「バックラッシュ」についてマスコミ学会で喋ったこと。

2007年6月10日、熊本学園大学にて開催された「マスコミュニケーション学会」に参加して参りました。ワークショップのパネリストとしては、富山大学の斉藤正美さん(ジェンダーとメディアブログ)、シカゴ大学山口智美さん(ふぇみにすとの雑感)、東京大学北田暁大さん(試行空間)、特別ゲストの今井紀明さん(今井紀明のかけら)と共に行いました。会自体のレポートを掲載させていただこうかとも考えましたが、手続きに色々と手間がかかりそうなので、とりあえず当日の発表内容に、当日言おうと思っていたけれど時間の都合で言えなかったことなどを加えて、以下にまとめます。当日使用したパワーポイントと一緒にどうぞ。


  • 自己紹介

本日お話をさせていただきます、ブロガーの荻上チキと申します。よろしくお願いします。本日のテーマは“「バックラッシュ」はどのように起きるか―マスメディアとWeb言説空間の呼応関係―”ということですが、そもそもなぜフェミニストでもなんでもない、いちブロガーである私がこの場で「バックラッシュ」について語っているのか。その経緯について簡単にご説明させていただくために、まずは簡単な自己紹介をさせていただきます。


私は荻上チキと申しまして、これまでにいくつかのブログを運営して参りました、いちブロガーです。一番メインで運営してきたブログとして「成城トランスカレッジ!」(現、荻上式ブログ)という人文系のニュースサイトがあります。このブログはこれまで3年以上運営してきての総計で300万以上の PV 数を獲得。月間平均約10万前後の PV 数を持ち、人文系の学問や批評に興味のある方を中心にアクセスしていただいているという状況です。


また、これまでブロガーとして、いじめ研究をしている内藤朝雄さんの研究内容を紹介するブログ「いじめと現代社会BLOG」や、「バックラッシュ!」に関するまとめ&キャンペーンブログである「『バックラッシュ!』発売記念キャンペーン」、インタビューブログ「宮台真司 dialogues×blog」などを作ったりしてきました。最近新たに、人文系ニュース専門サイト「トラカレ! ― 知と情報を繋ぐ人文系ニュースサイト ―」を作成したりもしています。そういうわけで、個人的な専門はテクスト論(文学)、メディア論(社会情報学)であるわけですが、本日は「ブロガー」という肩書きで(笑)、話をさせていただきたいと思います。


私は2005年の10月に Q&A コンテンツ「ジェンダーフリーとは 〜Q&Aですぐわかる!〜」というページを作成しまして、このコンテンツは半年ほどで10万PVを達成。同時に、数百以上のサイトからリンクをされています。また、このサイトを作った縁から、双風舍から『バックラッシュ!』という書籍の編集・執筆を務めさせていただいたという経験があります。また、そのキャンペーンを行うために開設したブログ「『バックラッシュ!』発売記念キャンペーンブログ」では、2ヶ月というキャンペーン期間内で10万 PV を達成。1年経った現在で、現在約17万の PV があります。


私はもともと人文系のニュースサイトを運営しておりましたので、学問的な事件や、興味深いウェブ上の騒動についてまとめたり検証をしたりするこということを行い続けてきました。「ジェンダーフリーとは」というコンテンツも、その中のひとつとして作成したという具合です。ただ、フェミニズムに関する情報サイトで、これだけの短期間で多くのアクセス数を稼ぐというのはほとんど例がない事であり、そのコンテンツが議論の中心的な役割のひとつを果たしたということから、今回のような議論にも関わらせていただいている、ということになります。以上で簡単な自己紹介と変えさせていただきます。

  • 議論の流れ

では、本日の私の発表の流れについて、あらかじめご説明させていただきます。まず最初に、そもそも「バックラッシュ」とはなんぞやということを簡単に説明させていただき、その言葉で問題となっている事件や言説状況などを整理させていただきます。続いて、バックラッシュをめぐってサイバースペース上はどのような状況にあったのかということを簡単に説明させていただきます。その後、インターネットはそもそもどういう性質であるのかということを指摘させていただき、最後に私個人の分析をさせていただきたいと思います。


分析の際にお伝えしたい事は、主に3つあります。一つは、いわゆるバックラッシュと呼ばれる現象は、通常「逆流」や「反動」と訳されますが、果たして本当に観察対象となるようなコミュニケーションを後退させる機能を持っているのであろうか、ということを指摘させていただきます。もう一つは、よくフェミニズム、あるいはリベラル系の方が「バックラッシュが起きている」というような言い方をしたときに、「社会が保守化している」「若者が右傾化している」「2ちゃんねるネット右翼、ウヨ厨の温床である」というような話をしている場面を多く目にしますが、そのような言説に対して疑問を挟みたいと思います。そして三つ目に、そうした言説を整理した上で、他の言説に比べてフェミニズムという学問・運動が、現在プレゼンス能力が低下している状態にあるということを指摘させていただきたいと思います。

では、まずバックラッシュという現象について説明させていただきます。バックラッシュという言葉を政治学事典や女性学事典などで調べてみますと、大体「政治・社会・文化の発展を進めるような出来事やモードに対する、集団的で大きな反発の現象」というようなことが書いてあります。具体的には、例えばいわゆる「歴史教科書問題」であるとか、教育基本法改正の問題など、リベラルに対する保守化、反動といった使われ方が多いと思います。


一方で、「小泉構造改革へのバックラッッシュ」というような形で使われることもあります。ですから、必ずしも政治的リベラル=発展、政治的保守=後退と文脈でのみ使われる言葉ではありません。しかし、先に述べたようなこの定義では、ややリベラルよりに、時にはラベリング的に用いられかねない定義であるため、以下私の発言においては、「特定のコミュニケーションの駆動に対する、過剰性を伴った集団的・政治的な<反(アンチ)>現象一般を呼称する言葉」として定義したいと思います。


さて、バックラッシュと一言で言っても、様々なケースが考えられます。さきほどあげた政治思想の対立のみならず、ニューメディアや若者文化に対する瞬間的なバッシング言説の増大もそのうちの一つに含められるかとは思いますが、本ワークショップでは、2002年頃より前景化した「男女共同参画」「ジェンダーフリー」「フェミニズム」に対する短期的なバッシング言説の増大を対象として進めていきたいと思います。

それでは、ものすごくざっくりと2002年型のバックラッシュの流れについて説明させていただきます。図を見ていただければお分かりいただける通り、5つの流れだけまとめさせていだきました。我ながらざっくりしすぎですね(笑)。ただ、この5段階に分けるとかなり見通しが明るくなります。


