本日のメインディッシュ

ポストモダンアレゴリーとしての身体――『Hedwig and the Angry Inch
最初に、本日のメインディッシュが、chikiが学部時代、同映画について某所で発表をして際に使用したレジュメに筆を加えたものであることを明記しておきます(腐った弁当になっていたら申し訳ありません)。このレジュメを作成するに際し、学生時代のchikiはネットで同映画について触れている文章をいくつも見てまわりました。その際、「本当の愛に気付いた」とか「本当の自分を見つけた」と評価されているのを見たり、「お洒落な映画」「これぞロック」等、ヴィレッジヴァンガード的な消費のされ方に愕然とし、その怒りを発表にぶつけたという過去があります。反応は…学生皆口をあんぐり、ナメック語状態でした(苦笑)。




chikiは、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』というテクストの性質上、「ポストモダン」 のコードに注目することをまず行うべきことであると思いました。それは、この映画がクィア、68年以後、冷戦体制とその崩壊、ロック音楽などを扱い、主題や映像、音楽などもその点に重きをおいているからです。そこで、「年号」「境界」「ペニス」などいくつかのコードに注目し、同映画をポストモダンアレゴリー(寓話)として分析してみました。その内容を以下にまとめてみます。



【ストーリー】
ヘドウィグは東西冷戦時代の東ドイツで生まれたハンセルという名前の男の子だった。母親と二人暮らしの彼の夢はアメリカでロックスターになること。ある日米兵から結婚を申し込まれた彼は、性転換手術を決意する。しかし手術のミスで股間には「目のない顔をしかめたような形の」「怒りの1インチ(アングリーインチ)」が残ってしまう。母親の名前ヘドウィグを名乗り何とか渡米するも、米兵には結局捨てられてしまう。それでもロックスターになるという夢を思い起こし、カツラを手にロックバンドを結成したヘドウィグは、ある日17歳の少年トミーと出会う。同じ夢を持つトミーに愛情のすべてとロックシンガーとしての魂を注ぎ込んだが、トミーは彼女を捨て(アングリーインチにビビったのだ)、彼女の曲を盗み、ビルボードのトップに躍り出る。
ヘドウィグは昔、母親に(プラトン『饗宴』にある)「愛の起源」についての話を聞いていた。人間は昔、4本足、4本の腕を持ち、2つの顔を持つ3種類の生き物だった(男男/女女/男女)。力を付けた人間を恐れた神は、人間の身体を2つに切り裂く。以来、人間は自分の「失われたカタワレ(missing harf)」を求めてさまよう、それが「愛の起源」であると。トミーに裏切られたヘドウィグも、自らのバンド「アングリーインチ」を引き連れてトミーの全米コンサートを追いながら巡業する。常に「愛のカタワレ」を求めながら。
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まず、作中にはいくつか象徴的な日付、年号が登場することを明記しなくてはなりません。主人公ヘドウィグは「1961年」に生まれ、少年時代の回想シーンのテロップには「1968年」と出ます。ヘドゥイグが米兵と結婚したのは「1988年11月9日」、離婚したのは1年後の「1989年11月9日」です。映画内で具体的に示される日付、年号は以上で全てです。



もはや説明不要かもしれませんが、1961年はベルリンの壁が築かれ、冷戦体制を語る上でのメルクマールとなっており、1968年は「パリ5月革命」など、ポストモダンポストモダニズム)を語る上でのメルクマールとなっている年。さらに11月9日は、ベルリンの壁が崩壊した年であり、冷戦体制の崩壊や「歴史の終焉」、「ポストモダン」の始まり等、様々なパースペクティブにおいても里程標となります。



そのことを理解した上で、いくつかの「コード」等に着目し、同映画を読み解く足がかりにしてみたい。



ヘドウィグは、モダンからポストモダンへの構造変化に引き裂かれた主体として描かれます。ベルリンの壁崩壊の日と、ヘドウィグがアメリカで「離婚」する日が同じなのは実に象徴的です。「離婚」によって信じていた物を失い、手に入れたとおもった「カタワレ」を失ったヘドウィグは「カツラ(WIG)」を手にとり、「アングリーインチ」を引き連れて再び旅に出ます。このシーンでは、タイトル「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」がもつ二重の意味(駄洒落?)を端的に浮かびあがらせています。作中には、登場人物がヘドウィグを「ヘッド・ウイッグ」と少し切って呼びかけるシーンが何度かありますが、この呼びかけが意味するように、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を見る際にはまず、タイトルが意味する「ヘッド・ウイッグ(head wig=カツラ)と(and)怒りの1インチ(残された男根)」という両義性がまず明らかにされなくてはなりません。女性になることに失敗し、カタワレも手に入らなかったヘドウィグはその両義性=自己矛盾を抱えている、そのことを問題にした映画だと。



