「ゼロ年代の批評」のこれから──宇野常寛さんロングインタビュー

2008年2月7日新宿にて、『PLANETS vol.4』が好評発売中の「第二次惑星開発委員会」を主宰している評論家、宇野常寛さんのロングインタビューを行いました。「惑星開発委員会」の成り立ち、論争を起している「ゼロ年代の想像力」(『SFマガジン』連載中)の背景にあるもの、そしてケータイ小説論、サブカル評論の現在まで、ここでしか読めない宇野常寛さんの発言が盛りだくさんのインタビューとなっております



■プロローグ 歌舞伎町の飲み屋から
荻上:今日は新宿、歌舞伎町の飲み屋からお伝えしてます。ということで、『PLANETS vol.4』発売、おめでとうございます! それから、『SFマガジン』での連載「ゼロ年代の想像力」も好調で、話題になっていますね。


宇野:ありがとうございます。


荻上:今日はそんな宇野さんに色々聞いてみたいと思います。個人的には、後日簡単に発表すると告知されてからさっぱり更新されない宇野さんの「2007年ベスト&ワースト」が気になってますが(笑)


宇野:ああ、あれですか。いや、途中まで書いてはいたんですよ、ちゃんと(笑)。そしたら1位が松浦理英子の『犬身』になっちゃって、それはちょっと面白くないなぁと。普通に考えたらそうなんですけど、今ここで僕が『犬身』を褒めてもあまり意味がないなぁと。でも、ワーストは結構chikiさんとぶつかるかな。ワーストっていうのは「ダメな作品」ではなくて、「ちょっと褒められすぎじゃない?」という作品ですね。それには黒沢清『叫』を推したいなと。あえてあげるなら。


荻上:いや、『叫』はそんなによくはないと思ってますよ、黒沢清の中でも。


宇野:明らかに『CURE』や『回路』の方がよかったですよね。


荻上:僕は黒沢清のホラーは好きだし、『カリスマ』『ニンゲン合格』や『アカルイミライ』といった作品も好きなんです。でも、もし「評価」するなら、文脈に限定した語り方しかできない。「これこれこういう意味でよかった」とは言うけれど、「とにかくすごい」とは言うつもりはない。だからベスト1とかにはしないし、その評価とはバッティングしないですね。


宇野:あ、そうなんですか。でも、よく黒沢について語ってますよね。


荻上:それはきっと「よく出来てる」からです。僕は映画を観るとき、最終的には映像をテーマや構造に回収しながら観るタイプなので、黒沢映画とはすごく付き合いやすいんです。黒沢清作品にはいくつかのテーマの反復があって、そのテーマの推移を追えば、時代的な文脈が露骨に映像化されていることが分かる。例えば「コミュニケーションの断絶」とか「喪失側の恐怖や怒り」とかを露骨に読み解くことが出来るようになっている。“コミュニケーションの断絶とアイデンティティ”というテーマで試してみると、“『CURE』で「世界」の基盤が前後不能になったことが確認され、『回路』においては「死」すらもなく消失のみになった世界の恐怖が再確認された。そして『叫』では、無意味に消失してしまう事に抗う場合、閉鎖的なノスタルジーと途方もない闘争的な混沌の二つが目の前に広がっているけれど、どちらも絶望的であることが風景として描かれていて…”みたいに、ある種の世界観の説明を人にしやすい。でも、そういう語りが「映画の語り方」として優れているわけではなく、ある意味では貧しい語り方なんですよね。それでも基本的にはそういう観方を好む。そんな僕でも、『叫』の細部から読み解く物語性についても、宇野さんのように低い評価でも妥当なのかなと思います。


宇野:僕もどっちかというとそういう観方をしますね。同時代性を読み解こうとする際の参照項としては『叫』では嗅覚が鈍ってるように思ったんですよね。例えば廃墟をああいう形で描くというのもそう。黒沢清は、前から廃墟をああいう撮り方で映してますけど、変容を描くにしてはあの撮り方というのは、結構致命的な鈍感さがそこにあるのではないかと感じる。あれって『機動警察パトレイバー2』と同じでしょう? 14年前に押井守がやったことを低いレベルで反復してしまっている。


荻上:なるほど。今の廃墟の撮り方についての指摘は、世代論と風景論の問題かもしれないですね。例えばある風景ひとつとっても、その風景に対する意味づけって“世代的語り”によって変わる。例えばケータイの「意味」は、大雑把に言って大人になってから使うようになったナナロク世代以上の人と、物心付いた頃から前提として受け入れているキューイチ世代以下の人では、大きく異なる部分が生じる。上の世代の人が、これまでの政治や教育が成り立たせていた基盤の崩壊と畏怖をケータイに読み取ることは可能ですし、そういう言説は山ほどありましたよね。そして同時に、ナナロク世代の人のように、文化的閉塞状況を打破するツール、ブレイクスルーしてくれるツールとしてケータイを捉え、アッパーな言説を吐く人もたくさんいた。一方で物心ついた時からケータイを使っている層であれば、「学校裏サイト」みたいなケースのように周囲の人間関係のメンテナンスツールにいち早く導入し、カーニヴァルのためのツールとして意味づけているわけでもなく、淡々と使いこなしている。このように、ケータイというひとつの「風景」を切り取ってもその世代や年代毎の「空気」を代弁し動員できる描写のリアリティが異なってくる。同様に黒沢清が撮る「廃墟」に対する意味づけの仕方も、宇野さんによればそこに読み解くべき「意味」が届く範囲というのが限定されつつあるということでしょう。


宇野:そうですね。佐々木敦さんとか、杉田俊介さんとか、古い価値観の人たちは、そのままあの描き方を肯定してしまう。


荻上:「何かが喪失した」という文脈以外で評価するためには、別の文法や評価体系も必要になる。しかし「喪失」以外の風景が「廃墟」にないのであれば、別のコードから観察しても魅力はないのかも。僕もあの「廃墟」は好きだけど、感覚的にはあの「古さ」そのものを古いと感じてしまいますし。


宇野:まったくそう。chikiさんが言わなければ言おうと思ってたことですが、一言で言えば黒沢清は90年代前半からああいう廃墟だったわけで、15年間変わっていなかったということなんです。「変わっていない」というのは、或る意味ではだめな意味で「変わった」ということを意味していて、時代は動いているのに黒沢清は変わっていないというこなんですよね。「あの都市がああいう廃墟として写るということは、悪い意味でズレて来てしまったんだな」という感想になっちゃうんですよね。


荻上:そういうコードの硬直については、宇野さんは批判するんだろうと思いますよ。


宇野:それから「ワースト」とは程遠いけど『虐殺器官』も褒められすぎている気がする。僕は嫌いじゃないし、よく勉強していると思うけれど、虐殺の原因が人間の心の奥底にある凶暴性みたいなものに設定されているところはもっと批判があってもいいと思う。あの作品は「虐殺の文法」という人文的な発想を用意しておきながらも、結局最後は「ゲーム脳」みたいな話に落とし込まれているわけですね。それがちょっとつまんなかったですね。個体の本能に虐殺への欲望がプログラミングされているんじゃなくて、あくまで社会の機能として虐殺が起こってしまうというシステム論的な議論の方が「9.11以降のリアル」とかを書くならまだ説得力があった。この点でいえば、同じようなテーマを扱っているすえのぶけいこの『ライフ』の方がよく描けていると思います。『虐殺器官』は、ちょっと昔のオタクの人が、90年代当時の世界観で今の状況を頑張って描きました、という感が拭えないなと。


荻上:『ライフ』の話がありましたけど、今の発言は「いじめ」についての言説の閉塞状況にも言えるかもしれないですね。閉塞空間におけるいじめの問題について考えると、人の持っていた凶暴性が云々という議論っていうのは相当に信じられないわけなんですよね。だからシステムとの葛藤、文脈がなぜ自分を選んだのかという問題について描いて欲しいという希求に対し、古谷実の漫画にも日常ゲームとしてのいじめが上手く描かれていました。それが主題ではないというのがまた面白いんですが、それ以降にいじめによって埋め尽くされる恐怖みたいなものを『ライフ』で再度描けたのは意味があると思う。


宇野:うん、よく出来ているけれど、一番大きな部分を捉えてない気がする。塩澤さんには申し訳ないですけど、明らかに褒められすぎているなぁと。


荻上:そもそも「911以降の云々」という設定のリアリティの多くが失効している感はあります。それにここ数年の「911以降」という話をいくつか参照しても、実は結構胡散臭かったのではないかという反省が既に沸いているわけです(笑)。少なくとも日本では、もはや共通体験的に語りがたくなっている。しかしハリウッド映画では、それしかないのかというくらい繰り返し「911」が描かれていて、ゾンビ映画などで描かれた暴力のユーモア性というものよりはほとんどなく、やっぱり結構貧しいことになっている。


■「惑星開発委員会」はこうして生まれた
荻上:というわけで今日のメインテーマなんですが、なぜ今「動機付け」がテーマになりやすく、一方で「911以降」他にその答えを求めたがるような議論が増えているのか。そのあたりを宇野さんにインタビューをすることで、色々聞いてみたいですね。というのも、宇野さんは惑星開発委員会を作り、『PLANETS』を作り、特にコミュニケーションの問題について発言している。そして「動機付け」問題に対して苛立っているようにも見える。


