コミュニティ観察とクリエイティビティ ――西田亮介さんロングインタビュー

2009年1月23日、渋谷にて、慶應義塾大学政策・メディア研究科所属の西田亮介さんのインタビューを行いました。西田さんは、僕と芹沢一也さんとで発行しているメールマガジンαシノドス」に「湘南と創発型地域活性インフラ ―ボトムアップによる地域活性の可能性」を寄稿してくださり、また『思想地図2』に「<社会>における創造を考える」を寄稿されている、1983年生まれの若き研究者。イケイケ色黒サーファーという風貌で、非常にコミュニカティブでかつビジネス志向が強く、フィールドワーク的思考と理論的思考の両方に高い関心を持つというかなり特異な西田さんですが、気がつけば毎月欠かさず一緒に呑みに連れて行きたくなるような(そしていつも朝まで呑むハメになるような)、とても気さくで面白い人です。


今回はそんな西田さんに、これまで媒体に掲載された論文の内容を中心に、研究者を志した背景や現在の問題関心などを伺いました。なお西田さんは、思想地図公式サイトにて、1月28日に東京工業大学大岡山キャンパスで行われたシンポジウム「アーキテクチャと思考の場所」のレポート「アーキテクチャをめぐる、思考と実践のインタラクション」を寄稿しておりますので、そちらもあわせてお読みください。



■これまでの歩みとコミュニティへの関心
荻上チキ:今日は西田亮介さんの問題関心などについて伺いたいと思っています。よろしくお願いいたします。


西田亮介:よろしくお願いいたします。


荻上:西田さんは、とてもユニークな師匠筋をお持ちのようですが、これまでの歩みを簡単にお話いただけませんか。


西田:僕は、大学(慶應義塾大学総合政策学部に2002年入学)は国立経済学部の滑り止めで流れてきたので、大学に入るまでは経済学をやろうと考えていました。でも元々はずっとやっていた水泳のコーチになるために専門学校にでも行こうかな、とか思っていた達なので、学問をやろうという強い動機みたいなものはありませんでした。なんとなく経済学をやろうと思っていたんだけれど、大学に入ってから先輩に誘われてサーフィンをはじめて、他に勉強会やインカレの交流会などいろんなサークルに入っていました。時代も時代だったので、面白いことか新しいことをしなければならないという雰囲気がまだSFCには充満していました。僕も金髪ロンゲ、ピアス3つ、ギャル男みたいな恰好でしたしね(笑)


入学して半年くらい経った頃に、福田和也とか言う面白い物書きの人が大学にいるということを知って、それで1年の秋学期にコラムを書くゼミに半年か1年くらい出入りしていました。SFCには1年の秋学期から研究室に出入りできる制度があって、しかも半期で移動できるんですね。だから参加したわけですが、福田さんのゼミもサロン的だったけど、なんか福田和也大好きみたいな人だらけで個人的には面白いと思いませんでした。だから春学期からはもういいかな、と思っていかなくなりました。


僕はサーフィンやサークルにハマりすぎて、普通の人が大学2年生になる年に快調に留年してしまったんですが、そのときたまたま「安全保障論」という授業をとっていました。金田秀昭先生という、自衛隊護衛艦隊指令を務め合げたのちにSFCに特別招聘教授としていらっしゃってた方の授業です。その授業で前に出て「文明の衝突論は妥当か?」というテーマでグループ・ディスカッションをすることになって、僕は1人だけ「文明の衝突」論に反対の立場でした。そしたら、先生がおもしろがってくださって、そのとき金田先生がやっていた自主ゼミにこないか、という話になり、その後3年程、安全保障論を勉強することになって、日米安全保障条約アメリカの核戦略なんかを勉強したりしました。


荻上:一年、二年は順調に右派路線ですね(笑)。


西田:そうですね。厚木基地や横須賀の基地に見学に行ったり、呉の海軍学校に行ってむこうの学生とディスカッションさせていただいたり、防衛省の若手とディスカッションするような貴重な機会が何度もありました。そんなことをやっていたんだけれども、自分には右派というような意識はなかった。なんとなく面白かったという印象ですね。それにSFCには、右派左派という概念がそもそもあまりありません。それから文化人類学者の渡辺靖先生のゼミにも2期いて、そこでは文化人類学の文献を輪読したりしてたんですが、渡辺靖先生は大変厳しい先生で、露骨に右的な香りのするもの、つまり自衛隊のようなものは好きではなかった。そのため、あまり先生と打ち解けることもなく、やめてしまいました。


その後、3年になる頃に、宮台真司先生の『不安の正体』を読んで、おもしろい議論をしている社会学者がいるな、ととても興味を持ち、その頃出ていた著作のほとんど全てを読みました。それで宮台先生は「潜り」とかも受け入れてるらしいということを知って、「ゼミに潜らせてください」というメールを送ったら、半年後くらいたってメールが返ってきてそれから、3年、4年、5年(笑)、そしてM1くらいまで首都大学東京のゼミに通ってました。宮台ゼミは古典や理論の輪読とディスカッションに重きを置いた昔ながらの社会学のゼミで、僕はそこで社会学的な考え方の中でも古典や理論社会学に親しみました。


不安の正体!

不安の正体!


当時の宮台ゼミは、まだデビューしたてかデビュー直前の頃の鈴木謙介さんがゼミ長のようなことをやっていました。首都大学東京以前の、当時の東京都立大学は夜間部があって、宮台ゼミには面白い人がたくさん集っていて僕もすごく影響を受けました。当時のゼミのメンバーとは今もたまに飲みにいきますしね。その頃、SFCでは教員として戻ってこられたばかりで、複雑系やクリエイティビティを研究している井庭崇先生のゼミに入りました。その間にも、外務省から出向されていた斎木尚子先生の安全保障論のゼミに入ったりもしてましたね。そして、今はそのままSFCの大学院である政策・メディア研究科にいるというわけです。宮台先生のゼミには日程の都合があわなくなったりでいけなくなってしまいましたが、今でも連絡をとっていますし、学部のゼミの子たちが飲み会なんかがあると声を掛けてくれたりします。そんなわけで、社会学複雑系などが僕のバックボーンにあると言えると思います。


荻上:なんで大学院に進もうと思ったんですか?


西田:ほんとはコンサルの道に進もうと思っていました。ネット起業ブームの最後の頃に大学に入ったので、まだキャンパスにベンチャー的なものや外資コンサルに対する熱気が満ちあふれていて、名刺交換会とか異業種交流会とかにがんがん行ってましたしね。そういえば何かのサークルで請け負って、櫻井よし子さんの後援会のチラシ配りとかもやったことがありますね。今ではSFCでさえ、キャンパス全体を覆うある種の熱気みたいなものは感じられなくなってしまいましたが……。そういえば、そういう起業サークルみたいなところで、大学1年生なのに、大学1年生を新歓するみたいなことをやったりもしてました(笑)。僕は結構進路の選択に悩んだのだけれども、大学に入ってサーフィンをガチでやるようになったこともあって、大学の先輩たちを見ていると、コンサルに入ると金は稼げるけど仕事以外のことはできなくなるだろうな、という予感がした。


それから、コンサルに行って大きい仕事をして、お金をがんがん稼ぐこと自体は難しくはないんだけど、でもそれは基本的には会社の名前でやった仕事で、自分の個人名でやった仕事ではないな、ということも思うようになりました。そうしているうちに、大学に残って自分の個人名でやる仕事みたいなのを追求するのもありなのかもしれない、と思うようになりました。幸い実家が学者家系で、そういうことに対する理解もありましたしね。それから、個人名で仕事をするという考え方は井庭さんの影響もあるかもしれません。


荻上:聞いていると、随分、勉強好きだという印象もありますが。


西田:サークルの代表やってたり、サーフィンやってたりで、勉強自体が好きだったという意識はあんまりなかったですね。たぶん、貧乏性なんだと思いますね(笑)。基本ぼーっとしてられないタイプなので。あと、新しいことと面白いことはとりあえずやってみたい(笑)


荻上:今、自分がディシプリンとして選んでいると自覚している領域は? 


