本日のメインディッシュ

シニシズムとフェティッシュ
宮台的アイロニーの議論が「啓蒙の限界」(ポストモダン+シニカル理性批判+ネオリベラリズムなどなど、大きな物語イデオロギーが機能しない状態)のうえに成立しているとすれば、現在の宮台氏の「転向」問題は、全国民に吸引力を持つようなフェティッシュ(≒宮台的強度)の対象として「天皇」を持ち出していると捉えることができます。



対して、おたく的ものを視野に入れて議論を展開する東浩紀さんは、DVD『「動物化するポストモダン」その後』にて、宮台氏の転向を「郵便的から否定神学的への移行」として捉え、現在はそのうえで宮台氏の「あえて」(シニシズム)を批判しながら「柄谷風に言えば、アイロニーではなくユーモアを選ぶ」と発言しました。そこでおたく的なものでもいいだろう、という立場をとっているようにも見えます(最近はそうでもないのかもしれない)。
こちらを参照



ここで、「ひきこもり」の問題を混ぜてパラフレーズすると…




「ひきこもり」…物語なき状態で、フェティッシュの発露をなかなか見出せない主体。社会に不適合とされる。
「おたく」…物語なき状態で、各々のフェティッシュを持つポストモダン的主体。社会、貨幣の流通体系に適合しているとされる。
「女子高生」…おたく同様。但し、宮台氏によれば近年は強度のみの状態(流動)に耐え切れず、AC系、メンヘル系へ物語を求め出す=スラッシュを埋めようと望みだす? 
天皇」…物語にはなりえないかもしれないが、全日本人の強度になる存在? (でも、多分無理)



ということになるでしょか(かなり暴力的に簡略化してしまいました:汗)。



ところで、昨日の戯言は、(今思えば、ですが)斎藤氏ご本人の思想に言及するというよりはむしろ「ひきこもり」を(例えば親元で金への心配がない、衣食住への心配がない、などから)フェティッシュを持たない(持てない、持たないでもいられる)主体として捉えた場合、次なるステップアップの次元として「おたく」を名指すことで貨幣へのフェティッシュを奨励することになるまいか、という問題意識でした。chikiは、実際問題としてはそれでも家族と共倒れしたり、餓死したり、コミュニケーション不全に陥るよりは当然、相対的に遥かにマシだと思います。個人的には外に出た方が健康的な気もします。但し、おたくとジェンダーの問題を考えるとなると、どうしても「弱者として社会システムに組み込まれてください。しかも自己責任で」というような文脈を意識してしまいます(斎藤氏の思想とは別のところでの議論なのかもしれませんが、『諸君!』に掲載された効力を考えるとまだ微妙な気もします。ヒガイモーソーかな?)。



そこでもう一度東さんの議論に戻るのですが、東さんが柄谷行人氏を引用してきたのは象徴的かもしれません。柄谷氏は批評家として、市場(交換)‐共同体(贈与)‐国家(再分配)という問題意識から、そのどれでもない新しい形のアソシエーション「NAM(New Associationist Movement)」という運動にコミットし、LETS、電子通貨Qを広めようとしました。このことを、「探求3以後の(壊れゆく)柄谷」として、または触れえぬもの「X」(例えば否定神学)を召喚したとして批判的に(ため息をもって、もしくは罵倒をもって、或いは皮肉をもって)受け取る人はとても多いです。chikiはNAM以降に柄谷氏を知り、それでもなお惹かれ目下読書中のため、今なおその思想の全貌を知ることはできていませんが、フェティッシュの発露をどこに求めるか、そのような発露はありうるのか、という問いはある意味で必然なことだとも思います。近年柄谷氏が「宗教」の問題を考察し、一方でジジェクと接近しつつある、ということも重要なことでしょう(ひきこもり研究の上山さん(id:ueyamakzkさん)は電子通貨にも焦点を当てている)。



既に「エコロジー」や「愛国」、「世界市民」というものもフェティッシュの一つとして相対化されてしまっているのかも。「全てが構築されたもの」であるなら愛国心を叫ぶのも実は理に適っている、という開き直りも見られるし、「世界市民」「エコロジー」も概念として弱い。シニシズムの中で、フェティッシュをめぐる議論(なんか『世界の中心で、愛を叫ぶ』みたいですね:汗)について考えたり、関連する本を読んでみたいなぁ。誰か、教えてくださいまし(他力本願寺)。





※なんだかしらないけれど、長文を書く癖がついてしまった様子。明日から控えよう。