第四回チャットログ公開

2005年1月30日、正式公開としては第4回チャット大会となる議論を行いました。そのログを公開させていただきます。



第4回は、視覚・暴力・ニートを問題にした「第一回チャット」、バックラッシュを問題にした「第二回チャット」、マイノリティと経済システムを問題にした「第三回チャット」をそれぞれ受けて、それぞれの共通の論点である「ポスト市民社会とコミュニケーション」という問題について議論しました。



といっても今回は、ご覧になっていただければ分かるかと思いますが、議論のほとんどが「ポスト市民社会」たる現状の分析に留まっています。ですので、このまとめ的な意味を含むチャットを受けて、これからは具体的な諸「コミュニケーション」の問題を個別に――特に上山和樹id:ueyamakzk)さんと――対話していければと思っています(現在は未定です)。また、このチャットログを読んでくださっている皆様から、何か具体的な提案をメールなどでいただければ、いつでもチャット開催やログ公開の場所などをご用意させていただきたいと思います(もちろん、チャット大会参加者メンバーの方々との対話も継続していくつもりです)。




寒い日が続いておりますので、お風呂上りにストーブなどで温まりながら読んでください(夏に読む人もいるかもしれませんが)。それではどうぞ。







ちょっと長いレジュメ ――今、何が問われているのか考えてみた。
chiki:(入室)



kwkt:
(入室)


chiki:こんばんわ、kawakitaさん。今週、ようやく『パッチギ』(参照)観にいく予定です。


kwkt:ぜひ観に行かれてください。僕は2度観て同じとことでまた涙しました>>『パッチギ!


pin:(入室)


shfboo:こんばんわー!>チキさん、ピンさん、カワキタさん(入室)


ただもの:こんばんは。(入室)



chiki:
それでは、本日のチャット大会を開催させていただきます。今日のテーマは「ポスト市民社会とコミュニケーション」です。参加者はpinさん、shfbooさん、kwktさん、ただものさんです。以下にレジュメを作成したので、ご紹介させていただきます。





◆今回はこれまでの議論の総括的な意味を込めまして、「ポスト市民社会とコミュニケーション」について論じたいと思います。何故「ポスト市民社会とコミュニケーション」なのかご説明させていただく前に、これまでのチャットから出た論点と未解決の課題を明確にする意味をこめ、この三ヶ月間話し合ってきたことを自分なりに振り返ってみたいと思います。もちろんこのまとめはひとつの方向付けでしかありませんので、皆様より示唆をいただければ幸いです。少々長い文章になってしまいましたが、先に謝っておきます。というか、chikiのエントリーはいつも長い(笑)。


◆第一回の前半テーマは「視覚と正義」でした。このテーマは「イメージと暴力」とも読み変え可能なのですが、情報技術が猛スピードで発展している現代において、「視覚」的なもの、あるいは「イメージ」的なものが持つ意味が大きく変化しているのではないかという指摘をうけ、個別性と一般性をめぐる議論の難しさ、そして二律背反を確認したうえで、イメージやテキスト文書のフローの中でイージーな差別に陥らないような対話の作法、ないし倫理の形を検討したい、という確認が行われました。残念ながら「監視社会」というキーワードについては時間の都合上語ることができませんでしたが、抽象的ながらもこのチャットの最初のテーマにふさわしく、議論の方向性を決めることとなりました。


◆第一回後半の「ニート」というテーマは、一見すると前半のテーマとは関係のないようにも見えます。しかし、そこでは前半にも登場した個物/一般の二律背反の問題、「ニート君」にみるような「イメージと暴力」の問題、そしてそのようなものの背景としてある(前半の「監視社会」とかかわってくると思われるネオリベラリズムの問題が、それぞれ重なる形でクローズアップされました。そこでは「ニート」対する特有の言説的雰囲気にまなざしをむける一方で、「ニート」を語る際の倫理的作法についても検討がなされました。また、いくつかの具体的な課題(時代的考察の必要性、<階級>の再検討など)も出てきました。


◆このように第一回チャットは、物事を語る際に忘却されがちな「難しさ」を再確認しながら、現代社会特有の「暴力」について考察する手法、あるいは倫理について検討するという方針へとこのチャット大会を位置付けたように思います。


◆第二回のテーマは「バックラッシュ」でした。この問題にはさまざまな側面がありますが、ここでは主にジェンダーフリー・バッシングを対象に議論が行われました。「ニート」をめぐる第一回の議論同様、バックラッシュ特有の背景や作法について考察する一方で、そのようなものを生み出す現代の時代背景についても考察しました。ここでは、「バックラッシュ」に対する捉え方について大きく意見が分かれることとなります。


◆例えばkwktさんは、「バックラッシュ」を「ジェンダーフリー」というある意味で新しい流れに対する旧いもの幻想など取るに足らないと捉え、灯さんもまた、「バックラッシュ」は「変化」に対する郷愁の混じった受動的反応(反動)に過ぎないから、否応なく衰退するという見解を示されました。対してpinさんは、その流れの中でナショナリズムなどのイデオロギーやイージーな差別に絡めとられることが想定されるので楽観視は出来ないと述べ、Booさんは新旧で語ることに距離をとりつつコミュニケートの形を作り上げていくことを選択すると応じました。


