数学屋のメガネさんへの再批判。

先日、「数学屋のメガネさんのエントリー「フェミニズムのうさんくささ」への疑問。」というエントリーを書いた後、数学屋のメガネさん(以下、秀さん)が、トラックバックに対しての反批判エントリーを立て続けにお書きになっています。



「フェミニズムの主流派はどこにいるのか」
「告発のための告発」
「トラックバック先のエントリーに対する雑感」
「フェミニズム理論の逸脱する可能性」
「ジェンダーへの疑問」
「行き過ぎたフェミニズム批判としての『フェミニズムの害毒』」



また、それに対するレスポンスとして、id:mojimojiさんが「ジェンフリ・バトン?」を、id:macskaさんが「批判対象と同じ問題を抱えた「極論としてのフェミニズム批判」」「「行き過ぎた」のはいったいどちらか」をお書きになりました。



他の方がお書きになっている秀さんへの批判エントリーやコメントの中には、賛同できない点や私の立場との明らかな相違点もあり、できればサシで議論をしたいのですが流れ上そうもいかないようなので、今回は秀さんのchikiに対するレスポンス部分を中心に再批判させていただきます。



まず、秀さんが私のエントリーを「『過激な』などの修飾語を省略するな」「立ち位置を明示しないと話してはいけない」という趣旨の疑問として受け取ったことには驚きました。要点だけを列挙したため文意が伝わりにくかったのかもしれませんが、しかしこれは明らかな誤読です。また、私が行った指摘のうち、こちらも特に重要であるはずの「現実の誤認」の指摘と「朴訥なコミュニケーションモデル」批判部分、「フェミニズム」をひとつの統一主体であるかのように論じること&求めることの問題点などなどをさっくりスルーされてしまったのも頭を抱えました。しかもそのうえで問題点を私の「文章読解能力」に還元し、言語の「本質」について講義されるとは(汗)。私は一応テクスト論(およびメディア論)を専門としている人間であり、今回秀さんを批判するにあたっては、誤読のないように敬意を払って何度も熟読した上でエントリーを書いたのですが(パラグラフの要約までしてます)。秀さんの一連の振る舞いは(私に限らず)論争の相手や議論のレイヤーを低く見積もりすぎではないかと思わされ、疑問点が伝わっていなかったことも含めて残念です。そこで、私の文章力の問題も考慮し、改めて私の批判の骨子を再度整理しつつ、秀さんの最初のエントリーの問題点を指摘させていただきます。



まず、「フェミニズムのうさんくささ」というエントリーにおいて秀さんは、「たとえ善意から出発したフェミニズムであろうとも、それが極論にまで達すれば論理的には間違えるというところに僕はうさんくささを見る。フェミニズム一般を否定するのではなく、極論としてのフェミニズムの批判を考察してみたいと思う」と書き、Wikipediaに列挙されている事例を「極論としてのフェミニズム」の例として取り上げます。そこでその極端な例を「差異があることを、その現象だけで不当な差別だと考える一面的な論理的誤りだ」と批判したのち、そのような誤りに転化する「フェミニズムのうさんくささ」自体をメタなスタンスからいさめます。



ここで私はいくつかの問題点を指摘しました。主な問題点は4つ、すなわち(1)Wikipediaというものの性質やソースの取り扱いに対してまったく配慮がないというメディアリテラシーの問題、(2)論争中の論点に対して機能する政治性の問題、(3)「極論としての○○を批判する〜」という議論スタイルそのものが持つ問題、およびそれと関連して(4)「たとえ善意から出発した○○であろうとも、それが極論にまで達すれば論理的には間違える」というのはどんな論理にも当てはまるにも関わらず、「他の思想と比べてかくも間違えやすい」という論述もないまま――しかも怪しげなソースに準拠して――「フェミニズムのうさんくささ」を証明したつもりになっていることの誤りの問題です。この4つの指摘はいずれも重要ですが、まずここで注意してほしいのは(2)の指摘は単に「歴史を知れ」というものではないこと(それも重要ですが)、(3)の指摘は、毎回「過激な」「一部の」とつければ事足りる問題ではないという点です。これらの点は、コメントをされている方やTBを送っている方の中で明確に立場の異なる方もいます。



