第三回チャットログ公開

視覚・暴力・ニートを問題にした「第一回チャット」、バックラッシュを問題にした「第二回チャット」をうけ、昨年の12月26日に第三回チャット大会を行いました。参加者は上山さん(id:ueyamakzk)、kwktさん(id:kwkt)、pinさん、あむばるさんです(参加者紹介ページ)。



第三回チャット大会では「マイノリティとコミュニケーション」と題したチャットを開催する予定でしたが、年末ということもあって参加出来る方が少なく、「それならまったりチャットでもしながら年越し気分を味わおう」チャットが行われ…るはずだったのですが、やっぱり議論になりました(笑)。今回のチャットでは、<マイノリティ>について語ることの困難から、<マイノリティ>の視点を確保する経済システムの問題まで幅広く討議がなされました。専門家同士がアカデミックに深く掘り下げる類の議論ではありませんが、何かの参考になればと思います。もう2月ですが、正月を思い出しながら、蜜柑でも食べつつ読んでみてください。農家の愛を噛み締めましょう。みかん!みかん!みかん!







行く年・来る年。本格的議論は延期してまったりしゃべりましょう…と思ったら。

kwkt:こんばんは。



chiki:
こんばんわー。



kwkt:
本日開催でよろしいでしょうか?



chiki:
予定としては今日で間違いないです。ただ、今日はただものさん、shfbooさん、灯さん、しょこらさんがそれぞれ多忙とのことなので、延期にするかどうしようかなー、と。せっかくあむばるさんや上山さんが準備してくださっているので、第2,5回として行うか、第3回として行って後日皆さんに意見を頂くか、あるいはまるまる延期するか。今日のレポーターの上山さん、メインコメンテーターのあむばるさんの要望を聞きたいです。


あむばる:議論としては、延期でしょうな。kwktさん、はじめまして。あむばると申します。末永くよろしくおねがいします。




kwkt:
はじめまして。了解です



chiki:
そうですね。じゃ、延期ということで。やたー。今日は司会をしないですむ(笑)。折角なので、今日予定していたチャット、あるいはこれまでのチャットに対するあむばるさんのご意見などをいただきたいですねー。


あむばる:まあ、細かいことなど気にせず、雑談など。


上山:こんばんはー(入室)




pin:
(入室)




chiki:
こんばんわ。今日は参加者が少ないので、延期にしようかと検討中ですが、いかがでしょうか?



上山:そうですね、本式の「第3回」としては難しいと思いますが、私の個人的要望からすると、私がBBSに提出した腹案について、「付け足す+削除」などのご意見をうかがって、正式な「第3回」に備えたい――論点を少しでも整理・先鋭化しておきたい――という感じでしょうか。私も考え直したいですし。



【上山さんのレジュメ】
 マイノリティという、本来的に「コミュニケーション弱者」である存在は、議論(コミュニケーション)において、常に弱い立場に立たされる。強い立場にある人々に議論を拒否されれば、社会の中で排除(抑圧)されるしかないし、かといって議論を始めたとしても、既得権益層のほうがはるかに議論に習熟しており、優勝劣敗思想で言えばそれこそ反論できなくなってしまう――このジレンマ。 【議論内ネオリベ問題】
 弱者が弱者たるゆえんは、「自己責任」なのか、それとも「構造的排除」あるいは「自然の摂理」なのか。各マイノリティにおいて事情は違うが、ある陣営の「権利主張」が、一時的に他の陣営を排除するプロセスに加担することすらある。あるいは「降りられない弱者」と「参加できない弱者」への同時対応不能のジレンマ。「共に努力する」試みは、さまざまな仕方で挫折する。 【マイノリティ間の利害対立】
 弱者への抑圧撤廃を制度的に実装する試みが、コミュニケーション拒絶の憂き目に遭い、しかもこの拒絶の素振りが、大向こうに「草の根的な説得力」を持ってしまう(荒川区)――こうした動きを、私たちは「歴史の泡沫」として捨て置いてよいのだろうか。なんらかの言論介入が、必要ではないか。 【バックラッシュ
 コミュニケーションの齟齬は、同一マイノリティの内部においてすら頻発する。現場は理論を軽蔑し、理論は現場の事情を知らない(特にカネの問題においてこの齟齬は決定的ではないか)。 【現場と理論の乖離】
 かくのごとく錯綜した複雑な事情を持つマイノリティ問題に取り組むには、可能な限り正確なディテールへの配慮が必要なのだが、そのような≪正義≫の活動に必須となる「視覚像」には、つねに原理的な「誤解(盲目性)」がつきまとう。現代の技術環境は、このような「誤解」に基づく無自覚的なプロセスをひどく容易に加速している。 【正義の盲目性】
 これほどまでにコミュニケーションが困難な状況において、「当事者発言」は、一定の役割を果たし得るだろうか。それともそれは、原理的に「不可視かつ無声」にとどまるはずの「本来のマイノリティ」(サバルタン)に誤った表象像を与え、正義の盲目性をいや増すだけであろうか。 【当事者発言の意義】
 社会的に排除され、あるいは不本意な形で社会に包摂されている社会的弱者(マイノリティ)は、どのように他者や社会と関わっていけばよいのだろうか。その際、議論(コミュニケーション)というのは、本当に武器になるのか。当事者や協力者は、そこにどのように関わっていけばいいのか。
 あらためて、「マイノリティとコミュニケーション」という、個人的≪で≫政治的な課題(その可能性と限界)について、議論を共有してみたい。




chiki:
なるほど。chikiは賛成ですよ。ある程度の前提を話し合って次回に「備える」ことのできるように出来るようにすることが出来ればいいと思います。もちろん、雰囲気は「行く年来る年」でいきたい(笑)



上山:あは(笑)



あむばる:私『不登校は終わらない―「選択」の物語から〈当事者〉の語りへ』読みました。今、上山さんの本、読み途中です。会ったらぜひサインください。



上山:あ、はいぜひ(笑)






「マイノリティ」「サバルタン」と呼ばれるものの語り辛さ
あむばる:一つ、お伺いしたいのですが、ひきこもりって「サバルタン」なのでしょうか?



