第一回チャットログ公開。

11月上旬の夜のこと。chikiは、8名の方に次のようなメールをお送りしました。



こんにちわ。いつもお世話になっているchikiです。突然のお便りで驚かせてしまって申し訳ありません。この度、chikiが「成城トランスカレッジ!」というサイトを通じて直接のお知り合いになった方、あるいは文字だけの関係ながら心より尊敬させていただいている数名の方にこのメールをお送りさせていただきました。今回メールを送らせていただいた理由は、ネット上でそれぞれ責任を持ちながら発言しているサイト管理人や運営者、コメンテイターの方と、濃密な対話を行うための「チャット大会」を開きたいと思い立ったからです。もちろん当方の勝手な思い付きですので、ご迷惑に思われてしまうかもしれません。その際は大変申し訳ありません。もし興味をもたれましたら、今週の土曜日の夜までに、来週中のお暇な時間を教えていただけないでしょうか。チャットはおそらく夜に、2時間以上の対話になると思いますので、本当に差し障りのないようでしたらお願いします。ご多忙のことと思いますので、断る場合は無理に返信していただかなくても大丈夫です。




このような不躾なメールに対し、皆様から即答で「OK」をいただきました。そして、チャットやメール、メッセのやりとりを何度も重ね、第一回チャット大会を11月20日に行うことができました。このたび、参加者全員の方から「掲載OK」の許可をいただきましたので、まずは第一回の内容を以下に掲載させていただきます。現在「第二回」「第三回」…とチャット大会を行っており、そちらのほうも準備が整い次第、公開していきたいと思っています。毎回濃密な内容ですので、時には真面目に考えさせられ、時には爆笑させられるようなエントリーを公開できると思います。以下は、チャットの内容に、多少の校正や注釈を加えたものです。












参加者紹介
chiki成城トランスカレッジ!」を運営しているサル。今回のチャット大会では司会や連絡役、つまりは雑用係を務めさせていただいている。石原千秋すが秀実のゼミの末席を汚しに汚しまくった(ている)イベント厨。今はサポセンの中の人。


しょこらフランス現代思想クラシック音楽、料理という、一見全く関係のない三要素の紹介を毎日行うという異彩を放つサイト、「音楽の部屋」の運営を行っていた慶應大学4年生(もうすぐ卒業、おめでとう)。自称「ミーハー女子大生」。はてなでは「chocolat_chaud」というidだった。現在は残念ながら、しばらくお休み。


上山『「ひきこもり」だった僕から』の著者であり、現在「Freezing Point」というBLOGで「ひきこもり」に関する丁寧かつ真摯な考察を行っている上山和樹さん。どのような論点にも配慮する気配りと対話の姿勢に、リスペクトを惜しまない。


kwkt「Kawakita on the Web」というBLOGで数多くのイベントレポを紹介しつつ、自身の関心のあるテーマについて精緻な考察を向ける社会人ブロガー。そのフットワークの軽さと紹介文の平易さは圧巻。


情報系雑誌編集者であり、「成城トランスカレッジ!」の愛読者。頻繁にコメントを書き込んでいただき、メールのやり取りやチャットを重ねるうちにchikiと仲良しに。スピノザをはじめ、近代哲学に造詣が深い。


ただもの二松学舎大学「HOWS」で教鞭をとっている山口直孝先生。日本文学の研究者であり、大西巨人関連の蔵書数では世界で右に出るものなしと噂されているほどの愛書家。詳しくは「山口ゼミのホームページ」参照のこと。今回のチャット大会が人生初チャットとなる。


あむばるただもの先生の弟子であり、「倫理的で批評的な掲示板」というサイトを運営している。人文系雑誌の編集に携わっており、特に日本の小説にはうるさい。ただもの同様、人生初チャット。出るか必殺、人差し指打法(指一本でタイピング)。


shfboo日本文学を研究する大学院生。はてなーでもあり、「静養の間」にてBLOGを公開している。chiki同様、成城大学出身であり、chikiの先輩でありながら親友でもありながら○○でも××でもある(ぇ)。このサイトでは、かつては「Boo」という名前でコメントを書き込んでいた。


