中川八洋+渡部昇一コンビによる『教育問題憂国本』の面白さ。
以前、「『新しい歴史教科書を作る会』会長&名誉会長コンビが出した『ジェンダーフリー・バッシング本』の面白さ」というエントリーを書きましたが、それを遥かに超えるスバラシイ本を先日読みました。それは、chiki が勝手にプロフェッサーNと呼んでいる中川八洋さんと、保守主義者の重鎮であり自己啓発本もたくさん出している渡部昇一さんの共著、『教育を救う保守の哲学―教育思想(イデオロギー)の禍毒から日本を守れ』です。
同書は、サブタイトルに「教育思想の渦毒から日本を守れ」とあるように、現代日本の教育全般の荒廃を嘆いて処方箋を提示するという内容の本です。渦毒ですよ、渦毒。以下、例によってネタとベタの違いが分かる人だけお読みください(無駄に長いです)。
本書はまず「まえがき」において、中川さんが「国家」の役割について次の説明するところから始まります。
国家とは何か。祖先の栄光も艱難も成功も失敗もすべてを『偉大なる過去』として崇敬する精神の共有を生命とする共同体のことである。したがって、教育とは、この『偉大なる過去』を“世襲”する、次代の優れた大人をつくるべく、現代の子供たちに対して、現在と現在に至るかことを確実に“相続”することのできる精神を訓育し、それ相当に高い知見と能力とが身につくよう教授することである。
中川さんは国家をこのように定義した後、しかし現代の日本はその役割を「忘却」してしまったと批判します。
一九六八年の東京都の学校制度導入から始まった、努力や勤勉の徳性を破壊するための「競争否定(自由否定)の悪平等主義」の蔓延を嚆矢として、それ以降、日本が実行した過去三〇年間の教育制度の改変は、一つ残らず、日本の社会解体・経済衰退を目的にしたものだったが、日本の子どもたちへの憎悪からその人格破壊も主眼であった。日本を呪詛するマルキストや共産主義者にとって、日本の未来を担う子供たちは、彼らの憎悪と怨念の増大の標的であった。
明治・大正時代から日本が輸入してきた欧米の教育思想はほぼすべて、日本製の教育思想はすべて、教育を破壊する有害なものばかりであるのに、それらを一掃するどころか、今も日本は拡大再生産している。日本は教育再生の方法すらわからなくなった。日本は、教育思想の渦毒によってすでに滅びの道にあるし、近未来に必ず死に至るであろう。すなわち、この「教育思想の渦毒を一掃する」ためには、国をあげて保守主義の哲学に回帰するしかないことを再確認してほしいのである。
これまでの教育は何から何まで間違いで、日本の教育はいま「滅びの道」にあるのだというのです。chiki 的にはむしろ、この数百年それだけ間違いだらけだったのにまだ滅んでいないことに驚きです。さすが神のクニ日本、と言うべきでしょうか。というわけで、そんな結構しぶとい日本を「再生」するべき方法を、渡部さんと中川さんのお二人が検討していきます。
(渡部) 日本の戦後は、偽りの国家でした。国家が経済だけでやっていけるという錯覚を一億人みんなで弄んできたからです。(…)むろん、経済以外のあらゆるところで日本は綻び以上の崩れを見せています。「日本の滅亡」はもはや避けられないかもしれません。「日本の亡国」すら視野に入ってきました。(…)
(中川) 私も、日本は二〇五〇年に至る前に、滅ぶことがあると予測しています。(…)滅亡する日本経済の再生は、どんな経済政策をしても、不可能です。経済学の知識では対処できません。「日本経済の終焉」は、経済とはまったく別の要因から生じているからです。
(渡部) そうなんですよ。「国家の経済」は、この「国家」という二文字を理解しないと、皆目わからないものです。「国家の経済」に似たものは、封建時代の「家」制度化の「家の経済」しかない。だけど、こんなイロハも知らずして日本経済を論じられるのは無謀です。日本の大学で教える経済学には「国家」がありませんから、「国家の経済」を論じる知恵すら全く入っていません。
渡部さんもやっぱり日本の戦後はダメダメで、やっぱり日本は滅亡すると仰っています。それは一億人みんなが、カネばっかり大事にしてきたからです。お二人はしょっぱなから経済学者を Dis ってますが、お二人によれば今の日本に必要なのは経済政策ではなく、「日本国民が喪失した『高貴な精神の回復』」だということに気づかないからなのです。「経済など、高雅な倫理・道徳の満ちる土壌があれば、すぐに芽を出します(渡部)」というのに。会計学とかリフレ派とかほざいている学者達は耳をかっぽじって聞きましょう。
お二人によれば、そんな滅亡間近の日本に対して「美徳ある日本の再生(渡部)」を行うためには、しっかりとした教科書が必要になるとのことです。残念ながら「『修身』の教科書をそのまま使える」わけではないので何か代わりのものはないだろうかと、教科書のあり方について考えていらっしゃいます。
(中川) スマイルズの『品性論』と新渡戸稲造の『武士道』は、道徳の教本としては、世界の二大古典です。もちろん、スマイルズの道徳論四部作――『自助論』『品性論』『義務論』『節倹論』――はすべて、素晴らしい作品ばかりです。『武士道』とあわせて、私は、“日英の道徳五大古典”と呼んでいます。(…)『品性論』の翻訳出版は、祖国日本のため、本当に急務です。
「日英の道徳五大古典」の割に日本は一冊しか挙げられていませんが、このつつましさこそ日本の美徳です。皆さん見習いましょう。これらの本さえあれば、教育問題はパーペキに解消するので、教科書に採用するといいです。
(渡部) (『品性論』の)第十一章(引用註:良き妻と結婚せよ)を、丸薬にして、夫婦別姓運動のフェミニスト全員に飲ませたい。そうすれば、フェミニストが、塩を振りかけられたナメクジのように、日本中から一掃されますよ。
(中川) いや、この第十一章は、日本の男子の中高生こそ読むべきです。読んだらすぐフェミニストの狂った甘言などには乗らなくなりますよ。「性器・性交教育」や「ジェンダー・フリー教育」をする「赤い教師」は、すぐ学校追放になりますよ。
(渡部) 文日本の学校での「道徳」の授業は教科ではないから、教科書が無い。しかし、文部省は、『武士道』を準・教科書とすればよいのです。そうすると、日本の子供たちは、世界に誇る日本の武士の子孫として矜持を回復するから、学級崩壊など瞬時になくなりますよ。
教科書パワーSUGEEEEEEE。本を一冊読めばすぐに矜持を回復するような素直な子ども達でいっぱいなのであれば、日本はすでに安泰なのかもしれませんが、それにしてもなぜフェミニストだけは丸薬を呑まされるのでしょうか。どうせ奴らはカタツムリになりたがっている下等生物なのだから、本なんか読めやしないということなんでしょうか。個人的には、本をどうやって丸薬にするのか、その調理法を是非知りたかったりします。
渡部さんは「江戸時代と明治時代は、日本最高の時代でした」と嘆きます。もちろん単純に過去と現在を比較することは難しい。では、どこかにロールモデルになるような国は…あった! 我らが宗主国…じゃなかった、同盟国たるアメリカです!