上山:不登校やひきこもりの「当事者の語り」が問題になっているのに、私のものを含む「ひきこもり当事者本」が完全に黙殺されているのはなぜなのか・・・、怒るというのではなく、何か「当事者の語り」という問題設定に原理的に関連する黙殺ではないか、などと考えているのですが。




chiki:
なかなか声が聞き取りづらく、本人も言葉にしづらいという点ではサバルタンの比喩も当てはまるのではないでしょうか?



あむばる:私などは、サバルタンとかいうと、表象不可能な存在みたいなイメージでとらえてしまって、あまり感心しませんが。



上山:実はスピヴァク本を未読でして・・・、だからアカデミックに論じる権利はないのですが、「不可視かつ無声の当事者」との関係において、「当事者(経験者)として語る」という私の作業はどう考えればいいのか、という原理的な問題として考えているのですが・・・・。それと、あるかたから頂いたご指摘では、「サバルタンというのは、可視的な階級の問題ではないか」と。だから引きこもりとはちがうのでは、と。「サバルタン」という語でどう考えるか、を正式に論文にするには、(当たり前ですが)スピヴァクの議論を細かく参照する必要があるのでしょうが、稲葉振一郎さんの「はてな」を見ていても、どうも専門家の方々の間でも、さほど明確ではないようで・・・・。




chiki:
chikiも「サバルタン」をめぐる論理ゲームのやりとりは大嫌いです。



あむばる:私も。ですので「サバルタン」という言葉を使うことに違和感を感じます。





上山:
そうですね。 実際、私自身、「お前のせいで不可視の当事者が抑圧されるから黙れ」と言われているようで、困惑するやら怒るやら・・・・。「当事者が語る」という問題については、スピヴァクや『不登校は終わらない』を刺激にしつつ、自分なりにちゃんと考えたいし、それは「マイノリティの活動」を考える上では、つねに問題になるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。





chiki:
そうですね。「否定神学」としてではなく、アポリアな問題として捉えておきたいのですが、多くの場合は否定神学批判、というよりはむしろロジックゲームの枠組みで使われているように思うので微妙ですが、だからといって「サバルタン」概念の意義がなくなるということはないですし、使わないようにする必要もないように思いますです。



あむばる:そうですかね。あまり「サバルタン」って言葉、適切でないような。引きこもりって、もっと身近な問題なような。




chiki:
たしかにあむばるさんやchikiには身近かもしれませんが(苦笑)。一般的にはなかなか難しいのではないかという印象があります。



上山:サバルタンとは」というより、「声を出せない、不可視ですらあるマイノリティ当事者」の発言・活動の問題として語れば、ひとまずいいのではないでしょうか「不可視かつ無声」という問題のほかに、ようやく発言を試みた「マイノリティ当事者」も、往々にして「ボクのことわかって!」という「駄々コネ」としか見られない、という問題もあるように思います。これは「女性が男性に反抗したとき」にもある程度似た反応があるように思うのですが、そう言うと女性に失礼でしょうか・・・? 「しょうがないな、女は感情的で」「これだから困る」というような。



あむばる:なるほど。私は「サバルタン」という言葉に疑問を持っていましたものでして。変な用語で引きこもりを定義してしまうことに違和感を持ってしまったもので、つい。



上山:サバルタン」というより、むしろしょこらさんの出された「盲目の正義」で語ったほうがいいのかも・・・(このチャットの流れから言っても)。




chiki:
大事な疑問だと思います。あむばるさんが違和感を抱くように、サバルタンと表現したら、この議論が余計な批判を受けそうだという気もします。ただ、一方で、上山さんの著書を拝読すると、ひきこもりがいかに語りづらく、黙殺されてきたかという問題が鮮明に伝わってきますよね。



上山:「不可視かつ無声、かつ自発性すらない」というふうに、この場で新しく状態像を理念的に設定し、それとの関係で考えたほうが開放的というか、より正確で生産的な議論になるかも。ひきこもりは「既存の言語や概念で語ろうとしてもなかなか掬えない」という面が大事かもしれないです。そもそも僕はスピヴァク本を読んでいないので、その単語を出す権利は本当はない(汗)。




chiki:
近年ようやく「ひきこもり」「ニート」という言葉が登場し、議論の土台にあがった部分が大きいですし、より具体的に話すためにはサバルタンという概念ではなく、極力抽象的な概念は抑えて「届く」言葉で語りたいという気持ちがあります。ピンさんどうですか?




pin:
サバルタンというのは、可視的な階級の問題」と批判した方はスピヴァク読んでないと思われます。それはともかくとして、既存の言葉で語れない問題、不可視化して議論の俎上に載せることが、マイノリティが語る上で、大事なことで、用語の獲得、たとえば「ニート」とか「ひきこもり」という言葉を獲得することでいろんな議論が可能になってきたんだな、と思います。そういった言語の獲得は、同時に取りこぼしがうまれざるをえないので、そういったとりこぼされてしまう点にも注視して、語る必要があると、あらためて思いました。



上山:可視的というのは、「階級制度が可視的」という意味で、「その階級に属する人々が可視的」ということではなかったと思います。もちろんその方の真意はわかりませんが、そのときにはそう受け取りました。「議論が可能になった」というのは大事ですね。




pin:
批判の言葉ですが、文脈がわからないで思ったままをいったので、ニュアンス異なってしまうと思うので、撤回します。「当事者」という言葉が「当事者」全体の代表性をもつというよりは、当事者一人ひとり差異があったうえで、「個人的なことは政治的」だと思います。