(1)に関して。秀さんはWikipediaの例を鵜呑みにしたうえで、「差異があることを、その現象だけで不当な差別だと考える一面的な論理的誤りだ」と指摘。そして石原慎太郎の言葉を引用し賛意を表明します。言うまでもなく、引用された石原慎太郎ジェンダーフリー批判は、「男女の違いを無理やり無視するジェンダーフリー論が跋扈(ばっこ)している」ことが前提になった発言です。しかし、その議論の背景に疑問の声が提示されれば、すなわちデマの拡大解釈などに基づくメディアイメージ自体が疑わしいということが指摘されれば、そのイメージや発言の引用を利用した論理的展開は現実味や説得力を失います。そのような事実関係の確認の指摘も含まれているにも関わらず、「周りの指摘が過剰なので偏見を強化しちゃいました」みたいな宣言をしたり、あくまで「論理」の問題としてのみ(というより、自分が読み取って欲しい枠組みでのみ)読み取るべきだとするのは、議論をする者としてあまりに無責任(うさんくさい)です。



なお、この点で面白いのは、石原自身が2006年1月27日に行われた定例記者会見で次のように述べていることです。


彼らが具体的に提唱している幾つかの事案に関しては、とても常識でいって許容できないものがたくさんあるから。そういう例外的な事例がね、あまり露骨にメディアに持ち上げられて出てくると、ジェンダー・フリーのある正当性を持ったムーブメント(動き、流れ)でもね、私は非常に誤解を受けると思いますよ。

上野千鶴子さんが公開質問状で述べたとおり、石原自身は「例外的な事例」が「あまり露骨にメディアに持ち上げられ」ることによって「誤解」が生じているという側面を認めているんですよね。その点石原はさすがは文学者というところでしょうか。しかし秀さんは「極端なフェミニズムの登場→正当なフェミニストが是正しない→誤解の蔓延→自分のような噴きあがりが続出→ムキー」というような、あまりに朴訥なコミュニケーションモデルで理解(誤解)してしまっている。具体的にはこういう書き込みですね。


「極端なフェミニズム」を、あれは本物のフェミニズムではないということで放置すれば、むしろ本物のフェミニズムの方が大きく傷つくことでしょう。「極端なフェミニズム」はフェミニズムではないといっても、世間はそれをほとんど信じません。

男女混合の出席簿の問題は、フェミニズムの問題ではないと主張したい人もいるかも知れませんが、世間はフェミニズムの害毒だと思っています。そう思われていることはフェミニズム運動の戦略の失敗だと僕は思います

このような認識は、メディアやテクストの性質に対してあまりに鈍感であるといわざるを得ません。この点、言語の「本質」についてご存知である秀さんには釈迦に説法でしょうから説明は省略しますが、ここで述べられている「世間」という言葉にはほとんど定義がなく、「秀さんの色メガネから見た世界」とほとんど同義なので、実質は「僕が誤解しているんだから、フェミニズムの戦略的失敗だい」という程度の主張でしかない。前回のエントリーでも触れましたが、私はかようなメディアイメージを払拭する努力をしてくれる論者がいれば支持します。しかし一方で、メディアイメージや誤配の問題すらも「フェミニスト」の責任や戦略の問題にして批判してしまうかのような秀さんのスタンスは問題であろうと思います。



無論、以上のような誤認を踏まえたうえでもなお、秀さんのエントリーをあくまで論理と戯れたひとつの思考実験(芸風)として評価すること、つまり「たまたま例にあげたソースや前提条件がまずかったけれど、論理展開としては正当なものである」と持ち上げることも可能です。秀さん自身も、自分はあくまで「論理」だけを論じていると主張していますし(無論、「言語」の性質を考えればそんなことはありえない訳ですし、事実本人も現実に対応しそうなソースを頼りに議論を進めたうえ、「戦略」に対する説教まで繰り広げ、なおかつその後も延々と、懸命にフェミニズムの問題点などを探したりしているわけで、この主張はまったく無意味なのですが、一応)。しかし、その際の論理展開にもかなりムリがある。