Pin女性学研究者であり、テレビドラマや漫画、音楽、小説など、さまざまなテクスト表現に鋭いまなざしを向けるフェミニスト。chikiの親友。shfbooと3人そろって3バカトリオ。正体はナイショの方向で(笑)。










それぞれのログイン方法(笑)



しょこらこんにちは。早めにお邪魔しました。うわーん、緊張しますよう。




shfboo
こんばんわ。おお、主役が! サインください!



上山こんばんは。よろしくお願いします。>みなさん




kwkt
こんばんは。正直、ビクビクです。こんな感覚、大学のときのゼミ以来です。みなさんレベルが高いのでついていけるかな…と思っております。


chikiおじゃましまーす。おお! みなさんおそろいで。有意義な議論にしましょう。



Pinこんばんわ。みなさま。よろしくおねがいします。




ただものこんばんは。遅くなりました。よろしくお願いします。



chiki
皆様揃いましたね。本日の参加者はchiki+5名(しょこらさん、Pinさん、shfbooさん、ただものさん、kwktさん)です。それでは、そろそろ本題に入りましょうか。










本日のテーマ1 : 「議論の導入のために〜「視覚と正義」、あるいは「視覚と暴力」をめぐって」


chiki
本日は、もうすぐ年末ということで(チャット開催は11月20日)、しょこらさんと上山さんに「2004年の1冊」をお選びいただき、お二人の関心テーマにひきつけた形で議論を展開することで、参加者の方々の意見や個性を引き出しつつ、このチャットの方針を探っていければいいな、と思いまして、お二人にそれぞれ一冊ずつ挙げていただきました。しょこらさんより書評とレジュメ(400時程度でお願いしました)を頂いておりますので、まずはそちらをご覧ください。まずはしょこらさんから頂いた書評から話し合ってみたいと思います。しょこらさんがお選びになった「2004年の一冊」は、マーティン・ジェイの『暴力の屈折――記憶と視覚の力学』です。








暴力の屈折―記憶と視覚の力学

暴力の屈折―記憶と視覚の力学

【しょこらさんによる書評】

本書はフランクフルト学派、フランス現代思想を研究する歴史学者として著名なマーティン・ジェイの論文集です。今回わたくしがこの本を選ばせていただきましたのは、新しいテクノロジーによって近年ますます増加している視覚文化というものが、良かれ悪しかれ私たちにとって避けようのないものになっている現状において、視覚と暴力、視覚と真理・正義の問題を広い視野で深く論じている本書を軸に皆さんとお話が出来たら、と思ったからです。ポール・ヴィリリオも論じておりますとおり、イメージは戦争において昔から積極的に用いられていました。ですがその用いられ方、効果、影響といったものは、新しいテクノロジーによってそれ以前とは比べ物になりません。視覚文化に親しみ、享受する日常に生きる私たちは、同時に、そこから生まれる大きな脅威に常にさらされている存在でもあります。今、私たちは視覚と暴力、視覚と真理・正義について、どう考え、どう日々を生きていったら良いのでしょうか。本書をきっかけに、皆さんのご意見を伺えましたら幸いです。