あむばる:
「当事者一人ひとり差異があ」るからひきこもりの問題は難しいような気がします。




上山:
ちなみに、12月4日の大阪「ニート・シンポジウム」では、若者の就労支援に関わる工藤啓さんが、「自分の身近(地域)の窓口には若い人は相談に来ない」と、非常に現実的な報告をされていました。私としては、4年の公的発言のキャリアを通じてずっと、「公の場所に出てきているのは特殊例。ほとんどは完全に隠れている」と言い続けているのに、「お前にスポットが当たるから不可視の当事者が隠蔽される」というのでは、どうしようもない。




chiki:
いったいどういう立場の方がどういう文脈でそういう批判をしているのか気になります。




pin:
その疑問同じく。




上山:
「自分の意見は公の場所に聞き届けてもらっていない」という鬱憤を持っている人とか、不可視の状態に留まっている当事者を見知っている援助者や親御さんです。私としては、「出てきている人間を黙らせる」べきではなくて(そんなことをすれば「当事者発言」そのものを禁じることになる)、むしろpinさんのおっしゃるように、「議論が始まって、そこにたくさんの人が参加する」ということが大事だし、個別例を尊重しつつ、しかし普遍的な議論も続けるにはどうしたらいいのか――そういう話が必要だと思う。

要は、「政治的な動きにたくさんの人が自分なりに参加して、自分にできることをやる」を目指すべきだと思うのですが。ただし、たしかに「完全に不可視の当事者がいる」という事実からは、目を背けてはいけないのですが。さらに突っ込んで言えば、「不可視の当事者だからといって、私と思想を同じくするわけではない」ということです。





chiki:
そうですね。「批判」している方の不満はものすごく分かりますが、それが聞き届けれらないのは「お前(上山さん)にスポットが当たる」<から>ではないですよね。その批判が有効になる一面は、「あなたにスポットがあたっているからといって、全体が救済されているわけではない」という、個別と普遍の混合をしないための注意の喚起がありますね。もちろんchikiは、上山さんのお陰でスポットを浴びることの出来る方もおおくいらっしゃると思いますので、その点は間違えないようにしてほしいなぁ、と思ったり。




上山:
そう思います。「上山は男性異性愛者だから、ひきこもりの多数派だ」とも言われました。しかし、ではどうすればいいのか・・・・。




chiki:
不謹慎だけど、ワラタ。そりゃあ「多数派」でしょうが、そんなところでサバルタン探しをしても…。




上山:
(苦笑)私は、批評的言語化(?)の試みをしているということについては、極端な少数派、というか、ほとんど他の事例を知らないほど異端事例です。なのに、「男性異性愛」だから「多数派」で、だから「少数派を抑圧している」という。こうなると「マイノリティ競争」みたいになる。




chiki:
これは半ば冗談ですが、「経験の外傷性」というタイトルの卒論を書く経済学部卒業のひきこもりなんて、上山さんの他にいないのではないか(笑)。




pin:
そういった批判をする援助者や親御さんは、はがゆいんでしょうね。目の前にいる「当事者」が声を出せない状況にあるのだから、つらいんだろうなあ。と、援助者や親御さんの気もちに寄り添う援助者が必要だ。




上山:
そう。だから、声の出せる当事者や支援者は、状態像の落差を問題にすると同時に、「不可視の存在をどうするか」「論点」としての共有を目指すべきだと思うのです。状態像を表す「属性」だけを考えていると、「多数派/少数派」という話になりますが、「論点」を共有することを考えれば、そういうのは気にせずに一緒にやれる。そこで私は、「属性帰属と論点帰属」という言い方で、このジレンマというか、アポリアに自分なりに決着をつけられたように思ったのですが…(参照)。 これもぜんぜん理解されなくて・・・。それで思ったのは、どうも僕は「ひきこもり当事者として業界内で強者になってしまった」ということなのかな・・・、と。「業界の外」からは、ほぼ完全に黙殺されているというのに。この話をしていたら、ある母子家庭のかたが、「母子家庭の人間同士も、ちょっと恵まれているとすぐに叩かれる」と言っていました。




chiki:
ひきこもり業界、というのがおぼろげにあるようですね。2ちゃんねるの上山スレなど、「ひきこもり評論家」の下馬評を行うような場所もあるくらいで。貧乏自慢みたいなものも多いと思いますが。





上山:
「弱者同士の足の引っ張り合い」は、強者にとってこんなに愉快な見世物はないだろうに・・・。 【ごめんなさい、喋りすぎでしょうか・・・(汗)】




chiki:
いえいえ(笑)。しかし、これのどこが「行く年来る年」なのだ! あむばるさん、カワキタさんは会社にお勤めですが、会社ではあまり「ひきこもり」「ニート」などは問題にあがらないですよね?




あむばる:
まあ、あまり階級的な問題ではないので。これが運動体の弱いところ。上山さんの本、小学生が女性教員の乳房を見る話がものすごく印象に残りました。




chiki:
あむばるさん…




上山:
(笑)>あむばるさん




kwkt
すみません。まる激聞きながらチャットROMしながら夕食とっていたもので・・・w




chiki:
ながら族すぎ!(笑)





kwkt:
カイシャで「ひきこもり」「ニート」の話は完全に異端扱いですね。カイシャに「残れている」オジサンたちからすると理解不能な存在でしかないみたいです。




chiki:
そうですよね。この前職場(バイト先のサポセン)でちょろっとニートの話をしたら「そんな贅沢をしてみたい」といわれてへこみました>カワキタさん




あむばる:
贅沢なんですか。




chiki:
「働かなくてもよくて、家から出なくてもいいなんて」とのことです。




pin:
昨日、経済コラムでファーナンシャルプランナーがニート叩きしてて、ぜったいまけたるか!と思いました。「働かざるもの……」という記事です。なかにはGOODなコラムもあるので全部悪いともいえませんが、経済学にマイノリティの視点急募!!




chiki:
当然のことながら、日本経済新聞をはじめ、多くの経済誌ネオリベ擁護で勝ち組賛美ですからね。たまに特集を組んでも、基本的に心のメンテナンス程度のもので、つまりはもう一度労働者に戻すためのケア。当たり前ですが。