例えば、映画の最初に演奏される曲「TEAR ME DOWN」は「ヘドウィグはあの壁のように境界線に立ちはだかる…橋と壁の2つの間にはたいして違いはない」という歌詞です 。クィアであるヘドウィグの身体には、先に述べたような男にも女にもなりきれない両義性が刻み込まれており、その身体はポストモダン社会の隠喩として機能しています。父はアメリカ軍人、母は東ドイツ人、という設定も実にシンプルで分かりやすい(しかししつこくない、と味評論家のように言いたくなる)ですし、途中挿入される、その二人の下に生まれた「身体」がヘドウィグである、というアニメーションも同様な意味を持ちます。



映画内では、プラトンの『饗宴』からつむがれた歌詞「愛の起源(ORIGIN OF LOVE)」やベルリンの壁など、崩れ去った「境界」の問題を意識させるコードは繰り返し反復されます。もちろん映像の細部においても「境界」のコードは強調され、ヘドウィグの両義性を浮き彫りにする。その点で、同作品は単に「演劇を映画でやってみました」というものでは決してないし、それどころか映像の細部に渡るまでそのような「意味」を織り込んでいます。



それだけ綿密に織り込まれた様々な「境界」、男と女、自由主義社会主義、外と内などの「境界」を問う身体として描かれるのが主人公ヘドウィグです。ヘドウィグの身体に彫られた“失われた起源”の刺青は、男/女、内/外、自由/平等など、様々な二項対立を維持していたイデオロギー装置の残余として描かれているのです。もちろん既に映画を観た人はお解かりでしょうが、映画の最後でその刺青は向かい合った2つの顔から一つの顔に収斂、というよりは劇的に変化することになります。この変化が意味するものは、後にまた触れることにします。



同作を語る際、「タイタニック」という記号について考えることは無駄ではないでしょう。ヘドウィグとアングリーインチが巡業する小屋(ライブステージとなる場所)の背景には必ず「タイタニック号」の画が飾ってあります。同作は、実に丁寧に、綿密に、アニメーションや台詞などでメタフォリックな演出をしているのですが、セットの細部においても隠喩機能を持たせているのです(例えばカツラまみれの部屋にたたずむイツハク)。タイタニックが意味するのは、即ち“それまで完璧であると信じられていたものが崩れ去ること”です。これは、繰り返し反復される「ベルリンの壁」同様、ポストモダンアレゴリーをつむぎ出すことを助けています。
 


このように、様々な「境界」が強調される中、ヘドウィグはテクスト内で繰り返し「壁の内」から「外」へ移動する様がまず描かれます。オーブンの映像(ヘドウィグが狭いオーブンの中でラジオの米軍放送=ロックを聴き、「アメリカ=自由」に憧れている)、壁の映像(ベルリンの壁のそばで日向ぼっこをするヘドウィグのショットでは、壁の向こうにマクドナルドの“m”がかすかに見える。もちろんマクドは自由資本主義の象徴である)、閉鎖的なトレーラーハウスの映像(夫と住んでいた家。トレーラーハウスは通常「貧困」を表す)は「壁」の反復であり、“閉じ込められたヘドウィグ”を強調しています。ところが、1989年、ベルリンの壁崩壊の日に(夫が新しい恋人を作る=永遠と信じていたものが裏切られるという形で)離婚します。そこでヘドウィグはロックの夢を思い出して「カツラ」を手にし、「アングリーインチ(バンド)」と出会う。「WIG IN THE BOX」(「箱の中の」カツラ、ですからね)が演奏され、アングリーインチのメンバーが「白雪姫と7人の小人のように」 登場し、コミカルな演奏を繰り広げます。演奏が終盤に差し掛かると、トレーラーハウスの壁は倒れ、そこがステージに変わることは、言うまでもなくベルリンの壁が崩壊したことによる“自由”の獲得を意味しますが、その“自由”は、ここでは“不自由”と同義になります。



かつて、「カタワレ」とは「女としての自己」であり、「夫」であり、「自由主義の世界」でした。しかし1989年以後「カタワレ」は、歴史的に、また演出的にも“失われたもの”へと変わります。ヘドウィグの旅は、プラトンの語る神話に則り疎外論的な(あるべきホントウの)自己を求めるのですが、しかしヘドウィグがたどり着いたのは「あるべき自己」などではありません。目指すべき自由、信じていた自由が失われた今、ヘドウィグは二項対立の彼方に放り出されます。そこは完全に自由ですが、これほど不自由なことはない、ということを説明するのは、カフカの小説を引き合いに出すまでもないでしょう。さて、そのような身体としてヘドウィグが映されていくことは分かりましたが、同作は何処にたどり着こうとしたか。