ひとつずつ見ていきましょう。まず1995年、日本でジェンダーフリーという言葉が生まれます。東京女性財団がパンフレットや報告書を作成する際に用いた言葉で、どのような性役割を選択してもいい自由というようなニュアンスの元、かなり曖昧な定義の元に提唱されていました。なお、1995年は「北京会議」にてジェンダーという言葉の重要性が確認された年でもあり、この頃から「ジェンダー」というタームも頻繁に使われだしていきます。



ジェンダーを含む新聞記事の経年グラフより)



1997年頃からは、ジェンダーフリーという言葉、および同時期に多くのシーンで使用されつつあった「ジェンダー」「男女共同参画」「ジェンダーフリー」という「新しい言葉」「小難しい言葉」に対する批判言説が、地方の自治体やローカルな政治運動冊子などにおいて観察されるようになります。しかしこの言説は、この段階ではまだあまり訴求力を持っていませんでした。


1999年、男女共同参画基本法が成立。この法には、「男女共同参画社会の実現を二十一世紀の我が国社会を決定する最重要課題と位置付け」ているということが書いてあります。2002年より、マスメディア上で、男女共同参画フェミニズムジェンダーフリーに対するバッシング言説の増大、いわゆるバックラッシュ現象が観察されるようになります。


そして2005年、男女共同参画基本計画第二次が発表されて以降、徐々に収束していくという流れになっています。男女共同参画基本計画は5年おきにリニューアルされることになっており、もともと2005年にアップデートされるということになっていました。ですから保守系の運動体や論評などは、「2005年の計画見直しの際に、基本法を廃棄しよう」ということを目標に掲げることで、言説の推進力、運動の動員力を高めていたのですが、まあ基本的にそういった基本法がなくなることもなく、割に穏当な形で第二次計画が発表されたことを受けて、緩やかにブームが去っていきます。

私は今、2002年頃からバックラッシュ現象が観察されるということを申し上げましたが、一方で年表では1997年からバッシング言説が発生していると書いております。これはどういうことか、もう少しご説明します。


そもそもフェミニズムに対するバッシング、あるいは批判というものは、古今東西、膨大な量がありましたし、それ自体は大きな問題ではないでしょう。しかし、2002年から2005年までの間に起こっていたものは、従来のそれらとはいくつかの理由において区別されるかと思います。 分かりやすい例として、まず2つの図をご紹介します。




左側の図は2001年の5月に、『日本時事評論』という山口県保守系政治団体が発行している新聞に掲載された図です。夫婦別姓や固定的性役割分担への批判、保育所の拡充などの争点に対し、フェミニストが主張している枠組みには沿った上で(それでもこの図には誤りも多いのですが)、解釈を大きく変える事で批判を展開するというものになっております。一方、2002年頃から拡大していく言説として、右側の図のように、「フェミニズムは両性具有を理想化している、カタツムリのような存在を目指しているのだ」「男女を一緒に着替えさせようとしているのだ」「修学旅行で一緒に寝させようとしている」「なぜならフェミニストはモテない僻みからフリーセックスを実現させようとしているので、子供達がごくナチュラルに恥じらいを損なっていくように日々洗脳しているのだ」とか言い始めるわけですね(会場、笑い)。


もちろんこういうことを言う人は2001年頃までの間にもいたわけですけれど、2002年頃より、新聞や雑誌などのマスメディアやインターネットなどで、「現実に起きている事」として取り上げられていく。同時に、各政治運動の盛り上がりもあり、地方自治体や国会などで、「こんなことが行われているようですけど、どうですかね」「うーん、けしからん」というような議論が行われ、時には条例が作られていくというような状況が生まれていました。つまり、ステレオタイプ化されたフェミニズム、男女平等施策への批判テンプレが瞬間的・局所的なブームになって増大し、政治や報道の場面でも争点化したというところが特徴的です。


なお、単なるバッシングと異なり、バックラッシュはコミュニケーションを対象に過剰な言説量をもって表出されます。「過剰な言説」によって伝播し、その言説量や形式の「過剰さ」ゆえに観察される。バックラッシュはその性質上、バッシングや流言飛語を必然的に含みますが、観察のレイヤーが異なります。また、二極間の対立を中心に語る政治的なターム「スウィングバック」と異なり、「バックラッシュ」はコミュニケーションを一元的に観察する視点から記述されます。

このようにしてマスコミ上では、「産經新聞」や産經新聞社のオピニオン雑誌『正論』、および統一教会系の新聞「世界日報」などを中心に報道が行われていたわけですが、インターネット上でも徐々にバッシング言説は広がりつつありました。マスコミが取り上げていくにつれ、その数も段々と増えて行く。その結果として、例えば google の検索結果が非常にシュールな(笑)状況になっていました(荻上式BLOG - 「ジェンダーフリー」でgoogle検索をかけたらアレな結果になる件について)。


現在ジェンダーフリーで検索すると10万以上のサイトがヒットするわけですが、2005年当時は世界日報google で広告枠を買って、ジェンダーフリーという言葉で検索すると必ず批判記事が表示されるように設定していました。この図では、世界日報はランキングの2位にも表示されていますね。 ランキングの1位には、藤岡信勝さんの自由主義史観研究会のサイトが表示されています。あるいは4位に、八木秀次さんの文章を踏襲している、『正論』に寄稿している方のサイトが表示されていたりします。ちなみに八木秀次さんはフェミ叩き業界では権威になっているんです。すごい「業界」ですよね(会場、笑い)。



この図は、私がまとめサイトを構築した直後にキャプチャーしたものですが、私のサイトは当時5位でした。このサイトを作った際、ブログ上で「検索結果がシュールな事になっているので、まともな議論をしたいから賛同してくれる人はリンクしてください」と訴えかけさせていただいたところ、多くのサイトからリンクをいただいたのでこのような結果になっています。


google の検索結果からも、インターネット上でバッシング言説が増大している事はお分かりいただけたかと思いますが、そのタイプとしては主に二つの言説の流れがありました。一つは、マスメディアなどでバッシングされることも多い「祭り系」のサイトです。例えば2ちゃんねるや、2ちゃんねるまとめサイト、あるいはmixiなどのコミュニティや掲示板などで、瞬間的にジェンダーフリーについて言及するというタイプです。もう一つは「運動系」のサイトです。要するに、フェミニズムジェンダーフリーへの批判に特化したエントリーを継続して掲載しているサイトですね。