(渡部) アメリカの家庭での躾は、それなりに厳しいですよ。子供が汚い言葉を使うと母親が首根っこをつかんで洗面所に連れて行き、口の周りに石鹸をつけて「口を洗いなさい。汚い言葉で汚れている!」と、叱る光景を見たことがあります。
アメリカこえええええええ。ついつい映画『キャリー』を思い出してしまいました。
(渡部) 現在の米国の大衆教育は、かつての日本の明治時代の教育を思い出させるほど健全です。
(中川) (…)先ほど渡部先生があげた、『アメリカの事例から学ぶ学校再生の決めて』を読むと、米国の一般大衆教育の実態が、寺脇研の逆であるのがわかります。そこには、次のように書かれています。「現在のアメリカの学校は、規則正しく、明るく、自由でのびのびした教育が行われている。正規の学校は、生徒は規律正しく、教師の指導によく従い、反抗する生徒はなく、遅刻もなく、学校内は安全できれいで、授業中は静かで、廊下では列を作って行動する。ましてや学級崩壊などの情況は微塵もない。
これは事実である。
それでは、アメリカの生徒はすべて優等生で、真面目で、非行もなく、麻薬や銃や暴力などの問題行動はないかというと決してそうではない。細かい規制を作り、それに違反した生徒は、ゼロトレランス方式によって罰せられ、ただちにオルタナティブスクール(矯正専門校)に送られるのである(強制転校)。したがって、正規の学校には、教師の指導に従わないような問題生徒はいないのである。」(カッコ内中川)
「ゼロトレランス方式は、規則違反者には寛容さなしで、規則どおりに措置をする。すなわち罰則を規則どおりに、ただちに適用して、責任をとらせるということである。絶対に許容しない指導ということである」(渡部) 山本有三の名作『米百俵』を持ち出すまでもなく、教育こそ国力です。日本の米国教育の誤解ははなはだしい。回復著しい「教育超大国」米国の教育こそ、今度は、日本がじっくり学ぶときですね。(…)
(中川) そのためにも、まず日教組や高教組の解体と絶滅が不可欠。次が、赤い教授たちが巣喰う有害無益の教育学部の全廃ですね。そして文部省は、米国の教育界の実情や仏のエリート教育制度を学ばせるために、文部官僚たちに視察研修をさせねばなりません。
どうやら次の旬は、「フランクフルト学派陰謀論」だけでなく、「ゼロトレランス方式」も採用されそうです。ゼロトレランス方式ってなんだろうと id:macska さんに尋ねたところ、『ボーリング・フォー・コロンバイン』 で紹介されていた、チキンのフライを銃に見立てて「バンバン」と言った小学生が停学処分されたというアレだよと教えていただきました。あーあれかーなるほどー、確かに「寛容さなしで、規則どおりに措置」するという「絶対に許容しない指導」だと納得です。今話題の「教育再生会議」よりも「毅然とした指導」っぽいですから、お二人が気に入るのも当然です。
米国の歴史教育は、バーフィールドの言う通りに、アメリカの国体(constitution)に誇りを持ち、愛国心が大樹のように成長するような「美しき虹」――共同表象の体系――をしっかりと見せる教育となっています。この米国の歴史教育はとても健全だと思います。(…)
米国に学ぶべきことは、もう一つあります。愛国心教育です。米国では、幼稚園児や小学生は、毎朝、次の文句で学校で星条旗に忠誠を誓います。また、学級ごとに星条旗がいつも掲揚されていますから、それに向かって大きい声で誓うのです。
「私は、アメリカ合衆国の国旗およびそれが代表するところの共和国(米国)に対して、すなわち、すべての国民に正義と自由を与える、神によって分かたれざる一つの国家(米国)に対して、忠誠を誓います。」
米国の愛国心の強さは、この国旗忠誠教育――公民教育の一つ――の成果であろうと思います。日本は、敗戦の二年前の一九四三年(昭和一八年)に将兵の不足から「学徒動員」といって法文系の大学生まで召集しましたが、米国ではそんな必要は全くありませんでした。大学生からの志願兵があり余るほどだったからです。米国の青年の愛国心は、「軍国主義」と中傷されるあの戦前の日本人ですら足元に及ばぬほど強烈なものでした。
二〇〇一年九月十一日の「同時多発テロ」において、米国はテロリストを逮捕し法廷で裁くやり方について念頭すら浮かばず、直ちに“To War, Not To Court”(戦争だ。裁判所ぢゃないぞ)の声が九割以上もの国民の熱狂的に支持されるところなって、テロ組織「アルカイーダ」殲滅の方法としてそれを匿うアフガニスタンへの“戦争”を選択しました。そればかりか、米国全土にわたって走る車も家々も星条旗を掲げたその光景は、米国民の愛国心がいかに要塞のごとき堅牢さのものであるかをありありと見せつけてくれました。
(「美しき虹」、そして愛国心――あとがきに代えて:渡部昇一)
渡部さんによれば、日本の愛国心はアメリカの愛国心に負けているようです。「米国はテロリストを逮捕し法廷で裁くやり方について念頭すら浮かば」ないアメリカを見習いましょう。念頭にすら浮かんでいないはずなのに、「戦争だ。裁判所ぢゃないぞ」と言える点も魅力的です。すごいぜアメリカ人!