西田:それがなかなか難しくて、これと断言しづらいところがあります。ディシプリンということで言えば、半分冗談、半分本気で、「政策形成とソーシャル・イノベーション」ということを言っています。これを英語で表記した「Policy Making and Social Innovation」というのはSFCでやっていることをなかなかうまく表現していて悪くないと思っているんですが、この「Policy」という言葉は、日本の政策という意味より広義で、この言葉の背後には各セクターにおける解決策をつくっていくというニュアンスを含んでいます。僕がやっているのはそういうことかもしれない。


荻上:いわゆる「大文字の政治」とはまた別の、コミュニティ内外の合理性からネゴシエーションを形成するための発想?


西田:そうですね。そのために、いろんなディシプリンの「方法」を動員する、ということです。別に揶揄するわけではないんですけど、昔ながらのディシプリン、例えば社会学をやってきた宮台さんやcharlie(鈴木謙介)さんのように、社会学に対して愛憎半ばということは全くありません。いい意味でも、悪い意味でも。社会学に「方法」がなければ、政治学や経済学の概念装置を借りてきても全く問題ないと思っています。このあたりについては、2006年に宮台先生を読んで井庭先生と三人でやった「方法としての社会学」――これは宮台さんのサイトに宮台さんの発言のログがアップされており、また、SFC-GCというサイトで今でも当時の動画が見られますが――というイベントでも議論になりました。


荻上:「先人たちの歴史的な問題設定をどのように踏み越えていくか」という苦悩からの自由は、一方で自己紹介の苦労もあるでしょう。固有名がつくまではAからZまで説明しなければならないし、各ディシプリン間の自己調整もしなければならない。特に今は若いから、そうした作業は大変にめんどくさいでしょう。


西田:確かにそうですね(笑)


荻上:さきほどの話では、イデオロギー的に右派に位置するようなテーマを選択され続けていましたが、しかしイデオロギーをめぐる政治関心でなくて、ポリシー、コミュニティの中ででてくるある種の「筋」とか「絆」みたいなものを、領域外の言葉に翻訳しながら最適解としてアウトプットしていく作業に興味があるみたいですね。


西田:そうですね。それはあったかもしれない。


荻上:なるほど。だからフィールドワークと同時に、理論的な志向性も強い。それは非常にクリアになる説明です。


西田:ちょっと話が戻るかもしれませんが、僕はいつも「体温の高い」先生方の影響を受けてきました。金田先生もやっぱり昔ながらの軍人気質のようなものを多分に漂わせたかっこいい先生だった。宮台先生に至ってはいまさら言う必要もない(笑)。で、方法論やテーマ自体は違っても、宮台先生や金田先生と何か共有している気がします。それからこれは絶対に付け加えておかなければならないのだけれど、熊坂賢次先生というSFC社会学専門の先生のお世話になっています。熊坂先生は、前の環境情報学部の学部長だった先生ですが、統計とフィールドワークの両方をやっていた方です。昔は送電線網をはるために、電気会社は山とかを削らなければならないけれども、至る所で住民問題になっていた。そのフィールドワークをやったと聞いています。他方で、ばりばりの統計の人でもあって、今でも丸井の顧客データの解析なんかもやってらっしゃいます。熊坂先生はシステム理論をやっていた富永健一先生の弟子でもあるので、正真正銘両刀使いの社会学者ですね。


荻上:大変面白いですね。西田さんはコミュニティの合理形成とその調整に対して関心を持つというのが一貫しているんですね。一方で、例えば宮台さんはコンテンツに対しても関心を持つけれども、西田さんにはそうした面は強くない。時事問題やコンテンツより、フィールドワークや政策の理論展開について語る宮台さんに影響を受けている印象があります。


西田:それから社会システム理論家として宮台さんの影響も受けています。僕はここ5年くらいルーマンを読み込んでいますが、そのとっかかりになったのは宮台さんですし、ルーマンが来日したときの話などいろいろ教えていただきました。


荻上:それはいつ頃からですか?


西田:宮台ゼミでルーマンを読んだのは、3年くらい前でしょうか。井庭研では開講2期目から今に至るまでですね。修論でも社会システム理論のフレームを使っていますし。ところで、僕、コンテンツを見ないとか揶揄されたりもするんだけど、実は映画と小説は結構見たり読んだりしているんです。だけど、コンテンツの力を借りた社会分析の有効性に、大変疑問を感じるところがある。だから、コンテンツ論にいかなかったのかもしれませんね。


荻上:それはつまり何に対してものを言うのかと言う問題でもあるね。作品を読み解いて政策を提言するというスタイルを取っていた評論の歴史もあるけれど、今ではそうしたスタイルは流行らないし、通用しがたい。一方で、作品の分析を通じて人々の内面と向き合ったり、理論的フレームを抽出するためのコーパスとして用いるとう方向性もある。


西田:その意味で言えば、僕は人の内面の問題に研究の水準では基本的に関心がありません。社会秩序の問題は、個人の実存や内面の問題とは異なる水準の問題です。もちろんプライベートな生活の水準では、普通に人の内面に関心がありますが(笑)

荻上:しかしコミュニティの分析には、外部からみると誤った選択にしか見えなかったものが、内部のネゴシエーションによって一つの合理選択として構築されているんだという驚きもありますよね。


西田:ちょっと抽象的な言い方をすれば、フィールドワークで見えてくるものも、もちろん「厚い記述」みたいなことをやる人もいるけれども、僕がやりたいのはそれよりも、人の意思はこうだけれども、結果として秩序はこのようにして成立しているということを描写したい。往々にしてコミュニティも人の意思とは異なる形で形成されている。それを明らかにすることに関心がありますね。


荻上:なるほど。そうした関心をもったのはいつ頃から?


西田:結構最近ですね。昨年、研究室で楽天ブックスの顧客データ解析の研究をやってたんですが、その頃その傾向が強まったというか。


荻上:それは仕事としてですか?


西田:給料も少しもらってました。研究室と楽天技術研究所の共同研究でしたので。そして、その研究をしているうちに、人は自由に購買行動や選択を行っているにもかかわらず、ある種のべき乗則みたいなものが月間のスケールでも、年間のスケールでも出てくるということが明らかになってきました。それを見たときに、「あ、社会秩序の水準の話と個人の内面の水準の議論というのは、異なる水準の問題なのだ」ということを体験的に学びました。もちろん、それ以前から、そうした「社会」の話と個人の内面化の話を切り分ける社会システム理論をずっとやっていたので、理屈としては分かっていましたが、体験的に理解したのはその頃ですね。僕は研究という水準では社会秩序に関心があるので、個人の内面を理解するという作業よりも、社会秩序の形成のプロセスや形式を分析したいと思うようになったわけです。さらに、個人の内面と言うのは知ろうと思っても無限後退するものです。だから、僕はそちらには少なくとも研究の水準ではあまり関心を持てずにいます。さらに付け加えれば、僕は多分アクチュアルなことにしか動機付けられないんだと思います。


荻上:効果が見えるもの?