◆自分なりに要約してみますと、この「新しい・変化」は、マイケル・ハートが「市民社会の衰退(ポスト市民社会)」(「批評空間」Ⅱ-21に掲載)として描き出した公共圏の問題と(やや遅れた形ではありますが)さまざまな位相で重なります。そこで忘れてはいけないのは、この問題――例えばすが秀実さんが「68年以後の問題」と呼ぶ問題ともかかわると思いますが――は、「公共圏=市民社会」が縮滅し、共通基盤が失われてタコツボ化し、コミュニケーションがうまくいかなくなりましたね、教養がなくなってみんな動物化していき、ずいぶんシニカルな状況になりましたね、みたいな「お話」ではないということです。もちろんそれもあるのですが、例えば家族の崩壊、共同体の崩壊などと呼ばれているものは、上山さんやkwktさんが繰り返し主題化を提案しているように、雇用体系や年金制度、高齢化や少子化などの問題が大きく関わっている、きわめて経済的な問題でもあるわけですね。だからこそ多くの人が不安の声をあげているわけで、その点では、例えば「働かないのはけしからん」という形で内面の問題にするのが無意味であるのと同様、降りる自由を承認すべきだという形で内面の問題にするのもあまり意味を成さないと思います。


◆もちろんchikiは前者より後者にシンパシーを覚えるし、前者のような言説が悪質な差別的雰囲気を作り出す点に関しては常に後者の立場から批判されるべきだとも思っています。また、例えば経済系のメディアでは「ニートやフリーターが働かないから経済状況が悪化する」という趣旨の記事が多く見受けられ(アホか)、全く論理があべこべになっていると思うので、バランスをとる意味でも必要な言説キャンペーンだとは思いますし、chikiは経済関連に疎い「人文系」の人間なので、そういうスタンスをついついとってしまう。しかし、もちろんその批判は、「差別はいけません」という朴訥なものでは不十分です。むしろ、フリーターやニート、ひきこもりを差別するなという発言も、下手をすれば現状肯定、あるいは差別構造の放任になりかねません。


◆どういうことかと言いますと、ちょっと余談めいたたとえ話を。isedでの議論東浩紀さん(の事務所のメンバー)が「ウィニート」という言葉を用い、ニートwinnyをフリーライド(とそれに対する排除)という共通項でくくっている。ニートフリーライダーだという前提はともかく(ディシプリンがないという意味では、間違いだとは思いません)、それは単に括弧つきの「フリーライド」の程度問題に過ぎませんよね。例えばニートバッシングを面白がってしている人、具体的にはニュースサイトの中の人、あるいはウヨ厨ぶっている人も、BLOGなどを読んでいると実はフリーターだったりフリーター予備軍の大学生や高校生が多かったりするわけで、winnyの比喩で言えば、同じ(しかし多様な)winnyユーザーが、キンタマウィルス(Antinnyのこと。このワームに感染すると、パソコンのユーザー名やデスクトップ画像等がWinnyネットワーク上にUPされてしまう。詳細はこちらのまとめサイトを)にひっかかってデスクトップをさらされた別のwinnyユーザーを笑っているようなものですよね(笑)。本当は皆同じなんだけど、「晒された」者だけ哂われるという程度のアイロニカルな状況が、今のニートバッシングに近いと思うのです(どちらもあまりうまい比喩だとは思いませんが:汗)。


◆このアイロニカルな状況は、言うなれば「負け組」同士で足を引っ張り合っているような状態なわけです(もちろん「勝ち組」を象徴するような会社につとめている人であっても――いくつかの職種を除いては――将来安泰なんてことはほとんどないわけです)。批判者、あるいは「晒し」を一方的にまなざすヲチャー(watcher)集団は、「怠けてはいけません」という「道徳」的な善悪構造を与えられ、非常にイージーな形で高みにたった気分を味わいながら叩けるし、そのことで現状肯定(=癒し)の気分を味わえる。その癒し(=困難性の忘却)のために自分が同じ土俵に立っている、立たされているという根幹的なことを忘れてしまう。ところが、それに対する批判的言説である「自由を認めろ」や「差別はイクナイ」という主張もまた、その根幹を見落としてしまいかねませんよね。


◆こういう微温的な「政治意識」の蓄積は、案外馬鹿に出来ないというのがchikiの考えです。ちなみに今の例ではニートやフリーターについて触れましたが、同様のことを「バックラッシュ」にも――あるいは「人質バッシング」などにも――思ったりします。そこで、どうしても問題としてあがってこざるをえないのが、上山さんがレジュメで指摘している「連帯」の問題です(念のため補足すると、上山さんは「ひきこもる個人の自由を認めろ」という意見ではなく、「共生可能な社会形態を模索しよう」という意見です。この差は大きい)。それをここでは「ポスト市民社会とコミュニケーション」と呼んでみました。ディシプリン(規律や訓練のこと)、あるいは利害の「共有」が困難な状態で(もともと困難ですがね)、有効なモデルを打ち立てることは非常に困難です(漸進的な変化は起こっていると思います)。


◆例えば前回のチャットでは、大会初参加となるあむばるさんによる問題提起がありました。「障害の問題を考えなければならない」という言葉はすなわち、「マイノリティ」だからといって利害は違うし、「マイノリティ」という言葉の元に普遍的意義を語るなら、例えば「障害」などコミュニケート不可能な障壁をどう捉えるかという視点がない限り全然リアルに響かない、というものです。ここでの「共有」や「連帯」として想定されていたのは、「マイノリティの連帯」というようなものだと思うのですが、マイノリティ/マジョリティの二軸が果たして有効に機能するか、という――フェミニズムが抱えているアポリアでもある――問題に加え、技術によって位相を変えられた古典的な可視化、刻印による暴力が一方にあり、もう一方には可視化しにくい階級の問題などがある中、どのように「コミット」を促すのかという難しい問題があります。もちろんこのような問題は常にあったわけですが、「ポスト市民社会」たる現在では、その両極化(多様化)が激しい(と思われるようになった)。