chikiここで、参照のためにchikiの方からも、関連しそうなネット上の文章をいくつかご紹介させていただきます。




「ジャン・ボードリヤール講演「イメージの暴力」」
「探偵ファイル:女児誘拐殺人のメール添付画像 」
「chikiのエントリー「イラクから始めること。」」







chikiさて、本日のチャット前半は、しょこらさんより同書をまくらにしたうえで「視覚と暴力/正義」について考えてみたいと提案していただきました。これはかなり大きな、それこそ「有史以来」の大変なテーマです。これは余談ですが、このメールをいただいたときchikiは「しょこら嬢は何時間議論するつもりだ!」とモニターにむかって突っ込みました(笑)。
マーティン・ジェイに限らず、多くの論者が、近年、実に様々な意味合いで「イメージ」の力が復権しているというようなことを指摘していると思います。最近chikiが読んで印象深かった本の中では、文芸評論家のすが秀実さんが『新・それでも作家になりたい人のためのブックガイド』の中で、最近は「中世的なもの」が回帰しているとおっしゃっていました。「文学的なもの」が終焉を迎えたと言われてから「そして、誰も描写をしなくなった」。その時、アポリアの問題などなかったように中世的なイメージと戯れつつどんどん「動物化」していく。これは小説以外の表現媒体にも当てはまるように思います。
では視覚文化はどうかというと、例えばこれは10年以上前の書物なのですが、『ハイ・イメージ・ストラテジー』という本の中で浅田彰さんが、ハイビジョンなどのものすごいテクノロジーが登場してどういう作品が出るかと思っていたらものすごく古臭いイメージを再生産しているだけだった、というようなことを仰っていました(曼荼羅など)。それもまた、まさに「中世的なもの」の回帰であるように思うのですが、浅田彰さんはさらに、そういう時に可能性をもつ映像は見る者を突き放してしまうような強度を持った映像である、といったようなことも加えていました。
そのような「強度」をもった映像というのは、実は暴力にこそ顕著です。「視覚(イメージ)と暴力/正義」についての議論が抽象的な話に終始しないよう、すこし具体的な部分にひきつけて話し合いたいと思いますが、今回しょこらさんはchikiやshfbooさんに気を使ってわざわざこの本を選んでくださった部分があります(と、しょこらさんからお電話で伺いました)。くしくも2004年は日本でも「イメージと暴力」に大きく関わるような「事件」が多発した年で、chikiやshfbooさん(4月当時はBooさん)は4月、11月にそれぞれイラクの映像テロをめぐる(稚拙な)議論をBLOG上で行いました。それは、香田さん殺害動画のほか、多くの方の殺害動画が暴力としてのイメージとして用いられている現状で、そのようなイメージをイージーな言説に変えてしまう文脈に対して違和を表明したものでしたが、それだけに限らず、例えば先日の有山楓さん誘拐殺人事件(後注:「奈良女児誘拐殺害事件」)では写真付メールが用いられていたことが大きな反響を呼びましたが、いわゆる「コントロール型」の社会ではイメージの管理が重要であったり、そのほか様々な意味合いでこのような「イメージ」と暴力について取り扱うのはアクチュアルなテーマであると思います。

ここで改めてしょこらさんに、「今年の一冊」としてこの本を選んだ理由と、具体的なテーマをひとつ伺うところから議論を始められればと思います。 








しょこらはい。まず、先に一言申しておきますと、週間読書人に掲載された田中純氏の書評にも書かれておりますとおり、マーティン・ジェイは本書において序文では人質事件で映像が積極的に用いられたことに触れられていますが、にもかかわらず、私はやはりこの本の第7章「正義は盲目でなくてはならないのか?」を今回取り上げたいと思いました。

論文中では、事件についてあまり詳しく論じていません。の理由は、もちろん具体的な事件などについても論じる必要はあるわけですが、その前に視覚について考える時、正義・真理について考える時、そこにあるパラドックスを踏まえた上で慎重に論じなければならないと思ったからです。このあたりを論じる時のこの著作のバランス感覚が、非常に優れていると感じました。









chiki
読んでいない方のために、7章の内容のみ、もう少し詳細に伺ってもよろしいでしょうか。





しょこらはい、それでは7章の論旨と意義について簡単にお話したいと思います。まず第7章は、ローマ時代最古の正義像では、片手に国家権力を象徴する剣を持ち、もう一方の手に天秤を持つ女性の姿が描かれている。しかし、ある時代から正義の女神ユスティアは目隠しをされるようになった、という話からはじまります。なぜ正義に目隠しがなされるのでしょうか? マーティン・ジェイはこの謎を読み解きながら、視覚と正義について繊細な手つきで議論を進めていきます。「〔一般性に〕還元不可能な特異性を直接的に視覚的に把握する力だけを頼りにする判断力の行使は、いかに鋭敏であっても、感性的知覚というものにつきまとう、錯覚の可能性に屈する可能性がある」と鋭く指摘する一方で、マーティン・ジェイは、具体的で偶発的で協約不可能な個別性だけを見ようとする態度にも警鐘を鳴らしています。