あむばる:
労働者に戻すことが解決にならない、だから引きこもりは難しい。




chiki:
いまあむばるさんがいいことをいった。




あむばる:
精神分析とは違うんですよね。




上山:
さっきの「当事者発言」の件もそうなんですけど、ひきこもりと性の問題は大きく関わります。セクシュアリティの問題も、どうしても≪私≫のことを話してしまう局面があるので、難しいです。




pin:
《私》からはじまるのがマイノリティの言葉の獲得のはじまりじゃないですか。上野千鶴子っぽいキメだね。




chiki:
ピンがいまいいことをいった。





上山:
ある引きこもりの親の会の代表の方が、すごく信頼していた友人に、「家族の問題を社会問題にすりかえやがって」と罵倒されたそうです・・・。




chiki:
気持ちは分かる部分もありますが。。。




pin:
「家族の問題」と閉じてしまうことで人がないとるじゃんか・・・といいたくなる。。。





あむばる:
家族の問題や社会の問題、個人の問題と、何か枠に入れることが解決にならないから難しい。ニートは社会的には引きこもってはいないですよね。フリーターとして働いている。個人個人の解決の仕方しかないから、実際は枠に入れられない。




上山:
いや、フリーターとニートは別ですね。あと、「求職活動中」なら、「失業者」です。職がないのに求職しておらず、かつ引きこもりほど人間関係から遮断されているわけではない、という感じでしょうか>ニート。「《私》からはじまるのがマイノリティの言葉の獲得」は、kwktさんの「個人的なこと≪で≫政治的なこと」につながりますね。




pin:
付:第二派フェミニズムは《私》からはじまる運動で、kwktさんの「《個人的》で《政治的》なこと」の元ネタは第二派フェミのきっかけとなったケイト・ミレット『性の政治学』(1970=日本訳1985)




あむばる:
ケイト・ミレット『性の政治学』はいえに飾ってあるだけですな。




chiki:
まじめに話しているはずなのに、あむばるさんのコメントがとてもユーモラスだと感じているのはchikiだけだろうか。




pin:
同じく。



あむばる:まあ、バカですから*1




chiki:
はは。そんなあむばるさんが大好きです(笑)。





あむばる:
人に好かれたの、初めてです。




chiki:
そんなばかなぁぁぁ(爆笑)




pin:
ワラタ




chiki:
ようやく行く年来る年っぽくなってきましたね(笑)。それはともかく、今日は、最初にあむばるさんが指摘してくださったように、「<サバルタン>探しゲーム」とも言うべき状態がおきやすい領域や言語空間の中で語ることの困難さについてそしてその中での作法について考えるヒントを頂きました。これは次回の課題でもありますね。




pin:
あいかわらずchikiはネーミング上手(?)だね。そしてその中での作法について考えるヒントを頂きました。これは次回の課題でもありますね。次こそは第三回!




上山:
kwktさんの動向が気になる(笑)






考えるヒント・考える節度

kwkt:
すみません。>>上山さん、あるばむさん 本日は発言をほとんどしてこなかったkwktですが、上山さんの議論を眺めつつ、昔読んだ本をとりだして関連ありそうなところをぱらぱらと読んでおりました。本棚から取り出した本は社会学者・石川准氏の『アイデンティティ・ゲーム―存在証明の社会学』というものです。副題は「存在証明の社会学」となっておりまして、社会的に負のスティグマを貼られた人が存在証明ゲームをせざるを得ない現状を分析しているのです。

石川准氏ご自身が目が不自由な障害者ということもあり、障害者が社会参加するということはどういうことなのかという観点からも書かれております。で、上山さんがいろいろ批判された点について関連ありそうなことを抜粋して見ます。





あむばる:
障害者問題は詳しいですよ。




kwkt:
「集合体内ネットワークが十分に組織されていないときに、スティグマを貼られた人々が集合的抗議を起こすのは困難である。とりわけレイベリングやサンクションが強力でしかも斉一的なときには、彼等の逸脱の政治は沈黙を余儀なくされる。社会的非難と制度的な機会の剥奪が厳しいときは、個人的な努力でスティグマを補う道はほとんど閉ざされている。さりとて自明化した強固な社会正義に挑戦することになる集合的抗議が逸脱の定義を修正しうる可能性も非常に小さい。それに運動の参加者は従来のスティグマに加え、政治犯ないしは過激派という新たなスティグマを追加されることになる。このような場合はスティグマ共同体は「スティグマからの救済」を求めて、下位文化という安全地帯の構築に向かう公算が高い。…スティグマを貼られた人々の集合行為がアイデンティティの相克性の落とし穴にはまり込んでしまう可能性を軽視してはならないスティグマを貼られた人々の異議申し立ては、ナルシシズムへと向かう内向きのベクトルと、人間解放へと向かう外向きのベクトルのはざまにある。」とのことです。石川准氏ご自身が障害者で、障害者が社会に「統合」されるということはどういうことなのかという意味をずっと問い続けられているようです。

上山さんのBlogを拝見させていただいて、上山さんが批判にあったというのを知ってから、左翼運動や公民権運動、女性運動、障害者運動の歴史が参考になるのではと思いました。





あむばる:
スティグマを貼られた人々というのは、具体的に言うと?




kwkt:
今回の御題でいうのであれば「ひきこもり」「ニート」であると思います。いわゆる社会的に「ダメ」と(恣意的に・集団的に)ラベリングされた存在と考えてよいのではないでしょうか。石川氏は目が不自由なのですが社会学の教授であり、障害者のためのPCのソフトウェアを開発したりと「あなたは「能力のある」障害者だ」と批判されることもたびたびと伺っております。




上山:
私は「僕は(orうちの息子は)あなたほど優秀ではない」と言われることがあります・・・。そもそも「クチをきけている」時点で「当事者」ではないですからね・・・。【「同性愛」や「身体障害」のように、「一生続くもの」ではなく、ひきこもりは「一時的なもの」という要因も大きいかもしれません。】






kwkt:
上山さんがどこかで述べられていたと思うのですが、引きこもり問題にしてもニート問題にしても社会ネットワーク化されないので社会的に・政治的に声が上がらないというのが最大の問題かもしれませんね。