ご存知の通り、今は「どういう動機付けを確保するのか」という問題設定があふれ、一方でそれに対する理路整然とした説明もそれなりに出てきている。かつてはある種の善悪というものが社会構造として用意されていたけれど、冷戦体制の崩壊、911以後、諸々の理由によって特定の物語が信じられなくなり、動機が確保しがたくなったのは時代的精神として必然、というような。でも、そういう議論って事実性の観点から読み返すと微妙だし、その言説のいくつかの帰結とかを見ていると結構ヘトヘトになるわけです。だからそのあたりを是非(笑)。


宇野:結構、ヘビーじゃないですか! 根源的かつ原理的なテーマですね(笑)。


荻上:もちろん今日回答を出せなくても全然いい。ただ、「ゼロ年代〜」の議論を受ければどうしても必要な作業ですから、ゆっくりやりましょう。今後宇野さんとはまた話すことがあると思いますが、方法論もスタンスも異なるメディエイターたる宇野さんと今この論点を提示しておくのは必要だと思うんですね。


宇野:しかし、そんな壮大な話になるとは。どんなことから話していけばいいのだろう(笑)。


荻上:最初はベタに、そもそも「惑星開発委員会」を作った成り立ちから、今にいたる経緯から。読者のためにも是非。というかいきなりこんな展開になっても、きっと多くの人にとって意味不明ですし。


宇野:じゃあ、惑星開発委員会設立の話からしましょう。成り立ちは、僕が大学生だったころにさかのぼります。僕が通っていた大学は私立文系で、僕はそういう意味では結構要領がいい人間なので、ほとんど授業には出ていなかったけど単位はほぼ全部取れていた。マジメな学生でもなかったし、端的に暇だったんです。仲の良い友達数人とつるんで、たまり場でウダウダしていたり、バカ学生っぽいイタズラをして面白がったり、旅行に出かけたりしていましたね。下宿ではケーブルテレビに加入していて、早めにブロードバンド使ってたわけですけど、テキスト系サイト文化にははまらなかったんですよね。「ちゆ12歳」とか「侍魂」とかクソつまらなくて。「こいつら大学であまり友達いないんだろうな」というのが当時の僕の感想だったわけです。そんなときに、昔からの友達の一人が「お前がサイト作ったら面白いんじゃないか」と言って、ホームページビルダーをくれたんです。使ってみると、「こんなに簡単にサイトが作れるんだ!」と面白くなって、じゃあ何か作ろうと思って色々な人に声をかけたんです。僕はあんまりひとりで遊ぶのが好きじゃないんですね、昔から。


そして、高校と大学の友人何人かで立ち上げたのが「惑星開発委員会」です。2002年の2月ごろですね。最初は「ファミ通」のパロディーでクロスレビューをやろうって計画しかなかったと思います。クロスレビューで扱うネタを書き留めた当時のノートを見ると「最近の村上龍ってどう?」とか「おちまさとの迷走について」とか書いてある。もうちょっとネタっぽいのを考えていたんですね。ところが、当時のメンバーの性向みたいなものもあって、やっているうちにオタク系のコンテンツが話題の中心になっていった。毎週3本クロスレビューをやらなきゃいけないから、とりあえず手っ取り早く3人以上のメンバーがチェックできるものにしなきゃいけない。と、なるとテレビ番組とマンガばかりとりあつかうようになっていった。今思えば、当時のテキストサイト界で受けるには結果としていいラインナップだったと思いますね。あと、人気が高かったのが「惑星開発大辞典」。当時は東浩紀さんが『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』を出したばかりで、オタク系サブカルチャーと論壇の距離が縮まりはじめていたんですが、こうして発生しつつあった新しい言論空間についてまとめてあるメディアがなかった。そこで用語辞典形式で書き始めたのが「惑星開発大辞典」です。クロスレビューと違って、ビルダーの操作も簡単だし、手軽に読み物コンテンツができるのが送り手としては良かったです。旧・惑星開発委員会って、完全に趣味でやっていたからけっこう物理的な制約でああなっている面が大きいんですよ。あの頃は、話題になるのがとにかく面白かった時期ですね。


でも、一年くらいたって、僕も含めてメンバーがみんな大学を卒業したのでやめちゃったんですよ。まあ、この間にいろいろあったんですが、2004年の末頃に、「今、惑星開発委員会をやったらもっと面白く出来るんじゃないか」と思いはじめたんです。あと当時、東さんが「波状言論」という同人メルマガをやっていたんですね。同人メディアの限界まで頑張ったいいコンテンツだったんですが、不満もいっぱいあった。「ゼロ年代の想像力」に繋がることだけど、「波状言論」周辺は学問的、あるいは論壇的にはすごくいい仕事だったと思うんですが、文化批評としてはかなり辛かった。90年代後半、第三次アニメブームの文脈の頃のオタク文化とその名残りばかりが紹介されていて、はっきり言ってしまえば非常に古くて狭いセンスのメディアだったんです。


でも実際はゼロ年代前半にはもっと語られるべき色んなカルチャーもあったわけです。ドラマ、アニメ、小説、そして音楽。これらを、適切な問題設定を行えば同じ平面で語れるし、そうして見えてくるまったく違った局面がたくさんあったわけです。東さんたちが語っている問題意識もそうで、「セカイ系の困難」でも「95年以降のポストモダン状況の進行」問題でも、第三次アニメブームの流れを汲むオタク系文化(狭義のセカイ系)は10年位前の文化なんですよ。オタク系文化の中でも当時既に古かったし、ドラマや一般文芸や映画の世界を広く参照すればこれらの問題により優れたアプローチを行っている作品は山ほどあるわけです。そういうものを語るような媒体があったほうがいいし、絶対面白いと思っていた。つまり当時から東浩紀的なものが仮想敵だったんですね。


荻上:テキスト系サイト文化を「仮想敵」とは思わなかったのは面白いですね。


宇野:ああ、それは全然思わなかったですね。競合すると思っていなかったんじゃないですか。彼らの目的はあくまでコミュニケーションで、コンテンツ生産でも知的探求でもなかったと思う。さびしい人同士が、仲間褒めしたり叩き合ったりしてなんとなく「つながる」ための世界がテキストサイトブログ論壇の世界でなんで、根本的に僕らとは目的が違うんですよ。別に僕らは惑星開発委員会で友達を増やそうなんて思っていないですからね。僕は興味ないけど、別にそういうコミュニケーション自体は否定しませんけどね。別にそこで他人に対するヒガミと攻撃性でつながったりしている人たちは個人的にはどうしようもないなって思いますけど、上手につながっている人もたくさんいると思うので。


惑星開発委員会」という名前は、当然光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」に登場する組織の名前からつけました。光瀬龍を読んだのは高校時代で、それから僕が何かユニットをやるときはいつもこの名前を使っていました。学生時代によくドッキリ企画とかやっていたんですが、そのときの屋号も「惑星開発委員会」ですね。ことの顛末が記録されたCD−ROMを仲間内に配布していんですが、そのCDには「惑星開発委員会」の名前が既に入っています。RPGツクールで「石原の野望」というゲームを作ったときも使いましたね(笑)。石原慎太郎西武警察をひきいて在日外国人を弾圧していて、そこに主人公達がレジスタンスとして対抗するという内容でした。もちろんネタですよ!(笑)。そのときも「惑星開発委員会」という名前でやっていましたたし。だからウェブサイトを立ち上げようと思って「名前をどうしよう」となったとき、10秒くらいで「いつもどおり惑星開発委員会でいいや」と決めちゃいました。つまり、当時僕がやっていた色んな活動のうちの一部がウェブサイトで、それが結果的に受けてしまった。それが「第一次」の惑星開発委員会なんです。だから「一次」と「二次」では、自分の中では完全にべつものになっていますね。「一次」に関しては、私立文系の暇な学生が趣味でやってるものだった。


荻上:文化系のイベサーみたいなノリですかね。


宇野:よく言われます(笑)。なんで、みんなそんなに大学サークルのノリが嫌いなんでしょうね。たぶん、うらやましいんだと思いますけど。僕は学生時代に友人とふたりで大学サークルについて研究していたんです。その名残で、例えば去年の4月頃に『SPA!』でサークル研究家として取材を受けたりしているんですけれど(笑)、実は自分では大学時代にサークルをやっていない人間だったんですね。


ちょっと時期が前後しますが、僕の高校時代の方が分かりやすいでしょう。僕は地方のミッション系高校の寮に入っていたんですけど、そこで20人くらいの大きなグループがあって、僕はそこに所属していた。他にもいくつか派閥があって、今のブログ論壇みたいに派閥争いばっかりやってるんですよね。そこに3年間いると、サークル活動を3年間やっているような感覚になるんですよ(笑)。だから大学に入ったときにはもううんざりしていたんです。高校のときは結構人間関係に対して政治的に振舞っていたりして、グループの「ナンバー2兼参謀」みたいな感じで、汚れ仕事担当のフィクサーである自分に酔っていたりもしたわけですよ(笑)。17歳童貞の考えることだから許して欲しいんですけど(笑)、相当イタい自己像に酔っていた。男子校で女子居なかったし、受験勉強も嫌だったのでそういうことにしか頭を使わないわけです。集団を維持するためライトな村八分を指揮したり、適度な外敵を設定したりしていました。それで守られた濃密な空間や、楽しい思い出もたくさんあったし、それはそれで一生の財産だと思っているんですけれど、端的に言えばこういうサークル的な人間関係が嫌になったんです。個人的にも、反省しています。だがら大学に入ったときはサークルには入らないで、自分で面白そうな人間に声をかけていくことにしたんです。割合、そういうのは得意なので。


高校のときのグループからは浪人時代から徐々に疎遠になっていきました。あと、僕が彼らのノリについていけなくなったんですよね。彼らは寮という前近代的な空間から、大学というポストモダンな環境に放り込まれると、目的のアノミー状態になってモテるくらいしか目標がなくなっていたんです。でも、男子校のちょいオタ系の人たちが、大学に入ったくらいでいきなりモテだすわけもない。だからメンバーの半分くらいがひきこもりのギャルゲーマーになっていったんです。


荻上:インドアなライフスタイルに変わったと。


宇野:それで楽しければいいんですよ。僕は当時浪人生で、親から勉強しろばっかり言われていて、一人暮らしで毎日家でゲーム三昧なんてうらやましくてしょうがなかった。でも、奴らは死んだ魚のような目でプレイしているわけですよ!