かくして、法と正義の関係の解決不可能なパラドックスを認めた上で、「完全な視覚を備えたものとしてでも目隠しをしたものとしてでもなく」正義の女神ユスティアを思い浮かべるという事が必要だという結論を得ます。本書の意義は、固定された二項対立には陥らず、しかし両者を総合してしまうという妥協にも陥っていない点です。さて、そしてこのようなマーティン・ジェイの見解を、どう社会の具体的な問題と結びつけて考えるかというところに入りたいと思います。







chiki
ありがとうございます。では、この枕を受けて、司会進行させていただきます。先ほども申しましたとおり、確かに2004年――あるいは911以降と言ったほうがいいのかもしれませんが――は「視覚」に密接に関わるような具体的な事件がいくつも起こっています。にもかかわらず、しょこらさんは同書の中でもっとも抽象的に思われるであろう第7章をあげてくださりましたが、そこには具体的な分析を一旦括弧にくくっていたとしても、ある種普遍的な意義と申しますか、考察するのに必要な作法や方法を与えてくれるという点で評価していらっしゃいますね。また、その括弧付けは、必ず「還元不可能な特異性」と倫理的に向き合うのに役立つということでもあるのかもしれません。





しょこらはい、マーティン・ジェイのこの論考が示唆していることは多いのですが、その一つとして簡単に申せば「具体的なこと」と「抽象的なこと」をどちらかに着目するのではなく、どちらにも目配せしていくような作法についても、良い示唆を与えていると思います。「作法についても」と申しますか、まさにそのことを論じている論考でした。







chiki
ありがとうございます。ひとまず、ここまでのしょこらさんのご意見を受けて、皆様いかがでしょうか?






shfboo
ど初歩な質問で申し訳ないのですが、ええと先ほどの面白い要約で「固定化」されないという留保つきでしたが、この本がある二項対立を元に論じられているとのお話があったと思います。端的にいうとその二項対立はなんだろうと。





chiki「完全な視覚を備えたものとしてでも目隠しをしたものとしてでもなく」というのは、確かにかなり抽象的ですね。





しょこら二項対立と申しますか、それは多分、「既成の秩序における手続き的な正義」と「個別的、具体的、共約不可能なものへまなざしをそそぐ正義」という事ですね。






shfboo
ああなるほどね。了解しました。その二つの不和解は本当にむずかしいです。





しょこら簡略化すれば、マーティン・ジェイは、「既成の秩序における手続き的な正義」を批判しつつ、「個別的、具体的、共約不可能なものへまなざしをそそぐ正義」だけに偏ってもいけない、と論じていて、先ほども述べましたとおり、法と正義のパラドックスを受け止めつつ常に批判的であるようなマーティン・ジェイの態度は少なからず、ぶーさんのご質問への答えになっているかと。