上山:
そうです。「一時的なもの」と思っているので、「自分だけマジョリティに復帰できればいい」と思っている人が多い。(みんな腰が引けている)




kwkt:
石川氏はスティグマを貼られた人がとる戦略として個人戦略と集団戦略というものをあげています。運動家や運動体が活動して社会的に認知され社会の中に統合されていくのが集団戦略、しかし個人戦略としてはそれにただ乗り(フリーライド)してなにもしないということがありうる。




上山:
強く感じます>フリーライド。(そもそも引きこもりもニートも、「孤立」が原理的性向ですからね・・・>ネットワーク化されない)




kwkt
もうひとつの個人戦略として印象操作(わたしはかわいそうと演出)があるとのことです。上山さんがひきこもり問題やニート問題を発言されるとして、集団的には上山さんの言論にフリーライドしつつ、個人的には「私はもっと違う(これだけ悲惨)」と個人戦略が働いているように見えました。それが引用の最後の「スティグマを貼られた人々の異議申し立ては、ナルシシズムへと向かう内向きのベクトルと、人間解放へと向かう外向きのベクトルのはざまにある。」の意味かと。上山さんの「属性帰属と論点帰属」と「個人戦略と集団戦略」ががパラレルに語れるかどうかはもう少し考えて見ないといけませんが。あとこれは皆さんと論点がかなり共有できることだと思いますが、障害者が、引きこもりが、女性が自立して生活し始めることとは、どういう意味なのかと、石川氏は問うています。「障害者が施設や家庭から地域に出てきても、資本制産業社会の中心=「働いている人たちの領域」は微動だにしない(中略)いかにすれば中心まで影響を及ぼすことができるのか、どうすれば社会の支配的枠組みそのものを変質させるだけのパワーを持つことができるのかが、自立生活運動の次の目的である」と。




あむばる:
でも、本当の障害児は自立も出来ないのが事実。障害者はその言葉も持っていないが、それをどうすれば。




chiki:
確かに、重度の方はそうですよね>あむばるさん。




pin:
自立をどう定義するかではないですか。重度の障害であれ、わたしは自立できている、といえる既存の「自立」概念の組み換えとその共有が必要ということでしょう。といっても、むずかしいけれど。




あむばる:
思考できる障害者はそれで何とかなるんですけどね。>ピンさん




chiki:
色々な論理的困難はあると思います。もっとヘビーな人が常にいる、という意識も大事だと思いますが、それでも語った方がベターなケースに対して揶揄するしたり、その勢いを止める形ではなく、あくまでそれではフォローしきれない問題の吟味という方向へ意識を向けるような形を模索したほうがいいと思います。





kwkt:
(軽々とははいえませんが)その問題も承知しております。ただ上山さんが批判されたように「オレはもっと悲惨だ」「もっとヘビーな人が常にいる」という問題は承知しつつ、それでも考えていかなければならないこともたくさんあると思います。




あむばる:
マイノリティとコミュニケーションですから、障害者問題も考えなくてはならない。




pin:
思考できるできないの線引きも「当事者」問題でかんがえていかなくてはと、思います。たとえば「思考できない」とされている障害者を援助する側がこいつは思考できないから人間扱いしないでいいってことにはならないという当然のことですが、しかしそういった差別もまだまだあることはいえるでしょう。




あむばる:
それ以前に、障害者は思考できないんですよ。もちろん、知的障害。





pin:
いや、それは保留あるいは議論の必要があると思います。仮に事実だとしても。




あむばる:
マイノリティとコミュニケーションというと、それも入ってくると思いますが。





chiki:
ボランティアで重度の障害を持っている方の介護をしたことが何度かありましたが、「この人と対話が成立することは本当に難しい(というより無理?)」と痛感させられました。でもほとんどが受けての側、社会の側にかかっているような方――例えばパイプを抜いたら数時間で死んでしまうような障害の方など――と、いわゆる「対話」が出来なくても、その方をどう捉えていくか、絶対解消できない領域を汲み取ることも含んで、対話や倫理について考えいったほうがいいと思います。





kwkt:
(正直に言わせていただきます)ただ僕はちょっと今の議論には辟易感がぬぐえません。こっちはもっと酷いぞ、どう考えるんだ競争に見えました。(それを考えなくてよいわけではありませんが)




あむばる:
私の家では、現実問題なんで、ついつい。すみません。




kwkt:
そうなんですか。自分が当事者でないため軽はずみなことを申しておりましたらすみません。




あむばる:
いやいや、とんでもない。かえってその問題を提示したとき、ひかれたりすることが問題なのです。マイノリティとコミュニケーションというと、色々な論点があるわけで。




chiki:
もちろん今回はひきこもりの問題に焦点をあてたうえで、なるべく普遍的な意義を持つようなところを考えていくという保留がありますので、フォローできない部分もいくつもでてきてしまうでしょうけれど、その括弧は必ずはずされなければならないし、はずされるような時って必ず来ます。