渡部さんは日本の再生のためには「愛国心の復権」が重要であると問います。国旗に向かって毎日大きな声で誓いの言葉を斉唱するとか、全土に国旗がある状態がイイとか、愛国心が大事だとか言うと、またサヨクが「軍国主義の復活だ!」とか脊髄反射してくるかもしれませんが、そのほうが健全なのだから仕方がありません。
(渡部) 米国は国民あげての星条旗への忠誠といい、軍人を尊敬することといい、健全で正しい常識が溢れています。
(中川) 軍人こそ倫理・道徳の鑑であるのは、日清・日露戦争だけでなく、あの大東亜戦争中においても、日本の多くの軍人の「戦死」によって顕現されました。たとえば、自らの生命を、愛国と大儀に捧げるその自己犠牲の高雅な精神を実践した約五千人の特攻隊の若者は、倫理・道徳とは何かを人類全体に示したものです。輝ける世界遺産です。
(渡部) だから、英霊を祀る靖国神社は、ひとり日本だけでなく、世界の倫理・道徳の聖なる社の一つでもあるのです。靖国神社には倫理・道徳の精神が社全体の木々の枝々にまで宿っています。道徳的に美しき人間を呪詛する、血塗られた、悖徳の共産主義者が独裁する中共(中華人民共和国、赤いシナ)の靖国批判の声など、「悪魔の声」であって、耳を傾けてはいけない。(…無宗教の追悼施設を作ろうとしている福田康夫は)自分の祖先である、二十歳前後の特攻隊の辞世の句ひとつ読んだこともないのでしょう。(…)今、靖国神社を護れるか否かは、われわれ日本人が、世界人類に普遍的な倫理・道徳を護れるかどうかの問題です。
美徳と言えば特攻隊です。唐突に思われるかもしれませんが、「論壇」では枕詞みたいなものなので、その論理展開からわびさびを感じ取ってください。特攻隊は人類全体にとって「輝ける世界遺産」なのです。靖国も同様です。それはなぜか。中川さんは本書の3章において、次のように書いています。
文部省の道徳教育は間違いだらけである。文部省とは、道徳とは何かと尋ねられても、さっぱり答えられないほど、道徳について全く無知である。道徳を知らないのだから、文部省は、道徳教育がでいない。
(…)暴風雨のなか激流に溺れる小学生を助けるべく通りがかりの青年がその川にとび込んだとする。するとこの光景を見たものは皆、その勇気、その自己犠牲の精神に感動する。すなわち、自らの生命を棄てる覚悟、自らの生命を尊重せず生命を軽んじたが故に、一般の人々がすべて、この青年に対して、美しき徳性の人格とみなすのである。
道徳とは、美徳ある行為は自らの生命よりも高い価値がある、とする精神のことである。その逆に、生命の優先が価値あることだとすれば、道徳は直ちに死滅するしかない。
(…)文部省の「自他の生命を尊重する」という狂った反道徳教育は、子供のの一部を殺人者へと誘う教育でもある。嵐に船が転覆し二人が海に投げ出され、たまたま救命道具が一つしかなかったケースを想定しよう。このケースで自他双方の生命を尊重することは不可能である。自分が助かるか相手が助かるかに遭遇すれば、生存への欲望は人間の自然的本能だから、「自他の生命を尊重する」論理からは、「自分の生命を尊重する」ことになり、相手を殺して海に沈めてもその救命道具を奪え! という教えになる。
卑近な日常の学校生活にあっても、このことは同じである。「いじめ」から逃れるために先制的に相手をバタフライ・ナイフで刺し殺すのは、「生命の尊重」教育を正しく学んで正しく実行した正当な行為である。「生命の尊重」が、「動物化せよ」「無道徳人間になれ」「無法人間になれ」と同義語の危険な言葉であるぐらいは、道徳教育をするものが心得るべきイロハであろう。常識ではないか。
中川さんは、「道徳とは自らが自己に課す義務のことであり、自己犠牲のことである」と述べます。だから特攻隊は道徳の世界遺産なのです。なんか、たとえ話がどれも極端すぎる気がしますが、「常識ではないか」と断言されるとだんだんそんな気がしてきたので忘れましょう。
戦中は、アメリカ以下だったとはいえそれなりに愛国的だったり道徳的だった日本をダメにしたのは、経済学者やカネの亡者どもばかりではありません。サヨクやマルキストが日本をだめにしたのです。例えば、援助交際が日本に登場したのは、朝日新聞が天皇に敬語を使わなかったからです。
(中川) 昭和天皇の崩御を好機とばかりに、一九八九年、天皇皇后両陛下や皇族の諸殿下、妃殿下に対する敬称・敬語の廃止は、朝日新聞が人間以下の野獣性をむき出しにして主導したものです。天皇や皇族への敬語廃止の害は大きい。日本人の道徳の崩れは、このとき決定的となりました。
女性中高生の援助交際(売春)の蔓延は、その直後に始まりました。日本人の勤勉の喪失も時期を同じくします。敬語は倫理・道徳を密接に支える機能がありますから、当然の結果です。
(渡部) そうそう。「平等」というイデオロギーを振り回して、敬語使用に反対する朝日新聞の姿勢と、日本人を拉致・殺害した北朝鮮に対する朝日新聞の熱烈支援には、密接な関係がありますよ。いずれも日本人に対する憎悪です。日本人に対する殺意です。人間への憎悪は恐ろしい。
日本人をぶっ殺そうとしているらしい朝日新聞に留まらず、お二人は誰それはマルキストで、誰それは共産主義者でと名指しで批判していきます。特に河合隼雄がマルキストだと名指されているのには驚きました。シラナカッター。
そんなバカサヨク達の陰謀のせいで、日本を襲う危機はどんどん増えています。そのうちのひとつが、少子化問題です。
(渡部) 今、日本には、「子が少ない」の「少子化問題」の先の怖い話、「孫がゼロ問題」を指摘したい。日本の出生率の低下は、一.〇以下になるだけでなく、いずれ、ゼロまでいきますよ。二〇〇二年七月にロンドンに行ったとき、偶然に気づいたのです。