最後の10分間には象徴的なコードが様々に交錯します。(イメージの中で)トミーの元にたどり着いたヘドウィグは裸身(しかしメイクアップをした)で登場します。ヘドウィグを照らす照明の色は赤、トミーを照らす照明の色は青で、最初はコントラストになっています。ここでの歌詞は「無知だった僕を許してくれ」というもので、あたかもトミーがヘドウィグに謝罪し、和解することで「カタワレ」を取り戻すかのように見えます。しかし、結末はその方向には進みません。照明の光源が映された次のショットは、二人とも赤い照明の下に立ち、互いを見つめているというものです。その時の歌詞は「運命で結ばれた恋人も/きっと存在しないんだ/もともとこの世には」という、疎外論を否定した内容になっており、トミーは口パクで「グッドバイ」と言って立ち去っていきます(トミーが去っていく先に書かれた文字はGNOSIS――ギリシャ語で「知識」を意味する、トミーのステージネームである――が描かれています)。シーンが切り替わると、ヘドウィグの額には十字が描かれ、まばゆい白の光に包まれたステージに登場します。しかし、これはキリスト教的浄化ではありません。テクスト内にキリスト教のコードは繰り返し反復されるが、グラムロックの装飾、瓦礫になった教会、ペニスを司教と喩える比喩、ヒトラーとキリストを同一視する母親の解釈、ホイットニー・ヒューストンQueen of The Night』(ゴールデン・ラズベリー賞ノミネート作主題歌!) に合わせたラブシーンなどによって徹底的にパロディ化されて登場します。このシーンが意味するものは、「神による浄化」ではなく、ポストモダンの社会において死んだ「神」(ニーチェ)が「いない」ということを引き受ける、映画分析にも多くの影響を与えた精神分析ジャック・ラカンの言葉を借りれば、スラッシュの入った大文字の他者を、スラッシュの入った主体がそのまま引き受ける態度であると言えるでしょう。



その後に行われるライヴシーンでは、イツハクがカツラを被り、赤いドレスを穿いて十字を形作り、観衆の元に倒れます(背面での「ダイブ」です)。すると視点が切り替わり、ダイブ後のイツハクは金髪のドレス姿へと変わり、観衆に拍手と歓声を持って受け入れられます(実に感動的なシーンです)。ここでイツハクがオンナ(またはドラッグクイーンになりたかった“オトコ”)であったことが――伏線はいくつもあったが決定的に――最終的に明かされるのです。このように描かれたイツハクの性とヘドウィグの性は、「カタワレ」を見つけることでは決して癒されず、自己の(n個の)性を肯定することによって初めて開放されたことになります。平易な言葉で纏めれば、神はいない、運命の恋人や「カタワレ」もいない、かつての4本足の人間などいない、目的などない……という現実を肯定しつつも、2本足で、十字を引き受け、自分の性(但し男/女ではない)を引き受け「歩き出す」という態度をとること。そのことを、ラストのアニメーション、刺青の変化、歩き出す二本足の人間(暗がりで、2本の足だけが強調される)などの反復によって描いています。



このように、この映画は最終的に主人公がトラウマを克服する物語、といった文脈で解釈されるべきものではありません(何故わざわざクィアであることを恥じなければならないのだ!!)。ですから、同映画を観るときには、「あるべき形」というものを全てパロディにし、それでもなお歩いていくという(反エディプス的、反トラウマ的な )物語をまず発見しなくてはならない。『ヘドウィグ〜』がつむぎ出すポストモダンアレゴリーは、そのようなトラウマの物語、疎外論を批判し、トラウマを解消する/解消しないの枠組みを否定しています(脱構築して疎外論批判を行う)。そのことで物語なき世界における(「n個」としての)主体の形を摸索する物語だと捉えられます。



…と、ここまで、この映画の基本的な地平に沿って(なんて愚直で安直な読みなのだろう…と自ら恥じつつ)分析してみました。機会があればふたたび触れたいと思いますが、最後に演劇でも映画版でも監督、主演男優、作詞、ボーカルを担当し、このようなすばらしい作品を投じたジョン・キャメロン・ミッチェルという素晴らしき才能を称えたいと思います(彼はクィアですが、そのことを安易に賛美するつもりは毛頭ありません)。



長くなりました。既に何十回と観た映画なんですが、この文章を書いているうちにまた観たくなってしまいました。今からレンタルビデオ屋に車を飛ばします。それー。





※付記
この映画の難点はといえば、これだけの歌詞を歌えるミュージシャンが今どれだけいるかと考えるとブルーになることである。



※さらに付記
ロッキング・オン渋谷陽一含め、イツハクが「女」だったことに気付かない人もいるが、そのことに気付かない人は(印象批評になるが)何故か男性に多い気がする。んなことない? (『渋松対談Z』より。ちなみにそこに乱入した女性記者に、「そう読む奴こそ男根主義者だ!」と批判されてました)