◆「バックラッシュ」派と化した「右系論壇」も、「監視社会批判(コントロール型社会批判)」を行う「左傾論壇」も(これまたあべこべだったりするのですが)、現状認識は結構共有している部分があったりしますね。第二回チャットにて「バックラッシュ」はある意味では構造変化に対するひとつの反応であるという意見が出ましたが、それはすなわち「ポスト市民社会」に対する反応のひとつとして説明できる。「ポスト市民社会」とは、簡単に言うと、近代的なディシプリン、つまり「社会に属しているみんなが共有しているような共通前提や訓練のようなもの」が効力を失って、ちょっと暗い社会に足を踏み入れつつあるなぁ、というような雰囲気を共有している状態(笑)。このとき、バックラッシュを「ジェンダーフリー」への「反動」あるいは批判と捉えるか、あるいは「市民社会の衰退」への「反動」あるいは批判と捉えるかで議論の内容はずいぶん変わると思います。chikは、例えば荒川区をめぐる「論争」も、本質は後者にあると思っています(林さんは前者の言説空間にリアリティを持ち、北田さんは後者にリアリティを持っているようにも見えますね)。


◆さて、ここまでざっとまとめてみましたが、ここでいくつかの課題が浮き彫りになりました。それが、最初に述べたような、「ポスト市民社会」において、いかにして他者とコミュニケート(あるいは「共生」)することが可能なのか、という問題です。具体的には、例えば上山さんが現在キャンペーンを行っているような「包容社会(仮)」について検討したいと思いますが(詳しくは上山さんの最近のエントリーをご覧ください)。そのうえで改めて、こちらに掲載している上山さんからいただいたレジュメを元に検討できればと思います。



chiki:このレジュメに対して、参加者のpinさんから予めご意見をいただいております。



【pinさんの感想】
「chikiさんの、いろいろな課題や問題提起に満ちた刺激的なチャットを、大変苦労しながらまとめた痕跡を残しながら、相変わらず比喩として出した例の誤解を生みそうなわかりにくさは、横においとくにしても」、と前置きしながら(皮肉)、pinの感想をいいます。


chikiさんが、卓抜にも「ポスト市民社会」という用語で貫くことで、各テーマの大枠がクリアに見えてきたように思います。 ニートやひきこもり、ジェンダー・フリーへのバッシングといったイージーな差別へ結びつきやすい現代の構造は、市民社会を維持しようとする勢力の反動とも言えますし、不安定なポスト市民社会の中で恣意的で安易な線引きに乗じて弱者叩きをしたり、誰が弱者かが見えにくくなっている状況で、上山さんが指摘なさっているよう、弱者競争が生じています。


ここでジェンダーを例に考えてみたいと思います。 水田宗子は「ジェンダー構造とは他者化と差異化の装置」と述べています。「規範的男性」(異性愛ブルジョワ)以外のものは「女性」にジェンダー化されるのです。 市民社会とは、「規範的男性」が中心であり、その維持のために「女性」=周縁を作り出し、「女性」=周縁を排除しようと躍起になる不断の(あるいは不安の)政治だったのかもしれません。不安が多いほど、排除されるものは増大していったといえます。それに対し、「周縁」にいるものたちは、様々な戦略をとってきました。


1・周縁から中心へ参画。主体獲得
2・中心側からの暴力へ抵抗
3・中心/周縁の脱構築



1は「市民社会」形成期、2は1に対立するかたちでほぼ同時期に登場してきています。3がポスト市民社会といえます。フェミニズムにひきつけて言えば、1は参政権運動など権利の法整備、2は「女性」と記号化されることによる差別や規範への抵抗、3は、1や2での既存概念を変容させる動きを指します。3になって「男性」が一枚岩ではなく不安定なものだったことが見えてきたのです。


※それぞれの関係:【1(ブルジョアorリベラルフェミ)/2(プロレタリア)】/2(ラディカルフェミ)→3(ポストフェミ)  …「【】」が市民社会内での対立で、「【】/2→3」は、市民社会とポスト市民社会の線引きになる。2→3は2の時点からポスト市民社会で、脱構築的な思想の基盤があったといえるため。

もちろん「ポスト市民社会」においても1や2は必要なのだが、重要なのは「ポスト市民社会」以後のパースペクティヴによってしか1も2もありえないということです。 ですから昨今の「反動」あるいは「弱者叩き」が「ポスト市民社会」を無視した形で1や2に対して反発している点が問題だと思います。3を視点にした1や2は、既存の1や2に対して大きなパラダイムシフトを要求しており、それを無視した形では、新しい問題は取りこぼされ救済されないでしょう。


抽象的ですが「ポスト市民社会」のコミュニケーションは、増大した「周縁」を「当事者」へ、「当事者」の差異へ開きながら、それぞれが生き延びていく方法の模索といえます。pinは、ひきこもりやニートの問題を、フェミニズムの新しい流れにひきつけて論じられることを模索中で、経済や労働などの再考にいま興味があるのです。







chiki:
以上で長い前フリを終了し(笑)、これより本日のチャット大会を開催させていただきます。







◆「ポスト市民社会」が「今の+日本」において意味するものとは。
chiki:今日のテーマは「ポスト市民社会とコミュニケーション」です。今までのチャットのまとめの意味をこめ、このテーマにさせていただきました。経緯や、chikiなりのまとめ、および意見はすでにレジュメに記させていただいたので省略させていただきます。まずは、ただものさん、kwktさんの感想を伺ってみたいです。これまでのチャット、およびchikiのレジュメに、どのような印象をもたれましたでしょうか。




kwkt:
そうですね。pinさんの感想をちょっと利用させていただくと、様々な社会的不安の増大と共に、「ノーマル」「普通」というものに定義があるわけではなく、とりあえず「異常」とか「理解できない」ものを引き算して、自分たちはノーマルとしているので不安が強くなると共に、排除が進行し、「異常」とされる対象が増えていくという議論がなされてきたと考えてよろしいでしょうか。その一方で、確固たる基準などないので、制度が変わりその運用が適正になればじつは簡単に社会は変化してしまうのではないかという楽観論も考えられなくもないというのが一応僕の発言の趣旨だったかもしれません(笑)。




chiki:
なるほど。それは現代にかかわらず、という感がありますが、どうでしょうか?