西田:そうだと思います。これね、どこかで前も言ってちょっと恥ずかしかったんだけれども、研究にせよ実践にせよ半径5mくらいのことをなんとかしたいと僕は思うわけです。例えば、海外でガザとかソマリアとかのことは正直、なかなか想像できるものではない。ここで「想像できる」「悲惨な事態だ」と口にするのは簡単だけれども、どこか誠実ではない気がする。それに対して、よくサーフィンしにいく湘南の商店街がシャッター商店街になっていたとすると、僕は湘南に住んでいる人間ではないけれど友達や知り合いもいるから、何かできることがあるかもしれないと思うわけです。僕も一時期携わっていた起業に関するノウハウやそうしたものを使えばできることがあるかもしれないということに、反射的に反応するところがある。抽象的というか実践と関連しないように見える思考はそれほど得意ではないのでしょう。ある種の情熱が続かないところがあるんじゃないかな。これは自分の動機づけの問題で、別に具体的なものがすばらしいとか、抽象的なものがつまらないとかそういうことではなくて、単純に僕の選好と動機づけの問題です。


荻上:なるほど。僕は、批評家の仕事はインデックス機能をつけていくことだとも考えています。個人にとっては半径外のことでも、社会的議題として重要視しなくてはならないこと、あるいはある議題について考察するための語彙を共有すること、そうした場面にのみ部分的に機能させようと目論むものだ、と。そうした役割にはあまり興味がない?


西田:その意味でいえば、そういうことに関心があるチキさんが既にいるので、僕はそういうことはやらなくてもいいのかもしれないと思っています(笑)。たとえば「ネットいじめ」とかは、僕が「やるべき問題」とは思えない。この社会には、ある意味では無限に「問題」が存在しているわけです。そういう問題に比べて、湘南のコミュニティの問題とかっていうのは、ある意味ではおそらく「小さい問題」なんだけれども、その分、注目度も本当に乏しい。でも、僕もアジェンダ・セッティング自体には関心があります。例えば、『思想地図』に地域研究の単純なアウトプットではなくて、そこから得られるようなある種のインプリケーションを書こうと思ったのは、アジェンダ・セッティングに参加する動機があったからです。


荻上:そうでしょうね。僕もたとえば「情報戦」には関心を持つ一方で、これからはしこしこといじめ研究などの緻密な作業を年数かけてやっていきたいと思っているんですが――


西田:なんで「いじめ問題」をやろうと思ったんですか?


荻上:それも多分プライオリティやアジェンダ・セッティングの問題とは無縁じゃないんですよね。「ネットいじめ」については、社会問題化されているその仕方に疑問をもち、調べだしたらいろいろと見えてきたこと、自分だけが持っているソースみたいなものも増えてきたので、そうした知見をアウトプットしていく必要もあるだろう、というのがひとつ。実際のいじめ問題を解決していくためには、流言レベルの言説ではまずいので、いじめ研究の蓄積っていうのは割と応用できるよということを示してみせたわけですよね。ところが一方で、そうした作業をしながらも、「いじめ研究の蓄積はまだこれしかないのか」と感じたのも、正直なところで。その上その蓄積さえも、具体的な活用場面に浸透していない。ノウハウとして共有できる段階には至ってないから、それをしていく必要はある。他方で、理論的な研鑽というのもさらにしていく必要があるし、自分にもいくつか役立てる部分はあるだろうな、とも思ったんです。もともといじめには根深い思い出がありますしね。


■『思想地図』論文の骨子
荻上:さて、それでは西田さんの論文の内容についての質問に移りますね。


西田:はい。


荻上:この論文というのは、地域コミュニティの分析から、「ある種の言説群」に対するカウンター的な結論を出す、というニュアンスを持っていますよね。でも、それが何に対するカウンターなのかというのは、この論文の中では実は隠されていますね。


西田:ええ。日本ではここ20年間くらい「地域活性化が重要だ」ということが叫ばれているにもかかわらず、そもそも「地域活性化」という言葉に明確な定義が存在しない、という状況があります。地域活性化という言葉は、論者によって意味が違っていて、しかもその内容が具体的にはよく分かりません。ただ歳入が増えれば、人口が増えれば地域活性化なのでしょうか。そんなことはないはずですよね。政府が20年くらい前から「地域活性化」という言葉を使い始めたんですが、その文脈というのは、都市部の開発が注力されてきた日本において、都市間格差が広がってきてしまったので、そろそろ都市部以外のところの開発もしなければいけないよね、という程度のニュアンスで「地域活性化」という言葉はなんとなくそのまま使われるようになってきているのです。


荻上:開発主義的な思考の延長上におかれた首都移転論争とかの萌芽みたいですね。


西田:そうですね。でも、地域活性化というのは何か定義されていない以上、どうやってやるかという議論も進まないわけです。


荻上:「地方を元気にする」とか言ってますよね(笑)。


西田:そうですね。でも「元気」とか言われても、それもやっぱり同じように何のことなのか実は良く分からない。実は、研究論文のレベルでもそうなんです。論文や学術研究を参照しても、しばしば「地域活性化とは地域を活性化すること」とかいったようなことが書いてあったりする次第で(笑)。


荻上:コミュニティの繋がりの重要性、経済の循環と恒常性、過疎化や高齢化による人材不足、雇用不足、あるいはそれぞれのGDP比率や生涯所得、老人の満足度、「村おこし」としてのシンボル……、ばらばらですよね。


西田:その内容も、有効策も、コミュニティのサイズ等によって相対的に変動しますし。次に、地域活性化とほぼ同じ文脈で、地域への分権化ということが言われますよね。ヒエラルキーの頂点に権限が集中している状態から、権限をより小さなセクションに委ねるということなんですが、日本の文脈では分権化しても、その分権したセクションで小さなトップダウンのピラミッドができていて、実は分権化しても効率が悪くなっただけなんじゃないか、ピラミッドみたいな構造自体が温存されているという現状がある。そこで、「地域」をめぐる議論をもう少し精緻化するための議題を共有したい、というのが問題意識でした。


荻上:一般に、地域に権限を委譲するといっても前提が結構厳しくて。「何をどのように」中央集権的にやったほうが効率的なのか、地域のそれぞれの特性にあわせてやったほうが効率的なのか、その対象が明確かされていないことと、シミュレーション方法が透明化されていないで、「小さな政府」をイデオロギーの言葉で語ってしまうという問題点がありますよね。当然、効率性においては地域に分権したほうがうまくいく分野というのもたくさんあります。地域ごとのセーフティ・ネット、気候や風土などを前提とした建築基準の設定、教育や介護のあり方など、一元的な規定だけではまずい場合は多々あるので、必要な議論です。過疎地域と都会では適切ないじめ対策も違ってきますし。いずれにせよ、西田さんには地域論の不徹底さに対する危機感が問題意識としてあると。