荻上:ギャルゲーは基本的に、死んだ魚のような目でやっていいものでしょう(笑)。一人ではそこまで生き生きとプレイするものじゃないですし、RPGだって淡々とレベルを上げたりと反復作業の時間が長いわけだし(笑)。


宇野:いや、本人たちが「辛い」んですよ。「お前さ、ほんとうにこういう生活でいいの?」って聞くと、5回中4回は自分に言い聞かせるように「いいんだ」と答えるんだけど、1回は「本音を言うと死にたくなる」と答えるわけです。だって、わざわざギャルゲーをやりこむような人間が女の子と付き合いたくないわけがない。悲しかったですね。寮の頃はテレビもゲームもインターネットもない環境だったけど、アイデアと積極性でいくらでも面白いことを見つけられた。でも、寮から放り出された途端、恋愛しか生きがいがなくなってしまって、それが適わないからといっていじけてしまうわけです。


結局、僕は「もう、だめだな」と思って本州の方の大学に進み、新しい友達を作ったわけです。ただ、サークルは作らないようにしました。またサークル内政治みたいなのをやるのは嫌だったんですね。だからサークルというひとつの共同体があるんじゃなくて、網状に宇野との知り合いが広がっていくような、個人のつながりを増やそうと思って動いていた。そうこうして知り合いが増えていって、そのメンバーで色々遊んだりしていたわけです。その活動の中で第一次の惑星開発委員会が企画の中の一つとしてあった。


■「東浩紀劣化コピー」と「第二次惑星開発委員会
宇野:「第二次」はそれとは違う。東浩紀さんが「波状言論」で同人でもここまで出来るんだということを見せたわけですよね。ただやっていること自体は、論壇的にはすごかったかもしれないけど、文化的には非常に保守的で遅れていて、視野も狭かった。つまり「第二次」は打倒東浩紀のために作ったメディアです。メンバーはネット上で面白い文章を書いている人に、僕が声をかけて集めました。高名なブロガーでもつまらないブログ論壇政治に加担している人は避けて、地味でもいい記事を書いている人を選びました。今「第二次」のメンバーは30数人いるんですよ。でも、打ち上げとかでしか会わないような人がたくさんいる。寂しい人間が肩を寄せ合うような共同体はあってもいいけど、惑星はそういうグループにしない方がいいだろうと思っていた。友達いない人たちの承認欲求の場にはしたくなくて、覚悟がない人には遠慮してもらったわけです。


荻上:なるほど。宇野さんのお話を簡単にまとめると、東さんが第三次アニメブームのようなものを、人文的メディア、論壇メディアが崩壊していく中で対抗軸として利用した。しかし第三次アニメブーム以降にも豊饒なサブカル文化があるにも関わらず、それがスルーされてしまい、東さんが名指した部分のみが文化であるかのように語られている場に対して…


宇野:違和感を持った。


荻上:だからこそ文化闘争のようなものを仕掛けようと試み、またその文脈を共有してくれる人に限って批評的生産のために集まってもらったのが「第二次惑星開発委員会」だと。


宇野:そうなんですよね。東さんが当時、本人は慎重なのでそういう発言はしていないけれど、結果として東さんが盛り上げた文化圏というのは既に90年代にあったものだった。もちろん僕も当時『ブギーポップ』とか好きでしたけどね。でも大学4年間を通して、2001年頃から別の文脈のサブカルチャーが出てきて支配的だったことを見ていた。それらを全部無視されていたのはどうかと思うし、それらについて語ったほうが面白いだろうと思ったんです。


荻上:重要なことだと思います。もちろんそれは東さん個人の問題というよりは、構造的な問題ですよね。東さんに限らず、ほほとんどのサブカルチャーは元々スルーされまくっていたわけです。文芸批評にもそういうノリが共有されていて、徐々に小説さえも語られなくなっていった。当時注目を集めていた文芸批評家ほど、文芸批評を断念していて、何を重要なコンテンツとして名指すかという舞台の場から、批評家が撤退しつつあった。ゲーム、サブカルケータイ小説などがコンテンツとして大規模に配信されていき、しかしそれに対して批評家がレスポンスできないという状態はまずいという問題意識が東さんの中にあったのであれば、歴史を結びつけるために遡って参照する必要もあったと思うんですよね。それは同時に、現在進行形の文化と向き合うという作業も、批評という装置には求められる。でも、いくら「ポスト批評空間」と向き合うといっても、東さん一人じゃそれは無理すぎる作業量です。だからこそ宇野さんが「補完」のために登壇した、という位置づけも可能ですよね。


宇野:もちろん東さんのことを散々批判している自分が言うのもアレですが、僕の批判って結構法外な批判で、「どこまで東浩紀という批評家一人に期待しているんだよ。当時あれだけのことをやった人間に対して、もっとやれと言うのか」という批判は成り立つと思います。その点については「おっしゃる通りです。東浩紀の達成自体については疑いようがない」と答えます。だけど、大きな達成だからこそ副作用も大きかった。これを緩和したいんですね。


荻上:宇野さんの苛立ちは、背後を含めた暗黙の「批評家群」あるいは「批評装置」への批判が前提ですよね。


宇野:もちろん。だから一人の人間が、あれだけのプロジェクトを立ち上げてやったというのはゆるぎないものだし、それはいいんです。ただ、東さんしかいなかったことが問題なんです。これは問題のある発言かもしれないけれど、ここ10年は東浩紀とその劣化コピーしかいなかった。もちろん僕ら「惑星開発委員会」は東さんのような名のある批評家ではない。ただの「善良な市民」でしかなかったけれど、その作業をみんなでやろうと。


当時の僕に力を貸してくれたのは年上の人たちなんですよね。世代で言えばオタク第二世代。彼らは東さんの持ち上げた第三世代的なるものに反発するからこそ、力を貸してくれたというのもある。でも僕は、必ずしもオタク第二世代的な感覚に対して賛意を示しているわけではなくて、むしろ激しく批判する立場なんですよね。


荻上:例えば?


宇野:『究極超人あ〜る』とか福井晴敏とかね。ああいうセンスにはかなり手厳しいことを書いています。だから現にオタク第一世代、第二世代で僕のことを嫌いな人は死ぬほどいますよね。『サイゾー』に載せたオタク論壇マップは、端的に言えば東浩紀批判なんですが、あの記事でで怒ったのはむしろマップの注釈で100字くらい書かれただけの第一・第二世代の御用ライターたちです。でも僕の東浩紀セカイ系批判と言うのは、「ガンダムからエヴァンゲリオンを否定する」という、オタク第二世代から第三世代を批判する、というものではない。当時オタク第二世代のエヴァに対する反発は、「ガンダムみたいに社会をしっかり描いていない」という叩き方だった。


僕もガンダムが好きだからその気持ちは分かるし、正しい面も多々あると思うし、自分でも取り入れています。でも、この批判というのは、エヴァ側からすれば「その批判は正しいのだけど、折込済み」という態度が取れてしまう。時代が変わり、ガンダム的なものが通用しなくなったからこそエヴァ的なものが出てきたんだ、といえるんです。だからそうではなくて、僕はもっと後ろから、つまりゼロ年代の現在から、90年代的な文化こそが今のリアルだと語るのはおかしいんじゃないかという、「現在からのセカイ系批判」を行っているわけです。東浩紀劣化コピー達は、地頭が悪いのと、セカイ系で歴史を終わりにしたいという欲望のために、セカイ系批判に接すると全部「80年代的」「オタク第二世代的」と無理矢理解釈しようとして自爆するわけです。


オタク第二世代と僕の関係についてですが、僕は福井晴敏とか『仮面ライダー響鬼』とか、『究極超人あ〜る』とかに対して、つまり彼らが好きだったものに対して批判的だったにも関わらず、それが柔軟な姿勢をとって力を貸してくれる人たちもいたわけです。どんなノスタルジーも相対化しながらきちんと語るべきだという問題意識をもっている人たちがいて、彼らが自分たちの思い出を大切に保存することではなく、より新しい可能性を切り開く意味での東さんへの対抗という目的に力を貸してくれた。だから、僕自身は東さん以上に第二世代に厳しい人間ですね。やっぱり東さんは『うる星やつら』とか『究極超人あ〜る』とか好きですからね。ラムちゃんの絵も上手だし(笑)。