kwkt:
そうですね。現代にかかわらず、ですね。あと日本はとくにそうかもしれません(安易にいえないかもしれませんが。)




chiki:
すんごく暴力的にようやくすると、「最近(ポスト市民社会)になって、ことさら余裕がなくなってきた」ってことでしょうかね。ただものさん、いかがでしょうか(暴力的な要約すぎた…_| ̄|○)。




ただもの:
いきなりですか(笑)。厳しいですね。pinさんのフェミニズムの整理は、大変わかりやすく、なるほどと思ったのですが、最近のフェミニズムの議論が挑発力を失っているという印象が個人的にはあり、その原因が市民主義的な感性をフェミニズムが何となく全般に受容してしまっているからではないかと思いつき程度に考えています。このことをうまく説明できないのですが、差別を解消しようとする努力と差別の現象や言説をただ遠ざけて、封じてしまう動きとが同時に生起し、なかなか見分けがたいというのが今の社会の傾向としてあり、その分かりにくさに、市民主義が関わっているような気がします。kwktさんの述べられた、ノーマルというものが不定形としてしか、イメージできないということも、市民社会の問題点として考えられるでしょう。「ポスト市民社会」というのがどういうものか、僕は、よく知らないのですが、おそらく市民社会の曖昧さを引き継ぐものであることは予想されます。そのあたりのことを議論できれば、ありがたいです。




pin:
kwktさんが今「普通・ノーマル」とおっしゃったのを、pinは「規範的男性」と表現したと思うのですが、それは「市民社会」の起源をフランス革命においたからです(chikiさんがそのつもりでこの用語を使っているのかは定かでなかったのですが)。「規範的男性」=普遍的人間とも言い換えられますが、暴力的に入ってしまえば「市民社会」ははじめから、普遍的人間という実現不可能なものを理想としていた。それまで「人間」から排除されたものの運動は、こっちも「人間」に入れろ、か、あるいは、排除によって生じる言説や差別に抵抗するという2つの方法があった。3つ目の方法が、「ポスト市民社会」で、ただものさんがいうように「市民社会の曖昧さ」を明らかにしたことが大きな転換といえると思います。
また、kwktさんは楽観されていますが、「制度が変わりその運用が適正にな」ったことは歴史的にあまりないかもしれません。ひとつは、制度には必ずとりこぼしや予期せぬ効用をもたらすこと。もうひとつは制度をかえること、その運用をすることは、政治であり、つねに権力の駆け引きにさらされる(なにが「ノーマル」かを言説化する)、それ自体が永続的な闘いだから、楽観は出来ないのでは、と思います。ところで、ただものさんのおっしゃる「市民主義」の意味が気になりましたので、教えてください。





ただもの:
厳密に使っている訳ではないので、尋ねられると困るのですが、「市民運動」と言う場合の、「市民」がその典型であるように、政治的にニュートラルな存在であることを暗黙の前提にし、階級性などを不問にする考え方を、何となく「市民主義」と言っていますね。とりあえず、以上です。




kwkt:
pinさんの仰る通り「永続的な闘い」になると思います。僕の楽観論はもちろん条件付であり、近代社会を日本(政府・社会)が標榜する以上、そのような異議申し立てをしていくことが必要だと思います。





shfboo:
チキのポスト市民社会の定義は?




chiki:
前半は抽象的な議論になりそうですね(笑)。まずpinさんの疑問のとおり、chikiは「市民社会」という言葉を、「フランス革命以後」というより、むしろ「戦後」の日本を想定して用いました。というのも、「市民社会」、つまり「市民階級社会」(ブルジョワ社会)という名の示す通り、「市民」とは明確に近代の労働概念と結びつけて語られがちなテーマなのですが、ニートやひきこもり、バックラッシュが問題になったように、日本では(フランス革命以後の…あるいは明治維新以後の)近代=モダンの労働概念というより、特に団塊世代的な(?)労働概念と結びついて語られるからです。その意味では「正しい」用語の使い方ではないと思います。

ハートの定義では、ポスト市民社会とは、ポストモダンとは差異化された概念で、ポストモダンが文化論的に用いられがちな用語であるのに対し、経済的、政治的、教育的、制度的な概念として用いられます。その根底には「現在は規律型権力から管理型権力へ移行している」という考え方がベースにされています。その意味で、確かに否定的な形で(ただもの)、つまり引き算という形で(kwkt)いかに(人々を)囲い込んでいくか、という議論は、「管理型権力」の問題と重なります。要約すると、ブルジョワ的な労働・教育・政治・制度の概念(日本では「一億総中産階級」のようなイメージ?)が衰退して通用しなくなったとされる社会=ポスト市民社会、ということになるでしょうか。





shfboo:
ブルジョワ的な労働・教育・政治概念が衰退して通用しなくなった社会」という否定形で表すしかない定義?




chiki:
そうですね。まず、chikiが今回より所にした論文「市民社会の衰退」が市民社会の記述からはじまっている論考ですし、本文中にも「ポスト市民社会的定式化は、ポストモダンの場合と同様、最終的にはその後ろ向きの見方によって制約されている。社会的関係の新しいパラダイムに期すには、それは反動的なのである」とありますので、否定形ですね。




shfboo:
たしか「国民国家」は同一の民族が同一の言語で同一の空間を共有する社会みたいなこといわれるじゃないですか。その「同一」というアンダーソンとかがいう想像の産物が崩れてきた社会と捉えていいのかな? 