上山:
「深刻度」の話ですが、――身体障害と違ってひきこもりの場合、「偽ヒキ」という問題があって・・・・。つまり、状態の深刻度属性を列記する中で、「お前なんか引きこもりじゃない」と、軽症者が排除される(たとえば「恋愛経験があるなんて偽ヒキ」など)。しかし考えてみれば、その論争に参加している時点で「軽症者」なわけで・・・・。 → 属性帰属でやる限り、「誰がいちばん重症か」の排除ゲームになる。しかし、軽症者であっても、困難を抱えていることは間違いない。重症者に役立つことは軽症者にも役立つが、重症者自身は、自分では動けない。とすれば、「問題を汲み取った軽症者」が事態改善に向けて動くしかない。なので「○○であるか否か」という属性に重なるところがなくても、あるいはそれこそ「当事者以外」でも巻き込める協力関係を作るために、「論点帰属」の観点が必要ではないか、と思ったのです。さきほどkwktさんがおっしゃったように、社会人のかたで協力的な方もいらっしゃいますから。(個人的には、重度の統合失調症のご家族を抱えて限界状態に耐えておられるかたのことを思い出しました>コミュニケーション不能。)「マイノリティとコミュニケーション」と言っても、各マイノリティの事情は様々で、共有できるテーマの部分もあれば、そうではないテーマもある、ということなんでしょうか。それとも、「コミュニケーションの困難さ」ということでテーマを共有し、一緒に議論できるんでしょうか。




chiki:
重要な課題をいただきました。――と、すみません、そろそろ時間が時間なもので、今日はこのあたりで一区切りさせていただいてもよろしいでしょうか。皆さん色々思うところ多いと思うのですが、それは次回の議論の原動力としていただいて。次回は2005年になると思いますが、ひとまずはよいお年をお過ごしくださいませ。しかし、内容はぜんぜん「いく年くる年」じゃなかったですね(笑)。




kwkt:
再度、当事者でないため配慮を欠いた発言がありましたこと申し訳ありませんでした。>>あむばるさん




あむばる:
kwktさん、まったく、気にしてませんよ。むしろ問題にしたい。上山さん、サインください。もう寝ます。(退出)




pin:
おつかれさまでしたん。(退出)


chiki:chikiも寝よう。初夢を見るぞ〜(退出)







残る二人と二つの課題 ―経済システムとマイノリティ?
上山:kwktさん、さきほどの引用勉強になりました。ありがとうございました。





kwkt:
上山さんのサイトを拝見させていただいて僕も勉強になります。先ほども述べさせていただきましたが、これまでの多くの社会運動の歴史が参考になるかもとBlogを拝見していて思いました。私もそんなに詳しくないのですが。




上山:
もう今日はお疲れですよね?




kwkt:
実は今日は昼寝しちゃって・・・、まだ冴えておりますw




上山:
あ、私も昼寝したのです(笑)。ただ、社会的排除のメカニズムが、どうも既存のものと違っているような気がして(もちろん重なる部分もあるのですが)何を参考にして良いやら戸惑っていて、なかなか勉強が進まない、というのが言い訳です(苦笑)




kwkt:
それは例えば移民が外から来る目に見える特徴を備えた集団であるのに対し、ひきこもり、ニート問題は社会の内から、どこ(の家庭)で問題になるかわからないという自分たちの社会集団内かもしれないというゆえの違いでしょうか?(この区別があっているかわかりませんが)




上山:
ええ、それももちろんです>kwktさん。「女性」「同性愛」などのように、一生続く明白な属性があるわけでもなく、かつてのヒッピーのように、既存社会の価値観に意識的に反抗しているわけでもない。ひきこもりは、「どうやら社会的事情・家庭事情・本人事情などがそれぞれ絡み合いながら発生している状態であるらしい」というぐらいで・・・・。そもそも、その状態像自体は「悪いこと」ではないはずなのに、あたかも犯罪であるかのように語られる(内面的怠慢を攻撃される)。しかし、「脱落するしかない人」が生きていける環境にできれば、それはすでに社会参加している人にとっても恩恵があるはずだと思うのですが・・・・。具体的には、「脱落しても再チャレンジできる社会」であれば、人々はもう少しのびのびと生きていけるのではないか――とかいうことです。つまり、弱者の問題に取り組むことで、社会がほんの少し生きやすくならないか、といったことなんですが。




kwkt:
そこには山田昌弘さんの『希望格差社会』の話がどうしても出てこざるを得ませんね。働いている人は脱落しないためにそれこそサービスザンギョウをしてまでも働き、脱落したら再チャレンジが望むべくはずもないという意識が蔓延しているといえます。




上山:
ああ、なるほど・・・・。「親が脱落していれば子供には再復帰のチャンスもない」とかですね・・・。




kwkt:
社会システムが回ることは重視されていますが、個人が安心して生活できる環境ではなくなってきているという意識があるのではないでしょうか。社会を回すために、個人がリスクをしょいこむ羽目になっている、ということでしょうか。それに関しては山田氏はリスクの普遍化と個人化と呼んでいますよね。この方の意見が面白かったです⇒「お金について考えたこと」「どこの国にもガリガリ働く人はいるわけだが、欧米に比べれば、日本はガリガリ働く人の割合が多くって、労働者にとっては融通がきかない。その分、きっちりとした時間に社会が動いているのかもしれないけど。結局のところ、行政や企業に頼っているだけではダメで、各自が自分や家族をもっと大切にして、場合によっては企業に三行半を突きつけて起業するような人が増えなければ、状況は変わらないのではないかと思う。」あとここの樹形図も面白いです⇒「「ニートに関する各論者のスタンス」




上山:
「起業することによって企業文化を変える」というようなことでしょうか。――「起業」ということは、いろんなかたが言っていて、ずっと考えているのですが・・・。




kwkt:
起業ってのも日本ではかなり難しいという印象がないですか?




上山:
それこそ「リスクの個人化(自己責任)」においてチャレンジする、ということなんですが、ここの文化が極端に弱いです>ひきこもり当事者は。今思ったのですが、「リスクを冒す労働」(家の外の労働)と、「こなす労働」(家事労働)という分け方は意味ないでしょうか?(「企業」と同音だからややこしい:笑)



kwkt:僕もふと思ったのですが(すみません)家の外の労働でも「起業」のリスクって日本ではかなり高いんじゃないですか? 日本では「企業に勤める人(夫)」と「家事労働(妻)」がセットですよね。





上山:
仄聞したのみですが、アメリカだと、会社を倒産させた人でも結構すぐに次の起業ができる(資金集めができる)と聞いたのですが。それこそ企業=起業文化にも、「再チャレンジOK」な空気や制度があるというか。





kwkt:
それは空気だけでなく日本における「債権」の問題がありますよね。日本は債権を(大企業以外)放棄させず、個人に対しては徹底的に(それこそ自殺に追い込むまで)追求しますから。これを「ウィズ・リコース・ローン」と呼ぶようです。アメリカでは「債務者は担保以外に債務を弁済する必要がない」というノン・リコース・ローンだから起業がやりやすいみたいですが。