後者を「運動系」と呼ぶのはいくつか理由があります。まずひとつは、それらのサイトを運営している人の中には、単純に「オフラインでも保守運動に関わっている」というような方が少なからずいるからですね。例えば世界日報の販売局の方や、地方の保守運動に関わっている方、あるいはつくる会に関わっている人や自民党のサイト、あるいは『正論』などに寄稿している方が積極的にブログを運営していたりする。雑誌『正論』を愛読していたりして、例えば「フェミナチを監視する掲示板」の管理人の方は「正論読者」というハンドルネームだったりします(会場、笑い)。


もうひとつの理由は、オフラインの政治運動には関わっていなかったとしても、それがインターネットで行われているというだけで、かつてであれば「運動」と呼ばれたような熱意や仕方、レトリックで行われているものが多いからですね。あるいはインターネットがなければ、「運動」という場において吸収され、展開されるような言説・キャラクターであるということもあります。


この二つに分類した理由は、「バックラッシュ」と呼ばれるコミュニケーションをより詳細に見るためです。例えば「運動系」の人たちは「日本はフェミナチという悪の組織に乗っ取られようとしているので、我々がなんとか駆逐せねばならない」ということを大真面目に考えて、毎日ブログを更新したり、メディアや自治体に積極的に電話やメール、FAXを送ってみたり、男女共同参画関連のシンポジウムに参加するようなオフ会(彼らはそれをあまりオフ会とは呼びませんが)とかを開いていたりする。


それに比べて2ちゃんねる等では、マスコミが報道したジェンダーフリー批判記事などを受けて「ワロスwww」とか「バカスwww」とかを大量に、瞬間的に書いたりするんですが、基本的にはマスコミのアジェンダ設定に乗っかっているだけなので、政治的な理由で叩いているというわけではない。そのため、すぐに別の話題にとびついていく人がほとんどです。ただ、例えばウェブ投票や「痛いブログ」などが彼らの前に提示されたとき、その瞬間最大風速が切り取られて「世論」として形成される、ということは時にはありえますし、バッシング自体を延々と楽しむために餌を探しているというコミュニティもありますが(電凸系の人たちですね)。


「運動系」のサイトの多くは、2002年頃を境に増えていました。それまでもローカルに批判を展開していたサイトはいくつかありましたが、2002年に「フェミナチを監視する掲示板」ができたのをメルクマールに、議論に参加する人も目立つようになります。マスメディアがアジェンダを設定し、トピックスを投下するのを受け、インターネット上でも言説の量が増え、先鋭化していくという流れが観察されるようになります。

インターネット上のこうした現象は、「サイバーカスケード」と呼ばれます。簡単にご説明します。「サイバーカスケード」というのはアメリカの憲法学者、キャス・サンスティーンが提唱した概念です。ネットというのは、ユーザーが能動的に情報を収集していくメディアでありますが、自らにとって都合のよい情報・隣接的な情報を収集した結果、ユーザーが元々持っていた意見やスタンスを強化する方向に動きやすい。そして、集団としてそのような行動をとった結果として、議論や情報交換を重ねれば重ねていくほど、議論が分極化していき、論争においては対立を深めていくというような現象があり、「サイバーカスケード」はその現象を表現する言葉です。


サイバーカスケードと呼ばれるような現象には、情報技術の特性が関わっている部分が大きいのですが、例えば議論をすればするほど元々持っていた意見やスタンスを強化することや、自らにとって都合のよい情報を与えてくれるコミュニティに属するというような事は、インターネットが登場する以前より観測された現象です。例えば社会心理学の言葉では、セレクティブメモリ、確証バイアス、集団分極化、協調フィルタリングなど、色々な言葉で表現されています。ただ、インターネットの登場によって、それが情報技術によって平易になり、可視化され、繋げられていくことで拡大するという点には注意が必要でしょう。



カスケードについて考える例として、こちらの図を見ていただきたいと思います。こちらの図は「political books」(Polarized Readers -- May 2004)と呼ばれるものです。これはどういう図かというと、アメリカのAmazonにおける政治関連書のリコメンド(この商品を買った人はこんな商品も買っています)のリンク構造を分析すると、右派と左派の本が見事に分化しているという模様を描いた物です。赤が保守で、青がリベラルのもの。保守系の本は保守系の本ばかり読み、リベラルの人はリベラルの本ばかり読む。もちろん日本でも状況が同じです(右)。そしてそれは、Amazonだけでなく、オフラインでも分極化しているというわけです。こういったことは色々な趣味のトライブでも事情は同じなのでしょうが、お互いの多くが相手の本を読まないまま、「フェミニズムはこんなことを企んでいる」とか「保守はこういうことを考えている」とか言い合っているという状況にあると。


書籍の購買だけでなく、ネット上での言説交換も同様です。例えば多くのブログはサイドバーに自分の読ませたい、隣接性のあるブログを紹介する。検証作業をする際も、自分に近い情報をブロコラージュ的に引用しながら「論壇」を形成したりして、反対意見へのリンクは極端に少なかったり、あるいは過度に曲解された紹介のされ方だったり、さらには批判相手の中でも時に叩きやすいものを選択して「敵」の全体像を作り上げたりする。

「運動系」の人たちは、フェミニスト像を作りつつ、意見を固めながらトピックスを投下していくわけですが、それが時折マスコミなどで取り上げられたり、あるいはサイバースペース上のインフルエンサーに取り上げられたりする事で「祭り系」の人たちにも瞬間的に感染するということがあります。次の図を見てください。



この図は「にくちゃんねる」という、2ちゃんねるの過去ログを集積していたサイトで行った調査のデータです。「にくちゃんねる」において、フェミニズムに関連するタームで検索し、各タームについて言及している全スレッドのコメント数をグラフ化したものです。これを見れば分かる通り、「フェミニスト」や「フェミニズム」が議題にあがる量はゆるやかな一定数内の推移に留まっているのに対し、ジェンダーフリーは2002年を目安に急上昇し、2005年以降に激減していることがわかります(ちなみに2005年時点で既に減少しつつありますが、当時は「ジェンダーフリー」よりも「大峰山の女性登山」が話題になっており、3万以上の書き込みがありました)。これはちょうど、マスメディアが報道を集中的に開始した頃に上昇し、報道が収まりつつあった頃に減少するという相関関係にあります。