グリニッジまでテムズ川で往復することになって、数組の日本人夫婦と昼飯を一緒にしました。全員、孫がたくさんいて良い歳なのに、私の一人を除き、誰にも孫がいないのです。私のケースを言いますと、二人の息子は結婚しているのに子供はまだゼロです、娘だけが一人産みました。家内は三十歳には三人の子供を育てていましたから、そこから考えれば、私の血が入っている孫が九人いるべきです。
また、この前、ある夕食会に同じテーブルの夫婦達はそれぞれ三人の子供がいるのに孫がゼロでした。日本の人口はこの二十一世紀中には六千万人になると言われています。でも「五千万人が老人で、やっと一千万人が若者」という国で、本当にやっていけるのでしょうか。
(中川) 人口維持には二.〇八の出生率が必要です。が、日本の出生率はすでに一.三台です。東京とは一.〇です。逆・鼠算で人口の大激減が生じます。私の計算では、二〇八〇年頃の日本の人口は三千万人、二二〇〇年頃には五十万人ぐらいだと思います。渡部先生のあげた「六千万人」は、某研究グループのものでしょう。それは平均寿命が大低下するのを考慮していませんし、出生率低下の予測は甘すぎ、まだまだ現実離れしています。つまり正しくは、「六千万人」ではなく「三千万人以下」になると思います。
今世紀中にも北海道はロシア人の領土になっているはずです。沖縄以南の島々が日本の領土である可能性は全く無い。沖縄、奄美すら危ない。小学生程度の算数ができれば、自明なことです。
あと百年後には日本人は、東京や大阪にわずかにかたまって住んでいる少数民族に転落しているはずです。二一〇〇年に入れば、日本列島はロシア人とシナ人の外国に分割されていて、日本という国が存在していることはまずないと思います。
>日本の出生率の低下は、いずれ、ゼロまでいきますよ。
な、なんだってー!
>私の計算では、二〇八〇年頃の日本の人口は三千万人、二二〇〇年頃には五十万人ぐらい
な、なんだってー!
>今世紀中にも北海道はロシア人の領土になっているはずです。
な、なんだってー!
発言のすべてが衝撃です。中川さんの計算によれば日本はとてもヤバイことになっています。統計によれば、ロシアの合計特殊出生率も日本と同じくらい低いみたいで、同様に減っていくのであれば日本はロシア人のものにはならないんじゃないかとは思うんですが、それは chiki が小学生程度の算数もできないから理解できないのでしょう。一瞬、「小学生程度のどんぶり勘定」と読み間違えたのかと思いましたが、違いました。
ただ、渡部さんもちょっと疑問に思ったようで、中川さんに質問を投げかけています。
(渡部) 平均寿命がどうして大低下するのですか。
(中川) 社会保障が崩壊してしまうからです。医療の税金補填がゼロとなって、老人数が急増しますから、老人が医療を受けられる情況も制度も火山の噴火のごとく全く無くなるはずです。老人が早く死ぬ時代の到来で、平均寿命は現在より十歳以上は低くなっているはずです。厚生労働省の人口問題研究会のデータは総て改竄に次ぐ改竄で、全くの出鱈目です。社会保障制度の劇的な崩壊をあたかも起こらないがごとくに嘘を作るため、百%でっちあげた作為です。
「人口減少→社会保障崩壊→老人がバタバタ死ぬ→寿命の低下」ということみたいです。おお恐ろしい。え? ドミノ理論? なんですかそれは。でっちあげばかりの学者のコトバなんか出鱈目ですからスルーしましょう。渡部先生も、それ以上追及しませんでしたから。中川さんの「計算」によれば日本は次のように変わるのですから、そんな訳の分からないことより日本の未来のことを考えるべきなのです。
◆2033年=ジェンダー・フリー賛成派と反対派は確実に「百対〇」(参照)
◆2050年=日本滅ぶ。
◆2080年=(元)日本人の人口は3000万人に。社会保障は崩壊。
◆〜2100年=北海道はロシア人の領土。沖縄以南の島々はどっかの領土。(元)日本人は、東京や大阪にわずかにかたまって住んでいる。
◆2100年〜=日本列島はロシアと中国のものに。
◆2200年=(元)日本人の人口は50万人。
なんか、色々とトンデモないことになってます。中には「まるでハルマゲドンみたいだなぁ」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、中川さんは本書でジェンダー論のことを「ハルマゲドン並みのカルト宗教の狂説」と批判していましたから、そんなカルトと一緒にしてはいけません。なんせ、こっちは「計算」なんですから。
そんな少子化の現状をダメにしている例の一つが、遺産相続の問題です。
(渡部) 遺言相続を事実上無力化するのが遺留分という規定で、第一〇二八条がそれです。子の場合、被相続財産の二分の一です。これでは、悪法の中の悪法です。
(中川) 分割相続は子供を平等に扱うかわりに、その子達が末永く仲睦まじく集まれる場所を解体してしまいます。兄弟の間に上下の秩序なければ、兄弟の絆は粉塵となって消えます。分割相続とは、兄弟の絆を国家が強制的に切断する制度です。兄弟仲睦まじく、という人倫の道に反する悪法です。
墓を守り、仏壇の祭祀を毎日するのは一人ですから、「平等にする」とは、一人を除いた他の子供はしないでよいとの、不平等の定めです。祭祀相続者が、財産相続権を持つのが正しい家族のあり方で、法律的な制度は、“古来からの法”に沿うべきです。これが正しい“法の支配”です。
中川さんはまえがきで、「“世襲”において連続する親と子、大人と子ども、の精神における紐帯が、ダイアモンドより硬く、ピアノ線より強靭であることを前提とする」と書いていましたが、兄弟の紐帯に関しては粉雪のように儚く、乾燥したウンコよりも脆いことを前提としたほうがよさそうです。ちなみに、「法の支配ってそういうものだっけ?」と思ったあなたは勉強不足なので、中川さんの本を百回読みましょう。