それは(4)と関わりますが、「たとえ善意から出発したフェミズムであろうとも、それが極論にまで達すれば論理的には間違えるというところに僕はうさんくささを見る」というフレーズは、何も言っていないに等しいですよね。「極論に達すれば論理的には間違える」というのはフェミニズムに限らずどのような考えでも起こりうることであり、見出しや結論部分のようにほかでもない「フェミニズムのうさんくささ」を問題化するのであれば、ほかでもないフェミニズムこそがその他の思想と異なり「極論に達しやすい」性質をもっていることを論証しなくてはなりません。「過剰反応としか思えないトラックバック」「構造的無知」「ほとんど的はずれ」「単語に過剰反応して文脈理解をしない者」という煽り文句や「ネットウヨ」や「(揶揄の対象としての)マルクス主義」と並列する振る舞いによって読者や批判者を罵倒しつつ、しかしそれらの「的外れ」な意見をまったくスルーせずに「フェミニズム理論の逸脱する可能性」というエントリーなどをわざわざお書きになったのは、秀さんがその点に自覚的だからなのだと思いたいのですが、しかしこのエントリーにおいてすらその「論理」はひどいもので、同様に何も言っていないに等しかった(id:macskaさんの指摘と重なるので今回は省略)。これは(3)に関わる問題です。



秀さんは、私が「『フェミニズム一般を否定するのではなく、極論としてのフェミニズムの批判』を始めた後、いつの間にか『行き過ぎた』『極論としての』が抜け落ちた『フェミニズムに対するうさんくささ』を問題化してしまうという、『特称命題を全称命題にして取り違えるという論理的間違いに陥る』手法には問題があると思っています」と書いたことを受けて、「文章読解能力というリテラシーの問題が入っている。『フェミニズム』という言葉に対して常に『行き過ぎた』『極論としての』という修飾語をつけなければ、そのような意味としては受け取れないと言うことであれば、あそこの全文に対して、抜け落ちているところのすべてをそう解釈して欲しいということを言っておこう」とレスポンスしてくださいました。その他の方へのレスにおいても、「極論としてのフェミニズム批判をした」「もし自分の主張がまともなフェミニズムだと思うのなら、僕の批判などは、極論としてのフェミニズムを批判したものなのだから、それと自分とは違うと言ってしまえばそれですむのではないかと思う」とお書きになっています。ここにはいくつもの問題があります。



(3)にあるように、そもそも私は最初に秀さんのエントリーに言及する際、「一部のフェミニストが〜」というレトリックで議論を進めることの問題点自体を指摘するため、「とりごろうblogさんへのレスポンス」というエントリーと、id:macskaさんが「「ジェンダーフリーは必然的に暴走する」という暴論」というエントリーを紹介しているわけです。これだけでも、そこにいちいち修飾語をつけるかつけないかという問題で済ませていないということが文脈から把握できそうなものなのですが、秀さんはあくまで修飾語や文体の問題としてレスしている。これは単なる「文章読解能力」の問題だけではありません。秀さんが「一部の〜」というレトリックで語ることのもたらす言説的効果になんら配慮していないこと、つまり自分の「論理」が実際には何を表現をしているかを理解しておられないことを意味してしまっている。これが第一の問題点です。