上山:
With-recource loan(遡及形融資)でしょうか(今ググりました)




kwkt:
ええ。日本ではウィズ・リコース・ローンなので「債権者は担保を越えて債務者に債務の弁済を要求」できる、とのことです。だから銀行は与信能力が低いと言われています。相手にいかに返済能力(連帯保証人、担保)があるかで融資を決めるので。アイデアで儲かるかもしれないから融資するという発想がないとのことです。この問題を調べると、なんで日本で起業しにくいのかとか、住宅ローンを組むことが一生の買い物になるのかとかいろいろな社会の仕組みが見えてくるみたいです。




上山:
それはひょっとすると、木村剛氏の銀行と関係ある話でしょうか・・・・。




kwkt:
多分あると思いますよ。僕も詳しくないんですけど>>木村氏の話 どこかで聞いた話ですが、日本の銀行の業務内容だとアメリカじゃコンビニ店員の給料くらいしかでないとか(誇張もあると思いますが・・・)「お金を貸す」「お金を返す」という意味も再考が必要なことの一つかもしれません。






上山:
え、業務内容が悪いということですか?(すみません、興味は凄くあるのですが素人で)





kwkt:
お金を貸す(与信)能力が低いとのことです>>日本の銀行




上山:
ああ、実は「決済」ということを考えていたのです・・・。(お恥ずかしい話、切込隊長BLOGで読んだだけなのですが、)日本振興銀行というのは、ほとんど担保が期待できない企業にもお金を貸す銀行だったようなんですが・・・。




kwkt:
日本は不動産と連帯保証人がいないとお金を貸しません。欧米ではアイディア・業務内容にお金を貸すということがありえる(もちろんむやみにということではないと思いますが)ということみたいです。だから日本には銀行が貸さないので、消費者金融商工ローンというのがあって、With-recource loan(遡及形融資)で死ぬまで債権追及をする仕組みがついこの間まで平然とまわっていたみたいです。それに批判がようやく出てきて日本振興銀行のような救済的な仕組みができたのだと思います。




上山:
それもすでに裁判沙汰になってるようですが(汗)。




kwkt:
日本ではお金を貸すときに安心がないと貸せないというのが根強いみたいです。「リスクのヘッジ」ということが安心がないとできないという意味に履き違えられているのだと思います。話が飛びまくってますが、言いたかったのは、日本では社会システムを構築する際に、いかに社会を滞りなく回すかということに主眼が置かれ、それはこれまでは仕方なかったのでしょうけど、個人がいかに幸せに生きていくかという意味で社会してステムが回っていないということになっているのだと思います。

この前、深夜にNHKスペシャルでやってましたが、(いろいろな意味で批判もありますが)スウェーデンでは社会制度はいかに個人がしあわせになるかという観点で設計されていると言ってました。





上山:
ああ、スウェーデンのことはいつも気になります。(社会保障費は膨大みたいですが)




kwkt:
税金6割とか言ってましたよ!>>スウェーデン




上山:
6割! よく暴動起きませんね(笑)。しかし私たち弱小個人には、銀行や金融の慣例を変えることはできないので、「では何ができるのか」という話になるわけですが。関連があるかどうかわからないのですが(というか関連を探りながらお話させて頂いているのですが)、最近私がどうしても避けて通れなくなったのが、やはり「ひきこもり支援とカネ」の問題です。

「お金」というエグイ話を通じて、個人レベルの「コミュニケーション」というミクロな話と、kwktさんがおっしゃっているようなマクロな社会設計の話が一緒にできないか・・・・と思うのですが。コミュニケーション弱者は、何よりもまず「経済的に稼ぎを作れない存在である」という点に着目すべきだと思うのです。逆に言えば、稼ぎが(カネが)あれば、隠遁して「棲み分け」ればいい。べつに「弱者」として問題化する必要もない。





kwkt:
そうですね。相対的にそのような環境からは排除されがちだと思います。稼ぎが(カネが)あれば、隠遁して「棲み分け」ればいい>>確かに。社会的に何の問題もないと思います。「何の問題もない」は言い過ぎかな。




上山:
たとえば(妙な喩えですがw)、切込隊長山本一郎)氏は「童貞」だそうですが、数十億円の資産を作った。世間的には「性的コミュニケーションには難がある」が(宮台さんなら許さないのでは)、カネを作るコミュニケーションに異常に強い。一見コミュニケーション弱者と見える人の能力でも、ちゃんと経済回路に乗りさえすれば経済人になれるわけで、たとえば私はある人々からは「言語能力が高い」と言われますが、経済的には無能だったりする。 → 社会環境のほうを変えようという面と、自分が訓練してカネを稼げるようになろうという面と。




kwkt:
う〜ん。でもその方は例外的に聞こえますね。再び山田昌弘氏の『希望格差〜』に話を戻せば、そのような超レアな大成功ケースがあるとともに、多くの単純労働・希望剥奪ケースが存在するとのことです。そちらの方をどう考えるか。