お二人の少子化問題への言及はまだまだ続きます。
(渡部) 「少子化」という言葉は、どうしても腑に落ちない。一九八〇年代末に「出生率低下」と騒がれたのに、いつの間に「少子化」という言葉がすりかわったのだろう。
(中川) 「出生率低下」の五文字は日本の亡国に至る事態を正しく認識させます。しかし、「少子化社会」の五文字では、危機にならないというニュアンスがあり、明らかに「出生率低下」という大問題を、そうではないと隠すための麻薬語です。
(渡部) 「少子化」とは、三文字魔語か。ヒットラーの「ドイツ千年王国」と同じやり口の宣伝スローガンでしたか。やっぱり「出生率低下」とか、「低出生率社会」という、正しい言葉に戻す必要がありますね。そうしないと、「少子化になっても日本はなんら問題はない」「少子化社会はそれなりに豊かな社会だ」など、デマゴギーの流布を許すことになってしまう。
(中川) 「少子化社会は日本の危機にならない」という主張を聞くと、ローマ帝国末期のデマゴーグたちの再登場を感じます。日本を愛せない“非国民たち”のデマゴギーが日本を支配している。日本の悲劇はこれですね。
少子化というのは「麻薬語」であり「魔語」で、出生率が低下している現状を隠すための官僚の陰謀なのです。「少子化」でも「出生率低下」でも、あんまり変わらないんじゃないかと思ってしまうあなたは麻薬中毒になっている恐れがあります。至急回復しないと、人間やめちゃうことになります。少なくとも、“非国民”にはなっちゃいます。
(渡部) なぜ政府は、この「出生率低下」問題に取り組まないのですか。
(中川) 政府には、文部、厚生、労働、建設の四省による一九九四年一二月に筒圧された「エンゼル・プラン」があり、これが癌になっているからです。「エンゼル・プラン」の内容は、日本の出生率の改善・向上とは完全に無関係なことばかりで、むしろそれを積極的に無視しています、日本の出生率低下問題に便乗して、「家族解体」「親子切断」を促進する“赤い意図”の政策化提言です。
なぜなら、「社会全体が子育てに対する機運をつくる」とか、「企業/職場/地域社会で子育て支援の体制を整備する」とかは、カンボジアでたった四年間で二百万人も殺害したポル・ポトとまったく同じマルクス/エンゲルス主義の“コミューン型共同体の子育て”のことではありませんか。つまり、「日本が共産社会になったら産んであげる」が、大前提になったプランです。少なくとも、家族や夫婦というものを全面否定するイデオロギーに立脚しています。
(渡部) 「エンゼル・プラン」実現後の子供たちは、現在の北朝鮮の独裁体制化の子供たちと同じになるということだね。子供を親から取り上げようとするものだ。人身売買であったあの幼児論出の、チャウシェスク独裁化の共産ルーマニアの子供政策にも近い。(…)霞ヶ関は、共産主義者・マルクス主義者の官僚が大手を振っているとは聞いていたけど、ここまでひどい、とは知らなかった。(…)
(中川) 実は、この「エンゼル・プラン」の赤い官僚たちは、出生率低下をさらに悪化させることを画策しています。
「社会全体が子育てに対する機運をつくる」とか「企業/職場/地域社会で子育て支援の体制を整備する」とかは、マルクスっぽいからダメなようです。なお、本書では「赤い○○」シリーズを連発していますが、もちろん大映とはなんの関係もありません。
(渡部) 出生率の回復は、家族の再生しかありませんよ。その特効薬は、民法の重要部分を旧に戻すことです。あるいは旧民法と現民法を折衷して、「準・家」制度を作るしかありません。そうすれば、すべての日本人はすぐに「よりたくさん子を産み、よりたくさん子を育てる」という行動を自然的にします。
(中川) その通りです。問題を解決するには、出生率低下問題を招いた原因を除去すればよいのです。まずは、家族解体の教説をすべて粉砕するか禁止することです。次に、法務省民事局で「夫婦別姓」の法律改正を企画した官僚と、厚生省で「エンゼル・プラン」を立案した官僚を分限処分することです。(…)
(渡部) では、具体的に出生率は、いくらにすればよいのですか。
(中川) 一九八〇年代半ばに抜本的改革をしていればまだ傷は浅かったのですが、現在の日本の出生率低下の現状は、すでに手遅れの事態といえるレベルです。私の計算によれば、一九五〇年前後の「四.〇」の出生率に戻さない限り、日本の亡国は避けられません。
(渡部) では、政府はすぐ、「エンゼル・プラン」を廃棄して「出生率四.〇プラン」を宣言すべきだ。そして、堕胎を原則禁止する方向で法改正して、妊娠したら出産させることを国をあげての合意(コンセンサス)にしなくてはいけない。これこそ、国家滅亡がかかった日本の最優先事項ですよ。
お二人は、「○○をするとすぐに全員が××する」という思考パターンが多いようですが、今の日本に足りないのはこの明るさと強引さリーターシップなのです。そういえば、少子化問題に関して渡部さんは『日本を貶(おとし)める人々』(新田均、八木秀次との鼎談)のなかで次のように述べていました。
少子化、ゼロ孫化を食い止めるためには、子どもを産まずに高齢を迎えた人に対し、国家としては雨露がしのげて飲食には困らない程度の施設は用意するけれど、他はいっさいしないというくらいの荒療治をしなければだめです。そうした冷水をぶっかけられれば正気に戻ります。いささか意地悪に、しかし本質を剔抉すれば、ろくに家庭をつくりたがらないような女性が中心になって法律をつくっているわけでしょう。家庭をつくり、次代のために育児や教育に励んでいる夫婦が損を被るような社会では国はもちません。