chiki:
とても近いところで議論してもいいと思います。無論、おそらく厳密にはそれは「ポストモダン(近代)」という言葉にでも当てはまり、ハートは詳細には触れていませんが国家と市民社会を切り離して考えているのでしょうが。おそらく、市民社会は、国民国家に必ずしも限定されないものなのでしょう。ただ、日本に当てはめるとなると、それもアリでしょう、という。




shfboo:
ああなるほど。




ただもの:
ようやく、ポスト市民社会のイメージがぼんやりと掴めてきました。


chiki:すみません。否定的な概念を伝えるのが、これほど難しいとは(汗)。chikiの説明能力のなさが原因ですな。



ただもの:ポスト市民社会という用語には、労働概念の変更(その要因は、先進資本主義社会の構造変化でしょうが)によって、市民社会がその枠組みを維持できなくなるということが含まれるわけですね。その場合、市民は、それまでの地位を維持できず、一部を除いて下位の階級に転落せざるをえないのでしょうが、その状況に対して、有効な反撃をなしえず、かえって、マイノリティへの敵意や攻撃を強めていくということがあるわけですね。その状況に対して、脱構築的なアプローチ以外の方法は、考えられないのでしょうか。例えば、pinさん、いかがでしょう。




pin:
はい。じつは、その状況に対してどうアプローチしていったらいいのか、を今うかがおうと思ったのですが、先に聞かれてしまいました(笑)




ただもの:
そうですか。もちろん、僕もわかりません(笑)。けれども、古典的な労働運動があまりにも軽視されているのは、なぜなんだろうという疑問はありますね。





chiki:
「古典的な労働運動」とは、具体的にどういうことなのかを伺ってもいいでしょうか。




ただもの:
団結し、街頭行動やストライキによって、「資本家」側に要求を突きつけていくものですね。抗議していく対象が消失したのではないか、あるいは多様化した労働者が今までのように連帯するのは不可能ではないか、という見方もあるようで、管理型社会への移行に伴い、古典的モデルがそのままで有効かという議論はあっていいのでしょうが、なぜか全否定の空気がある。その点には不満があります。




chiki:
なるほど。大変うなづける意見で、大雑把な図式化をした自分としては耳が痛いです。話を聞いているうちに、自分がイメージしていた「市民社会」の定義がもう少し明確になった気がするので、再度述べさせていただきます。chikiは、「市民社会」という時の「市民」として、「一億総中流階級」的なものを想像していました。啓蒙が有効に働き、大きな差異を感じないですむ程度のシンパシーを共有できるブルショワという意味の市民で、そういう市民が想定されていた社会が「市民社会」であった、と。それは、ただものさんがおっしゃってくださったように、「中立的な存在であることを暗黙の前提にし、階級性などを不問にする」という感性をも共有する側面があります。どうやらそういうものが機能しなくなったぞ、そういうイメージは通用しなくなったぞ、というところが「ポスト市民社会」と言われるものだと思うのです。日本の場合では「みんな」「漏れたち」という言葉が1億人レベルで機能する、というのは幻想だったぞ、と。
ところが、そこで「機能しなくなった」と言ってしまうことには確かに躊躇がありますね。chikiとしてはただものさんが今おっしゃった意見とはまた別の意味で、「かつては機能していた」というような言説にも疑問を感じているし、例えば「新しい歴史教科書を作る会」的な市民社会などは「かつて」も存在しなかったと思うので、かつては通用したけどもう通用しないとか、逆に通用した「かつて」に戻そう、という議論には疑問を感じています。







ただもの:
chikiさんの意見に賛成です。「市民社会」の虚構性が露わにされた、という側面が「ポスト市民社会」にはあり、そのあたりには、批判する立場にある者が有効に使える材料がありそうですね。




kwkt:
さきほどのpinさんの感想からインスパイアされたことを述べたいと思います。持っておられる方がいたらご覧頂きたいのですが、宮台真司仲正昌樹日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界』にこんな記述があります(P124〜)。仲正さんはアーレントを高く評価しています。経済的な私利私欲を離れた公共的コミュニケーションは奴隷制なくして成り立たない、と。これが古代アテネの政治的市民社会アーレントが観察した結論だそうです。「さて、それではあなたは私利私欲を離れた公共的なコミュニケーションを推奨しますか」というアイロニーがあるとのことです。大きな負の問題を、何かで覆い隠したり穴埋めしたりして、はじめて私利私欲を離れたコミュニケーションが可能になる。覆い隠しや穴埋めをよからぬこととして否定した途端、公共性は私利私欲を離れたコミュニケーションから、私的利害の調整コミュニケーションとして堕落する。それが政治的市民社会から経済的市民社会への変化だとのことです。
ハーバーマスやギデンズといったリベラリスト(可換的立場を認める人々)が、コソヴォ紛争や9.11に際して「国際社会は団結してテロに対抗せよ」と呼びかけ、「一国リベラリスト」ぶりを明らかにし、経済的市民社会の近代的公共性すら、南北問題という奴隷制を前提にすることを暴露してしまったのですが、しかし彼等は口が滑ったように見えて実はわかって発言しているのだろうと。アテネ的な公共性は奴隷制抜きに成り立たない。近代的な公共性も、スーザン・ジョージ的な意味での自発的服従からなる南北問題抜きでは成り立たない。リベラルな社会を維持・形成する途上での大きな負の問題をわかった上で覆い隠しているのだと。リベラリズムは立場可換性の範囲についての、つまり誰が人間なのかについての、合理化できない恣意的で事実的な線引きを前提とする。だから「何でもあり」や「これまでの線に固執する」という立場もとれますが、絶えず線引きを問い直す、「その線は妥当なのか」「だがしかし・・・」と問い直し続けることが(本ではこれが「徹底したアイロニストになる」ことを意味するそうです)必要になるようです。これが今の議題になにか関係できないかと考えていたのですが…ご意見ください。





shfboo:
おもしろい。宮台さんの「あえて」の神髄がそこにあるみたいな感じですかね?




