「カトリーナ」と「黒人」をめぐる言説に関するメモ

「ハリケーン被災であらわになった米国の人種問題〜なぜ、特定の人種だけが略奪するのか〜」
「平常時には隠れていた人種問題が浮き彫りに」
ネオコンに評価的なポジションを取る古森義久さんの記事です。「Demilog@はてな」にて知りました。id:demianさんが既に簡単に指摘していますが、やはり以下のような記述に驚きました。


この略奪にはさらに重要な特徴があった。こうした略奪を働く人間たちのほぼ100パーセントが黒人なのである。テレビの映像や新聞の写真でみる限り、略奪者はみなアフリカ系市民、つまり黒人だった。この事実は現地からの他の一部の報道でも裏づけられていた。いったいなぜみな黒人なのか。南部のニューオーリンズ市は総人口48万のうち67パーセントが黒人である。だから住民の多数派は黒人なのだが、それにしても略奪者は100パーセント黒人なのである。(…)大手テレビは映像で黒人の略奪の光景を流しても(…)その行為の実行者たちがほぼすべて単一の人種に限られることは伝えないのだ。 (…)黒人は政府への依存が強すぎて、いざという事態には他者の財産をも入手してよいとみなすような独特の心理を抱きがちだ、と示唆しているのである。

大雑把にまとめると、「テレビを見たら黒人の犯罪ばかり映っていた→黒人はダメだ→そのことを報道しないメディアはどうかと思う→ところでなぜ黒人はダメなのか→自分で努力しないからだ」となるでしょうか。さて、このような「ありがち」な反応は果たしてどうか。以下、「紋切り型をもって紋切り型を殺す」ことに成功するかどうかは分かりませんが、これまた「ありがち」なコメントを加えたいと思います。


まず、chikiは詳細な統計データを知りません。加えて、ニューオーリンズの人口比率なども知りません。ですので、記事にはそれらのデータと共にある詳細な分析を期待しています。白人の犯罪が少ないのは(貧富の差から)既に避難したからだ、というような指摘もあるので、被災時の人口比と犯罪比率などのデータがせめてほしい。「せめて」と書きましたが、過去のエントリーやコメントのやりとりを見ていた方はご存知のとおり、この手の議論の際は基本的にchikiは必ずと言っていいほど「せめて論拠を」と繰り返しています。本件との親和性も高い、「『Tsunami Song』についてのエントリー」でも、せめてと強調して書き、その理由についても書きました。理由は、仮に黒人犯罪者が多かったとして、それが論拠の必要条件ではあっても十分条件ではない場合が多いからです。



さて、本件に関しては、「9月10日のエントリー」でも紹介したように、カニエ・ウェストがテレビ番組で「黒人家族を映す時は略奪していると報じ、白人の家族を映す時は食料を探していると報じる」と、メディアのバイアスについて批判し、その批判がやはりメディアのバイアスによって削除された、という有名なエピソードがあります。内容については、「カニエ・ウエストのコメントの編集前の録画」および「『hip hop generation』さんの詳細解説」を参照にしてみてください。もちろんカニエ・ウエストのみがこのような批判をしているわけではなく、報道に関して必ずといっていいほど行われる検証作業の要求です。そしてこのような批判がある以上、実証データと、それを語る言説や背景などの精緻な分析と対案提示が必要になるでしょう。メディアのバイアスについても常に検討する必要があり、ベタに「黒人って悪いなあ」という反応では少なくともまずい。



にも関わらず、上文章では(1)論拠の不在、および希薄さについて(2)メディアのバイアスへの問いの不在について(3)非生産的な結論付けについて、の3点が主に気になってしまいます。(1)は、既にのべたように被災時の人口比と犯罪比率や内容説明などのデータがせめてほしい。論拠が「テレビに黒人しか映らないから」では、(2)と合わせて、論拠不十分であり公正さにかける。(3)は、「構造の問題もあるかもしらんけど、やっぱ黒人が問題」とするような結末は、どんな文体であれ思考停止でしょう。同論説は、「たしかにニューオーリンズなどの都市では黒人の所得は平均を下回る。学歴も黒人は平均より低くなる。その原因が社会全体の黒人に対する偏見や差別だという説にも理はあろう」と留保しつつも、<とはいえ>以降は他人の説に便乗する形での黒人への属性批判になっています。この留保は批判回避以外の機能を持たず、属性以外の論点に触れさせるようなパフォーマンスではないので意味がない。日本でのニートやひきこもり問題でも構造的背景をすべて括弧にくくり「自己責任」とする意見がありますが、多くの論者がその議論パターンの不毛さや不公正さを指摘しているのに似ています。



ですから、古森氏がベタなのであれば、ジャーナリストのメディアリテラシーがこの程度では困る、と批判し、あえて戦略的狡知としてこういう記述を選んでいるのであれば、ご都合主義、機会主義がすぎる、と批判したいと思います。