■「セカイ系」という終焉?
荻上:なるほど。問題意識はよくわかりました。僕もあまりちゃんとフォローできてないかもしれませんが、宇野さんの文章はディケイド主義というか、想像力のムーブメントが次々に変わり、セカイ系の次は決断主義で、その次はこれであるというような、評価されるべき時代状況の枠組みを提供しているという形で読まれている。もちろんそう読まれるようにも書かれているし。でも今の話は単にそういうものではない。そもそも「セカイ系」という言葉を用いている文化圏というか価値観そのものが、「物語からの撤退」という前提のもとに写るリアリティだという指摘がされたということは、同時に歴史を語る視線自体も問われているわけです。例えばセカイ系などについての議論は、「かつてはこうだったけれどそうではなくなった」という喪失のロジックで語っている。最初の黒沢清の話もそうですが、旧来のパースペクティブを温存した上で、セカイ系という「終着点」を見出しているという語られ方ですね。その語り方自体に違和感を唱えるという方向があるということです。


宇野:ありますね。というかそれは、全共闘の頃からといっていいのか分からないですが、物語が終わったという話はずっと出ているわけですよね。セカイ系もそのバリエーションの一つに過ぎない。つまり脱物語という物語が再生産されているだけで、みんなが「あえてベタに」とか言っている。これは東浩紀さん好きなオタク第三世代以外の人であれば割と納得してくれるのではないか。


荻上:例えば若者文化に対しても、「喪失感」によって意味づけをしているけれど、実際のユースカルチャーには別の評価体系があって、喪失感との距離感でコンテンツと戯れているわけではない。そういう説明を好む文化系の人がいるのは事実だけど。


宇野:セカイ系の話にしてしまえば、後期近代の物語は全部セカイ系という話になってしまう。つまり世の中には「広義のセカイ系」と「狭義のセカイ系」があって、広義の方に関しては、ポストモダン状況を前提にしたすべての文学がそうだということになる。それはほぼ意味がない言葉だし、それならセカイ系という言葉を使うべきではない。それなら『恋空』だって『デスノート』だって、僕の分類では決断主義だったりポスト決断主義だったりするのに、全部セカイ系ですよ。それは無意味です。


僕が批判的に検証している狭義のセカイ系は97、8年ごろからのトレンドでそれは物語が終わったという喪失感を前提としたオタク的レイプファンタジーで語られる作品群ですよね。東さんが「狭義のセカイ系は宇野によって相対化されたけど広義のセカイ系問題は残っている」と言っているけれど、それならセカイ系という言葉を使うべきじゃないですよ。それに、数十年前からあった問題について、狭義のセカイ系が何か特別なアプローチをしていたわけでもないですからね。まだそこで、本質的なアプローチが狭義のセカイ系によって行われていたというのであれば意味があるのでしょうけれど、そうではない。島宇宙化した一部の論壇のコンプレックスによって過剰に評価されたということがあるだけです。ここについては「ゼロ年代の想像力」本編をぜひ読んでください。必ず本編にあたってくださいね、ネット論壇では書いていないことを書いてあることにされているので(笑)。


僕はこうやって、狭義のセカイ系が過大評価された状況を指して決断主義的なものと呼んでいるんです。島宇宙化によって自分が信じたいものを、広い世界を見ずにかんたんに信じられる状況になっている。「新しい教科書をつくる会」に対して、「南京事件は常識で考えればあったでしょ」と言っても意味がない。彼らは信じたいだけなので、事実なんて本音ではどうでもいいんですから。逆に言うと、「つくる会」は「物語が必要」と言ってしまってるんだから。


誰もが、自分達のトライブこそ、「あえてベタに」色々織り込み済みで、だからこそ本質的なものにたどり着けると思っている。セカイ系、昭和ノスタルジーブーム、カルスタ左翼、つくる会、みんなそう持っている。そういう思い込みがローカルな求心力を持つ世の中を、僕は決断主義的なバトルロワイヤル状況と呼んでいるんですね。僕の問題意識はむしろそこにある。


波状言論」で東さんと北田暁大さんが、後期宮台さんを「ベタにあえて」やっていると批判しています。今重要なのは宮台的に「ベタにあえて」やるのではなく、「あえてベタに」やることだと。でも、僕はそれは違うんじゃいかなと思った。北田さんは良い意味で試行錯誤を恐れない人だから、揚げ足取り的な発言をしようと思えばできてしまうため「立ち位置系」と揶揄されたりしているけど、それは誠実さの表れだと僕は思っています。でも、今問題なのは北田さんがここで言ったような「あえてベタに」が乱立してしまっている状況だと思う。それが島宇宙化の本質ですよね。そういうことを前提に物を考えている人も、そういう状況を描いている作品もたくさんある。ゼロ年代の想像力っていうのはむしろそこにあると思うんです。


宮崎哲弥さんが80年代半ばに中森明菜の『DESIRE』を聞いてニーチェ主義的な意味でのポストモダン状況が現れたと思った、みたいなことを語っていましたけど、そういうことがゼロ年代に起こっていて、そういう作家達こそ論じられるべきだろうと。そのために「第二次」で力を入れてやったのは、リバイバルブームがきていた『Zガンダム』を、本当はつまらないんだけれど批評の力でむりやり面白く読むということ。もう一つは『野ブタ。をプロデュース』のドラマのリアルタイム批評。この2つを同じサイトで並べたかった。自分はアニメなんてキモイものをみないというトライブの人もいるし、逆にジャニーズドラマなんて軽薄なものは知的な自分はみないという人もいる。でもそれはまずいと思っていたので、両方を紹介したかった。


荻上:『ダ・ヴィンチ』の2008年2月号「ゼロ年代の今、だからこそすごい古典に学べ!座談会」(川上美映子×宇野常寛×江南亜美子×吉田大助)での宇野さんの発言などと照らし合わせても、一貫して教養の必要性を宇野さんは訴えているように見えます。セカイ系が自己肯定のロジックになっており、仮にセカイ系を生み出した状況を批判しようとしても、それを塗り替える状況というのは訪れがたいのだとすれば、そのように小さな世界を横断するようなモデルが「新しい知識人」だということでしょうか。例えばニューアカの人はアカデミズムを知った上で批判していたのだけれど、そこには戦略としての「反省」と構築があった。しかしその文脈が失われ、批判言説の表層のみが走ってしまう状況を受け、彼らは『必読書150』などを出した。もちろんそうしたものを無視して、宇野さんがトライブというタームを出して批判したように、限定された枠組みを「最新の感性」と呼べば、歴史を知らないでも過去を一蹴する態度をいくらでも生めるわけです。今もそう。しかし、それへの批判も含めて凡庸な反復にもなってしまう。そこで「古典主義」でもなければ最先端のものを追い続ける「革新主義」でもない、ツールとしての「教養」を重要だと捉えているのは興味深いと思う。


島宇宙化問題と批評
宇野:チキさんも書いてましたけど、人は最終的にはどこかのトライブに入らざるを得ないんですよね。正確には、何かの立場からでないと発言できない。それは避けられない。だから、本当は当たり前のことなんですが、柔軟性の問題でしかないですよね。でも、その問題は提起的に喚起しておいていいと思う。突っ込まれたとしても。


荻上:なるほど。ちょっと身の上話をしますが、僕が「成城トランスカレッジ!」という名前でサイトを始めたとき、まぁサイト名からも分かるように、大学同時、学問同士が島宇宙化した状況を、ブログでなんとかしてくれるんじゃないかという希望を抱いたりしてたんですよね。成城大学って、ご存知の通り他の大学からちょっと離れているところにある。小田急線で急行で新宿から15分ほど、山の手圏の大学から離れていたし、井の頭線沿いの大学からも孤立していた感が強かった。もちろん東京にある時点で他の地域に比べればマシでしょうが、当時はそんなこと考えもしなかった。一方で成城大学には、2000年代に入ってもぎりぎりポストモダニズムの残り香があった。成城大学ってたまたま、冨山太佳夫さん、石原千秋さん、兵藤裕己さん、小森陽一さんなどの文学系の研究者がやたら揃っていた。でも残り香があったはいいけれど、僕が入学した頃にはまさにそれが消え行く時期だったんです。理由は単純で、面白い先生ほど他の大学に移っていった。指導教官である石原先生も、僕の卒業と同じ時期に成城を出たので、急遽大学院を変更せざるを得なかったし。『批評空間』とか読めたり、近畿大学コミュニティカレッジに通ったりしたのもそういう環境があったからなので、ちょっと残念だった。


そういう理由、というかリアリティが当時あって、自分は学際的なものに惹かれていたりしたんですが、そこにインターネットというツールがあったので、自分にはトライブを打破するツールとして魅力的に見えた。もちろん、色々やってみた結果、そう簡単に越境なんて出来ないってことに気付かされる。2004年時点で既に「ブログ元年」的なリアリティはあっという間に失われたし、それでもなお対話をしようと試みたり信念をインストールしたり、あるいは逆に自分の信じている世界を肯定して周囲を啓発しようとすること、つまり政治的なまとめサイトをがんがん作ったり反論を延々としてみたりするようなこと、そのどちらにも興味がわかなかった。それだけじゃダメだという感じがあった。


