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斎藤環さんの本音はどっち?
以前『OK?ひきこもりOK!』をざっと読んだとき、斎藤環氏はある意味で、「ひきこもり」という今まで「これはナシ」と思われていた「JUNK」なものを取り上げたることで雰囲気や流れを変えることへの期待を寄せている部分があるのではないかと思ったことがあります。「ひきこもり」という言葉が浸透したことでひきこもりが社会問題として認知され、そのことで「ひきこもり」に焦点を当てる議論の場が出来ると共に、当のひきこもり達も「自分は「異常者」ではないのだ」という認識を持つことが出来たとするならば、そこで「ひきこもるのをやめよう」と啓蒙するのではなく、「ひきこもりOK!」と主張することで「JUNK」な立場から様々な社会構造に関する問題提起を行っていくつもりなのかしら、と思ったのでした。



一方で、同書において例えば宮台真司が「社会に出なくても大丈夫(=有意義にひきこもろう)」と「社会に出ても大丈夫(=ひきこもりから脱しよう)」の両義性を斎藤氏が持ち、そのどちらを着地点としているのかとその理由が分からない、と指摘しています。chikiもその辺り、斎藤氏がどういう立場なのかいまいち掴めていません。



ところが、6月号の『諸君!』に掲載されている斎藤氏と長山靖生氏との対談を見て驚いたことがあります。「諸君!」の6月号の特集が「この日本にして、この人質」というもので、これほど「自己責任」という言葉で埋め尽くされた雑誌も珍しいのですが、その雑誌で行われた対談の最後で斎藤氏が「彼等自身が危機感を持ってくれると期待しています」と言うことが、例えば「ひきこもり=自己責任」へと安易に結びついてしまわないかと懸念しました(杞憂かな?)。その対談では確か村上龍の『13歳のハローワーク』が評価されていたのですが、これは実は象徴的?



同対談で斎藤氏は「ひきこもりはおたくになればいい」というような発言をしていています。この場合の「おたく」とは(斎藤氏の説明によれば)遺伝子=本能的な語られ方をするもので、先天的なアイデンティティとして、自己を「おたく」として捉えるている方らしく、おたくの本能、おたくの血などの言葉で自己定義する方のことだそうです。宮台さんの「女子高生」の議論に寄せれば、但しそれは「ネタ」であり、しかしそのような「ズレ」に矛盾を一切感じない流動的な存在、ということになるのでしょうか。一方で、ここでの「おたく」とは、社会に適合しつつ自分の世界を持つ存在と定義されうるものらしいです。働く自分は仮の姿、本当の自分はおたくだから、と社会でお金を稼ぎながら自分の世界にのめりこむ、というものらしいです。



ただ、ここでまた疑問が生じます。斎藤氏は「おたく」という存在を独特の「市民=ブルジョワ」に置き換えているようにも見えるのですが、例えば「ショタ」や「2次オタ」がセクシャルマイノリティの問題と多少なりとも関わってくることや、宮台さんが「転向」を掲げ、東さんに「一緒にエリートになろう」「オタクや動物やバカはエリートが管理しなきゃ」的な誘惑をしている(?)こと(バカが多い、という現状認識には東さんも同意しています)、市民概念の射程の限界から考えると、結局ハイアラーキーに回収したいのでは…と邪推してしまいます。やや単線的ですが。



もちろんディシプリンや「外に出よう」と促すことは重要だと思います。しかし当然のことながら、ひきこもりを全員「外に出す」ことでは根本的解決にはなりません。もちろん根本的解決が出来るのかどうかは疑問ですし、そのようなことが達成された社会を疎外論的に求めているわけではありません。「外に出よう」と促すことで、例えば「雇用機会均等法」によって「ガラスの天井」による女性差別を隠蔽しているような現象を再生産してしまうのではないか、もしくはセーフティネットの資格化(渋谷望)を推奨してしまうのではないでしょうか。



これが斎藤氏のことを詳しく知らないための杞憂に終わることを願うのですが、ちょっと複雑っぽいです(詳しい方いらっしゃいましたら、指摘くださいませ)。そういえば、以前chikiが村上龍『13歳のハローワーク』について書いたとき、リバタニアンのことについて全く触れてなかったなぁ。まずいなぁ。ひきひき。