そもそも2ちゃんねる、特にニュース速報板などでのフローとして、マスコミが設定したアジェンダ、トピックス投下に乗っ取ったうえで議論を展開し、また次の「ネタ」を探すという流れになっており、そこにある種の呼応関係を見いだす事は可能かと思います。一部「専門家」などの話題を受けてマスコミがアジェンダ設定をすると、インフルエンサーオピニオンリーダーのように自ら意見を広めるわけではないが、口コミ形成の際に影響力のある人)が、サイバースペースバイラルを広げていく。2ちゃんねるで言えば、面白いスレッドタイトルをつける「1さん」がアジェンダを投下する役目を担い、それを受けて2ちゃんねらーたちがダーっと書き込みをしていく。例えそれが「マスゴミへのバッシング」だとしても、それ自体がマスコミの設定したアジェンダに沿ったりしていることが多い。

  • 二重のカスケード

その流れについてもう少し詳しく分類するため、サイバーカスケードを二つの段階に分類してみます。



まず、マスコミ上でオピニオンリーダーアジェンダセッティングをした際に、争点のカスケードともいうべきことが起こります。どういうことか。例えば2004年10月に、イラク香田証生さんが殺害されるという事件がありました。彼が捕まった当初は割と報道がなされていたんですが、彼の殺害予告が過ぎる前後から、新潟の地震アメリカの大統領選挙、および島田紳介が関係者を殴ったというような話題に報道が集中していき、イラクの問題はあまり報道されなくなった。その後も、香田さんの葬式の模様などは報道されるも、政治的な問題としては焦点化されがたかった。これがタイミング的なものかスピンによるものかはさておき、何かに話題が集中していく事で、「語られなかった別の話題」が隠される。2004年4月、今井紀明君らが人質になった事件の際には大量のバッシングが行われていましたが、10月の事件の場合は、話題にあがってはいたものの拡散していたように思います。つまり、どのような争点が今重要であるのか、というカスケードが起こる。 これが争点のカスケード。


そしてトピックスが投下されると、従来の意味でのカスケードが起こる。トピックスが投下されたことを受けて情報収集をし、先鋭化した言説へと集団的に感染していくことで全体としての立ち位置が偏っていくこと。ここではそれを、「立ち位置のカスケード」と分類しておきましょう。ジェンダーフリーの問題で言えば、「ジェンダーフリーは同室で着替えるのか」という、実にどうでもいい話題ばかりが取り上げられる一方で、より重要な話題が語られない、という争点のカスケードが起こり、同時に語彙の投下と共有を受けて、立ち位置のカスケードが起こっていくというわけです。

  • 右傾化」論の誤解

こうしたカスケードによって生まれるバッシング現象について、よく「ぷちナショ」であるとか「右傾化」であるとか、とかそういう言葉で表現することが多いようなのですが――そうした現象を、若者のメンタリティの問題にしたがる「評論家」の方は、保守を自称しようとリベラルを自称しようと多くいらっしゃるようですが――実際にネチズンや若者が右傾化しているかというと、そうではないでしょう。そこで、そもそもの前提として「2ちゃんねるの炎上=若者の右傾化」あるいは「2ちゃんねるの祭=ネチズンの右傾化」といった認識が誤りであると言う事を指摘しておきます。



この図は日本広告主協会web広告協会が発表した資料で、インターネットの各コンテンツタイプの利用動向です。真ん中に2ちゃんねるの利用者が年代別に分けられていますが、見ていただければお分かりいただけるように、2ちゃんねらーユーザーには30代、40代のユーザーが結構多く、24歳までを一応「若者」としたとしても、「若者」は全体の3割程度であるということが分かります。もちろんこのデータが即実情というわけではないでしょうが、様々な年代の方が書き込んでいることは間違いない。そのような2ちゃんねるを、特定の年齢層のアイテムとして観察するのは無理があるでしょう。


また、2ちゃんねるの書き込み内容をすべて分類するのは不可能だとは思いますが、いわゆる「右翼」的な書き込みはそのごく一部だということは言えるかと思います。2ちゃんねるはよく「匿名掲示板」であると紹介されますが、より正確にいえば300以上のスレッドフロート式掲示板からなる「匿名掲示板群」であり、その中で政治的な問題を中心に取り扱うスレッドは数十のみ。「右翼的な書き込み」というのはその中のさらに数パーセントから多くて数十パーセントですから、2ちゃんねるネット右翼の温床、と考えるのは端的に誤りです。また、特定のブログを炎上をさせるからといって、彼らが政治的に「右翼」であるというわけではないということも、重ねて指摘しておきます。


また、例えば上野千鶴子さんのようなフェミニストの方が、2ちゃんねるホモソーシャルな空間と評することもありますが、2ちゃんねらーには女性も多くいるわけですし、例えば女性が特に多く参加しているであろう化粧板や育児板、あるいは生活板など、板によって傾向も大きく変わるわけですね。にもかかわらず、「2ちゃんねるはかくかくしかじか」と一括りにして論じるような論評が多くある。2ちゃんねるのユーザーは1000万人前後いるのですが、先日会員数1000万人の会員数を超えたmixiに対して「mixiユーザーはメンヘラーである」というような、何か特定の共通心理を見いだそうとするような事を言えば失笑を買うはずなのに、2ちゃんねるに対してはそれが通用してしまう、一部の人たちのリアリティに刺さってしまうということがあります。もちろんそのリアリティは、多くのユーザーの実感とはかけ離れているので、「痛いニュース」として嗤われ、叩かれるということがあります。

  • 嗤いのコミュニケーションと運動2.0

さて、残り時間がわずかになりましたので、サクサクまとめさせていただきます。今回起こったバックラッシュに関して、ネット上で盛り上がっているように見えたのはなぜか、という点についてお話しさせていただきます。




ウェブ側の理由としては、それが「可視化」されるようになったということがあります。おそらくフェミニズムへの批判などはこれまでも多くあったのですが、ウェブによって見えることによって、「お客さん」の顔がはっきりと見えて驚いている、という面があるかと思います。それに対して「インターネットユーザーのメンタリティはひどい」というような発言は、インターネットユーザーが1億人近く存在する現状では何も言っていないに等しい。あるいは「大衆はひどい」と言っているに等しいく、「運動」や「分析」としてはあまりにお粗末であるかと思います。


それから、「繋がり」。意見が可視化され、全てがリンクで繋がれていく事で、先ほどご説明させていただいた「サイバーカスケード」のような現象が起こる。イメージ闘争、コンテクスト闘争が前景化し、流言飛語の拡大再生産が容易になると。


そして、「モジュール化」。図に「嗤いのコミュニケーションと運動2.0」と書いていますがが、多くの人たちはメンタリティとしては「右翼」ではなく、「痛いニュース」を嗤っているだけです。しかし多くの人が「嗤い」の対象に向けて、「右翼コミュニケーション」に誤配・接続されうるような書き込みを3秒ずつ行った場合、書き手の意図と異なり、全体としては数人の優秀な運動家が一年間活動したかのように膨大な量の批判言説が浸透することもあるわけですね。


