本日のメインディッシュ

対話「以前」の問題を考える。
上山和樹さんの「議論が必要だ・・・」「労働と自死」というエントリーを巡って、多くの方が積極的な議論を行っております。皆様も一度、言説を追ってみてはいかがでしょうか。議論への参加も、歓迎していただけると思います。




そんな中、上山さんからchikiにふられている部分に関して少しだけ(言及、ありがとうございました)。




まず内容に関して言えば、(「強制」という言葉にも違和感を覚えましたが)「強制で働かせろ」と言わずにわざわざ「強制的に自衛隊に入れろ」という趣旨の発言をするところに、ご指摘のような通俗性を顕著に感じますし、結託といえるのではないかとも思います(くしくも「俗情との結託」という言葉が用いられたのは野間宏『真空地帯』への批判の文脈でありました)。議論の中では、おそらく「自衛隊(ジエータイ)」という言葉を、「国家の強制力が最も働く<場所>」という程度の意味に使っていると思われます(「刑務所(ケームショ)」をポジティブにしたようなもん、くらいでしょうか)。ただ、そもそも「ニート」という個人の問題を、論者の方々が唐突に「国家の不安」レベルに跳躍させて議論しているのかがchikiにはよくわからない(もちろん「政治」の話は大事です)。




chikiは、今回の議論に限らず、自分が直面した瑣末な事象を取り上げて唐突に国の将来を憂うような発言や文章をよく目にしたり耳にしたりします。そのような議論の展開について、自分の「世界」を周囲に押し付けないで欲しいとか、たまたま自分の所属しているムラのルールを世界レベルや国家レベルに拡大すればより一層よくなるという考えを疑わないですましてしまったところから出てくる発想はほとんど無意味、というように思うのです。今回の議論は(文章を読んだ限りにおいては)基本的に、自分たちの論理を踏襲せよ、自分たちを日本の「父」にしろ、という発想のもとで議論が進められているように見えます。くしくも「あのまま娘が潰れとったら、親の責任もある」という発言がありましたが、それは裏返せば「娘がつぶれなかったのは、親である自分が偉い(だから見習え)」という自慢話(自分の優位性を確保し、相手を「馬鹿」にする、という意味で)にしかなっていないような気がします(「ヒモ」が(女みたいな男、と解釈され?)否定的に連呼されていたというのも同様でしょう)。




俗情といえば(?)ネット上で「ニート君」がコラとして遊ばれています。今年コラやAAとして流行した、「福男」「アジアカップで自分が出て行くと言った中国人」そして「ニート君」にしても、自らの優位性を確保しつつ相手を馬鹿にしやすい対象がこの手のコラとして流行しやすいように思います。特に2ちゃんでは、「JOY騒動」や「ネカマ釣り」など、ある種の「義憤」が駆動力となるケースが多い。今回も、「ニート君」が「誰が見ても甘えているとしかみれない馬鹿」として叩いている部分が大きいように思います。




今回その義憤、というよりさきほど言った自慢話で「馬鹿」にされているのはもちろん――やしきたかじん氏が発言したように――ニートなのですが、そこには政策としての有効性やニートを抱える国家のアポリア等については一切配慮されていない。むしろその議論自体が差別を前提とした表出によるもので(父なる自分たちより下層の者からは人権すら奪っても一向に構わない! 或いは前提を共有しない他者は排除しても構わない!)、そのような議論を許容してしまうところに「俗情」を感じるように思いました(内容より、方法でしょうか)。そしてそれは「許されざる」ものだと思います。








※ただ、「大衆の原像」という考えもあったりして(汗)。
こんな番組もありますね。
※言うまでもなくこの文章は、内容や具体的な提案などに踏み込めていません。また、誤解をされるかもしれませんが、ニートをすべからく認めよというつもりは一切ありません。その点を踏まえて、もし思うところがまとまれば「議論」に関わらせていただくことがあるかもしれませんが、慎重にいきたいと思っています。