宇野:それはとてもよく分かる話ですよ。


荻上:つまりどうしてもその問題にぶつかってしまう。トライブの閉塞状況に対すトライ&エラー自体への断念が生まれる。もちろん、単に自分が「政治」がもともとそれほど好きではなかったというのもありますが、だからこそその問題を今でも抱えている。これはガチで悩んでますよ(笑)。


宇野:そこは結構言いたいことがあります。僕はトライブへの閉塞状況を批判し、柔軟に振舞うことを推奨しますが、それは一般論として共有したほうがいいと思っている。そうすると、返ってくる批判にはパターンがあって、「越境とは幻想だ。タコツボは内破するしかない」というお決まりの、加藤典洋みたいな反論ですね。それはそれで正しいのかもしれないけど、僕が言いたいのは「タコツボは内破するしかない」と答えるヤツは、その言葉を使って思考停止している。僕は当時の吉本派を相応に評価しているけど、それでもこういった思考停止があった側面ははずせない。それは明らかに結論ありきの過剰な先制防御ですよ。もっとも思考停止が起こりやすい態度なんですね。だから皮肉な話だけど、少し前の鎌田哲哉周辺みたいに、誰も読まなかったとしても、セクト化しても、100点取れるものを自分が信じていて知的に真摯に向き合えばいいんだという態度も信用できない。


荻上:でも、僕も彼らのそういう言説は尊敬してる。例えば文学などは崇高なもので、エンターテインメント的な美とは違うんだ。たとえ売れなかったとしても、決定的な一行との遭遇によって瞬間的に人の人生の価値を書き変えてしまうような衝突を用意してしまうことが文学にはあり、その力を分析し賭けるという言説。そのストイックさは、オタク気質ではない自分にはまったくないものなので、表には出さないですけどやっぱりこっそり読んでいる(笑)。


宇野:いや、そうやって心で思っている分にはいいんですよ。ただ、自分のタコツボが閉塞していると指摘されてね、それを言い訳にしちゃだめなんです。自己肯定にしてはいけない。これを読んでいる人に強く言いたいとのは、閉塞批判への反論は、「内破」云々という自己肯定のための言葉ではなく、結果を残すことでしかできないということなんですよ。逆にそれ以外に反論方法は無い。だから僕だって、「おまえら閉塞している」と言うだけで鬼の首を取ったようなつもりには全然なっていないし、「お前らと違って僕は開いている」なんて言っているつもりもない。


僕がこんなことを言っていると、僕への批判があたっていたら数十年後に恥をかくのは僕ですよ。それは分かっています。それでも「崇高な祈り」的に自己肯定することは批判します。そういうことを言う人こそ、実はその言葉を信じていないと思いますからね。ここではっきりいいますけど、こういう「祈り」「内破」という一見ロマンチックなイイワケをする人間は、間違いなくつまんないやつだと思う。それって、ブログのプロフィール欄がやたら長くて、更新するたびに「自分はこういう態度で世界を観察している」みたいな立ち位置の話ばかりが書かれていて、具体的な分析も主張も何も無いブログって、はてなを中心に死ぬほどあるわけじゃないですか。そういったものは全部クズですけど、それと変わらない。柄谷さんとかNAM周辺のだめな人が、ネット初期のダメな人に重なるのは、そういう部分ですよね。


荻上:自己言及がやたら多くなったというのはあるでしょうね。「祈り」もそのうちの一つだというのは確かにそう。一方で、宮台さん以降、「祈り」を徹底して相対化する動きもあったわけですよね。僕も、批評家というのはそういう問題と向き合うべきだと考えます。でも一般にまでそれを求めたりはもちろんしないんですが、宇野さんはどうですか?


宇野:僕の批判は、ある程度は実は受け手ではなくて作り手に対するメッセージなんです。もしくは、これから作り手を目指す人、メディアの送り手に回る人。批評でも実作でもいいですよ。でも今は、誰もが送り手になれるわけだから、今は普遍的なメッセージとして機能するだろうという気がする。別にアニメばっかり観ていたり、ドラマばっかり観ていたりする人を批判するわけじゃないですよ、仕事が忙しい人も居るし、僕がとやかく言うことではない。「スイーツ(笑)は敵」とか言い出すのがダメで、トライブ意識があっても他人を攻撃しなければそれでいいと思いますよ。


荻上:読者文化圏ではなく、語り手側の文化について語っていると。


宇野:ある作り方をしてしまっていることによって、特定の欲望を持たない人には届かない。そういうことって島宇宙化している現在では起こりがちなことで、それは両義的な評価が必要なのかと。30代男性のために作ったものです、評価を受けようと思っていませんというのであれば、はいそうですかと言うだけ。でも、どんな自己慰撫的な作品でも、「世紀の大傑作」的な語りはどのトライブでも必ず生じるじゃないですか。それに対しては厳しく接したい。あるいは、もし「世紀の大傑作」というのなら、その欲望を共有していない人間にも面白く読めるような読み方を教えてくれと。もしそれで面白さが分かればそれでハッピーだし、それが批評の役割でもあるわけでしょう。


荻上:今の話では、批評コードを共有して消費していくという作法とは別に、批評というものに対する結構な期待があるみたいですよね。前者への批判は分かったので、後者への役割意識などを聞いてみたいんですが。


宇野:すみません、もう少し詳しく。


荻上:つまり、例えばセカイ系でも決断主義でもいいですが、その価値の座標軸を共有しさえすれば色々なアニメをマッピングできてクリアになるわけです。東さんを読んで、「そっか、今はセカイ系がリアルだよね。古典ってアクチュアルじゃないよね!」みたいな事を思ったり、「恋空(笑)」といいながら「CLANNADはガチ!」と主張できる。そういう態度とは別に、そもそも価値の座標軸そのもの、マッピングされた世界観そのものを問うような大きな期待が、「批評」に対してあるように聞こえたんですね、宇野さんの中で。


宇野:やっぱりいい意味で霍乱するっていうことでしょうか。僕は島宇宙化自体は悪いことだと思わない。島宇宙化のおかげで住みやすくもなっている。でも、今の時代をより面白くしゃぶりつくすために、島宇宙化時代を快適に過ごすための、批評的なものが若干の霍乱装置として、それを必要とする人のためにあったほうがいいとは思っています。僕はファスト風土批判って好きじゃなくて、ジャスコが完成された方がいいと思っている。完成されたジャスコってかなり多様性があり、流動性がある。Amazonのリコメンド機能は誤配がなくなるとよくいわれるけど、完成されたジャスコは誤配の機能も果たす。


荻上:偶発性も設計する。


宇野:その設計を担うのが今の批評の役割だと思っています。


■テーマ批評の限界
荻上:その認識は同意です。というか、今はそこにしか役割を見出しがたいという状況もありますが。


宇野:『PLANETS』はそれを意図的にやっています。例えば鹿島田真希のロングインタビューを読みたくて買った人間は、たぶん、あまりジャニーズのドラマは観ていない。そこに木皿泉のインタビューが載っていて、オタク文化特集が載っている。つまらないことに思えるかもしれないですが、半年単位で出す雑誌としては結構いい戦術だと思う。


荻上:僕も「成城トラカレ」時代は、わざと一般受けするネタと人文的なネタを混ぜたり、テキスト系サイトっぽいエントリも書いてみたりしてましたっけ。当時はそれでも結構効果があったんですけどね。


宇野:つまんない文句として、クドカンゼロ年代として置いた時、ジャニーズドラマを肯定してクラスの真ん中文化を肯定して俺達下層クラスを抑圧するんだというような、本当にどうしようもない反応がたくさんあった。鹿島田真希飛浩隆のロングインタビューを身銭を切って歴史に残している人間に、よくぞそこまで言えるなと(笑)。でも逆にそれくらいトライブ問題って大きいところなんです。あいつはクドカンっていう「敵」を評価しているというだけで、その他の仕事とかは忘却の彼方にいってしまう。「ゼロ年代の想像力」では、連載序盤で「連載中にはよしながふみ作品も取り上げる」って宣言しただけで、「急性よしながふみ症候群」とか書かれたりしました(笑)。具体的にはまだ何も論じていないのに(笑)。「取り上げること自体がけしからん」ってことなんでしょうね。最近だと、ニート論壇の一部からチキさんとか鈴木謙介さんとかが受けている批判とかも近いところがあると思います。敵か味方かというリトマス試験紙のような態度表明を迫られて、ちょっとでも一致しないところがあると「敵」認定されてしまう。これでは批評も考察も存在し得ないですよ。


荻上:確かにサブカル界隈だけでなく、どのジャンルもテーマ批評的になってしまっている。特定のミニマルなリトマス紙を用いてしまい、評価の文脈が複数あることの複雑性とは向き合わない。これは色んな分野から聞かれることではありますね。


宇野:「喧嘩両成敗的な人間は日和見主義でよくない」みたいな稚拙なレベルでの反応ですね。


荻上:テーマ主義批評と言うのはカウンターにはいいんですが、議題設計には向かないので、いずれ「下の世代」への責任問題などにぶつかります。どうしても一回性のものだし、反復されるほど力を失ってしまう。蓮実さんのような人が映画や文学に対してやると効果的ですが、世代的言説や統計を用いた弱者闘争みたいな「運動」に対して長期間は続かない。テーマが島宇宙化している状況なので、余計にトライブを越えていかない。


宇野:読者に誤解して欲しくないので再度言っておくと、僕は島宇宙化そのものを批判しているわけではない。郊外化でも後期近代でもなんでもいいけれど、それは良い悪いではなく、否応なしの変化なんです。