kwkt:
そうですね。その「あえて」の精神とpinさんの感想の「3」の脱構築とに何らかの共通性があるような気がしているのですが…。つまり市民社会や公共的なコミュニケーションは何らかの隠蔽がなければ(おそらく中心/周縁)なりたたないとすれば、常にその線の脱構築が求められるというのが、さきほどの「永続的な闘い」と繋がるかと。




chiki:
なるほど。その両義性は大変難しいですね。




kwkt:
ちなみに先ほどのただものさんの古典的労働運動が下火になったことについて言えば、日本ではサヨ批判が隆盛を極めるちょっと特殊な状況にあるのかもしれませんが、たとえばアメリカではネオコンと称される人々が元々左翼出身者が多く、「解放」を信じてきたのに市民社会の虚構性が見えた途端、何でもありになってしまったと考えることができるかもしれません。つまり理想に失望しニヒリストになってしまったと。




chiki:
市民社会批判のために運動(連帯)をするとしたら、リベラリズム的な、あるいは「市民社会」的なコミュニケーションを想定するしかなかった。ところが、否定的(失望的)な形で虚偽意識が芽生え、様々な文脈がシニシズムに陥ってしまった、ということでしょうか? 具体的には、ディシプリン(訓練)がきかなくなった存在として「ひきこもり」や「ニート」、「フリーター」があげられることが多いのですが、これらはディシプリンを共有していないため、「連帯不可能」な存在だとも言われています。果たしてどうなんでしょうね。そこで、ただものさんの先ほどのコメントが気になります。

例えばchikiは、「公共圏が失われた」というとき、それは「昔=公共圏があった/今=公共圏がなくなった」という話を想定していないんです。今思えば、程度のものでしかないのでは、と。つまり現在は、かつて存在したものがなくなったのではなく、「なくなった」という雰囲気が多く共有されているような状態だと思うのです。「一億総中流階級」の時は、本当に「連帯可能だった」のでしょうか? その当時を生きていないので分からないのですが、どうも疑わしい。このあたり、労働問題に詳しいただものさんに伺いたいです。





kwkt:
先の僕の引用や発言の趣旨からすると、「公共圏が失われた」というより「公共圏の形成が不徹底のまま」というのかなと思ったりもします。




ただもの:
労働問題に詳しいことは、全然ないのですが(笑)、日本人の生活水準が低い時期に、労働環境の向上や賃金の引揚要求が、支持を集め安かったということはあるでしょうね。ただ、それは、ムードのようなもので、持続するものでは必ずしもなかった。国民所得が相対的に上昇した時に、そうした共感は、失われていったんではないでしょうか。

50年代や60年代でも、マイノリティの権利獲得運動が広範な支持を集めていたわけではありませんから、過去にも「連帯」が広範に実現していたということはないでしょう。僕の主張は、古典的な労働運動モデルがそれなりに有効ではないかということですが、そのことは、昔はよかった式のノスタルジーを意味しません。





chiki:
そうですね、よく分かります。現在、つまい「ポスト市民社会」では、市民社会モデル(公共圏モデル)で考察することの限界が見えたことには間違いありませんが、そこで例えば運動の形や社会の形の代替モデルを提出しなくてはならない、というものではなく、むしろ市民社会を構築することの困難が顕在化したともいえます。今までもなかったし、これからも難しいという状況で、シニシズムに陥りやすくはありますがそのことによって、即コミュニケーションや運動が成立する・しない、というわけではないですよね。





pin:
たいへん難しいのですが、kwktさんの出された「アイロニー」と私の考えている脱構築とは違う気がします、感覚的に。宿題にさせてください。






◆「その後」をめぐる/あるいはめぐらない。

shfboo:
きっと、今までの議論の整理が必要です! しかし誰がコンパクトにこれを図式化できるのだろう。話がややわかりにくいのはチキさんの提出したポスト市民社会という叩き台が、ある意味で古典的な市民主義や労働運動が古い、現実にはもう破産を宣告されたものだという認識をもたらすものであったのに対して、ただものさんやカワキタさんの言われた考え方は、その「ポスト市民社会」など来ていない、市民主義や労働運動でいいのだ、と反動的になるのではなく、ポスト市民社会という現実は確かにある。しかし、それをふまえた上でもある種の市民主義的といわれてしまう運動や労働運動は有効ではないかと問う、いわば「ポスト市民社会」批判として、ポスト市民社会という概念が殺そうとしたものを復活させようとしている所にわかりにくさがあるのではないか。

「ポスト市民社会」という概念は、それ自体で市民社会が機能している前提でする運動や、資本家VS労働者的な二項対立で闘争する労働運動を、社会はもっと新しい段階にある、そんな運動や考え方は古い、と失効を宣言する意味合いを持っていると思うんです。この認識についてはどうでしょう?