西田:ありますね。それから付け加えると、地域活性化とかやっている人たちを牛耳っているのは団塊の世代以上のお年寄りが中心です。彼らは、昔ながらのリソースを使って、昔のやりかたみたいなものを再現しようとします。しかし、それで活性化とか言っても、はっきりいってできることに限界がある。


荻上:意味論のレベルで行った議論で、経済学的には失敗しているとか。「地域が元気だったあの頃」に戻るためにがんばろうと。何を頑張るのかというと、歌を唄う会を開いたり、声かけ運動をしたりとか。いや、悪いことではないのだけれど(笑)。


西田:そうですよね。悪いことではない(笑)。


荻上:しかし、それで経済的に豊かになるということとは当然ながら別問題だし、合理的か、効率的かというのは別ですよね。そうした議題設定が、逆に不信感を築いてしまったりする場合もある。そもそも問題の根本がどこにあるために地域がダウンしているのか、ということ事情はそれぞれ変わってくると。


西田:難しい話だとは思うのだけれど、若い人へのリソースの委譲ということをやっていかなければならないだろうし、デジタル・ネイティブみたいな世代はピラミッド型のハイエラルキーによる強制みたいなものじゃなくて、自分たちの内発性に従ってやっていくんじゃないかと期待しているわけです。ちなみに僕はボトムアップ信者ではありません。もちろんトップダウン信者でもないわけですが、初期条件に合わせて戦術は使い分けるべきだと思います。


荻上:アナーキズムを支持するニューレフトが、かつてツリー構造に反対しリゾーム構造の優位性みたいなものを懸命に唱えるという図式がありましたよね。西田さんの場合はそれが反転していて、目的達成のために効率的ならツリーもリゾームも、ボトムアップでも構わない。そういう、どれかのモデルありきで議論するような「お座敷トーク」はさっさとやめようってところから出発している。個人が行動していくことでシステムを健やかに育てていくような、コミットする側の方法論というものが不十分じゃないかということを告発している。そしてモチベーションみたいなものにはこだわらない、各々が「利己的」「機会的」に行動してもそれが全体として効果的なら構わないと、一貫して態度を守っています。


西田:冒頭にもお話したことと関係するのですが、結局のところ個人の動機と最終的な社会秩序のアウトプットというのは、必ずしも因果関係はありません。従って、個人の内面とかどう考えているかとか、ある種の社会秩序の形成プロセスが純粋なトップダウンボトムアップかということはこだわるべきポイントではないような気がします。そういうことにこだわっているから、いつまでたっても「目的」みたいなものが実現されないんじゃないの、という気がしています。こうした思考の形式はもしかすると宮台先生の影響を受けているかもしれません。


荻上:人間は非効率的であるとし、理性的統合は疑われなくてはならない。しかし同時に人々は、それでも意味論に回収し、理性を信じることをやめない。そうした前提から、「意味」がどうであっても構わないようなムーブメントの形態を模索するという、運動論にもなっている。それは、ある種の保守性の倫理に基づいた態度なんですね。


西田:そうですね。その意味でいえば僕ももちろんビーチマネーという運動が、一般的な意味でベストな回答だとは思っていません。なぜならこのシステムは「湘南」の「湘南性」みたいなものに強く依存しているシステムだからです。このシステムは、この土地における制度の進化上の獲得物であって、大変「ありそうにないもの」です。従って普遍的なソリューションではありえません。その意味ではボトムアップのプロセスに必ずついてくる試行錯誤と創意工夫のプロセス自体を、僕は評価していると言えるかもしれません。だから僕は地域通貨万能論者ではない。むしろ、海外でうまくいったという理由で、地域通貨をやろうとする運動や芸術家を集めて町を活性化しようとするイギリスの「創造都市」論を導入しようとする安易な態度にはほんとにうんざりします。日本では2000年にNHKのテレビ番組『エンデの遺言』が流行ったこともあって地域通貨は一時期大流行して、今――諸説が存在しますが――全国に500〜700程度地域通貨が存在すると言われています。でも、その大半がポシャっていることも知っています。繰り返しになりますが、ある意味ではビーチマネーは現時点で「たまたま」うまくいっているかのように見えている。では、その「うまくいっている」形式とはどのようになっているのか、移転可能な要素というのは存在するのかということに関心があるわけですね。

 
荻上:それを聞くと、少人数学級の問題を連想します。海外の少人数学級ではいじめが少ないらしいという話になったとき、じゃあ日本で少人数学級やればいいのかというと、日本では少人数学級をやると村八分的な論理が働きやすくなるという可能性もあるわけですよね。実際、「少子化の現在、クラスが少なくなり、少人数の教室も増えているのですが、そのことでクラス替えが行われにくくなったり、人間関係の流動性期待が抱きにくくなったりして、いじめが長期化してるんです」という話を、現場の先生から何度か聞いたことがあります。あくまで数人の証言なので鵜呑みにはできませんが、もともと内藤朝雄さんなんかも、少人数クラスにして先生の監視を強めることで、より窮屈な環境にしてしまうことに懸念を表明していたので、ありえないことではないかなと。だとすれば、仮に少人数学級で成功している事例があり、一方で失敗する事例があるなら、その分水嶺はどこにあるのか、そうした要素に興味がわきますよね。


ところで西田さんのこの文章を見ていると、誤読を招きそうだなとも少し思いました。文章とは関係なく、取り扱っているテーマゆえに、「地域屋の人」とか「地域通貨万歳」と言っているように受け取られるのではないか、と。簡単に言えば、「カルスタ野郎」だと思われるんじゃないだろうかと。


西田:チキさんは、以前からそのことを懸念してくださってますよね(笑)。「《NAMの失態》から、地域通貨ネタは脊髄反射されるかもしれない」とも。多分、僕はカルスタの連中なんかよりずっと冷たいと思いますよ。彼らはある意味では「情」にべったりした記述をします。正確には、事例から権力関係とかを勝手に読み取って、プリコラージュしてとかをやっていますが、彼らの目的論というかやりたいことが僕には全く分からない。僕にとって、地域研究には秩序の形式と生成プロセスを明らかにして定式化することという目的があり、さらに実践にはソリューションをつくっていくこと、誤配を仕掛けて動員のフックをつくること、という明確な目的があります。


■「設計主義批判」としてのコミュニティ観察
荻上:そこで、この論文が「提案」ではなくて、「検証・反証」の議論だということをこのインタヴューで明確にしたいなと思っているんです。つまり、既存の地域活性化論に対する反証であると同時に、実は一回しか出てきていないけれども、最近の評論界隈で頻繁に見かけた「設計主義」をめぐる反証でもある。「設計」というのは結局、コミュニティの自生的な秩序に大きく左右されるし、そうした議論もコミュニケーション抜きには実現させようがないじゃないか、と。


西田:そうですね。


荻上:簡単に言えば、これは東浩紀さんに対する批判でもあるとも読める……というところを明確に書かずに、うまく『思想地図』にしのばせたなぁという気がしたのですが、これはわざとですか?