荻上:そう。それはインターネットについての言説も同様ですね。インターネットが私たちを変えたというよりは、私たちはそもそも繋がりのコミュニケーションを叶えてくれるツールを求めてしまう状況に置かれていたので、そこに欲望していたケータイやインターネットが現れた。その変化を単純に否定することは出来ない。


宇野:だからよりジャスコをしゃぶりつくすために、あるいは郊外化の弊害を軽減するために柔軟性を持とうと言っているわけなんですね。その成立条件も含めて考えていきたい。


荻上:それは、後期の宮台真司へのシンパシーとも重なりますか? 彼はそこで、賢い設計というのを持ち出しますよね。


宇野:後期宮台さんへの評価は若手の中ではかなり高いほうだと思いますよ。変な言いかたですけど、ある種のダブルスタンダード的なモチーフには共感します。例えば東さんは棲み分けでいいと言ってしまう。逆に大塚英志はまだ近代は終わっていないのだから、無理やりにでも物語を作る必要があるという。宮台さんはその中間で、セカイ系になるのはしょうがないが、それをうまくまわすために工夫していこうと思っている。そういう発想が好きですね。


荻上:二枚腰、三枚腰を取るという態度。


宇野:大塚さんも東さんも、ゼロかイチなんですね。でも、宮台さんは割りとファジーなんですよ。だからこそ批判もされますが。


荻上:しかも一面のみから批判するのは「効果」を発揮しがたいし、「効果」を発揮したとしても副作用を気にする必要もある。では、リベラル若手論者がぶつかる「設計主義にいくのもどうなのよ」という逡巡についてはどうでしょう?


宇野:いや、ある程度は設計主義でしょうがないと思う。物理的な制約として、国家が必要になる場合がどうしてもある。だから国家の操縦というテーマが一つの基準になるという宮台さんの意見は正しい。国家というか法システムですが、そういう役割はむしろ強化されている。東さんもそれはよく分かっていて、この問題についてはやっぱり社会設計的な方向で考えている。だから僕は、後期宮台オーケー、後期東オーケーな、僕の世代では珍しい考えの持ち主なんです。『ギートステイト』も面白かったし、『幸福論』と問題設定も共有されていた。未だに棲み分けがいい悪いで議論をしていても意味が無いので、そっちが結構本質的な問題になってると思います。今なんで彼らが権力論をやっているかと言うと、そういう棲み分けを前提として考えるからこそ、実も蓋もない下部構造の問題が明らかになっているという状況があるからです。


荻上:そう、メンテナンスの問題になりましたね。「ポストモダンの二層構造」のような議論で分かるように、文学的なポストモダン論というものが市場や権力の位相に対して通用しないような空間が現れている。フィルタリングの議論とかも例の一つですが。


宇野:ええ。だから、「ゼロ年代の想像力」がなんで5年、10年の変化の話をしているのかというと、この5年10年で激しく世の中が移り変わっているのは間違いないのだけど、その一方でセクシュアリティとか暴力性の問題とか、変わらないものも逆にある。表面上物事が圧倒的なスピードで変わっているからこそ、その根底には変わらない普遍的な問題があるということを暴きたい。だから最初に「ニーバー祈り」を引用したんです。


ケータイ小説とプロットの過剰
荻上:今日は色々な話が引き出せて面白いですね。例えば宇野さん的な作品分析には、僕は当然多くの異論がある。先日コミケの後にご一緒した際にもその話題になりましたが、要するに文学理論などを知っていると、「それ方法論的にどうなのよ」と思ってしまう部分が出るという話です。しかし宇野さんは、そういう方法論が通用しないということを前提にしているからこそ、徒手空拳でぶつかっていくんだという態度を取っている。


今日は是非、宇野さんに、ケータイ小説について聞いてみようと思ったんです。それはなぜかと言うと、ケータイ小説というもの対して文学理論というのは今のところ手を出せていない。いや、手は出せるんですが、意味がない。東さんがやっているように構造分析を使って物語内の運動を抽出したり、受容理論フェミニズムを用いて評価することも出来る。ところが、それらの分析作業は当然ながら価値評価には繋がらないし、最終的には理論を知っている文芸評論家ほどケータイ小説を肯定しないでしょう。理論は解釈には向くが評価には向きませんから、あとは別の能力が必要になる。つまり、理論を使って語るという場が、ケータイ小説に対して意味を持たない。単純に、そんな批評を誰が読むんだという問題もある(笑)。


これまで文学というのは、風景や内面を描くこと、その描写の妙をどう評価するかという点に、文学コードを設定し続けてきた経緯がある。それは、例えば大衆映画のようなストーリーやスペクタクルの力ではなく、細部の描写の発見によって作品を評価するということをやってきたわけですよね。教養を元に、政治や文化などを読み解いていくコミュニケーションの場として文学があった。これって、「DQN」は入ってくるなっていう態度です。ト書きの前近代的な読み物ではなく、黙読によって風景や内面を獲得することで近代人になれという「言文一致体」の小説には、そのような意味づけがあった。


ところが、ご存知の通りケータイ小説の多くには描写が一切ない。その代わりに、文字通りの「空白」がある。改行で作られた「空白」は、ケータイというデバイスでの読みやすさを考慮したものでありつつ、最低限の「展開」を書き記し、あとは空白にすることで、読者がそこに色々なネタを代入していくことである種のコミュニケーション空間を成立させている。それを、いわゆる文学コードを共有しない「DQN」とされた人たちがこぞって読んでいるとき、彼らに語るべき言葉みたいなものは用意していない。こういう状況を受けると、既存のコードだけで否定すること自体が滑稽にしか見えなくなってしまうわけ。そうなると、「ケータイ小説を人はこう捉えていて、文学は相対化されたよね」という社会学的な語りばかりが優位に立つ。


それを受けて、強引に文学コードをアップデートするのではなく、かといって単に上の世代へのカウンターとしてケータイ小説を褒めたりするのではないような、別の作業が必要になる。それは、理論と言語の創発です。宇野さんの仕事に対しても、実は僕は同じような文脈で受け止めているんです。宇野さんが「ゼロ年代の想像力」で行っているような議論というのは、単に世代によって見方が変わって、もうこういう見方は若者にとっては古い、という話だけではないんですよね。もちろんそうも機能しているけれど、そこで評価してもつまらないし意味がない。だから一連の議論を、批評機能の構造転換を受けて言葉の力をどう組み替えていくのかという試行錯誤の作業として観察してみたいと思っている。というわけでケータイ小説について聞きたいんですね。


宇野:ケータイ小説については僕もちょっとチキさんと話したかったんですけど、今回の『PLANETS vol.4』にも少しだけ書いているんですが、例えばライトノベルというのも文体はない。変わりにキャラクターが肥大しているわけです。ケータイ小説の場合は、肥大している要素はプロットなんです。


荻上:うん。まったく同じことを考えていました。プロットの過剰さですね。


宇野:逆に言えば、プロットしかない。ちょっと遠回りな話になりますが、オタクの人がなぜ空気が読めないかというと、東さんとか伊藤剛さんの話って究極的にはキャラクター理論なんですよ。キャラクターというのは設定がすべてで、「○○した」ではなく、「○○である」がすべて。トラウマを負っていて、何が好きで、どういう喋り方をしてと。そしてキャラクターというのはどんな物語に登場しても丹下左膳丹下左膳ハルヒハルヒとして揺るがないんです。ところが実際の人間のコミュニケーションって、例えばキレンジャーはデブで陽気な人間がなりやすいというイメージが世間一般にありますが、デブで陽気な5人だけ、例えば伊集院光、内山君、ホンジャマカ石塚、松村邦弘くんとかの中に新しくデブで陽気なキャラを入れたら、誰が黄色になるかはわからないわけです。あるグループにいけば、クールで知的な青レンジャーかもしれない、あるグループにいけばリーダー気質の赤レンジャーになるかもしれない。これが実際のコミュニケーションなんです。僕は引越しが多かったので、実感していることですが。


荻上:進学したり、会社員になったりしても、実感することですね。


宇野:でもこれって超常識で、いまさらいうようなことでもないですよね。でもオタクをオタクをたらしめている部分ってここだと僕は考えている。つまりオタクは、キャラクターが物語から独立して存在するということを、この3次元の世界でも信じている人たちなんです。だから彼らが浮くのは、自分の中で出来ているキャラクターを、あらゆる場面で通用させようとするから浮いてしまう。


荻上:「真理」を信じている思想家や運動家にも当てはまりそうな話ですが、確かにギャルゲーって、例えばキャラクターだけでなく、ふとした描写に突如として「普遍」的な神や共同無意識、純愛のようなものが登場したりするからね。


宇野:ケータイ小説って、逆に言えばキャラクターが存在し得ない空間なんです。


荻上:キャラクターのデータベースの代わりに、プロットのデータベースがある。オタク文化ケータイ小説、そのある種の反応構造は近いものを感じているのだけれど、引き出されるものは大きく異なるのが面白い。


宇野:双子にして正反対という関係。その両者は、普遍的なものの置き方は異なっている。ケータイ小説は人間の外側にあり、ライトノベルは人間のキャラクターにあると。で、今の時代にケータイ小説が強くなるのはしごく当然のことで、島宇宙化時代には、キャラクターというのは棲み分け易いけれど通りづらい。