Web2.0」という言葉は多義的ですが、情報技術によって「全ての情報」が「あちら側」において可視化、接続されるというgoogleの例と、そのことによって集合知的な場が形成されるというwikipediaの例がよく出されます。一人一人が少しずつ書き込んでいけば、集合として大きな辞書になっていくというwikipediaの例と同様、一人一人が少しずつカキコを行う事で、全体としての蓄積は大きな「運動」にもなりうる。googleのようにそれらの情報がつなげられていくことで、独自のリアリティを共有する事もできる。このような現象は例えば「政治的リアリティのロングテール」といっていいかもしれませんが、それがフェミニズムにとってある種の驚きを持って受け取られた、という面があるでしょう。

バックラッシュが他ならぬフェミニズムに起こったのは、少なくとも4つの要素から考えられるでしょう。1つは、メディアの地殻変動。インターネットが登場する事によって、発言のパワーバランスの変動が起こったということ。2つめは、保守運動の地殻変動。2002年にかけて、日本会議や新しい教科書を作る会などの保守運動団体が生まれ、強固なネットワークを形成していったこと。特に2002年頃にそれら多くの保守団体が、運動の求心力を高めるために「夫婦別姓」や「男女共同参画」への批判に重点を――意図的に――シフトしていったということがあげられます。


3つめは、フェミニズムのプレゼンス能力の低下。フェミニズム運動や学問的関心が「ジェンダー」という「分かりにくい言葉」に議論が集中する一方、社会の流動化にも関わらず「一人一人の自己啓発」モデルや法をめぐる運動というパターンからのアップグレードがなく、フェミニズムの議題設定能力、集客力が低下しているということです。そもそも単純に、ネット上にフェミニストがほとんどいないということもあり、ウェブ上ではフェミニズムの議論の蓄積が継承されないままに既に「過去の物」として語られており、フェミニズムへの批判自体が、80年代への逆襲というような文脈で語られる事が多い。


そして4つめは、新しい文化が誕生した場合に必然的に生じる、大衆メディアとしての流言飛語が、1〜3に後押しされる形でモラルパニックを形成しているという要素があるでしょう。ゲームが登場すれば「ゲーム脳」「リセット症候群」、インターネットが登場すれば「ネット脳」「脳内汚染」、携帯が登場すれば「退化」「健康に悪い」「オレ様化」、たまごっちが出てきたら「命の尊さを学べない子供達が云々」と、新しいメディアが生まれれば必ず流言飛語が発生するわけですが、同様のことが「ジェンダー」や「男女共同参画」にも言える。従来であれば科学者などが反論したり検証したりするのでしょうが、「ジェンダーフリー」という、フェミニズムの間でもマイナーな部分が「ザ・フェミニスト」であるかのように叩かれた際、積極的に擁護する人がほとんどいなかったということも関係するでしょう。そのようにフェミニズムが対応しきれていない一方、フェミニズム自体のプレゼンスが低下している状態で(3)、保守運動が力を持ち(2)、言説のパワーバランスも変わっているため(1)、大きなうねりとして観察されるようになったということが言えるのではないかと思います。


繰り返しますが、このような現象について、「世間が右傾化しているから叩かれるのだ」と説明するのも、「ジェンダーフリーが誤っているから叩かれるのだ」という説明付けをするのも、どちらもズレています。「バックラッシュは弱者男性のルサンチマンだ」「フェミニズムはモテナイ女のルサンチマンだ」と言い合うようなもので、特定の心情に還元しようとしても的外れですし、あまり意味がない。実態を把握するためには、メディアとコミュニケーションの呼応関係といった視点から、丁寧な観察が必要になるでしょう。


というわけで「嗤いのコミュニケーションと運動2.0 、あるいはフェミニズム0.5」と書かせていただきましたが、最後は「現状に対応しきれていないフェミニズムって、どうよ」と問題提起させていただき、発表を終わりにさせていただきたいと思います。ありがとうございました。


【レスポンス】

  • ウェブ上で建設的な議論は可能か」について

「ウェブ上で建設的な議論は可能か」という問いかけですが、「建設的な議論」という言葉にどういう意味付けをするかによりますが、それが仮にサイバーカスケード自体をなくせるか否かという問いであれば、まずなくせないだろうと思います。インターネットが、人の意見を繋げ、可視化し、集積していくという性質を持っている以上、サイバーカスケードはなくなりません。また、フレーミング、炎上という現象はなくならないでしょう。そもそも罵り合いやどうしようもない私的制裁、瞬間的な喧騒というものはインターネット以前からもあったわけで、これからもなくなりようがない、というわけです。


しかし、サイバーカスケードの方向性を変えることは可能ですし、カスケードが起こりにくい環境を要所に設計していく事は可能です。単純に、コメントができないサイトであれば炎上しようがないわけですし(笑)、やり方によるだろうと思います。普通に考えて、数百人を同じ場所に集めて、ルールなしで好き勝手に喋らせるような状態では、オフラインであっても「建設的な議論」には不向きでしょう。ですから、結局はどのような「区別」を導入するかによって変わってくると思います。


私が「ジェンダーフリーとは」というコンテンツを作ったのも、このコンテンツを作りさえすれば読者の人が「なーんだ、誤解してたよ、てへへ」なんて反応してくれるとは一切思っておらず、カスケードにブレーキをかけるような別の情報を二項対立的に形成するような効果であるとか、議題設定の方向性を変えるというような機能を作れればいいなと思っていたわけです。そんなわけで、今の問題提起に対する「いちブロガー」の反応としては、「インターネットの使い方、言説空間へのコミットの仕方によって変わるのではないか」というレスポンスになるかと思います。


多くの2ちゃんねらーフェミニズムバッシングをする根本思想のようなものに傾いているわけではなくて、短期的に盛り上がり、瞬間的に批判言説を増大させているだけという話をしました。それは同時に、排外的なムードや流言飛語が瞬間的に増大する危険性があるということでもありますが、その発露が常に一定方向に固定されているわけではない以上、コミットの余地は常にあるということでもあるかと思います。


例えばウェヴ上でデマがどんどん広がっていくのであれば、同じ力学を使って検証サイトを広げる事もできるわけですね。実際、今井君がイラクで人質になっているときに、自作自演説のまとめサイトが作成されていく一方、そのサイトの信憑性を検証するサイト自体も作られていったわけです。その検証作業や反論には、当時私も関わっていましたが、そのサイトがあることで「鵜呑みにする前にここを見ろ」と、カスケードを宙づりにする効果を果たしている場面というのもありました。