西田:えっと、いろいろと空気は読みました(笑)。僕は東さんの議論の細部はよく知らないので、個別の議論にはコメントできないところもあるのですが、基本的には環境管理の議論も個人の主体万能論も違うと考えているんです。僕の考え方は、社会システム理論を参照している部分も多く、<環境>は<環境>の論理で動いているし、システムはシステムの論理で動いていることを前提にしています。そうでなければ、あるものをシステムと名づけることは恣意的になってしまいますよね。社会システム理論には<構造的カップリング>という概念があって、例えば法システムと社会システムは所有権や契約を介して構造的にカップリングしているという言い方がされます。つまり、所有権や契約概念は、法システムでは法システムの論理で、経済システムでは経済システムの論理で機能するのですが、互いに影響を与え合っているように「見えている」ということを説明する概念です。そうすると環境が変わったところでシステムは影響を受けるかもしれないけれども、システムはシステムの論理で独自の形式でアウトップットを再生産しながら変化していきます。環境も同じです。そうすると、どちらが優位というわけでもないし、環境を設計したからシステムが変わったと言っていいのかは実は良く分かりません。システムは環境の変化をシステムの論理で解釈して再生産し続けているに過ぎないからですね。システムと環境の区別をしたことで、そういう風に観察できるということです。


さらにいえば、『権力』という本の中で、ルーマンは権力というのは行為のきっかけを生み出すこともあるということを言っています。例えば権力の存在が、革命のような行為の所与の前提にもなりうるということですね。環境管理という考え方にも、主体が万能だという考え方、例えば内発的発展論みたいな考え方にも僕はあまり共感できません。おそらく、ここで理系の話をだすと嫌われるだろうけど、アフォーダンス認知科学の世界では相互作用に注目するとかいう話になるんじゃないですかね。


権力

権力


荻上:「工学的知性」という言葉もにわかに流行したけど、環境管理型権力あるいはアーキテクチャみたいなものをポジティブに使うことによって、個人がより自由に振る舞いやすくなるならそれでいいじゃないかという議論がありますよね。その具体的として出されるのがGoogleとかニコニコ動画みたいなものだけれども、僕はGoogleとかニコニコ動画といったものは、例として適切じゃない気がしているし、「新しさ」の次元で語るものではないと思っています。ましてや、生存のセーフティネットにはならないですからね。


そもそもこうした議論の背景には、日本の戦後思想あるいは68年以降のニューレフトの思想の伝統が今でも息づいているということを感じます。60年代の運動の季節を経て、70年代に入ると「しらけの世代」と呼ばれるようになりました。「しらけの世代」以降もいろいろな世代名がつけられていくけれども、それ以降も「政治への無関心」つまり「選択的な非成熟=シラケという態度」を確保するという身振りが語られ続けていく。70年代以降の評論界のスターにのし上がる人というのは、その「シラケ」をどう描写・肯定するのかを問われ続けていました。例えば、80年代浅田彰のスキゾキッズという概念と「逃げろや逃げろ」というメッセージ、同時代に流行し始めた物語批判とテーマ批評、あるいは90年代の宮台真司の「まったり生きろ」、そして2000年代にいたって東浩紀動物化という概念。これらの議論は、論者の意図とは別に、消費社会の肯定言説として機能していたように思えます。


西田:これはかなり面白い指摘ですね。


荻上:一方で、戦後の左派には「コミュニティ」に対する反省意識やアレルギー反応みたいなものも受け継がれていく。『ポスト消費社会のゆくえ』で上野千鶴子辻井喬も指摘していたことだけれども、戦後日本、日本のリベラル思想というものは、コミュニティから極力脱した「個人」としての生き方を擁護してきた。対して保守系の論者は、公はなくて個は成り立つのかといった批判を浴びせていた。そこで興味深い「ねじれ」が生じる。左派は、消費社会を前提にしたうえで個人の自由を主張し、右派はコミュニティを破壊した消費社会を批判する。特に90年代頃までは、言説上は左が資本主義に依存し、右が資本主義を敵視していた。なぜならそこで争われていたのが、何が「良き生」を阻害するのかという対象の違いであり、前者は「共同体」にそれを見出し、後者が「個人主義」にそれを見出す、というトレンドが働いていた。


ポスト消費社会のゆくえ (文春新書)

ポスト消費社会のゆくえ (文春新書)


そうした中、「ポスト消費社会」すなわち消費社会的な前提が恒常的なものでないことが指摘されだされ、態度変更を求められる。宮台真司の「転向」を象徴的に。そういう状況でここ数年、コミュニティの見直しみたいなことを左派が言い出しているわけですが、そうした議論に不慣れでボケていたためか、「愛国心は使えるんじゃないか?」「コミュニティの再設計を」みたいな、すごく大雑把な議論をしていたりもする。そうした状況で、西田さんの議論を読むと、前提が二転・三転されたことを前提にした整理になっていて、非常に面白く感じたわけです。


西田:今のは大変面白い指摘だと思いました。その話は、さっき言った環境管理でも主体万能でもないという話と繋がります。結局コミュニティから自由になりたいといっても、コミュニティから離れて個人が自由に存在するということも現実的にはありえないし、個人なくしてコミュニティもありえない。ということで、人の内面を論じるのか、コミュニティのある種の秩序形成を論じるのかは、照準する対象に合わせて議論の形式を変える必要があります。また、その両方が含まれている<社会>という水準の話をするときも同様ですよね。そうでないと社会批評や社会分析というのは本来成り立たないはずなのに、ここ20年ほどそこら辺の議論が混同されすぎてきたのではないか、という印象を受けます。例えば、宮台先生なども、流動化による入れ替え可能みたいなことを言い出すようになりました。例えば、宮台先生は、昔に比べて日本の至るところが入れ替え可能な場所になった、だから日本は劣化しているみたいな価値判断も暗に含まれる議論をするようになりました。しかし、もし都市が入れ替え可能になったとしても、そこに生活している個人が「入れ替え可能になった/ならない」と言う話は、論理的には異なる文脈の話です。どうも話をしていると、宮台先生の場合、意図的に「混同させている」ような印象は受けるのだけれども……。


荻上:人は意味に生きるし、コミュニケーションする生物だから、政治のためにその水準で訴えかけている、と?


西田:そうですね。そもそも「入れ替え可能な都市」が存在するのかどうかというところにも納得できないところはある。例えば、ジャスコができたからといって、そのジャスコをめぐる生態系みたいなものが同じ都市というのは違う。この間学会で仙台にいったときに、八王子とあまりに似ているなと思ったことはあったけれども、それでも仙台には仙台の町の「味」みたいなものがあった。


荻上:都市の入れ替え可能性といったときに、どの部分を入れ替え可能性というか表現の水準を切り分けなくてはならない、そういう指摘をしてるということですね。同じ建物が日本とフランスに建てられたとしても使われ方がおそらく全然違うのと同じように、コミュニケーション自体が入れ替え可能になるということではない。情報社会だからこそますますその意味を増している「クリエイティブシティ」が人為的にあちこちに設計できないように、あるいはビーチマネーをどこでも実践できるわけでもないように、具体的物質や意味論などの制約は、風景の類似だけでは書き換えられないと。


