ジェンダーフリーバッシングはいつ頃はじまったのか ――そしていつ終わるのか。

ちょっとした話題になっているのでご存知の方も多いと思うけど、「上野教授の講師を拒否 都教育庁が思い過ごし」という記事があります。


人権講座:上野教授の講師を拒否 都教育庁が思い過ごし
 東京都国分寺市が、都の委託で計画していた人権学習の講座で、上野千鶴子・東大大学院教授(社会学)を講師に招こうとしたところ、都教育庁が「ジェンダー・フリーに対する都の見解に合わない」と委託を拒否していたことが分かった。都は一昨年8月、「ジェンダー・フリー」の用語や概念を使わない方針を打ち出したが、上野教授は「私はむしろジェンダー・フリーの用語を使うことは避けている。都の委託拒否は見識不足だ」と批判している。

 講座は文部科学省が昨年度から始めた「人権教育推進のための調査研究事業」の一環。同省の委託を受けた都道府県教委が、区市町村教委に再委託している。

 国分寺市は昨年3月、都に概要の内諾を得たうえで、市民を交えた準備会をつくり、高齢者福祉や子育てなどを題材に計12回の連続講座を企画した。上野教授には、人権意識をテーマに初回の基調講演を依頼しようと同7月、市が都に講師料の相談をした。しかし都が難色を示し、事実上、講師の変更を迫られたという。

 このため同市は同8月、委託の申請を取り下げ、講座そのものも中止となった。

 都教育庁生涯学習スポーツ部は「上野さんは女性学の権威。講演で『ジェンダー・フリー』の言葉や概念に触れる可能性があり、都の委託事業に認められない」と説明する。また、一昨年8月、都教委は「(ジェンダー・フリーは)男らしさや女らしさをすべて否定する意味で用いられていることがある」として、「男女平等教育を推進する上で使用しないこと」との見解をまとめていた。

 一方、女性学とは社会や学問のあり方を女性の視点でとらえ直す研究分野だ。上野教授は「学問的な見地から、私は『ジェンダー・フリー』という言葉の使用は避けている。また『女性学の権威だから』という理由だとすれば、女性学を『偏った学問』と判定したことになり許せない」と憤る。

 同市や開催準備に加わってきた市民らは「講演のテーマはジェンダー・フリーではなく、人権問題だった。人権を学ぶ機会なのに都の意に沿う内容しか認められないのはおかしい」と反発している。【五味香織】

 ◇ジェンダー・フリー

 社会的・文化的な性差「ジェンダー」をなくす意味で用いられる和製英語。90年代半ば以降、「男らしさ、女らしさ」を押しつけないジェンダー・フリーの考えが広まり、自治体などが男女共同参画に取り組む際に使われてきた。特に決まった定義がないため、体育の着替えを男女同室で行うなど、行き過ぎた男女の同一化の動きにもつながっている。猪口邦子男女共同参画担当相は、混乱や誤解が生じているとの判断で今年度中に定義を明確にする方針。

毎日新聞 2006年1月10日 15時00分

この事件自体もひどいけど、記事自体の用語説明も輪をかけてひどい。というわけでまずは用語説明をちょっとイジワルに添削しておこうじゃないか。



ジェンダー・フリー

社会的・文化的な性差「ジェンダーの押し付けから自由にしよう、という意味で用いられる和製英語。特に決まった定義がないため、メディア上では特に2002年の春頃から現在に至るまで、「『体育の着替えを男女同室で行うことがジェンダーフリーのせいだ』と騒ぐ人が観測されだしたが、『ジェンダーフリーのために同室着替えをすべし』と言った人は今なお観測されていない。そもそもそれだとジェンダーレスだし。なお、最も『ジェンフリのしわざ!』と騒いでいたおじさんが、最近になって「知らない」って言い出した。なんじゃそりゃ。ちなみに同室着替えなるものは、90年代後半にジェンダーフリー教育論が出てくるはるか以前からあって、フェミニストは概ねむしろそっちを批判しているのだが。内容や論争のまとめについては「このQ&A」を見てやってください。リンクもよろしくです。

チキ新聞 2006年1月12日 5時00分

こんなんでどうしょ。



さて、確かに上野千鶴子氏はジェンダーフリー論者ではない。上野氏がジェンフリを批判している文章は『We 2004.11』や「こちらの講演録」等でも確認できます。『We』では「わたし自身は「ジェンダーフリー」は嫌いだし、使いません」と言ってたりする。というわけで「都の委託拒否は見識不足だ」というのは確か。