子供を産まないと損をするような社会をつくるくらいの荒療治が必要なのです。ついでにコンドームの販売中止とかするとガンガン子供が生まれると思いますが、それはさすがにナシみたいです。個人的には、「神聖な義務」を忠実に守って産み控えたという人がいても「他はいっさいしない」のか気になりました。
少子化問題を憂うだけ憂いて、「とにかくガンガン作らせようぜ」という結論に達したところで、次はいよいよジェンダフリー批判です。まず、中川さんが日本の性の現状を次のように語ります。
(中川) 日本ではもはや小学生のセックスも売春も珍しくありません。小学生の男児が新宿に女を買いに行くのも驚くことではありません。
すみません中川先生、小学生の男児が新宿に女を買いに行ったら素で驚いてしまいそうです。
中川 小学校の「赤い女教師」の中には、児童にセックスを奨励するのが増えました。修学旅行のとき男児と女児を同室にして、セックスをするよう、間接的に教唆する教師もいます。赤い女教師は、子供たちの人格や人生などメチャメチャに破壊してやろうと、呪いの一心からやりたい放題に暴走しています。
「同室宿泊や同室着替えはジェンダーフリー論者が男女の区別や羞恥心を奪うのが目的だ」というような陰謀論コメントはこれまでも何度か見てきましたが(参照)、まさか「セックスをするよう、間接的に教唆」することだったとは! この説は初耳です。これらの指摘には、流石の渡部さんも驚いています。
(渡部) これでは、神の怒りに触れ滅ぼされ、廃墟となったソドムの町だ。日本の学校の現場での荒廃はそんなにひどいのですか。
(中川) 日本では一九八〇年代からソドム化が進み、いまやどこから見ても日本全体が「ソドムの町」になりました。一九八六年からの「バブル経済」の始まりは、子供たちの性的紊乱の始まりと同時でした。これは、重大な点です。
どこから見てもそうなのですから、これをお読みのあなたの町も「ソドムの町」です。気が付かなかった人はよーく観察してみましょう。もちろん、経済至上主義と関係有りそうなのも、重要な点です。中川さんは別にバブル時代にモテなかったことをうらんでいるわけではありません。相手の言説を個人的な生活背景やルサンチマンに回収して終わらせるそのような言説は、生産性がないのでやめましょう。
(中川) 日本の子供たちは、性器・性交教育という魔毒に加えて、一九九〇年代末からジェンダー・フリー教育という人格改造の外科手術までされるのですから、その人間性はぼろぼろになりますよ。人格も完成もその正常性を維持することは不可能です。
(渡部) (…)日本のセックス・アニマル化を図るのが性器・性交教育で、日本のカタツムリ化を図るのがジェンダー・フリー教育というわけですね。
(中川) そのとおりです。(…)日本人が正常と異常の区別もできない狂人となって、日本という国がこの種の狂人だらけとなって社会が腐るように溶けて崩壊するようにもって行くのが、ジェンダー・フリー教育です。一方、日本人を大人になってもいつまでも淫乱で色情狂の非行少年・少女のままに人格を荒廃させていくのが性器・性交教育です。
(中川)日本で「性教育」と称されるものは、性交のススメ、自慰のススメ、ポルノ的性器学習が中心であって、教育ではない。教育現場が最も排除しなくてはならない、反・教育の“猥褻学習”である。つまり、「性教育者」とは、教育者ではなく、人格異常の変質者である。教壇に立たせること自体、あってはならないのは、言うまでもない。
(…)「性教育者」とは“性器狂”である。このことは、山本直英の著の一つ、小学生向けの絵本『おちんちんの話』(一九九八年、あゆみ出版)を読めば一目瞭然で、多言を要しないだろう。そこでは、勃起・射精・自慰を説明すると称して、自慰のススメが主目的となっている。登場する小学生の男の子「太郎」とその母親との会話は、次のようなものだ。
「ある日、太郎は……チンチンを手でいじってみたらきもちよかったのです だけど お母さんに見つかってしまって……」
「(吹き出し、母親)太郎 人の見ているところではさわらないでね」
山本は、母親に子供の自慰を叱ってはならない、男児に人が見ていなければ自慰をいくらやってもよい、と教示している。これでは、日本の子供たちは、上野動物園のサルと同じになるのではないか。
性教育は淫乱で猥褻で色情狂なサルを作るのです。引用されているセリフをみるかぎり、「人が見ていなければ自慰をいくらやってもよい」という「ススメ」が「主目的」になっているわけではないように思いますが、それ以前に「人が見ていなければ自慰をいくらやってもよい」というのはダメなのかとちょっと驚きました。ということは、 chiki の勝手な想像では、このエントリーを読んでいる人の多くはサルなのではないかと思うので、みんなで悔い改めましょう。
それにしても「性差意識をなくす(とされる)」はずのジェンフリと、セックスをガンガンやろうと促す(とされる)性器教育は一件矛盾するように見えるんですが、それは多分中川さんではなくフェミニストたちが矛盾したことを言っているのでフェミニストのせいにしましょう。なお、中川さんによれば、上野動物園のサルは、自慰ばっかりしているみたいです。上野動物園は好きなのでよく行くんですが、残念ながら目撃したことは無いです。多分、人が見ていないところでやっているのでしょう。
(中川) 中・高校生にゲイやレズの体験をしろ、バイセクシュアルが正しい、などと公然と教える日本の教育の情況は、一刻の猶予もありません。ゲイのやり方を描いた絵まで配って、生徒にゲイの体験をしなさいなどという教師を、処分するのが当然です。地方によっては「変態」の教師を積極的に採用して教壇に立たせる教育委員会まであります。
(渡部) とんでもない教師たちだ。本当に吐き気がする。