以下、思いついたことなどをメモ的に。



●たとえば、日本でも知名度の高いところでは、マイケル・ムーア監督の映画『ボーリング・フォー・コロンバイン』でも、犯罪特集番組で黒人による犯罪ばかりを映すことの問題が指摘されていました。マイケル・ムーアによれば、ニュースで報道される重犯罪の容疑者は常に黒人であり、だからこそ白人は「黒人から自衛するため」銃を持つよう恐怖感を煽られているが、実際はアメリカの犯罪発生件数は20%ほど減少している。しかし、逆に犯罪報道は600%も増加しているとのことで、そのアンバランスさを問題視している。
●これは、本日「タネ」で紹介した宮台真司さんの言葉で言えば、「不安と男気というカップリングの戦略」(不安ベースのポリティクス)ということになるでしょうか。不安を煽ることでる規制の声を高めていく。日本でも「現代的」とされる犯罪が報道されるたびに「教育法改正を!」「(ゲーム、ネット、有害コミックスなどなどの)メディア規制を!」という声が噴き上がるのと似ています。
●社会不安が増大すると、言及がイージーな特定のスケープゴートに矛先を向ける。しかし、「その矛先は批判対象として妥当か」「意見のぶつけ方が合理的、生産的か」「その態度は倫理的か」などの指摘が届くのは時間と労力がかかり、波及しない。オタクのせいにされたりネットのせいにされたりしてウンザリした方も多いのではないでしょうか(chikiはウンザリです)。
●このような「フレームアップによる煽り」の例は、最近では「ネット自殺」などに顕著ですね。ネットを媒介にした自殺は2003年で12件34、2004年が19件55人。年間に35000人の自殺者がいる中、ネット自殺だけが「急増するネット自殺!」というような見出しでフレームアップされる。回線で首つったわけではないのに、電話や手紙と違いネットのみが問題になるのは不思議。
●もちろん「ネット自殺」の例と違い、「事実黒人による犯罪が少ないのに過大にフレームアップされている」とは実情と異なり、またデータがないのでそのような主張はもちろんしませんが、たとえば「なぜ食料や医薬品を奪うのか」という問いに素朴に「食料や医薬品がないから」(救援が遅れているから)という部分を焦点化しなかったり、「なぜ黒人ばかりが現地に残っているのか」(構造的貧富)などを問わないのはアンフェアだ、とは言えるように思います。また、もし「黒人が悪い→よし隔離だ(さらに貧富の差を!)」となれば、事態は最悪の悪循環に陥るように思うので、それに加担してしまうような言説は批判したい。
●上記事では、「わが日本ではそんな反応は絶対にないことを少なくとも10年前の時点では私は明言できたのだった」とあるが、これ本当? 阪神大震災の際、「阪神大震災と流言」にもあるように、たとえば「ボランティアに行った若者が強姦を!」というような感じで、ボランティア=自分探しの軽薄若者、というような俗流若者論にひきつけていたデマも多くあったので注意は必要でしょうが、検索したところ「震災直後、犯罪は減少」とあったので、犯罪は少なかったものの、皆無だったわけではないようです。新潟では災害募金泥棒や災害詐欺が問題になり、たとえばこれらの比率や性質の違いなどを出して検討するならともかく、「日本ではそんな反応は絶対にない」と論拠なく断定するは勇み足ではないでしょうか。数値的に低いであろう、とは思いますが。
●ちなみに、検索してみると「外国人による火事場泥棒」説が結構多い。日本人にだまされた、という人が「今思うと隣国の人だったんじゃないかと疑っている」とあったのは驚きました(無論、誰も事実確認は出来ません)。また、カトリーナについても、「日本ではこんなことないのに、貧民層は民度低い」というようなコメントが多い。大学院生のサイトでも発見。
●心理学で有名なエピソードでは、地下鉄の中で黒人とナイフを持った白人が向き合っている、というイラストを数秒見せ、どのような絵だったか尋ねると、多くのアメリカ人が「ナイフをもった黒人が白人を脅している」と答えたとのこと。誰か、このイラストのあるURLや妥当性を検証している文献などを知りませんか。
はてなアンケート「こういう質問」がありました。アンケートの出来はともかく、コメントではなぜか「こういう偏見まみれのサヨクいるよね」的な左翼政治家批判に。逆に左派的な人は「こういう偏見まみれのウヨクいるよね」となるのでしょうか(一応、上記事は「新保守」的立場ですね)。この場合にもやはりバイアスが生じているように思いますが、たとえば江藤淳『保守とはなにか』には「保守主義イデオロギーはありません。イデオロギーがない――これが実は保守主義の要諦なのです。(…)保守主義を英語で言えばコンサーヴァティズムです。しかしイズムがついたコンサーヴ――保守が果たしてありうるのか。保守主義とは一言で言えば感覚なのです。更に言えばエスタブリッシュメントの感覚です。エスタブリッシュメントとは既得権益を持っている人たちのことです。(…)しかしエスタブリッシュメント既得権益を持っているが故に、その既得権益の存在基盤について考えざるを得ない。(…)彼らの考え方の根底にはやはり保守的感覚がある。また彼らは極めて排他的です。それを非難する人がいるかもしれない。しかし、いい悪いの前に、異物が着たらまず追い返す。この感覚が保守なのです」とあるように、主義主張、イデオロギーというより、俗情や、無根拠な暴論が問題ということでしょうか。問題は、その言説がどのようか形に使われるか、ということになるでしょう。今回の件でも、排除か共生かで分かれているようです。
●この点は、もちろんchikiも「言説への注意が必要」であるとか、「機会主義への注意が必要」というような、自説へのひきつけている、と指摘される余地は当然ながらあります。chikiは中立公正な人間では全くない。それが自説への無理なひきつけであれば、批判される必要があると思いますので、比較してみてください。