荻上:“カリスマ”もそう。


宇野:それは、さっきの『虐殺器官』と『ライフ』の話でもそうです。『虐殺器官』は問題を人間の「中」に、『ライフ』は人間の「間」にあると考えた。この島宇宙化時代をマクロに捉えると、強いのは後者だろうと思う。だから『恋空』も、あざといけれどいい話だとは思いました。


荻上:『恋空』は確かに、今語られているケータイ小説の代表として当てはまる。『DeepLove』はまた違っていますけど。


宇野:『DeepLove』はケータイ小説と言うより、当時は珍しかったDQN向け小説ということでいいと思う。でも『恋空』になると、ケータイ小説というジャンルといっていいものが形になりつつあると思う。


荻上:『DeepLove』にももちろん萌芽があるし、モバゲーでの連載小説を見てると、『恋空』以降の流れと言うのも意識されつつありますね。作品によっては微妙にキャラクター文化の力がちりばめられてたりもしていて、面白い流れだと思う。さっきのオタク分析ですが、多くのギャルゲーでは純愛や崇高な自然というものが描かれやすい。そして同時に、父が不在ですね。父が出てくる作品もありますが、そうではなくて、彼女のトラウマを何かで埋めようとしたときに、自らの小さな抱擁で埋められるという設定がされている。


宇野:男根でしょ(笑)。自分がこのセカイで面白さが見つけられないけど、傷ついた女の子なら自分でも慰められるというレイプファンタジーです。


荻上:それは、東さんのように『AIR』を「萌えの一歩手前」と評価しても変わらないわけです。


宇野:「一歩手前」どころか、むしろ再強化しているというのが僕の批判です。


荻上:『AIR』をプレイしたとしても、実際にキャラクター所有の断念はないわけですからね。あれだけ大量の同人誌があるわけですし(笑)。一方で、『恋空』などは象徴的ですが、「このプロット、いるのか?」というようなくだりが多くある。歯医者がストーカー化するシーンとかはね。優との絆を描くため、あるいは「実話」を演出するためだったら、省略しようと思えば出来るプロットはある。でもそうはしていない。


宇野:キャラクターの過剰か、プロットの過剰かの違いですよね。キャラクターをプロットに置き換えるだけで、ケータイ小説の大体は説明できるし、そこに結構本質的な問題もあるというのが僕の見方ですね。


荻上:そしてどちらにも「崇高なもの」が突如登場するんですね。『恋空』であれば、「みんなの幸せ」とか。その一致も面白い。


宇野:キャラクター小説はオタク的なレイプファンタジーへ、ケータイ小説はKY的な暴力へつながっていく。当然、比喩ですけどね。


■複数の「リアリズム」
荻上岡田有花『ネットで人生、変わりましたか?』で、インタビューをされていたギャル社長こと藤田志穂さんが「ギャル=オタク」説を唱えていました。「ぶっちゃけギャルもオタク。好きなことしかやらない」「オタクもギャルも、お互いに対して同じことを思ってる。臭そうとか汚いとか気持ち悪いとか」と。僕も同じような意見を持っていて、それは『げんしけん』の笹原妹の役割なんかでも描かれていましたよね。ギャルとオタクの問題は、それこそ90年代からもテーマになってますけど、しかし何を「汚い」と思うか、つまり何を悪く、何を善と評価するかの置き所が違う。この対比に、都市論=トライブ論的な面白さはあると思う。


でも、ゲーム的リアリズムとしてのキャラクター的データベース群の想像力と、ケータイ的リアリズムとしてのプロット的データベース群の想像力を対比して、後者を賛美するというような態度は取れないと思うし、取ったとしてもトライブ闘争にしかならない。だから濱野さんとか東さんの分析がどこに着地するのか、気になってますね。


宇野:まあ、ああいう細かい努力が結果として柔軟性を担保していくとは思うので、いいと思ってますけど(笑)。


荻上:世代闘争に利用されて終わり、というのが最悪のパターンでしょ。


宇野:僕がいまさら非難囂々の社会反映論をかたくなにとっている理由は、オーソドックスな社会反映論を使うことによって、そういう利用を避けようということなんです。


荻上自然主義についてはどう思いますか? 『ゲーム的リアリズムの誕生』についてでもいいですが。


宇野:あれだけ東さんを批判している割に、その議論だけは僕は本質的だと思ったことが実はないんです。自己実現や承認欲求のベースをどこに求めているのかという違いでしかないと思っている。


荻上:しかし例えば、自然主義的な描写のスタイルは、その文体によって国民国家の形成や、逆に権力性の批判として機能したという議論がある。だから公共圏について語る際、文学をどう位置づけるかという議論がひとつの役目をもっていたわけですよね。その歴史を前提にしすぎてそれが失効してしまったという議論や、あるいはそれらをフラットにして、自然主義、キャラクター、ケータイ、それぞれのリアリティのどれを取るかという問題だという議論にしてしまうと、意味が無いのではないかと思う。


宇野:そこはまさに同じ感じで、そこをトライブ関係として捉えてしまうとまずいと思う。似たようなものをキャラクター準拠かプロット準拠で捉えるか、そのモデルを考えたほうがいいと思う。『ゲーム的リアリズムの誕生』も、自然主義ゲーム的リアリズムを対比させているわけではない。


荻上:でも、延長上に置いているという批判はあるんですよね?


宇野:確かにそう捉えている。だから、読者を馬鹿にするような発言は良くないのですが、大抵の人は「どっちがいい」という話を聞きたいと思うんですけど、そういう話をしたら負けかなと思っています。


荻上:もちろん、そういうムーブメントを名指しながら、方向性を変えていくというのも批評家の役割だとは思いますよ。


宇野:それはまさに、僕が今セカイ系を批判しながらやっていることですね。で、リアリズムについて言えば、例えば野球を観察するとき、配球について注目するか、選手について注目するか、スコアボードに注目するかで見方は変わるけれど、そういう違いしかないと思うんですよ。


荻上:でも、それを「観察する言葉の違い」に留めない議論にしたいです。


宇野:そのときには、「リアリズム」という言葉を使うことがどこまで妥当なのかは疑問です。リアリズムという言葉を使うと混乱するんじゃないだろうか。


荻上:リアリズムという言葉によって、近代の合理性をいかに形成し、それを観察するかという歴史について語れるとは思いますよ。ただ、それは日本語的な意味での「リアリティ」と混同されがちだというのは確かですね。


■「世代論」を超える「世代論」
荻上:ちょっと話が各論にいったので、本題に戻しましょう。宇野さんの問題意識は、今回の話で整理される読者の方も多いと思います。つまり、宇野常寛さんという人の議論が、東さんに対してサブカルマッピングの細部をめぐって異論を唱えている人、あるいは「世代」を道具に読者の奪い合いをしているというような評価もあるでしょう。でも、それとは違うような文脈に回収できる議論の可能性を多く含んでおり、今後もその動きには注目される必要があると思わされる。


そのうえで、宇野さんがどこに向けて球を投げようとしているのか、改めて聞いてみたい。球を投げるからには、やはり批評家はそれなりの期待をしていて、その先に何かしらの世界像があるわけですよね。そしてその世界像との距離感を持って、批評家の活動は検証されるでしょう。リベラリズムを掲げている人なら、寛容な社会を作るために多様な自由の調整を試みるが、仮にその言説の具体的帰結が「リベラリスト以外の他者に非寛容」であるなら批判されうる。生活感覚の保守を掲げている人が、デマを用いて特定の対象の排斥を促した結果、生活感覚を崩壊させるのであれば批判されうる。その手の批判からメタに脱することが出来る人なんて、この世に一人もいません。僕だって、宇野さんだって。


宇野さんは先ほど、自分が事後的に評価されることを意識しつつ、それでも球を投げるということをおっしゃった。立派だと思う。特に、誰に対してでも恣意的に、延々と絡むことができる現状ではなおさらです。では、その先の光景は何なのか、その投球に対していかに動機付けを行っているのか。


宇野:さっきも言ったように、僕が想定しているのは住み良いジャスコ。有る程度流動性があり、試行錯誤のベースも再生産されていくモデル。僕が興味有るのは、再設計や試行錯誤の可能性が残りながらもそこそこの安定度があるモデル。完成モデルを考えるよりは、持続的にメンテナンスが出来る状況を作るということ。


それはミクロに言えば、東浩紀の求心力が強すぎて、批評的に物を考えようとする人間が東カラーに染まりすぎていて、サブカル批評としては非常におそまつな場ができてしまった。国内の代表的なサブカルチャーをことごとく無視してしまうという恐ろしいことになっているので、状況論として変えていかないといけないと思っている。でもそれは目的ではない。僕もかなり無理をしてこれをやっているんですよね。でも定期的にそういうメンテナンスができるような言論空間が出来ないかと思っています。


『PLANETS』をやっているのは、同人誌でそれが出来るんだということを言いたいわけです。「波状言論」は、東さんだから出来たんだと皆思っているわけです。でもそうじゃなくて、普通の大学生、会社員、無名の書き手でもこれくらいのメンテナンスはできるんだということを、ジャスコを作っていく場のためにモデルを作っておきたい。僕は今の世の中、そんなに嫌いじゃない。


