chikiの感想文。「れふとあろーんをみました。とっても、とーってもむずかしかったです」

様々な意味で「むずかしい映画」だと思いました(これって感想になってるのか!?)。この映画を観たところで、おそらく多くの人がニューレフトの歴史を認識することはむずかしい(というか無理)。そしておそらく多くの人が、そこで話されている会話の内容がむずかしく、断片化されているので理解できない(というか無理)。ストーリーやテーマを観客にイージーに提供することなく、否応なしに混沌の環に引きずり込まれる。それが明快な方向付けを禁欲した結果とも取れるし、結局はある閉じたムラの言説が飛び交っている映画とも取れるので、判断するのもむずかしい。



ある友人はこの映画を観ようか観まいか悩んだ末、「発売している本を読めばすむかな?」と聞いてきました。また一方で、映画を見終わった後、「西部のあのまとめ方には疑問がある」「すがのあの態度はどうよ」というような感想を熱く語っていた人もいたりしました。映画の冒頭で「映像で歴史を語ることのあやうさと魅力」について言及した映画だからなのか、「何が」語られているのか、「どう」語られているか、と、特に会話の内容や編集形式について語ることへの誘惑がひときわ強い。歴史に対する解釈が否応なしに問題になるからか、議論の場へ知らず知らずのうちに吸引してしまう力のある映画なんだろう、と思いました。その意味で問題提起には成功しているかもしれません。



しかし、chikiはそもそもニューレフトの歴史や当時〜現在の論壇事情などを詳しく知らないので、現時点でこの映画の「解釈」をするのも非常にむずかしいし(ぉぃ)、「あれがない」「これはどうよ」という語りへの魅力は正直それほど感じませんでした。というより、一部の人(思想ヲタやサヨとも言う)を除いて、この映画のコンテクストを説明されずにいきなり見せられたら、ということを考えると、例えばOuttakesさんの言うような「男同士の映画」というような感想を抱かざるをえないと思う(但し、「女性観客を動員できない」あるいは「快く思う女性はまずいないだろうし、男であるぼくだって不快」と言ったとき、その場合の「男/女」をあくまでセックス(生物学的性差)の枠組みで分けた上で一般化してしまっているので、むしろあの映画が「誰に」見られるものだったのか、というのは別の視点で考えたほうがいいと思います。chikiの友人の「女性」たちも楽しんでましたから)。それがこの映画の欠点なのか、あるいは可能性なのかは吟味が必要、で、またまたむずかしい。



chikiは「映画」であることの意味は十分にあったと思うし、ニューレフトの歴史自体に興味なかったけど(いや、興味はあるんですが、それよりすがさんの発言に興味があった)、それでも3時間楽しめました(カタルシスは…最後のアニメでちょっと得られたりしたかも:笑)。ただ、「場面」や「映像」について語ることは、印象に残った場面は多くある(例えば門付近でハリガネをめぐる――ハリガネをはずしたらどうなるのか事情を知らない観客にはさっぱり分からないので、感情移入のしようもない――やりとりを延々と写すところなど)にもかかわらず、すぐに躊躇が訪れてしまいます。「果たして、こういう見方でいいのだろうか」という躊躇。この躊躇は他の映画でも訪れるものには間違いないけれど、ひときわ「むずかしさ」をこの映画の側から、非常に問題のある形で投げかけられているように思います。



それは、例えば「ブックレット重力01」で鎌田哲哉さんが苛烈に柄谷行人スガ秀実(その他もろもろ)を批判しているように、「NAM」の問題を隠している、という指摘のような形で、黙説法的に様々な「見えなかったもの」について考えさせられるからかもしれません。何を隠しているのかを問うと同時に、隠したものとどう付き合うのかと問うこと。この映画自体がそれを訴えているように思う一方、ある意味でそれを徹底して実践している鎌田さんはすごい。NAMの問題は良く分かりませんが(知らないだけでなく、集団が苦手)、鎌田さんの批判とはまた別に、誰に見せていて、誰に隠しているのか、という部分には考えていこうと思わさせられました。



ちなみに、今回のブックレットで鎌田さんの文章をまとまった形で初めて読んだけれど、分析能力の高さと強度溢れる文体に驚きました。さらに驚いたのは、映画が終わった後、すがさんと鎌田さんが肩を並べながら一緒に歩いてどこかに行っていたこと。本人にはもう「回答」してるんだろうかな、内容が気になるな、どこかに書かれるのかな、などと思いながらchikiも友人と飲みに行きました。普通に、左側通行で。





※映画のサントラ、とってもいい。
※ブックレットはそのうち通信販売になるとのこと。