これまで多くの言説を収集してきた chiki ですが、ちょっと聞いたことのない例が多く並べられています。ゲイやレズの体験をしろ、という「教育の情況」ってありましたっけ。ただ、ソースが一般に無かったとしても、高橋史朗さんが行った「私の調査」と同様かもしれないので、とりあえず追求するのはやめましょう。
(渡部) (セックス/ジェンダーという区別は)なんとも馬鹿馬鹿しい。すべての男児が思春期になると女性を意識し追いかけたりしますが、そうなるのは社会がそう育てたからだ、と言いたいのですね。
(中川) (…)「社会」が男と女というジェンダーを作ったから、「社会」はまたジェンダーを変えてよい、という教説――狂説――は、こうして組み立てられたのです。しかし、女の子が思春期になると自然に初潮が始まり、胸が膨らんでくるように、ジェンダーはどこにもありません、「社会」が初潮をつくり、胸を発育させたのではありません。「性」はすべて、生まれたときに定まっています。これは今では医学的に証明されている、不動の真理です。今日の「脳の性差」の研究の成果は、ますますジェンダーという「世紀の大嘘」の正体を暴いています。男性の脳と女性の脳は歴然と相違します。しかも、この脳は、生まれと同時に誰もさわっていませんから、社会がその相違をつくることは万が一にも無かったことは自明に過ぎます。それでもなお、もし、ジェンダーが存在すると言いたいのであれば、子供は脳の手術を受けて男や女になったと証明しなくてはならない。
(渡部) 詭弁もここまでくると馬鹿馬鹿しくて反論する気になれないでしょう。フェミニストは、人格や精神の異常な人が多いと聞きましたが、こんなに妄想や幻覚で教説を作っているのだから、まさしくそうですね。
別にジェンダーという概念は、「男子が女子を好きになるのは社会がそう育てたからだ」と言うようなものではないと思いますが、おそらく渡部さんは馬鹿馬鹿しくて反論する気になれないから手加減しているのでしょう。それにしても、「性」はすべて生まれたときにきまっており、脳を直接さわらないと、男女に関する役割分担や価値観は変わらないという中川さんの指摘は深いです。ということは、生まれたときにきまっているはずの性の役割分担や価値観に従わない輩は、何者かによって脳を改造された恐れがあります。直ちに丸薬を飲ませましょう。
お二人は、ルソーやマルクスを好きな人は、容赦なく Dis ります。「ルソー思想と関係」していると危険だから、排除しなくてはならないのです。
(中川) フーコーは、その過度な手当たりしだいの男色からエイズに感染し、それで死にました。いわゆるセックス狂の人物である上に、精神が病んだ、文字通りの狂人でした。
(渡部) ルソーに似てますな。
(中川) 自殺未遂二回の経歴のあるフーコーは、ルソーが自分と同じ柔道の精神病患者であることでルソーが好きでたまらなかった。ルソーの作品『ルソー、ジャンジャックを裁く――対話』の出版に際しフーコーが書いた序文は、「狂人こそ正常」という、気持ちの悪いルソー弁護論ですが、加えて、そこにはルソーへの「愛」が迸っていて気持ちが悪い。フーコーの思想は、一言で言えば、マルクスとニーチェとハイデッガーをブレンドしておいてその上にルソーを振りかけたものです。
フーコーの思想が一言で説明されてしまいました。さすがプロフェッサーです。ルソーなんて、まるでフリカケ扱いです。きっとサヨクにとっての「アジの素」ってことなんでしょう。
但し、フーコーをゲイだゲイだと囃し立ててはいるものの、お二人は同性愛者を認めないわけではないようです。
(渡部) 同性愛については認めてあげましょう。現に、日本では同性愛をしたからといって、何らの法的制限や処罰もありません。そのかわり、同性愛問題を、フェミニズムという革命運動の一つにしないでいただきたい。「同性愛は私事ではないか」と。
(中川) その通りです。公的な問題とすべきはたった一つ、ほんの僅かな人数しかいない、性同一性障害の方々の問題です。その性転換手術費用は、社会保障の適用とすべきか、性転換手術後の戸籍の性別更新届けは受理されるべきか…です。私は社会保障を適用してあげるべき、籍の性別変更を認めてあげるべき、と考えています。
(渡部) 僕も、その意見に賛成だな。それによって、性同一性障害の方の問題が完全に解決し、「政治化」ができない以上、脳の性別と世紀の性別が不一致の方の中で、同性愛を選択する方々の問題は「私事」となって、政治・社会問題から完全にはずせる。フェミニズム運動が、同性愛問題を革命キャンペーンに悪用することが出来なくなる。
(中川) 学校は「性」というまったくの「私事」を扱ってはなりません。「性器・性交教育」も「ジェンダー・フリー教育」も、公的な学校とその教室から一掃してこそ、教育の現場は健全な環境になるのです。
お二人は、同性愛や性同一性障害は「認めてあげる」という立場のようです。なんて偉そう寛容なんでしょうか。法的制限や処罰がない現状では同性愛は何も社会問題ではないし、性同一性障害も手術の支援と戸籍の解消があればもう「完全に解決」するみたいです。同性婚等に関しては、華麗にスルーする力を身につけましょう。
お二人の批判は徐々に、こんな日本を作った輩と見立てた相手に向けられていきます。
(渡部) 社会党が、ソ連軍を日本に導き占領させて日本に社共政権を作ろうとした、半世紀にわたる戦後史もまた、「社会党の大犯罪」として忘れてはならないし、社会主義者の恐ろしさを示す歴史的事実として忘れないようにしましょう。ソ連軍が日本に侵攻してきたら、一九四五年に八月の満州の時と同じく日本の婦女子は、ことごとくレイプされますよ。どう考えても、土井氏は「侵略してくれたお礼に」ロシア兵に日本の女性をふんだんにレイプさせることを考えていたとしか思えないくらいだ。