第二の問題点は、秀さんの一連のエントリーの趣旨には「フェミニズム理論そのものの逸脱の可能性」に対する懐疑の表明と論証(できてませんが)が含まれていたにも関わらず、批判に対するレスポンスにおいて突然、自分が批判したのはあくまで極論の部分なのだと弁解を始めたところです。つまり「論理」にさえ一貫性がないことを明らかにしてしまっている。kwktさんのコメント欄にお書きになっているように、秀さん自ら「内田さんのブログを読んでいて、どうもフェミニストというものにうさんくささを感じてた」「優れた人間は、たとえフェミニストであっても」「日本のフェミニストたちも、この程度の論理展開をして欲しい」と、内田樹さん経由で「フェミニスト」という立場そのものにかなりネガティブなイメージを抱いていることを表明しているわけで、コンテクストから考えて「(全称としての)フェミニズムのうさんくささ」という個人的な偏見を、極端な例を挙げつつ、「論理」を騙って論じているように読めて当然だとは思います。仮に、このコメントはあくまでエントリーの外部だということで括弧に括ったとしても(私はそうしましたが)、「過激な〜」「極端な〜」などの議論がフェミニズム自体の問題として接続されていくさまでそう読み取れてしまいまう。それはその後のパフォーマンスでも実証されてしまいましたし(私の批判をちゃんと読んで下されば、「フェミニズムの主流派はどこにいるのか」なんてタイトルいくらなんでもつけないでしょう)。これら理解がもし意図と違うというのであれば、読者のせいにするばかりでなく少しは自分の文章力を疑ったほうがいいと思います(構造的無知!?)。



さて、私へのレス部分で一番驚いたのは、秀さんがメタを気取ろうとして提示した(俗情とデマを前提にした)「論理」の持つ政治性に対してどういう責任を取るのだろうかとそのポジショニングの微妙さを指摘したら、勝手に「立ち位置を明示しないと話してはいけないのか」と誤読し、「思想・信条・表現の自由」や「基本的人権」を盾にしながら「言論封殺につながる発想」だと憤りだしたことです(他の人へのレスポンスでも言ってますが)。



この主張の支離滅裂さは改めて指摘しませんが、むしろ私は秀さんのエントリーの最後の部分に書かれていた、「論理」を「感情」の優位に立たせ、感情的な反発(訴え)を退けるかのような言い回しに対して――なにが「感情的反発」であるかという判断も俯瞰的にジャッジできるかのような態度も含めて――違和感を抱いたけれども、「封殺」とまでは思いませんでしたし、そういうスタンスも別にあってもいいとは思いました。しかし仮に私が立ち位置を求めていたとして、それが「言論封殺につながる発想」なのであれば(はっはっは)、かような区分も論理をもたざる弱者の感情的訴えを排除する「言論封殺につながる発想」になるわけなのでダブルスタンダードであるとさえ言えます。もちろん私は「感情的言説は劣位に置くが、そのよう区分が可能な論理的言説は立ち位置を表明せずとも語ってよい」という恣意的な区分には批判的です。



これで大体は説明しましたが、あと細かいところをひとつ。「何か目的がなければ批判することは許されないのか、という疑問を提出したい」という疑問に――この疑問自体は既に述べたように誤解なんですが、せっかくたずねられたので――簡単に答えます。「目的なく批判してもいいが、それは様々な論争の枠組みに巻き込まれて価値判断されるし、論理や前提が誤っていれば当然批判され、その責任を求められてしかるべきでしょ?」と返しておきます。言うまでもなく、本人にその目的や自覚がなくても有意義な批判はあり、逆も然りです。ちなみに私の秀さんの「目的のない」エントリーへの価値判断は「これはひどい」というものでした。



最後に余談を。秀さんの一連の議論をみて、仰々しい大文字の論理や事実確認から議論を始めて単なる自分の偏見に着地するというスタイルや、「屁理屈」などの煽り文句を多用するところや、批判されたら元の文では含まれていなかったはずの文意を後付で加える手法などを含めて、文体や論法が林道義さんに似ているなぁと思っていたけど関係ないことだから黙っていたら、林さんを論拠にしだしてきたのでビックリ。やり取りを振り返って、ちょっと秀さんを過大評価していたなぁと反省しています*1

*1:もちろんこれはあくまで秀さんに対する評価の問題で、「数理論理学」の問題に還元することはしません。