西田:そういうことです。付け加えて言えば、社会の水準の議論には、個別性を越えたある種の創発性が存在します。その<社会>の水準に議論を当てて議論をすることが、本来社会批評とか社会分析には必要なんじゃないかという気がしています。もともと社会分析には、「社会的事実をもののように見る」というデュルケム以来の伝統がある。しかし、そうであるにも関わらず、先ほども言及しましたが最近の社会批評やもしかすると学問的な流れもそうかもしれないけれど、そうした伝統に依拠するというよりは、「出来事」の意味論的解釈から<社会>を理解しようとするものが多いような気がします。もちろんそうした「社会的事実をもののようにみる」という態度もある種の意味論だということは理解したうえで言っていますが、先ほどの意味論的解釈というのは「社会秩序はいかにして可能か?」ということを問う社会分析の本義みたいなところから外れていってしまっているように感じるわけですね。ルーマンパーソンズジンメル、デュルケムなんかも何度も著作の中で繰り返しますが、「社会秩序はいかにして可能か?」ということを問うことに社会分析の本義があると僕は思っています。少なくとも僕は宮台先生からそのことを強く教わりました。そのための独自の言葉が体系だって獲得されない限り、<社会>を問う学問は専門性を獲得できないということをルーマンは言っています。僕はそこに同意しますし、関心もそこにあります。


社会学的方法論の先に
荻上:『ヤバい社会学』の冒頭でも、社会学の方法論の中には2つあるということが書かれていますね。それはよく言われるように、統計とフィールドワークです。統計というのはみんながどういう行動を行っているのかということをマクロ的に数値化して把握する。あるテーマに則った全体性を把握するのに有効ですが、同時に統計をとった一部に関してしか分からなくて、それで言えることはかなり限られている。一方でフィールドワークに関しては、個別の事例を深堀していくことによって、事例の詳細や合理性の把握、および全体性の中における位置づけなどを知ることができます。しかし常に「極端から語る」ことの限定性があるため、どちらにも欠陥はある。見田宗介なんかはその身振りで、両方の問題点を越えようとしてみせたけど、西田さんもどちらかの手法をあらかじめ採用することはしていないですね。


ヤバい社会学

ヤバい社会学


西田:「統計/フィールドワーク」については、僕はあまり区別していません。『思想地図』の中ではほとんど言及していませんが、研究の水準ではフィールドワークの中で得られたデータから統計をとっているからです。当たり前といえば、当たり前ですが、フィールドワークを補完する方法として質的分析と量的調査の両方をやっている。他方で、僕はフィールドワークといいながら、仕事みたいなこともしているわけですね。茅ヶ崎市の市役所の研究会のファシリテーターみたいなこととか、これから平塚商工会議所の事業のオブザーバーみたいなこともやりそうです。フィールドワークといっても、実は三種類くらいの方法でやっているわけで、中にはお金をもらいながらやったりしていることもあったりして、そちらを区別するほうが研究の方法論としては重要かもしれないですね。


統計に対して、ある種のベンチマークというか研究遂行上のお約束みたいな印象は持っていますよ。しかし、もし、対比するとしたら、湘南の地域研究みたいなことと楽天の顧客データの解析みたいな研究の意味を対比させたほうが議論が面白くなるかもしれないですね。統計とフィールドワークを対比させることにはあまり意味はなくて、結局「両方必要です」という至極当たり前の結論になってしまうからですよね。統計使うとグラフとか描けてなんとなく論文のページが埋まるみたいなところもありますが(笑)。


荻上:サイズ、あるいは質と量の違いというよりも、対象を記述する際に求められる視点の取り方の違いということですね。


西田:統計だけがベストな研究の表現方法であるわけがなくて、重要なのはリサーチ・デザインです。『思想地図』の座談会でも少し話したように記憶していますが、重要なのは統計を使っているか否かを問うことではなくて、知りたいことを知るために正しく対象と方法が選択されているかというリサーチ・デザインの適切さを問うことです。その中でどのように言説分析の利点を用いるのか、量的調査の利点を用いるのかということを位置づけることこそが重要で、統計やデータを使っているか否かが重要なのでは全くありません。もちろん、こんなことは研究者を志す人間の間では常識だと思いますが。


荻上:さっきのコミュニティの話に戻りますが、コミュニティって「めんどくさい」ものですよね。抑圧も多いし、ディスコミュニケーションも必ず伴う。


西田:そうですね。コミュニティの研究というのは、やっぱり手間もコストもかかります。実際、お金も結構掛かりますし。


荻上:疲れますよね。


西田:今回は、だいたい個人営業のお店を対象にして調査をしたのですが、中には学生とかが好きじゃなくて、露骨にそういうのを態度に出してくる人もいる。もちろん、丁寧に答えてくれる人が大半だし、こちらが忙しい時間を割いてもらっているわけなので贅沢は言えないんですが、「なんだよ、こっちは忙しいのによ」みたいな空気の中、「すいません、すぐ終わるんで」みたいにやりくりしていく瞬間とかもあるわけですね。半構造化インタヴューという手法は、その手法の特徴として、論理的に正しくない議論や、共感できない議論、延々終わらない議論にも付き合っていくという側面もあります。そうすると、こちらにはある種のフラストレーションがたまったりすることも多々あります。とにかく地域研究というのは、ある意味では座学の批評と比べると総じていろいろなコストがかかりますね。


荻上:「こっちは知識あんだぞ」的な学生としては、プライドも傷つきますし(笑)。


西田:傷つきますね(笑)。でも、そういうことも含めていい経験をさせてもらったと思っています。ある種のスキルみたいなものが身に付いたというか。全然意図を共有しないような場で、コミュニケーションする方法みたいなものも経験的に学習したし、全然知らなかった社会が見えてきたということもあります。もう少し広い話をすれば、やっぱりこの時代、誰かが地域活性化みたいなことを取り扱っていかなければいけないような気にもなりました。でも、例えば地域系の学会とかに行っても、研究者も割と年齢層が高いんですよね。さっきも話をしましたが、地域活性化とかをやっている団体を仕切っているのもおじいちゃんが多い。それでは活性化なんか起こるわけもなかろう、とか思うわけです(笑)。地域関連の本も面白くないものが大半だし、編集者の人から聞くところによれば、地域をテーマにした本はやっぱり売れてもいないらしいですしね。


荻上:地域活性化っていうのは、これまでもだいたい老人が担ってきたという歴史もあるわけですね。


西田:自治会とかのことですね。別に、お年寄りが仕切って活性化するなら、それはそれでいいような気がしますが、うまくいっているようなところも多くはありません。確かにお年寄り同士の交流になっているだろうし、退職後家に閉じこもって、寝たきりになるよりかは元気なほうがいい。別に、僕は古臭いから年寄りが悪いということを言っているわけではなくて、お年寄りが活性化などを仕掛けるとしても意識的/無意識的に関わらずどうしても短期的な利害に関心が引きずられがちになってしまうという構造的な指摘をしているだけです。他方で40代以下くらいの、商工会議所の青年部の人とか社会起業、ソーシャル・ベンチャーというように呼ばれてもいますけど、そうした取り組みの中にはすごく面白くて事業として現実的なものもある。しかし、今の時代は、普通に起業しようという人間すら減っている時代ですよ。SFCですらそうです。ベンチャーよりも、事業という観点ではソーシャル・ベンチャーのほうがずっとハードルが高いわけですよね。利益があがるかどうか分からないし、利益を上げすぎてもそれはそれで問題になってしまう。だから、若い人を支援する仕組みももっと必要だし、活性化を考えるお年寄りの方には自分たちでやろうとするよりも意欲ある若い人を支援していくほうが活性化に繋がりますよ、ということが言いたいわけです。