上山:
たとえば私は、「自分だけ成功しようとしている」などと言われることもあるわけです。




kwkt:
う〜ん。それは難しい問題ですよね。みなが出版とかにアクセスできるわけではありませんから、そう見られる可能性もありますよね。




上山:
しかし私からすれば、とにかく自分自身が何らかの形で既存社会に参加できる形を作れないことには、一生を「俺は活動しているんだ」という自己満足で終わることになるし、そもそも単なる弱者で終わる。弱者同士の語り合いは、実は社会を何も変えないと思うのです。(これはある犯罪被害者の方と話したときの話題ですが。)これは、「俺は優秀になりたい」と言ったときにも受けた批判でした。「優秀」だなんて、既存社会の差別的価値観を言っているだけだ、というような。





kwkt:
お話を伺ってて思ったのですが、問題が大きすぎて何から手を付けていいのかわからなくなるほどですね・・・。




上山:
たしかに・・・・。ひとまずは、自分個人がやれるところから、ということで、言論活動に意味はないだろうか、と思うのですが、それすらもほとんど評価されない、というか。私は、「ニート」「ひきこもり」はこれだけ激論の起きる問題なのだし、「言論こそ大事だ」と思うのですが、いかがでしょう・・・。




kwkt:
ただ本日ご紹介いたしました石川准さんの、異議申し立てには開放的側面とナルシシズム的側面があるというのはよく理解できた気がします。




上山:
ええ。最近私が考えていたことを整理された感じでした。




kwkt:
功利的な問題関心でもいいから、「ニート」「ひきこもり」の言説はもっと展開した方がいいと思います。これは前回pinさんと議論になったことですが、一般の方々がフェミニズムにしてもニートにしてもひきこもりにしても、自分の問題として引き受けるようになるかは残念ながら「ない」と仮定して動くしかないかなとおもうこともあります。ただ経済の、社会保障の行く先を考えたら、あなたたちと無縁な問題ではないですよと言っていくしかないかもと>>一般の方々




上山:
「功利的な問題関心」というのは、私自身にとっての利益、ということでしょうか?




kwkt:
そうです。個人的な得になると方向付けることで、あたかも公共的な振舞いをしていただくのが一番かと。




上山:
ああ、たしかに私は「わかってください!」ではなくて、「社会問題として深刻化したら、あなたたちも巻き込まれますよ」という説得しかしていないです、一般に向けては。「自分自身にとっての得」を追求することが、けっきょく公共的な益をも生み出す、という発想でいいと?




kwkt:
そこで前回pinさんと「経済問題にならなければ女性問題を意識しないのか」という議論になったわけです。内面の考えを変えさせると非常に難しいかと。




上山:
マイノリティにとっての益と、無関心層にとっての益をどう接合するか、というあたりでしょうか。




kwkt:
そうですね。もちろん理解が進むことに越したことはないのですが、これまでの社会運動の歴史とかを見ても「考えが変わる」⇒「制度が変わる」という方向があったのかと思ったりもします。




上山:
鈴木謙介さんの感想にありましたが、「女性の社会参加を忸怩たる思いで見ている若い男性は多い」とか・・・。




kwkt:
「社会環境が変わる」⇒「制度が変わる」⇒「意識が変わる」という順番かなぁと。なんかマルクス主義と近いのかもしれませんが。





上山:
下部構造とかの話ですね。それで思い出すのは、あまりにも矮小化かもしれませんがやはり「カネが倫理を決する」ということなんですが。(支援論との関係です)




kwkt:
難しいですね。でも(またですが)『希望格差社会』を読んで、いやその他の違う分野の本もあるのですが、経済が問題を解決したり意識を変えたりする側面はあるなぁと思う今日この頃です。




上山:
たとえば「企業が障害者を雇う」という問題も、「障害者の人権」云々という理念ではなく、「障害者が職場に居たほうが生産効率が上がるというデータがあります」という説得のほうが効率的だったりする。経済優先の非人道的環境を改善するために、説得術としてはやはり経済論理を持ってこざるを得ないという戦略的要請があるように思うのですが・・・・。





kwkt:
それはあるかもしれませんね。まずいっしょにいることで人権意識も育まれる可能性は大きいと思います。




上山:
「格差があるのはまずい」という理念説得ではなく、「格差があると経済効率が悪い」でないと説得できない、というか。【「格差=非効率」の話は『希望格差社会』にあったかと。】




wkt
ただ経済理論の行き先、どんな社会を望んでいるかということが最後に問われるのだと思います。




上山:
ええ、あると思います。理念解決より、まず「一緒にいられる」状況作りに手を尽くすというか。「ビジョン」の問題ですね。




kwkt:
格差が開きすぎると結局治安が悪くなって住み辛いとか。ビジョンの話ですが、やはりこのチャットで話題になった公共圏の話になると思います。




上山:
そうそう、先ほどのチャットでpinさんが「《私》からはじまるのがマイノリティの言葉の獲得のはじまりじゃないですか」という名言をおっしゃったのですが(笑)、kwktさんの「個人的なこと≪で≫政治的なこと」を思い出したわけです。「個人の苦しみ(リスク)」の問題を、どこまで公共圏に持ち出すのか。 




kwkt:
そのためには多くの皆さんに「個人的なことで政治的な」問題が「自分に関わってくること」だと認識していただく必要がある、と思うわけです。認識できないのであれば、認識を変えてもらうのではなく、変わったように振舞っていただけるよう設計する工夫が必要かと。ちなみに「清く正しい認識をもたせよう、認識を変えさせよう」というのが、かつての共産主義的な社会で行われたことだと理解しております。






上山:
ちょっと飛躍しすぎかもしれませんが、「当事者性のない人間はいない」とも言えるかと思うのですが・・・・。「自分に関わってくると理解できないのは裏切り者だ」というようなことでしょうかね。>共産主義【身近に新左翼系のかたがいたもので(苦笑)】




kwkt:
そうですね。>>当事者性 だから上野千鶴子氏は今、誰にでもいつか訪れる「老い」という側面からマイノリティ問題を考えていると聞いています。




上山:
なるほど・・・>老い。しかし若い人は(というか私も)、「そんなに長生きしないよ」とかでは。




kwkt:
だから最近は「生き残ってしまうリスク」とかが問題視されていますけどね。




上山:
「生き残ってしまうのは恐いよ」というような?




kwkt:
端的に老後の蓄えが尽きてしまうというリスクです。




上山:
ああ。先日TVでは「老後の貯えは8000万円必要」とかいってましたが。




kwkt:
そんな蓄えをできる人はほとんどいないわけで・・・。




上山:
ですね・・・。




*1:こちらのやりとり」をうけてのパロディと思われる。