ただ、「ジェンフリじゃないなら呼んでもいいじゃないか」という指摘の方法はとるべきじゃないと個人的には思います。と言うのも、「講演で『ジェンダー・フリー』の言葉や概念に触れる可能性があり」「ジェンダー・フリーに対する都の見解に合わない」と都側が答えたのであれば、そのこと自体が問題を含んでいるようにも思うからです。つまり、パブリックな場所だからこそ多様な意見が交換されていいはずなのに、(今回は誤解だが)自治体や制度とは立場が違うという理由で断ったり、言葉の使用自体をも禁じるのはどうなのかという問題*1。こっちはこっちで議論する必要があると思う。



ところで、今なおこのような盛り上がりを見せるジェンダーフリーバッシングは、いったいいつ頃始まったのか。気になりません? chikiがざっと見た感じでは――「最初はこれ!」と言うのはまだ断言できないけれど――添削部分でちょっと書いたように、メディア上では大体2002年春頃を目安に盛り上がりを見せているのは確かなよう*2。ちょっと大雑把に見てみよう。



ジェンダーフリーバッシングといえば、産経、世界日報新しい歴史教科書をつくる会の3つが有名どころ。世界日報は2002年5月20日に「教育現場に浸透する『ジェンダー・フリー』」という記事を掲載して以降、繰り返し批判的に(時にはウソもついて)取り上げる。産経新聞は、2002年4月14日の一面トップにてジェンダーフリーに批判的な記事を掲載。同時に、産経新聞社のオピニオン雑誌『正論』でも、2002年5月号以降ほぼ毎号のようにフェミニズムジェンダーフリー批判を取り上げています。



つくる会は2001年8月15日、中学校教科書の採択結果発表がありました。結果は歴史の採択率は0.039%、公民は0.055%と惨敗。その後、西尾が名誉会長に就任し、理事に八木秀次さんが就任しますが(9月)、その翌年から「ポスト歴史教科書問題」(斎藤美奈子@『物は言いよう』より)として「ジェンダーフリー」を積極的に取り上げるようになります。ちなみに「フェミナチを監視する掲示板」とかができたのも2002年の夏頃。詳しい年表なんかは、暇を見てさらに調べてみます。



以上の経緯を――個々の動機や精度はどうあれ――2000年12月に閣議決定された男女共同基本計画へのレスポンスとして捉えれば(『ラディカルに語れば…』があれほど執拗にたたかれたこともそのひとつと見れる)、去年の12月に閣議決定された男女共同参画基本計画(第2次)に「ジェンダーフリー」に関する否定的注釈*3が入ったことで「レスポンス、終了〜」となりそうなもの。



chikiは以前、「特定思想を叩く口実であったとしても、そういう「祭」を経ながら日本の性教育他のレベルが向上するのであれば結果オーライ、という方向にせめて流していってほしいな、と思います」と書きました。この注釈が入ったことで「祭」が段々沈静化していきつつ、議論の質だけは向上する、ということになればいいと思っています。



ところが今回のようなニュースを聞くと「結果オーライ」にはまだまだ程遠そう。それはバッシング自体が自己目的化した人が一定数いるから、というだけの問題ではない。そもそも、フェミでもなくジェンダーフリー自体を推進するつもりもないchikiが(もっとも、こうして「ジェンダーフリー批判」を批判するだけで、ジェンフリ推進派やフェミナチ扱いする人はいる)、なんで現在の「ジェンダーフリーのたたき方」を批判しているのかというと、単にその批判が的外れなだけでなく「その先」のビジョンがあんまりにもアレゲだから。不安を煽るだけあおって、純潔教育を、性報道&性表現規制を、メディアのゾーニングを、教育基本法の改正を、言論の規制を…ってのは馬鹿げてるでしょう。今回の件に関して、その懸念の一端を垣間見た気がします。



だから上野氏がジェンフリであるかないかが焦点になるよりは、別のところ、つまり都のパブリックに関する捉え方についての議論が起こるといいなと思う次第であります。

*1:もちろん「左」だろうと「右」だろうと。

*2:但し、例えば日本会議の機関誌「日本の息吹」などを見ると1999年頃からジェンダーフリー批判が行われていることを確認することができる。メディア上で盛り上がってきたのは2002年春頃をメルクマールにできたとしても、その準備や言説自体はもっと前からあったと予想できる。「起源」ではないので注意されたし。

*3:第二次基本計画には、「『ジェンダー・フリー』という用語を使用して、性差を否定したり、男らしさ、女らしさや男女の区別をなくして人間の中性化を目指すこと、また、家族やひな祭り等の伝統文化を否定することは、国民が求める男女共同参画社会とは異なる」という注釈が書かれている。