荻上:ある意味ではハイリスク・ローリターンですね。


西田:そうですね。最近ある仕事のために後輩なんかにいろいろ聞いたんですが、SFCでもネット・バブルの頃のようにベンチャーで一旗あげるぜ、みたいな雰囲気はありませんからね。こういう文脈がある中で、誤配も含めてですが、僕はたまたま比較的年齢が若くて、かつ地域を対象にいろいろやっているわけですが、メディアで書くチャンスもいただいたわけです。だったら、誤配も含めて魅力的に見えるように地域の文脈を使って批評的な文章を書くとか、そういうことをやってみることに意味があるんじゃないかと思います。


荻上:それは書き換えの領域をどこを選択するかということですね。


西田:その意味では、これからビジネスや社会といった棚に並ぶような本を作る仕事をしていきたいと思っています。新書とかね。それが地域やコミュニティという対象に広く関心を誘導することであり、そのことが僕にとって商業媒体で文書を書くことの意味だと思うからです。実際、今取り組んでいる商業出版系の仕事も、批評よりはそっちの領域の仕事が多いですね。


■これからの関心、2010年代の仕事
荻上:ちなみに、今意識している議題領域はありますか?


西田:さっき言ったような地域活性化について再定義するような仕事はしなければならないと思っています。「しなければならない」とか言うと大げさですけどね(笑)。


荻上:「あったほうがいいと思うし、なんなら俺やるし」みたいなことですね。「言いだしっぺの法則」を守れるかどうかは、書き手の質を左右します。


西田:それから、データ解析系の研究はもっとやりたいなあと思っています。ライブドアソーシャルブックマークのデータが公開されましたが、あれを解析するとかいう話が近くで進んでいるので、そこにぶらさがるとかいうようなことはするかもしれない。でも、僕はどっちかというと、ネットのデータより、もっと人間臭いデータを対象に研究したいと思っています。ここしばらくはずっと修論をやっていたんですが、ようやく一段落したので、そろそろ関係各所にコンタクトとってやっていきたいな、と思っています。加えて、地域通貨の話って「モバイル・バリュー」であり、もっと拡大していえばある種のプライベート・バリューですよね。今、僕はどちらかというとそのバリューが生み出される社会に焦点をあてているけれども、社会の中のメディアの話もできるはずです。メディア側の話もいずれやっていきたいと思っています。


荻上:批評と研究の違い、あるいは同世代の論者などは気にしていますか?


西田:同世代ですか。同世代というと宇野さんと濱野さんが少し上にいて、その次にチキさんがいて、同い年で言えば黒瀬君がいてってぐらいしか知らないんですけど……。そうだ、ゼロアカ道場から出てきた人たちって、肩書として「評論家」とか名乗ってる人がたくさんいますけど、別に単著だしてるわけでもそれで食べてるわけでもないし、「え、評論家とか名乗っちゃうの?」みたいな驚きはありますね。僕も『SYNODOS』に書かせてもらって、『思想地図』に書かせてもらって、他にもいくつか商業系の媒体でも仕事したことがありますけど、恥ずかしくて「評論家」とか言わないですよね。せいぜい「執筆活動もしてます」くらいしかいいません。まあ、それは個人の認識の問題だし、評論活動をしてるから評論家なんだといわれれば、確かに評論家なのかもしれないですけどねえ……。


荻上:濱野さんとは以前に話したことあるんですよね?


西田:濱野さんはゼミの先輩みたいなところがあって、昔、濱野さんがまだ大学院にいた頃、僕らのゼミにTAみたいな感じで来てくださってました。濱野さんは、僕の副査に入って頂いている前述の熊坂先生の研究会の出身でもありますしね。それから、東大の安藤馨さんも直接面識はありませんが優秀な人だなと思っています。いずれにせよ、僕はまだ同世代の直接の知り合いがチキさんや黒瀬君ぐらいしかいないので、全体的には良く分からないというのが正直なところですね。


荻上:全体的には、「まだ何者でもない連中」という括りでいいと思いますよ。


西田:同世代の中で関心ある議論ということでも、アニメやラノベエロゲーなんかが主流ですが、僕は消費しないので、そこら辺の話題は全く分かりません。かろうじて東さんや大塚英志さんの本を手に取ったことがあるという程度です。先輩に前田久さんや前島賢さんたちがいるので、なんとなく議論の対象として盛り上がっている雰囲気みたいなものは伝わってくるけれども……。


同世代ではなくで少し上になりますが、charlieこと鈴木謙介さんからはいろいろと影響を受けました。charlieさんが学生の頃から、今に至るまで5年くらいかな、宮台ゼミでも、その後もすごくよくしてもらって来ましたね。先ほども言及しましたが、僕が宮台ゼミに行き始めた頃はまだcharlieさんは旧都立大の博士課程にいて、ずっと宮台ゼミのTAみたいなことをしてくれていた。今と同じで、飲み会とか合宿とかがあると仕切ってくれる兄貴分、みたいなイメージがありますね。思い返せば20くらいの頃から、ずっと面倒見てもらってきました。だから、charlieさんを見ていると、「僕らの先輩」が、いつの間にか「人文系のヒーロー」になっていったという驚きがあります。そういう前提があるので、個人的にはlifeなんかでメディアやネットに流通するようになったcharlieさん像とは少し異なった印象がありますね。


荻上:彼も難しい人ですからね。


西田:「難しい人」というのは、あまりにいろんな要素を含んでいますが(笑)。でも、charlieさん本人とも何度も議論したことではあるけれども、charlieさんの議論が僕の議論と接続するとはあまり思えないんです。個人的には、charlieさんの議論というのは<社会>を論じるというよりは、個人の内面のようなものの問題に近すぎるのかな、という気がします。でも、議論に共感する/しないと関係なく、僕は宮台先生にもcharlieさんにも感謝していますし、尊敬しています。同世代ということに話を戻せば、さっきのアジェンダ・セッティングに関するチキさんの議論には大変共感を覚えました。そういえば、先日チキさんの『ネットいじめ』は大変面白く拝読させていただきました。特に、ネットでのいじめというものは、ネットの掲示板でいじめが起きているケースもなくはないけれども、ほとんどはオフラインの空間でいじめが起きていて、それがネットに流れているだけで、ネットを規制すれば解決するとかそういう問題ではない、という論点は、まさに目から鱗でしたね。素朴な感想ですが。


それから同世代の誰と仕事を一緒にしたいかということなら、ありえないことですが、若い頃の宮台先生と一緒に仕事をしてみたい、というのは思います。先日、ちょっと久しぶりに宮台先生と話す機会があったんですね。そのとき、さっきの「入れ替え可能」についての議論みたいなことを言ってみたんです。そしたら、「そんなことは分かっている」と仰るわけです。論理的には僕が言っている通りだとおっしゃってくださった。でも、宮台先生のような立場になってくると、「守らなければならないもの」があるということをおっしゃるわけです。個別の議論もさることながら、ある種の立場からの――「リベラリズムの」ということでしょうか――議論の全体みたいなものを守る必要がある、ということを口にされました。ロジカルには正しくないような言説のほうが、動員や動機づけに有効なことがあるということもありえますよね。だから、細部が論理的に正しくなくても、読者をがっと勢いでもっていくような仕事をしないといけないんだ、みたいなことをおっしゃっていて、僕はそのとき大変失礼だけれども、「あ、宮台先生はボケたわけではないんだな」と思いました。まぁ、いつもの宮台先生のパターンと言えばパターンでもあるわけですが。しかし同時に、そういう戦略というか仕事というのは、僕が今一緒になってやっていく仕事ではないとも思いましたね。僕みたいな、ただの研究者の卵みたいな人間は、もっと地に足のついた仕事をする必要があるのではないか、と。その意味では、宮台さんがまだ博士の学生だった頃にやりかけた社会システム理論的なメディアや消費の分析があるのですが、僕は問題意識だけでも引き継ぎたいなとは思っています。