chiki:
たしかにこれは新/旧の二元論を設定したうえで、「そうではない形を(オルタナティブを)!」という議論になりがちなんですね。それはそれで現状認識として有効である部分もあるが、一方で限界も感じます。




kwkt:
「(今の)近代(社会)の限界を突破するに、近代(原則)の徹底を持ってするほかない」ということですかねぇ。議論を伺っていてそう思ったのですが。




pin:
Booさんの認識は私も同じく持つものですが、しかし、現在は、一歩進めて、「失効を宣言した」ことで取りこぼされたものを再考することで、未だ「市民社会」の機能として語られる日本に対するアプローチをしていく必要があり、その内部変容のためのアプローチには、具体的な運動が必要だと思います。新しい現象の持つ、ディシプリンを共有していないこと、の積極的意義を構築する必要がある。ディシプリンを共有していない、けれど差異を抱えつつ連帯する、運動する。既存の運動を無視するのではなく、既存との差異を歴史化しながら。フェミで言えば、なかったものにされてるウーマンリヴ運動の歴史化を考えています。




chiki
フェミにひきつけると、問題がクリアに見えてきますね。chikiはうなづくところ多いです。ちなみに補足しておくと、chikiは「市民社会」が「成立」したことはかつて一度もないと思っている一方で、「ポスト市民社会」だから「かつて」のコミットが無効になるとは一切思っていません。繰り返しますと「ポスト〜」はあくまで事後的に見出された不可能性、否定性、限界を指摘する概念であるのですが、それはピンさん、kwktさんが指摘するように、市民社会は差別を前提としているが、それらが「ポスト」になったからといって乗り越えられたわけでもぜんぜんありません。ところが、現状認識の多くはなぜか「連帯が不可能になった」と言ってしまう。「連帯が難しくなった」というより、「連帯が難しいものだと暴かれた」状態だと思うのですが、そのうえでも「あえて」コミットしよう、というのがkwktさんの立場でしょうか?




kwkt:
少々ありきたりですが、連帯が難しくなったのは、社会の中に「共感」が起こりにくくなったからだとは言えないでしょうか。それは豊かになったからだともいえるし、多様になったとも言えると。




ただもの:
kwktさん、pinさんの意見に賛成です。chikiさんの要約、shfbooさんの指摘にも納得させられました。とりあえず、「ポスト市民社会」の言説をもう少し、批判的に検討していかなければならないでしょうね。そうした言説が現われ、受容される文脈を対象化してみたいです。日本近代文学研究の業界も、どうも、ポストコロニアルフェミニズムの言説があふれているのに、具体的なアクションが少しも起こっていないので、その現実はほとんど反動的です。そのあたりを、批判していかなければいけないでしょう。運動論的な視点から、問題提起をしていきたいですね。(そういうことを言うと)嫌われるのは、確実ですが(笑)。なお、chikiさんのおっしゃる「連帯が難しいものだと暴かれた」状況というものは、確かにあると思うのですが、そうした認識が結局支配する側を利しているということは、あると思います。





chiki:
そうですね。最悪の形での理性の放棄につながってしまう。




ただもの:
支配する者を対置した場合、連帯の難しさは、相対的に小さな問題になるという気もするのですが、それは、楽観的すぎますかね。




kwkt:
補足すると、社会の中に「共感」が起こりにくくなったからといって「共感」能力を磨けと言っているわけではないです(大切だと思いますが)。自分が何かに「共感」することで、逆に何を抑圧することになるのか、そのメカニズムは何なのかということに目を向けていかなければならない状況なのかなと。なので、古典的なわかりやすいいわゆる左翼的な運動は「連帯」できなくなってしまっているのではと。chikiさんの仰られた「コミット」の件ですが、「連帯が難しいものだと暴かれた」状態で、なお社会問題にコミットするのがエリートだと思うのですが、いかがでしょう。エリート教育の意味も問い直おさなければなりませんが。




chiki:
どうでしょうか>エリート。そのあたりは、ただものさんに聞いてみたい気もします。




ただもの:
振られて、ドッキリです(笑)。えーと、確認ですが、「エリート」というのは、否定的評価なんでしょうか。kwktさん。




kwkt:
いえ、現在の日本の意味での否定的意味ではありません。ノブレス・オブリージュを実現する意味でのエリートです。




ただもの:
了解です。これも、古典的な言葉を使えば、「前衛」ということにもなるでしょうか。そのエリートをどのように、どこが生み出していくのか、というのも課題ですね。それにしても、「共感」に懐疑的な「エリート」、というのは、なかなかに難しいですね。




kwkt:
「共感」に懐疑的というよりは、「共感」の限界を認識したという意味の方がいいと思います。




ただもの:
言い方が不正確ですみません。おっしゃるとおりですね。




pin:
不勉強なので「ノブレス・オブリージュを実現する」って言葉を初めて聞きました。どういう意味ですか?




kwkt:
ノブレス・オブリージュ=高貴なる者の重責 って意味でいいと思います。「ノブレス・オブリージュ」はそもそも貴族制を起源としますから、そもそもある種の「隠蔽」「差別」が存在します。しかしだからこそノブレス・オブリージュを実現する義務を負う事になります。




chiki:
脱「市民社会」的市民ってことですか?




kwkt:
脱「市民社会」的市民、というよりは、むしろ「市民」回帰なのかもしれません。




shfboo:
宮台さんの言うエリート必要論とかも、宮台さんは近代社会肯定だから、考え方としてはちょっと距離はあるけれど、実はいてくれたらいいなあと思ってしまうのも事実ですね。





chiki:
バックラッシュ等の問題を考えれば、「市民」回帰にも方向付けがあるということでしょうか? 「回帰」は、かつてあったものに戻る、という図式を連想させるのですが、もちろんそれは虚構ですよね。とすれば、再検討、といったようなニュアンスですか?