shfboo
そのとおりですね。ありがとうございます。お陰でクリアに骨子がみえました。




chiki
上山さん、いかがでしょうか。



上山はい。実は今日(11月20日)、「上山がひきこもりの≪代表≫のように語ることについて」という問題提起がありまして。私がいくら細心の注意をはらって「ひきこもり」を論じようとも、それは必ず個々の「リアル・当事者」のディテールをなにがしかは裏切る。そこには一定の盲目性が常につきまとうわけですが、では、いち当事者が語ることを諦めるべき――つまり、「完全な視覚像を代表的にrepresentできないのだから、沈黙せよ」――なのかといえば、そうとも思えない。一定の仕方で、「正義に向けて自らを――リアル・ディテールを一定の仕方で裏切ってでも――可視化せねばならない」と思うのです。そこで出されたのがスピヴァクの『サバルタン』の話でしたが、「可視化された一定の視覚像に不備があるとしても、それを通じて手探りで作業を続けるしかない」というのが、リアル・ポリティクスの現場では必要ではないか(少々表現が大袈裟ですが)、ということを、しょこらさんのお話を伺っていて思い出しました。




chiki
上山さんが<ひきこもり・一般>として表象を代理(representation)してしまうと、様々なレベルの<ひきこもり・個物>が捨象されてしまうのではないか、という懐疑の差し挟み方についての問題ですね? そこにも、しょこらさんの問題と近似的なパラドックスがあります。スピヴァクの話で見落とされがちなのは、「サバルタンは語ることが出来ない」と言ったとき、少なくともそれは否定神学的、つまり「絶対にわかりっこないよ」というような意味ではなく、むしろ「彼らは声を聞き届けられたがっている」と後のインタビューで語られていたように、耳を傾けるための作法や方法論について検討する必要があります。「サバルタンじゃないのに語るな」「語りだした時点でサバルタンではない」といった論理的矛盾を指摘して喜ぶための概念では全くないわけですよね。

…と、ここまでかなり抽象的な部分が進んできましたが、少々具体的な、現代的な話をしたいと思います。ひきこもりの話は後にまた出てくると思うのですが、「動画」もしくはイメージの使われ方についてやはり気になってきますのでその点に関して少し触れたいと思います。そのあたり、chikiは既にBLOGで触れてしまっているので、出来ればただものさん、kawakitaさん、pinさんに伺ってみたいです。






しょこらすみません、ちょっとその前に先ほどのマーティン・ジェイの論考から話をつなげさせていただきますと、人間の知覚は完全な知を得ることは出来ないということ、そしていかにして知に近づくのかという事は、もちろん有史以来の大問題であったわけですよね。つまり、この点については何か新しい発見があるわけではありません。また、こうしたパラドックスがあるにも拘らず、人々がそのようなパラドックスをなかったことにしようとする態度もまた、今の時代に新しく起こったものではありません。ですが、現代社会はテクノロジーの発達によっていまだかつてないほどにこの種の「錯覚」が起こりやすい状況にあります。映像のもつ圧倒的な力は、私たちに大きなインパクトを与え、事実を知ったと思わせますね。遮ってしまって申し訳なかったのですが、と申しますか、マーティン・ジェイの論文の抽象度の高さから一気に事件の問題になるとどうもつなぎが難しいのですが。






chiki
そうですね。少なくとも、現在の状況を鑑みるに、携帯やインターネットなどのテクノロジーが、その流れに加担していることは間違いないですね。chikiがすこし気になるテーマにつなげさせていただくと、今回参考リンクとして準備させていただいた、香田さんの事件、楓さん誘拐事件などは、まさに新しいメディアが用いられ、そこでは視覚・イメージが暴力的に用いられてしまった残念な出来事です。そこには、もちろん有史以来の問題もありますが、パーソナルメディアの存在が、最近特に顕著な問題だとして加速させている部分は否めません。そのようなイメージのフローとどう付き合えばいいのか、という問題を前には既にいくつかの議論が存在しているようですが、例えば「市井の人」である私たちはなんと答えられるか。ここにいらっしゃるみなさまも、それぞれ自身のサイトをお持ちの方ばかりですが、イージーな表出に抗うような形で、表現の方法を模索、あるいは実践していらっしゃる方々のように思います。そこで、ネット上に広まるイメージや言説などへの雑感などを、伺えればと思います。時間が迫ってきたので、指名しちゃいます。pinさん、kawakitaさん、お願いします(鬼)。ネット上で表現する際に行っている注意や作法、あるいは躊躇などでもかまいませんので。