荻上:それは研究と批評と区別されるものの違いなのかもしれませんね。研究というものは、事実を積み重ねていくということ、事柄を明らかにしていくために、歴史性を重んじた議論の積み重ねと実証性を重んじていくため、百の作業によってひとつの結論を出すために心骨を注ぐみたいなことがある。だから、特に学者経由の批評家は、そうしたプロセスや実効性に対して、ディシプリンを取り入れつつも苛立ちを覚えている人も多くて、未確定の部分でも積極的に発言しようと試みたりする。でも一方で、世に出て誤った発言をすることを恐れて、それをみて一層、研究室に閉じこもることを促す人もいたりする。「正しいことだけを言え」とってのも、現場の指導教官が院生とかにするアドバイスとかで、かなり露骨になる人もいる。その意味では批評家というのは、誰よりも率先して問題や事柄を明らかにしていくという態度をとりながら、誰よりも「真っ先に間違えていく」ことこそが仕事なのかもしれません。そして、「なぜ彼が間違えたのか」ということを事後の人に検証させ、その身体を象徴化させていく。


西田:科学システムの分出と再生産みたいな話ですね。今の話で言えば、僕の問題意識は、チキさんのそれと似ているところと異なるところがあるような気がします。今の「研究/批評」ということで言えば、おそらくチキさんは批評側のポジションからおっしゃってたと思うんですが、僕はどちらかというとやっぱり研究側の人間だと思うんですね。今はM2ですが、SFCの博士課程の入試に合格しているので、このまま無事修了できれば、春から博士課程に進んでいずれ研究職に就くことを目指そうと思っています。先ほども言いましたけどね、今回僕が書いたものが評論の体をなしているのかどうかということは今でも良く分からないんだけれども、しかし『思想地図』vol.2全体で一番「読みやすい」文章を書いたのは誰かということを問えばそれは僕じゃないかと思う。みんなある種のジャーゴンに下駄を履かないと読みづらい文章や論理がいったりきたりするような文章を書いている。そんな中で僕が書いた文章は例えば中学生が読んでも読めると思うんですよね。実際、塾の生徒の中学生なんかにも『思想地図』何冊か渡してみましたし。


荻上:ストレートな文章だと思います。だからこそ、ある文法を手にしている舞台では、誤読の心配もあるわけですね。業界へのウィンクがないというか、あるいは「論壇人のキャラ戦争」を見たい人からすればひっかかりどころが少ないというか。


西田:こういう媒体、つまり学会なんかの論文ではなくて――一万部っていうのが多いか少ないかというのはそれはそれで議論は分かれるポイントだけれども――、学会誌を読んでいる人口よりは多い人口にアピールできる媒体で書くということがきまったときに、僕はとにかく分かりやすい文章を書こうと思いました。なぜなら、繰り返しになりますがそれが評論家や批評家ではなく、研究者を目指す僕が商業媒体に書くことの意義だと思うからです。そこからつなげて言えば、読んだ人にはもっとネタ的なコミュニケーションを展開してほしかった。もちろんklov君たちの筑波批評のustとかはありますが、でももっと欲しい。disとかでもいい。「地域について間違った理解をしている」とか「こういうプロジェクトのほうが効率的だ」とか。『思想地図』に書くということは、そういうある種のコミュニケーションの素材を提供することだと思っていたんです。繰り返しになりますが、それがさっきの「評論/研究」という立場でいえば研究の立場を目指す僕が商業媒体に書くことの意味だと思います。僕だって研究の業界で、論文書くときにはジャーゴンをがんがん使うし、表現としては抑えた文章を淡々と書き連ねたような文章が好きだったりするので、ほんとは『思想地図』でも「〜である。〜である。従って〜である」みたいな論文調の文章を書きたかったのだけれど、それでは商業媒体としてはあまりに単調な文章になってしまて、ある種のエンターテイメントとしての要素が抜け落ちてしまうという指摘を編集の方からいただいて断念しました。べたっとした文章になってしまうというのでしょうか。いずれにせよ、前述したような研究から得られるある種のインプリケーションをネタとして提供すること、それが僕にとって商業誌に書くことの意味だと考えています。


荻上:読者層の違いというか市場の違いでもあり、目的の違いでもあると。


西田:そうですね。前述したように例えば地域のようなお年寄りが中心になって仕切っているような空間に、誤配だけれど、若い誰かが興味を持つようなネタを提供するということも商業誌に書くことの目的の一つです。つまり動員とある種の啓蒙ですよね。これはネットコミュニティの分析でも地域コミュニティの分析でもある意味では同じです。しかし、ネットコミュニティに比べて地域では圧倒的にお年寄りが多いので誤配を仕掛けたいとは思ってましたよね。他方で、研究に関して言えば、それはコミュニティの秩序の形式とその生成プロセスを明らかにすること、つまりそれらのある種のファクトを知ること自体が目的です。研究というのはそういう営みというか独自のコミュニケーションですからね。


荻上:そこで、西田さんが右派的な議論に親しんできたというのは非常に面白く、シンパシーも持ちました。西田さんはコミュニティの合理性に大きな興味を示すわけですが、右派/左派的な「イデオロギー」の言葉ではなく、「ポリシー」の言葉でコミュニティを語り直すことはできないかということに関心を持っている。現在のリベラル界隈に広がっているコミュニティ再評価ムード、あるいは戦後続いてきたような思想に対するある種の問いかけでもある。似たような問題意識を持っている人というのは、『思想地図』だけでなく、同世代にも少ないんじゃないでしょうか。


西田:僕の見立てでは、基本的に『思想地図』も、僕や僕の議論に関心があるわけではないわけです。同時に、僕もそうした既存のステージにただ最適化していくことだけを考えていくのではないほうがいいと思っています。研究でも批評でも、そしてビジネスでも、僕は新しくて、面白いことを仕掛けて創っていきたい。その意味では、僕にとって商業出版の仕事で大事になってくるのは、次の仕事だと思っています。『SYNODOS』でほとんど初めて一般向けに書かせてもらって、『思想地図』に書くことになって、今一区切りだと思う。実はこの「次の仕事」みたいなものも、研究のように淡々とこなしていく仕事と、人口に膾炙するような商業出版の仕事の両方があって、さらに自治体やソーシャル・ベンチャーでのイノベーションみたいな実践水準の仕事も存在しています。これらを全部統合した「次の仕事」の全容は正直まだ見えてこないところもあるけれど、「新しい」、「面白い」をキーワードにして費用対効果やコストの最適配分も念頭におきつつ模索していきたいと思います。


荻上:ありがとうございました。今後の活躍に期待するとともに、いずれ本格的な仕事をご一緒できることを楽しみにしています。


西田亮介さんのブログ
http://web.sfc.keio.ac.jp/~ryosuke/tippingpoint/


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