荻上:僕もフューチャリスト志向ですよ、どちらかといえば。今は過去より良いし、これからもよくなると素朴に思う。


宇野:そう、僕もフューチャリストなんです。だから、完全解決はないけれど、今の世の中をより面白く、住みやすくするために整備したいと思っている。一人のスターがでるくらいでこんなにカラーが固まってしまうような空間はよくない。だから、ミニコミのようなところから出てくる成功例をだしたかった。だから普通の人にわかるように喋ったりとか、色々な方法論になった。そうやって、ものを考えていくような人に届けられればいい。だから常に試行錯誤が可能な状況にしたいし、真善美と同じくらい方法論に興味があるんです。


荻上:「常にβ版の批評」と言うと語弊がありそうですけどね(笑)。でも、後続世代を強く意識しているというのは分かります。では、ネット上での意見は意識していますか? 例えば、作り手意識だけが肥大してしまったのか、結構過剰な批判も受けているでしょ。


宇野:それは単なるヒガみ問題じゃないですか。社会的にはそんなに僕と変わらないはずでしょう。宇野は有る程度結果を出して、商業紙にも書いている。それだけの違いです。そこに何か違いが有るとすれば、僕は一人で戦わなかった、ということでしょうか。


荻上:場を作った。


宇野:意図的に煽ってるところはありますよ。そこで僕によくある批判というのは、「お前は北風と太陽でいう北風だ」というものです。僕ってそれに二つの意味で違和感があって、一つはあえて北風を選んでいるんですよね。というのは、太陽政策って「あえてベタに」なので島宇宙化を再強化してしまう。太陽政策が通用するなら、宮台真司は転向しなかったわけですよ。もう一つ。北風政策は、ふきつけられている人たちには有効ではないけど、見込みのある人間、物になる人間というのは、北風を吹かれたときにちゃんとそれを受け止めて肥やしにできる。北風に吹かれていじけるような人間は、結局何をやってもダメなんです。何をやってもダメな人間を有効活用するためには、見せしめにすることです。こういう他人を僻んでいるだけの醜い人間は仕方がない、ということを多くの人に印象付けられる。だから作り手意識だけが肥大してしまった人たちが、過剰な反応をしているというのは結構狙い通りなんですよね。


荻上:その反応自体を意識する必要は確かにないと思います。パフォーマンス批評みたいなのって、実は生産価値が低い。パフォーマンスコストの悪さを指摘する言葉自体がパフォーマティブに機能しないという問題ばかりがあって、そこばかりを延々とやるのはもういいやという気がする。


宇野:例えば「宇野の口真似をするやつがいて困る」という人がいたとしても、実際問題そんな人は数としていないですからね。たぶん宇野個人の問題に還元は出来ない。あるいは、「宇野はメジャー文化の味方でマイノリティ差別だ」と言う人にも、多分その人は僕より身銭を切って、そういうマイナー文化を掘り下げて残すということはしていない。ただ、僕は『PLANETS4』のインタビューでは東さんに対して「やりすぎた落とし前」を求めていて、でも僕がもし大きな影響力を持つようになったら、それは考えなくてはならないと思いますけどね。


荻上:例えば僕も、宇野さんのような仕方で作品をオタクの内面問題や作家の責任問題、つまり局所的な受容理論と作家還元的な手法をとっていることには方法論として批判的ですが、それに批判的であるが故に、宇野さんの議論自体をオタクの世代論問題、あるいは読者反応論とか作家内面論みたいなところに回収することにも批判的であるべきだと思っている。


ただ、それでも宇野さんに対して、今宇野さんが東さんに対して行っているような形の批判を反復するようなことは起こりうるとは思う。それはサブカル文化への搾取の側面かもしれないし、オタクの内面を晒し台にすることの問題かもしれないし、「こういう読者を生んだ」というものかもしれない。その方法論や精度はまちまちでしょうけど、そこに一定のリアリティは生まれるんじゃないでしょうか。宇野さんのモチベーションは、オタク文化への愛が前面に出されているというわけではないから、そういう人からも吟味されるでしょう。


宇野:それは単純化された例えば話だとは思いますが、でも起こりうると思うし、柔軟に対応する必要はあると思いますよ。でも、その場合「オタク文化」という言葉を使わないほうがいいと思う。つまらない自意識の問題として、「オタク文化の敵か味方か」みたいな話が出てくるから。一番低レベルですよね。僕が青山真治を批判すると「なんだあのオタクが」と批判され、クドカンを持ち上げると「オタクの敵」といわれる。


荻上:それはラベリングの問題でしょう。ラベリングだらけだというのが目に見えるのはストレスですが、応答すべきはそういう反応とは別のところだと思う。


宇野:そうですね。チキさんが仰ったのは、僕の状況論は、状況論だからこそ恣意的な取捨選択は免れず、それに対していずれ責任を求められることがあるということですね。


荻上:そう。宇野さんに限らず、テーマ批評に付きまとう問題です。


宇野:それには、タイミングを見てネタバレをしていくということですかね。このインタビューもその一つだと思いますし。


荻上:確かに。テーマ批評に対する処方箋というのは、テーマの複数性を自明にすることですからね。


宇野常寛の視線の先
宇野:「ゼロ年代の想像力」というのは、一言でいえば郊外化に象徴される小泉的ポストモダンの進行問題なんですよね。物があっても物語がない時代についての話。でも、そんなテーマと全然関係ないようなテーマの作品だってたくさんあって、むしろそっちの方が当然世の中には多い。


荻上:そう。だから「セカイ系から決断主義、そして小さな成熟」というのを一つの物語として受容されるのであれば、それは問題です。


宇野:まあ別に一本の評論で世界のすべてが語りつくせるなんて思うことの方が傲慢ですし、現に僕にだってこれから書きたいことが山ほどある。それをデビュー戦に選んだというのは、やはりまずオルタナティブを立てておきたかったというのが大きいということですね。それをまずなんとかしてから、他の作業に移ろうと思ったんです。


荻上:今後はどういうテーマをやりたいですか?


宇野:今、考えているのは戦後論や矢作俊彦論とかですかね。吉本派的な文脈をはずして再度評価しなおしたいし、国家を人格化してきた議論とかも相対化したい。


荻上:『アメリカの影』問題ですね。


宇野:あのラインにはろくな後継者がいないというのもあるので、ちゃんと論じてみたい。あとは、大学サークル研究からのコミュニケーション論とか、好きな作家について論じるとかですね。一番やりたいのは富野由悠季です。あとは恋愛論とか。


荻上:それは楽しみですね。


宇野:今年の予定としては、「ゼロ年代の想像力」をまとめることと、それと別の議論をはじめたいと思っています。


荻上:僕は個人的に、宇野さんがオタク世代論(批判)の人として回収されて終わるというのは激しく嫌だった。だからそうではない文脈を掘り下げられて、こうやって読者の前に出すことが出来たのは純粋に嬉しい。多分、そういうことに敏感な人には届くと思う。ちなみに、人から企画をもらうのは嫌いですか?


宇野:いや、そんなことないですよ。人と話すことが一番頭がほぐれますし、ずっとパソコンと向き合っていると退屈で死にたくなる。僕は結構筆が早くて、「ゼロ年代の想像力」とかはだいたい一日で書いてるんですよね。だからなるべく外に出て、人から刺激をもらいたいと思ってる。こうやってチキさんと喋ることからも刺激もらってます。


荻上:『PLANETS VOL.5』の予定は?


宇野:夏ごろ出せればいいんですけど、スケジュール的に厳しいかもしれません。チキさんにも出来れば、何か書いてもらおうかと。あんまりこういうこと言うと、党派的に取られそうですが。


荻上:僕と宇野さんが党派として受け取られるって? それはすごい、ありえないでしょ。一体何派なんですか(笑)


宇野:ジャンル違うし、何もかも違うじゃん(笑)。でも、東さんは僕らのことを「宮台派」って言ってましたよ(笑)。無論、冗談でしょうが。


荻上:(笑)。僕は宮台さんのこと、ちゃんとフォローしてないと思う。そもそも誰かの知識人の熱心なフォロワーだった試しが…って、冗談にマジレスしてもね(笑)。


宇野:『ウェブ炎上』はチキさんらしい書き方でしたね。あのテーマでデビューしたことも含め。これは悪い意味ではないのですが、企画で勝負できるというのがチキさんの特徴ですよ。新書ブームの中で、筑摩から出すという選択をしたというのもね(笑)。自分より年下の人がこれを出したのか、というのは結構ショックでしたよ。


荻上:ははは(笑)。


宇野:まぁ他人からどう見えるかとか、あまり気にしなくていいと思いますけど(笑)。


荻上:アドバイスありがとうございます(笑)。最後に、何か読者に一言あれば。


宇野:そうですね、『PLANETS』については、手伝ってくれる人を常に募集中です。ただ、つまらないレベルでの自意識の問題に拘泥している人は、それを片付けてというか、覚悟を決めて、はてなを退会してから連絡をください(笑)。僕らは発表の場は提供しますけれど、コミュニケーションと承認は自前で調達してもらうことになると思いますので。冷たいように聞こえるかもしれませんけれど、いいものを残すためにはこれが一番いい方法だと思っています。


(インタビュー/構成:荻上チキ)

【宇野さん自身による補足エントリー】
http://blog.goo.ne.jp/wakusei2nd/e/24227ad013e0cc68004ac53727b69b27


【リンク】
PLANETS vol.4
第二次惑星開発委員会