飛び回る。そしてロイスは、「なぜスーパーマンは必要か」という記事を書く。一言で言えば、「やっぱり強いスーパーマン」「人々が望めば、スーパーマンは復活する」というわけだ。


スーパーマンリターンズ』が“カリスマ”をストレートに回復しようという試みであるのに対し、『スパイダーマン3』はそれを回避しようと試みる。


スパイダーマン3』は「赦し(ゆるし)」がテーマだ。恋人間の赦し。友人間の赦し。そして、長年恨みを抱いていた“悪”への赦し。敵を単に倒すのではなく、「赦す」ことができるヒーローこそがクールなのだといわんばかりの設定がちりばめられている。以下、必要なプロットだけを追っていく。


ある日、まったく説明なくスパイダーマンのもとに“黒いもの”がやってくる。その“黒いもの”がスパイダーマンの体を包み込むとコスチュームに変わり、そのコスチュームを身に纏ったスパイダーマンはいつも以上に能力を発揮できるようになる。しかし、そのモードでいる間は感情をセーブできず、“復讐”に身を任せてしまうため、“黒いモード”に畏怖した主人公ピーターはコスチュームを必死の思いで脱ぎ捨てる。


そのコスチュームは、スパイダーマンに恨みを抱く青年の手元に渡る。復讐を狙う新たなブラックスパイダーマンとの戦いの場においてさっそうと登場するスパイダーマンのコスチュームはもちろん赤と青(なお、スーパーマンも同様だ)。その背中には大きく星条旗がはためいており、大歓声の中で決戦へと向かう。“スパイダーマンアメリカ”というイメージが、これでもかと重ねられている。


そこから立て続けに“赦し”の場面がやってくる。1から、スパイダーマンが自分の父親を殺したと思い込んでいた親友ハリーが、一部始終を目撃していた執事の進言でスパイダーマンを“赦す”。1においてスパイダーマンのおじを殺した犯人が、自分には殺すつもりはなく事情があったことをスパイダーマンに告げ、スパイダーマンはそれを赦す。そして2において既に伏線やラブストーリーの緊張感がほとんど消費されてしまったことから、多くの時間を退屈な痴話喧嘩に裂いていたMJも、ピーターを赦すというわけだ。


赦せるヒーローという像が強調される一方、スパイダーマンを赦すことができなかった青年は、みじめな死を遂げる。実に露骨な構造。しかし、“「赦す」ことができるヒーローこそがクール”という選択を提示するには、あまりに細部がご都合的すぎる。


親友ハリーは、執事がたまたま一部始終を見ていてくれたがため(それを今更言う)、誤解であると分かったから赦した。スパイダーマンは事情があることが分かったがゆえに、おじを殺した犯人を赦した。実に手短なストーリーによって理不尽な怒りを脱却するというシナリオは、“「赦す」ことができるヒーローこそがクール”というより、“「赦す」ことのできるストーリー”が偶然にも舞い降りたといった方がよい。


まったく説明のないままに訪れる“黒いもの”をスパイダーマンが脱ぎ捨てられたのも、そこがたまたま教会だったからだ。“黒いもの”は何故か金属音に弱く、教会にあった鐘の音を嫌がった。まったく説明のないままに訪れる理不尽な暴力や復讐心に対して、“赦し”で抗うのではなく、端的な偶然がそれを解決してしまう。


『スーパーマン リターンズ』も『スパイダーマン3』も、キャラクターの力によって時代性を浮かび上がらせる試みだが、カリスマ性の復活と循環を素朴にうたう『スーパーマン リターンズ』よりは、カリスマの意味づけをリライトしようと試みた(ように見える)『スパイダーマン3』の方が面白かった。だが、やはり綺麗な着地を見せたようには思えない。