(中川) そうだと思います。この満州に「侵略してくれたお礼に」日本の将兵・男児百五万人以上をソ連に「奴隷」として差し出した「赤い政治家・軍人」の系譜に立つ人ですから。土井氏は、一九九〇年八月のイランのクウェート侵攻に際し、サダム・フセインに恋をした、それは独身であり続けた土井氏の「生涯にたった一度の恋」だった、と噂されました。土井氏の本性は「独裁者狂」「侵略者狂」ですから、侵略者や大量殺戮者に憧れ恋焦れるのでしょうか。
具体的に言えば、クウェートの婦女子が、イラクの兵士にレイプされているという噂の飛び交っているときに、約一千名が殺され数千名が生きたまま眼をえぐりとられたとかの肉体的拷問を受けているとアムネスティの団体が報告書(一二月一九日)を発表した後に、そして実際に数百名が誘拐されていたそのときに、ショッキング・ピンク色のスーツと真珠のネックレスに真っ赤に口紅をぬって、アンマン(ヨルダンの首都)の空港で八時間もねばってフセイン会いに行ったのです(一九九一年一月十三日)。人殺しの侵略者を英雄と崇め恋する土井たか子氏が、ソ連軍の兵士の暴行を必ず支持することは目に見えています。
(中川)宮台(引用註:宮台真司)の思考は、子供や少年少女への、ニヒルな冷酷残忍性が基層にあって、将来ある若者の人生をメチャクチャに破壊したい意図があると見てよい。「宮台真司にシンクロし、自殺したA君の絶望を追って……」というルポに対して、宮台は「僕の言葉に会うと、やっぱりと思うけど、同時にそこで首の皮が切れてどん底に落っこちる」と、自殺したくなることを認める。「自分の本を読めば自殺して当然」と、開き直っているのである。宮台の腐った心の病いは、「生きることに意味(何の為)もクソもないし、まして、生きなきゃいけない理由なんてない。生は端的に無意味です」と言い放つ、極度なニヒリズムに集約されていよう。(…)宮台は、子供たちを、もともと子供に無縁なはずのニヒリズムに誘導していくことを計画しての、恐ろしいアジテーターである。(…)
一九九〇年代の「世紀末」日本の上空を走り回る一匹の妖怪のごとき、「社会解体の旗手」宮台真司の偽情報宣伝戦の実力を、サブ・カル程度だと過小評価してはならない。宮台もまた教条的マルクス主義者の廣松渉の門下生であり、革命の方法はルーマン社会学であっても、その病んだ思想の根本はマルクス主義の革命狂牛病であり、日本と日本の未来を担う日本人(現在の子供たち)への憎悪と呪詛は、炭疽菌なみの殺人力をもっている。
細かい部分に触れるのも忘れてあっけにとられるほどの破壊力です。特に宮台さんへの批判になると筆に力が入るのは相変わらずです。ちなみに中川さんは『保守主義の哲学―知の巨星たちは何を語ったか』の中で、「宮台ヴィールスの危険な威力」と表現していました。今回は炭素菌、狂牛病、妖怪にたとえられています。次はなんにたとえられるのか、楽しみです。ところで、
(中川)宮台を実際の行動に駆り立てる指針の方は社会学者二クラス・ルーマンの理論であろう。すなわち、個人は相互浸透によって社会に対して衝撃的に影響を与えることができるから、その結果、社会を変革し社会を進化させうる、というルーマンの教義に従って、宮台は活発に激しく実践的な社会行動をしているように思えるからである。
というのを読んで、「ルーマン、そんなこと言ってたっけ? 「ルーマンはフランクフルト学派」という発言もあるように、中川さんはどうもルーマンにもは弱いんじゃないだろうか。「相互浸透」って、「個人」とかじゃなくてシステムとシステムにとっての「環境」となる他のシステムとの関係を記述するものと理解していたけど、そもそもコミュニケーション一元論的な観点からは「個人」の行為で「社会を変革し進化させる」っていう発想自体出てきにくいんじゃないだろうか。それに宮台さんのルーマン使用法に関しては、北田暁大さんとかが「ルーマンは、必ずしも宮台さんのように自ら政策提言はせず、むしろ頑固なまでに「べき論」への介入を回避している」(『論座2007年1月号』)と疑問をなげかけていたりもするわけで、ルーマン教義に従ったから宮台はああなのだ、という解釈も微妙なのではないか」…とか色々考え出した時点で訳分からなくなってニヒリスティックになってしまうようなルーマン社会学なんていう非国民的な学問についてとやかく考えだすのはやめましょう。
さて、もっともっと紹介したいのはやまやまですが、ブログにアップできる限界の量が近づいてきたのでこの辺で締めたいと思います。皆さんは「国をあげて保守主義の哲学に回帰するしかないことを再確認」出来たでしょうか? 最後に中川さんのこの言葉を引用しましょう。
一般の日本国民が、敗戦のトラウマからか、ニヒルなデカダンスに冒されていなければ、狂気に基づくこのような教育破壊は見破られて阻止されたはずである。ところがその逆に、戦前日本の教育破壊が世界に例が無いほど常軌を逸したものとなったのは、日本国民全体に日本国を愛する根本が欠如したため、「日本国の未来」である子供たちを愛さなくなったからである。子供たちを「内なる侵略者」マルキストたちの手に委ねては子供たちが確実に不幸になることを知ってなお、アパシー的に傍観者でいられる日本の大人たちとは、すでにその精神は重く病み人間としての腐食が甚だしいといわざるを得ない。
要するに、「こ、これだけ言っても再確認してくれないなんて、心が腐ってるんだから!(ツン)」ということらしいです。というわけで、このエントリーを笑いながら読んだ人は、中川さんの計算では心根が腐っていることになります。護摩行でもやって出直してくるとよさそうです。
※おまけ1:チャンネル桜で対談する中川さんと渡部さん
※おまけ2:想定敵国は北朝鮮と中国とロシア
※おまけ3:年長者にとって理解しがたい若者などを「エイリアン」扱いする“論壇”の傾向を批判する宮台さん