輝く未来の必要性について―『時をかける少女』を再度観て。

テレビで『時をかける少女』が放映されたので観た。以前も書いたように、この映画は「未来」に対して果てしなく超スーパーウルトラポジティブだ。でも、やっぱり「未来」は出来る限り、常に輝いていたほうがいいなと思った。


最近、しばしば「未来」についてよく考える。といっても、自分の今後の身の振り方とかそういうのとは違って、科学とかメディアとかコミュニケーションについての「未来」。暇なときに、未来年表 | 生活総研NRI未来年表 2007-2020JSTバーチャル科学館|未来技術年表などを眺めては、「未来」について思いを馳せてみる。


例えば未来年表 | 生活総研で「インド」とか検索してみると、2009年に「インドのアニメーション産業が9億5000万ドル(約1100億円)の規模に拡大する」とか、2010年に「インドの携帯電話契約者数が、国民の半数に相当する5億人に達する(毎月500万人が契約)」とか、2020年に「中国とインドの経済規模が日本を超えて米国に次ぐ世界第2位と第3位の座を獲得する」とか出てきて「へー」と思うことしきり。


もちろん、これらがどれほど蓋然性がある予測なのかは分からないし、今後も変数次第で色々と変わってくると思う。しかし、遠くの未来像について考えることは、現在という時間の振る舞いを“反省”させる。中には「不都合な真実」よろしく、決して明るいとは言えない未来予測もあるけれど、それすらも同時に「明るい未来」について考えるためのツールになる。重要な変数は何で、どのような理解・選択をするのが望ましいのか。社会全体を左右するような大きな未来に関わる場合、それが誰にとってどのように「明るい」選択なのか。どうすれば「明るい未来」を築き上げられるのか。そのようなことを“反省”させられる。


クレヨンしんちゃん オトナ帝国の逆襲』では、大人達がかつて描いた「明るい未来」が失われてしまった現代社会において、閉鎖したコミュニティの中でノスタルジーと戯れ続ける「オトナ帝国」が描かれている。見ていない方のために、wikipedia よりあらすじを抜粋。

昔懐かしいテレビ番組や映画、暮らし等が再現された「20世紀博」というテーマパークが日本各地で開催されていた。毎日つき合わされ、いい加減に飽きて辟易しているしんのすけら子供達を尻目に、ひろしやみさえら大人達は、懐かしさに触れて20世紀博を満喫する。街中でも昔の車やレコード、白黒テレビといった古いものが売れるようになり、帰宅しても大人達はビデオの懐かしい特撮番組やアニメ番組に夢中になるばかり。
ある晩、テレビで『20世紀博』から「明日、お迎えにあがります」という放送があり、これを見た大人達は突然人が変わったようになり、すぐさま眠りについてしまった。
翌朝、大人達は家事や仕事も忘れ遊びほうけ、子供達を無視していた。しんのすけは困惑しながらも幼稚園に行くが、幼稚園の教師たちにまでも無視されてしまう。すると、街中にたくさんのオート三輪が現れた。大人達(紅さそり隊ら高校生含む)は皆それに乗り込み、子供達を置き去りにしてどこかへ走り去ってしまう。
これは“ケンちゃんチャコちゃん”をリーダーとする秘密結社「イエスタデイ・ワンスモア」(「昨日よもう一度」の意味で、昨日とはつまり20世紀を示している。また、カーペンターズのヒット曲のタイトルでもある)の、大人を子供に戻し、「古き良き昭和」を再現し、未来を放棄するという、恐るべき“オトナ帝国”化計画だった。
大人達は『20世紀博』のタワーから発せられる、懐かしい「におい」の虜になってしまったのだった。そしてその矛先は、置き去りにされた子供たちにも向けられた。懐かしい「におい」で洗脳された大人達を操り、子供達は再教育させるというのだ。だが、この「におい」は、現代の子供達には通用しないものだった。
クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲 - Wikipediaより抜粋。


大人達が思い描いた「明るい未来」に感染することのなかったしんのすけ達は、父ひろしに“今=現在の匂い”をかがせることによって正気に戻すことを思いつく。そのために選択したアイテムが、ひろしのくっさくさの靴だというのは『クレヨンしんちゃん』ならではのおかしみだけど、そこには“その足で確かに踏みつけてきた日常の匂い”という意味が込められている。


「イエスタデイ・ワンスモア」は、現実は、かつて描かれたた「明るい未来」に劣る醜いものだとして、現在を否定する。それに対し、しんのすけはボロボロになりながらも「大人になりたい」と叫ぶ。そして、「かつての明るい未来」を諦める一方で、新たな未来を諦めて自決しようとする“ケンちゃんチャコちゃん”に対し「ずるいぞ!」と叫ぶ。オトナに日常を否定され、ボロボロになりながらも希望と肯定を叫ぶしんのすけの姿に、何度観ても涙が止まらない。


適量を越えたノスタルジーは時に危険な存在にもなる。過去はいくらでも美化できるし、いくらでも「自分は割を食った」と主張できる。「上の世代」も「同世代」も「下の世代」も、「我こそは割を食った!」と叫んでいる。しかし、その感覚はいつまでも平行線をたどり、泥仕合になりがちだ。議論を構築するためには、一旦別のフレームやアジェンダに変更しなきゃいけない。


羽海野チカハチミツとクローバー』の7巻、chapter43 に、次のような忘れられないセリフがある。「自分探し」をしている竹本に対し、若い大工の六太郎が「オレをみろ。16から働いてるんだぜ!?」「お前見てっとイライラすんだよ。悩んだり迷ったりオレにゃあそんなヨユーもなかったよ」と言う。それにゲンコツをくわえた後、大工の棟梁が言うセリフだ。

最初に言ったよなあ? ええ? 六太郎よ。『不幸自慢禁止』って。
お前だけじゃねぇみんな事情はある。――が腹におさめてがんばってんだよ。
キリがねえんだよ。そこ張り合い始めたら。
全員で不幸めざしてヨーイドンだ。そんなんどこにイミがある!?


その後、大工の“しんさん”が竹本に「足元ばっかり見てると余計怖くなるよ。少し前を見るといい。前すぎてもダメだけどね」と声をかける。『オトナ帝国〜』において、“しんちゃん”達が自分達の足跡を見つめなおしつつ、「少し前」を見据えて歩き続けることを肯定したように、前に進むために必要な「明るい未来」を描いていく必要は、いつだって、誰にだってあるのではないか。もちろん「明るい未来」のビジョンは、時にぶつかり、係争の対象になる。それでもなお。


……と、『時をかける少女』を再度観て、そんなことを思わされた。やっぱり非常に良いテクストだと思う。