本日のメインディッシュ【駄文】

CDが売れなくても誰も困らないについて再び。
chikiは1月21日の戯言で、宮台真司の文章について「つれづれなるままに」触れてみました。
今日は、以前の文章では消化不良だと思ったので、もう一度同じ文章を扱ってみたいと思います。
とはいえ、これを書いて満足するわけもないのですが(汗)。



以前、戯言で同文章を扱ってから10日ほど経ちますが、blogでは未だにコメントが増え続けているようです(消されたコメントもあるようです)。
chikiは、戯言ではそれほど宮台さんの文章を中心的には扱わなかったのですが、

コメント欄では叩かれて(?)いるようですが、しかし「音楽は意味ではない」という言説に「( ´_ゝ`)フーン?」という立場を取るchikiとしては、(宮台の意見は)密度の濃い内容に納得、主張することも納得です(全面的に賛成、とかは分かりません。議論の前提として、「常識的」な範囲だとは思います)。

と書いたように、この文章についてはほぼ納得しています。



chikiは「音楽は意味ではない」という考え方には批判的です。コメント欄には最初、そのような書き込みがされていました(今はどうやら消されたみたいです)。しかし、「純粋な音楽」など存在しません。「音楽感性」は所属する文化に左右されるし、経験を通して構築されていくものです。人は「音自体」に耳を傾けることは(不可能かどうかはわかりませんが)しておらず、何らかの意味づけを行い、音楽を聴いています。音楽に関する言説を見たり聴いたりするに際し、音楽を「意味ではない」とし、純粋に音自体に耳を傾けるべきだ、という否定神学的な意見を放つ文脈がどうも根強いように思います。「純粋」にどの音楽が良く、この良さが分からなければ「音楽(またはジャンル)が分かってない」という発言については、相手がどれだけ多くの音楽を聞いていようと、少なからず「一体何様だ」と思う訳です。



音自体というのは難しい問題です。「純粋な音楽」を主張する意見と、「音楽は脳で聴くものだ」という趣旨の発言は似ています。
しかし、「差音」という現象や、ジョン・ケージの音楽はどうなるのでしょうか。また、「歌詞がいい」として評価されている音楽はどうなるのでしょうか。

「いま、振動数700の純音と振動数800の純音が同時になったとする。2個の音を聴き分け、さらに注意深く耳をすましてみる。すると、当の2個の音とは異なる、もう一つの音が聞こえてくるはずだ。(中略)差音(Difference-tone)と呼ばれるこの振動数は、概念的/聴覚的には確かに存在する虚の音であった。(中略)我々は、聴いているのか、認識しているのかというアンチノミーに引き裂かれる。
【引用】草刈思朗「差音」(近畿大学四谷ギャラリー「ANTINOMIE展」パンフレットより)

これは確かに極端な例かもしれません。しかし、「音楽は意味ではない」といって、批評の言葉を投げ出すことは、どうしても怠惰に思えてならない。



chikiは多く聴く者は、少ししか聴いていない者よりも音楽が分かる、という意見を単純に賛美するのも反対です。chikiはなるべく多くの音楽を聴こうとしていますが、それは確かに「訓練」です。しかし、訓練したものが、全く訓練していない者に劣ることなど、いくらでもある。聴いたCDの枚数を比べるなど、恥ずかしいことです。



その点について、宮台真司はあくまで「聴き手のリテラシー」という言葉を用いていました。そして、「純粋な音楽」などを前提とせず(その意味で「常識的」と言いました)、「主語」という独自のテーマを使ってキングギドラを評価し、現代の音楽状況に対しいくつかの示唆を残しています。多くのコメントやトラックバックを誘発するような刺激的な内容で、chikiもついつい二度も同じテーマを扱ってしまいました。ただ、このような「音楽は言語である」というような「指摘」はchikiのオリジナルでもなんでもありませんので、誤解なきよう。



と、上記のような意図で書いた戯言でしたが、最初の方に書き込まれていたコメントが消された以上、半ば空振りに終わっている気がします(汗)。現在見られるコメント欄の発言はどれも重要な指摘だと思うので、宮台さんの返信が望まれます。折角blog化したのだから、それは最早義務でしょう。わくわく。




※たまにchikiが言いたいことをつらつら書いていますが、「んなもん読みたくねーよ」という方、毎度申し訳ない。
なんとか手を変え品を変えて、芸人としてやっていきますので。へこへこ。そんなあなたのための、【今日のネタ】をどうぞ。コラムより、こっちの方が面白いですよ〜♪(自爆)。