インターネットの性質を理解した上で、効率的にその原理とつき合うこと。批判の言説が広がっているのであれば検証の言説を広げるというような形でやりとりしていくことは可能なのだと思います。何が何でもインタラクティブであればいいというわけでは全然なく、サイトのパターンも色々使い分けていく必要があるでしょう。

コメントに移る前に、発表についていくつか補足させていただきます。今回のバックラッシュについて具体的なイメージを持つための資料をいくつか提示させていただきたいと思います。まずこれは、2005年の6月に配布されたビラです。このビラを配っていた人は「ジュンケツ!ジュンケツ!」と叫びながら配布していたとか(参照ブログ)。


こちらは自民党が配布したビラです。ジェンダーフリーをバッシングした上で、民主党はそれを進めているけどうちは違いますよ、というような内容になっている。最近でも、年金問題の元凶は実は民主党菅直人です、というようなネガティブキャンペーンを展開して失笑を買っていましたけれど、自民党の議員にはさきほど話題になった『新・国民の油断』が配布されたりしているので、失笑では済ませられないのかなあと(関連エントリー)。


では、コメントに移らせていただきます。「フェミニズムの歴史が継承されていないのでは」「インターネットを活用しきれていないのでは」という指摘に関して。まず、フェミニズムが未だにメーリングリスト頼りであるというのは、遅れているといえば遅れているのですが、一方の保守運動も実態はあまり変わらないと思います。デザインに関しても、彼らのサイトも結構しょぼいつくりだったりしますが、つくる会のサイトを見れば分かるように、つくる会のニュースはファックスによって送信されていたりするわけですよね(会場、笑い)。最近、つくる会で起こった騒動では、流してはならないファックスが勝手に流れたとか、そういう次元で内輪もめをしていたわけで。『日本の息吹』とかは郵送で送られるわけですし(会場、笑い)、さきほどビラをご紹介したように、インターネットではなくローカルなメディアであるということは、必ずしも「運動として遅れている」「運動として弱い」ということを意味するわけでない。例えば選挙や教科書採択などの運動の際は、地域によっては市内で数十万以上のビラが飛び交うというようなこともあるわけです。


ビラというメディアが一定の機能を果たしている中で、メーリングリストという手段にばかり頼ってブログなどで発信しないフェミニストの現状は残念ではあるけれども、新しいテクノロジーについていけないフェミニストという点だけでなく、むしろパフォーマンス的な側面において「0.5」たる所以、プレゼンス能力が落ちている理由があるのでしょう。これは単にインタラクティブではないとか、デジタルデバイドがあるとか、そういう話ではないと思います。


フェミニストのコミュニティやメーリングリストを観察していると、「なんで叩かれるのか」ということで慌てているわけですね。そこにはもちろん歴史を共有していないという問題もあるのでしょうが、それとは別に、何のためにフェミニズムがあるのか、という目標設定が損なわれているのではないかと思います。これは印象論ですが。


というのは、自分達が叩かれたとしても、何かの目的のためのパフォーマンスの結果としてある程度引き起こされるものであるという認識があるのであれば、対応可能ではないかと思います。にもかかわらず、「バッシングが起こっている」というだけで騒ぐのは、「フェミニズム」の人気をあげるためだけに議論をしてきたのかよ、と疑問がわくんですね。フェミニストと同じ考えを持つ人を増やすこと、あるいはフェミニズムをよいと思う事をただただ広げることが目的なのか、あるいはフェミニズムの理論で議論してきたフレームによって、多くの人にとってよりよい環境を提供したいのか、その区別が分かりづらくなっている印象があります。


私には女性学の歴史がなぜ継承されないのか、その内部的な事情は分かりませんが、多分学会的な力関係とか、そういうつまらない理由もあるのではないかとも思います(笑)。ただ、ネット上でそういう物が語られない理由は、単純に誰も書かないからですよね。また、ウェブ上では、ローカルの歴史を超スピードで反復しているようなところがあって、一時期ウェブ上で「非モテ論争」というものが起こっていたんですけど、その多くはフェミニズムがかつて議論してきた事の縮小された反復だったりする。そういう場面で議論の蓄積が利用されていないという状況があるので、そういう場面で議論されるような土壌をつくるという必要もあるのかなと思います。


フェミニストの方がある種の思想を掲げる際に、その思想が伝わっていない、批判を受けるという事を嘆く際、フェミニズムを「お勉強」してようやくわかるような難しい概念をそのまま広げようとすることや、あるいは「フェミニズム」にとってのポリティカルコレクトな人物像などに吸収できないことなどを「なんでだろう」と嘆いていたりすることがありますよね。しかしそれは当然ながら敷居が高い事で、それらに時間やリソースを割けない「一般の人たち」に伝えていくのはかなり厳しい。それよりも「一般の人」の不安や不満を吸収する受け皿になるようなメディアを作る必要があるかと思うんですが、内面啓発に参加しないことを嘆いている。そのような議論になっている状態は、プレゼンテーション、マーケティング的にお粗末なのではないかなと。


これも印象論ですが、例えばメーリングリストや勉強会など、コミュニティを観察していて思うのは、「これほどまでに性的マイノリティに寛容な私」というものや、理論的ラディカルさ、「サバルタン探しゲーム」を競争しあうかのような自己循環や、あるいは若い院生とかだとメンヘラー的な自己肯定のツールとして機能しているような感じがあって、それ以上の普遍性を持った「性」に関する不満吸収動員ツールにはなれていないような印象があります。「ザ・フェミニズム」なるものにどれほど近づくかという議論が先行するような。


今の日本だと、そもそもフェミニズムってマーケットがかなり狭いですよね。本で言えば、売れたとしても一万部とかそういう市場であるので、その市場の内部だけでどれほど循環していても、それが浸透に結びつく事はないだろうと。そこには、何のために、どのようにマーケットを開拓するのか、ターゲットは誰なのか、マーケティングの先に何があるのかというプランニングの視点というのが欠けているだろうと思います。


「ドリルを買う人は1/4インチのドリルが欲しいのではなく、1/4インチの穴をあけたいのだ」という有名なフレーズで知られている「マーケティング・マイオピア」という理論がありますけれど、言うなれば「人々は<フェミニズム>を求めているのではなく、性の問題に関する救済を求めているのだ」ということになるでしょうか。それが出来るなら、<フェミニズム>じゃなくても全然いい。時には真逆の思想に飛びつく事だってありうるわけです。