kwkt:
その通りです。虚構性を認識した上での「回帰」です。そのことに自覚的な教育が必要かと思います。僕の言っていることはもしかすると(ある意味では)「バックラッシュ派」と近いことを言っているかもしれません。





shfboo:
バックラッシュ派」は虚構ネタをベタに信じてるってことなんでしょう。宮台さんは天皇ほんとは信じてないよっていうけど、八木さんとか渡部昇一さんとかはいわなそうという程度なんですが…。




chiki:
現状認識は割と共通していて、戦略が違う、ということですか? chikiは、今のkwktさんの意見と「バックラッシュ派」には、現状認識にも大きな差異があると思っていますが。




kwkt:
すみません。すぐに答えられそうにないのですが一般論的に申しますと、民主制というのはただ単に多数決でものごとを決めるわけではなく、立憲制と人権概念が成り立っていてはじめて多数派の意見に服することが正統化される、という原則があるそうです。「立憲制と人権概念」を理解する者が国民全員と建前上考えているのが現状の日本なのかなと。もちろん「エリート」も虚構ですが(これは忘れてはいけないことだと思います。)、その分虚構に自覚的でかつ公共的な振舞いができる人材が要るのかと。先ほどの仲正氏・宮台氏の「市民」議論や、これをどう今回の議論につなげればいいかちょっと考えあぐねています。ただどんな問題にしても「公共的である」というのはある種の虚構の上に成り立っているという前提は見えてくると思います。






pin:
市民社会」「ポスト市民社会」を考えるときに、どのレベルを設定して語るのか、から考えを詰めていく必要があるかもしれません。

ひとつは、どの視点から、どの立ち位置から見るか。もうひとつは、個別課題の検討。今回は、前者の問題が見えないまま、抽象的に議論された気がしますし、それがクリアになりつつあるということかもしれません。でも、立ち位置でくくると、自分のくくられない部分が矛盾をきたすので、そこを明確にしすぎるのも、よいとも思えません。宮台氏や中正氏のことをあまり知らないので、なんともいえないのですが、なんとなく、社会学系の論者と、意見が重なるにもかかわらず、感覚的にズレをきたしているので、自分のなかでそこがクリアになれば、はっきりものがいえるのかな、と。そのあたりの議論もありつつ、今後は個別検討の話題に具体的にうつって良いかな、と思います。以上。





kwkt:
エリート論は聞き様によっては、昔の市民社会(=男社会)回帰のように解釈することも可能ですからね。




chiki:
位置設定の問題は、レジュメを書いたときからずっと頭を悩ませています。共通した現状認識の中でどれがベターなのかという議論をするのか、はたまた現状認識自体を検討するのかをはっきりさせられず、なかなか明確にできないでいたのですが、今日はものすごいヒントを頂いた気がします。




kwkt:
何か議論をかき回してしまった感があります。反省しております。




chiki:
chikiも、うまくまとめられませんでした。これはchikiの技量のなさに加えて、一方でこの問題で語ること自体の困難でもあるような気がしました(言いすぎ?)。ですが、議論がスローモーな進行(このチャットは、次の人が発言するまでに数分以上かかっていた)の一方で、得られたものは多いように思います。そろそろ、皆様に感想などを伺いたいと思います。





ただもの:
もう少しアンテナを張って、具体的な問題提起をすることで、アイロニーでも脱構築でもない、運動のありかたを探りたいですね。思った以上に、現状認識が共通していたのが収穫でした。ここに集まっている人は、特殊なんでしょうかね(笑)。




pin:
特殊(笑)。




chiki:
ありがとうございます(笑)。この現状認識の上で、<個別>の問題を論じてよいのか自体も実は未だ悩んでいるのですが、今後チャットを続ける場合は、もうすこし踏み込みたいです。Pinさん、いかがでしょう。




pin:
私の直前に作った感想が、「市民社会」をモダン、「ポスト市民社会」をポストモダンと考えて、作ったので、多少議論を混乱させたかもしれません。あと、戦後の「市民社会」というのであれば、第二回バックラッシュのときに議論した、高度成長を背景にした公私分離による社会機能の問題を、ポスト・フェミニズムから再検討するという課題もあったので、経済的格差とジェンダーというテーマを自分なりにまた考えたいな、と思いました。また、「市民」という概念が出てきたとき、これまでの運動との差異や引き継げる部分について歴史化することと、社会学系言説とフェミ的感性のズレが(基本的に括弧にくくってたんですが)やぱり考えなきゃクリアしていこうと、改めて反省しました。




kwkt:
そこのところぜひ伺いたいです。



pin:いづれ(笑)。




kwkt:
今日はかなりプチ宮台化してしまいました(笑)。すみません。あと抽象的な議論ばかりしてしまい個別問題について論じることができませんでした。これは上山さんがおられなかったのも大きいかも。僕の反省点でもあります。




shfboo:
今回のテーマは「ポスト市民社会の中でのコミュニケーション」みたいな感じだったと思うんですが、結果的に前者の「ポスト市民社会」の分析でおわった感があります。それは明らかに上山さんの不在*1が原因なのですが(笑)、チキさんは相当しんどかったと思います。おつかれです。そこで僕は今日は自分の意見を述べずにからんだり下手なまとめをこころみたりしてたんですが、今回なかなか深く議論できなかった「コミュニケーション」についてまた議論する機会があれば、話したいなと思います。長々すいません、今日はまじで皆さんの発言が刺激的で勉強になりました。




chiki:
今回は、これまでのチャットに潜んでいた「前提」を確認、あるいは構築することが出来たのかもしれませんね。今のところ、今後のチャットをどうするかに関しては未定ですが、もし行うとすれば、今回のチャット、ならびに今回までのチャットを受けた形で、様々な具体的問題に触れていければ、と個人的に思っています。本日のチャットは以上! お疲れ様でした! 





続く。







*1:ここによれば、どうやら忘れていたらしい(笑)