フェミニズム自体のマーケットが縮小していくということは、ある種の形としてそれが実現しているのであればOKで、むしろ不要な社会になればいいと思います。「フェミニズムが元気なこと」「フェミニズムの支持者が多いこと」が重要なのではまったくない。一方で不安や不満が残りながらも、それを吸収するメディアだけが失われ、フェミニズムもその社会的機能を果たしていないという状態なのであれば、それは問題だろうと。


例えばマンガやサブカルなどでロールモデルや清涼剤となるようなものに触れたほうが、フェミニズムの本を読むよりも遥かに影響力があったり、内面的に肯定されたりする。『きみはペット』の人間関係とか『働きマン』のライフスタイルと葛藤、『臨死!! 江古田ちゃん』の自虐性に共感するとか、そういうゆるやかな広がりの方がパワーがあると思うので、「ジェンダー論はこれほど重要」という啓蒙的なスタイルは届かないのではないかと。


ネット上で「運動」をする際は、いかにバイラルで広げていくかというマーケティングの視点も重要になります。例えば「チーム・マイナス6% - みんなで止めよう温暖化」や「100万人のキャンドルナイト candle-night.org」などにはPRの手法がふんだんに使われていますし(プロですからね)、参入障壁が低く設定されているのでイージーに参加しやすい。「運動」といった場合には、もちろんイージーに出来るものばかりではないですし、原理的にそういうものを選択しにくい場合もあるため、様々な角度からのプランニングも必要となるでしょう。どちらもやってないのは論外ですが。


  • 「運動」の力が弱まっていることについて

"運動"でなくても救済されるのであれば、それで全然いいような気がします。運動自体にもカタルシスがあって、運動に参加する事で救済感を得ていた人も多くいたわけですよね。理論や運動の結果によって救われる事と、「理論や運動に没頭する」ことで救われることとは別問題。そのうえで、後者の魅力が失われた以上は、その部分は別の形でもいいと思いますね。

それは結構しょぼい話になるんじゃないでしょうか。フェミニズム運動とかに関わっている記者とかが、懇意にしている運動家に情報を得て「じゃ、とりあげるよ」とか言って喜ばせたり、保守団体に近しい記者が懸命にあら探しをして、「てにをは」などをいじったりながらなんとか批判しようと奮闘したり、あるいは新聞社同士のキャラ分けの問題とか、そういうしょうもない話(笑)。実際に冊子や本、ビラが配布されて、それを真に受けて報道したり、政治家が国会で質問したりするわけで、その辺はあまり複雑ではないと思います。


  • 量的な拡大が質的に転化したときにどう対応すればいいのか、という質問について

整理が間違っていたら申し訳ないんですが、つまり「2ちゃんねらー達が嗤いのコミュニケーションをガーっとやっていた時に、それが何かのきっかけで議員や記者に取り上げられたりすると、ベタに政治的効力を持ってしまう事がある」ということですか。例えばゲームが登場した場合、ゲームは脳に悪いというような言説も出てくる。それを地方自治体や保守団体が取り上げて、条例化していくというような場合もよくある。そのようにアジェンダが設定された以上は、嫌だとしてもまずは向き合わなくてはならないと思います。


男女共同参画条例を策定する時期が近づいた場合、それぞれの陣営の運動家は盛り上がるわけです。議会に送られた手紙やファックスの数は保守派が数十通から数百通vsフェミニストが数十通から数百通、ほとんど運動家によるもの、というようなレベルの争いをしているわけで、しかしそれがリアルに議員の採択を左右したりしている。それにはつき合わなくてはならないだろうし、「理論的なフレームで反転させてうんぬん」とか、そういう議論は通用しないように思います。時間がくれば必ず鎮火するとは思うんですが、短期的な転化によって大きな影響が出る事もあるので、そういうのにつき合う人は必ず出てくる必要があるでしょうね。


ジェンダーの問題を宙づりにした質問に乗っかって、コミュニケーション論のレベルで応答すると、新しい文化なりが出てきたとき、必ず賛否両論があり、批判が出てきますよね。ところがその批判自体は、実は対象のコミュニケーションを駆動させると共に、対象のコミュニケーションを異化しつつゆるやかに社会において受容させるという機能を持つわけです。さきほどの発表では「バックラッシュはコミュニケーションを後退させるか」という点についてほとんど話ができませんでしたが、そこでお話しようと思っていたことは、バックラッシュには複数の理由でコミュニケーションを駆動する機能があるということです。


まず、「アンチ」を観察することでコミュニケーションを最適化しようとすること、「アンチ」自体をコミュニケーション駆動の動機づけへと変えていくこと。そして「アンチ」の盛り上がりというシャッフルによって瞬間的にパワーバランスが崩れ、その間にコミュニケーション側のアジェンダが異化されつつ受容されていくということ。その意味付けについては、コミュニケーションのタイプによって変わってくるでしょう。


質問者:「アンチ」じゃないと、バックラッシュにならないのか。意見の過剰というのはアンチじゃなくてもありうるので、バックラッシュをアンチとしてしまうことによって、見えにくくなる部分もあるのではないか


――説明不足だったかもしれませんが、私の発表では「アンチ」といった言葉を、心情的あるいは政治的な反発、つまり「フェミニズムに反対」「特定のコミュニケーションに反対」というような意味に限定してはいないんです。コミュニケーションが何かを発信した際に、そこに必ず誤配が生まれたりするわけですよね。その誤配が拡大した際に、例えばフェミニズムにとって進むべき方向というものを阻害する場合がある。そのようなコミュニケーション間の齟齬を一元的に見た場合に「アンチ」となる。それをバックラッシュと読んでいます。バックラッシュをある種の内面の問題や、思想信条の違いのようなものをさして使うことは、ご指摘のとおり問題を見落としてしまうのではないかと思います。


質問者:バックラッシュを相対化して論じるのであれば、「アンチの人」ではないわけですよね。その「過剰」を扱うというのも一つの方法だと思います。


――そう思います。というよりは、問題だと思っているのはむしろそっちの方で、その過剰性が文脈を変えてしまう事だと思うので、「多くの人が保守化している」というような議論とは異なり、その力学に目を見張っていく必要があると思います。

  • ウェブ上にもフェミニズムのカリスマが必要なのではないか、という質問について

カリスマ…うーん。ハブくらいでいいんじゃないでしょうか。基本的に、フローがないことの方が問題だと思うので。個人的には、匿名でも共感できる書き込みがポツポツ増えるとか、そっちのほうがいい気がしますね。

  • 昨今では「正しさ」より「楽しさ」が前景化しているのでは、という質問について

「正しいフェミニズム」と「楽しい右翼」みたいな分け方はよくされますよね(会場、笑い)。でも、「正しさを追求する楽しさ」というものを求めている学者のマーケットと、そうではなくて瞬間的に盛り上がれることを常に探しているマーケット、あるいは内面的なものを救済してくれるアイテムを求めているマーケットと色々あって、学者の「正しさ」はその中ではメタなものではなく、ワンオブゼムであることを自覚した上でマーケティングして欲しいなとまずは思います。


加えて、「正しい」ものを追求しさえすればそれは広がるはずだというようなスタイルは、非常によろしくない。そんなことあるはずないですから(笑)。かといって「じゃあ面白さしかない」というような図式になるわけでもないでしょう。「同じ土壌にあがると、結局彼らのストラテジーと同じことになってごにょごにょ」とか言うより、ブログやってみるとかの方が意義があったりすることもあるので、「正しさ/楽しさ」みたいなものにあまりこだわる必要はないのではないかと思います。


ついでにもう一点。例えば「ジェンダーフリーな生き方=正しさ」と思っている人はいると思いますが、もし「性の押しつけから自由であり、どのような性のあり方を選んでもいい自由」というものを目指すのであれば、そのような言い方は間違いだし、反発を呼んで当然です。それよりは、目的にかなう手段がなんなのかという市場観測には力を入れた方がいいでしょう。個人的には、そういう「正しさの前景化」みたいなものを叫ぶ方が反対です。

  • 質的な転換も問題だが、量的な拡大だけでも影響が出てしまうのではないか、という質問について

ミルズの提唱した概念に「動機の語彙」というものがありますよね。「あなたはなぜ売春をしたのか」「どうして社会運動に関わったのか」と聞かれた時に、もともとクリシェとして浮遊している語彙の中から、その場に適したものをひっぱってきて答えるため、それが「本当の動機」かどうかは分からないということを指摘する言葉です。


それと同様に、「批判の語彙」なるものがあると思っています。例えば誰かをバッシングしたいと思った際、量的に流通している手近な言葉を選択して発話するというようなことがあるだろうと思います。あるいはその場に適したコミュニケーションを行おうとするために、たまたま流通している悪口などを引用して乗り切ったりする。つまり、「一般にこのように批判されているから、その言葉を使って批判をしておく」ということですね。そのように流通している言葉に感染し、流通している言葉を繋げ合わせていく。これは、時代によって動機や批判のパラダイムが変わっていくこととも関わると思います。


このように、量的な浸透による影響はもちろんあるでしょう。同時に、言説量が増えれば、単純にその言説に触れるプレイヤーが増えるわけですから、それは必ず質的な変換を起こす。例えば2ちゃんで何かを嗤っていても、一定以上広がると別のレイヤーに接続する。政治の場であったり、別のメディアであったり、学問によって分析されるようになったりと。


断っておくと、私は「バックラッシュは量の問題だからつまらない、質の問題を注視すべきだ」という話はしていません。私が質の問題と言ったのは、「量」の表層だけを見るのではなく、その内実を見るべきという指摘をするためです。「量」の問題で驚いていたとしても、実際は単に「嗤う」というテキスト交換のゲームをしているだけで、「内面」に変化などないかもしれないじゃないか、と。そのために「質」を見ろ、市場観測をしろと言った。それは「量」の問題をスルーしていいという話ではまったくなくて、次のステップとして「量」をいかにするかという話は必要になると思います。

  • 運動が自己目的化している部分があるのでは、という質問について

その通りじゃないですか。必要があってフェミニズムをどうこうというより、フェミニズムを継続するために次のニーズをどこに設定しようかという議論もあるでしょう。

  • あるコミュニティ内で、理解を広めようとした場合にはどうすればいいのか、という質問について

いやー、一緒に酒を飲むとかじゃないですか(会場、爆笑)。いや、学者系の人ってよく「こういう空間を反転させるには」とか「こういうオルタナティブな場を」とか言いたがるんですけど、普通に「呑む」とか、そういう方法しかないんじゃないでしょうか。コミュニティ内の政治とかって、予算取るとか話をつけておくとか仲間を増やすとか、いつでもそういうものが力を持っていますから。


「運動」でもそうなんですけど、ちょっとしたデモやらなにやらをやって「オルタナティブな空間でストリートの意味づけを変えたー」とかって言っても、解釈を変えて自己正当化する以上に意味はない。「これからも運動をがんばるぞ」というモチベーションを高めるためのイベントにはなるかもしれませんが。

私は、それすらも「批判の語彙」のひとつなのではないかと思っているところがあります。例えば近代の歴史なんか授業でならった事のないような人たちが「騙されていた」とか言っていたりする(会場、笑い)。その中にはおそらく、「騙されていた」というポジションを取る事で相手の失策を列挙するというゲームの骨法、「最も下から叩けば最強」みたいなルールに乗っ取っている人が多くいて、それが被害者意識に実際に結びついているかというと、別ではないかと。書き込みの内容と書き込み主の態度にも乖離があると思います。だって、反韓的な書き込みは私でも書き込めるわけですから。

政治とマーケティングというと、よく「電通陰謀論」みたいなのが囁かれますけど(会場、笑い)、実際広告の力というか、そういう言葉の力は大きいですよね。今月の広告業界雑誌『PRIR』に、石原都知事三選のための政治広報戦略を担当したマーケターのインタビューが載っていましたけど(宣伝会議 - 雑誌:PRIR(プリール))、そういうマーケティングは普通に政治でも行われていますよね。というか、政治に使うためにマーケティング手法が発展してきたという歴史もあるわけですけど。


そういうマーケターは意外にあまり政治には興味がなくて、クライアントの意向をどう叶えるかとか、どうやれば目の前の課題をクリアできるかとかしか考えていない。でも、政治系のコミュニティからの観察だと、そういう当然のことが見落とされてしまうことで、物事の複雑性が覆い隠されてしまうことがある。一方で、そういうマーケターの力というのが、かなり状況設計的に有効な効力を発揮したりする。そういう前提に立った上で、丁寧に議論をするのがいいと思います。


時間になりましたが、まだ話せていないことが多くあります。また、今回は「ブロガー」という視点を前面に出したため、ちょっとニュアンスが偏ったような気がします。続きはウェブなど、別の機会で議論させていただきたいと思います。ご清聴、ありがとうございました。



【資料】
当日使用したパワーポイント


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