kwkt
別の方向に飛んでしまってたらすみません。「ビデオニュース・ドットコム」神保哲生さんがしばしば指摘されていますが、ネットにおいても配信されるニュースは既存メディアのニュースの再配信が多いんですよね。それに対してBLOGや個人サイトでの意見を表明されているものを見れば、前述された「代表されえないもの」を発見できることもあります。(視覚からずれている気もしますが…)人質事件などでは既存メディアの意見とは違う意見をネットではいくらでも見ることができました。






chiki
その力関係は見落とせませんね。特にchikiのサイト、kawakitaさんサイトは既存のソースを頼りにしている部分が大きい。その意味で「シミュラークルの環」から抜け出ていませんが、だからこそある種の批評意識のようなものも構築される部分もあったりします。






kwkt
そうですね。一方で、ただ表に出ているものだけがすべてではないであろうという態度はある程度浸透してきたのではないでしょうか。






chiki
Pinさんはいかがでしょうか?






Pin
これまでの話を見ていて、私が思ったのは、「ジェンダーの視覚利用と暴力」「視覚のポリティックス」です。女性に対する暴力(社会的、言説的、精神的)が、chikiさんがいうように、ネット上では「イージーな表出」としてみうけられる。それに抗するにはどうしたらいいか、未だよくわからないのですが、現実に抗するというより、表現の分野から考えて見ますと、パラドックスの外部へ出ようとするような新しい女性表現に着目しながら、考えていくというのが、わたしにできることかな、と思ってます。暴力が「イージーに表出」される中でも、テクスト(表現)としてみれば抜け道をさがしうるのではないか、と。「視覚のポリティックス」の発動。まとまらないですが、以上。





chiki:くしくも、多くのミスコンが突如として今年(2004年)からBLOGに俄然やる気ですしね…。





しょこらえーと、確認を挟みたいのですが、ぴんさんの文脈でのパラドクスと、先ほど議論になっていた文脈でのパラドクスは違いますよね。



Pinええ。違うような気がします。




chiki
ピンさん、ありがとうございます。大変刺激的な問題点が出てきたと思いますが、そろそろお時間ですので(チャットだと、発言に時間がかかり、時間があっという間に過ぎますね。もう2時間経過してます)、最後にチャット慣れしていただくために様子を見てくださいましたただものさんと、職場から参加していただいていてそろそろ暇が出来たであろうshfbooさんにそれぞれ一言ずつ頂いて、それを受けて、しょこらさんからコメントをいただいてひとまずの一区切りとさせてください。






ただものはい。みなさんの議論を追うだけで一杯でしたが、画像情報が圧倒的な力をもって利用されている状況についての危機感とそれに抗しようと異質の表現を組み立てる努力をみなさんが考えているところに共感を感じました。個人的に引っかかっている話では、「探偵ファイル」というサイトが「痴漢撃退シリーズ」という企画を現在進めています。主催者が被害者女性に同行して、画像で証拠を取り、それを盾に犯人を告発し、その個人情報を顔写真を含めて、サイトで公表し、見せしめとする企画です。






chiki
存じ上げています。複雑な心境で見ています。





ただもの大方からは、歓迎されている企画のようですが、そこで主張されている「正義」というものに、私は、テロリストの画像利用と同じものを感じています。大義にしろ、正義にしろ、そういうものを主張するために視覚情報が暴力的に用いられる状況は、基本的に間違っていると感じています。それに抗するために、ジェイの論は示唆的であると感じました。とりとめがありませんが、以上、とりあえず。







shfboo
皆様の意見を傾聴して勉強しました。現状分析のレベルだけでもとても面白かった。視覚情報とどう関わるかまだ不明なものの、ピンのあるイメージ戦略に対してテクスト分析で異化していくという一つの例のように実践的に何ができるかという問題は次の機会に考えたいです。ちなみに「探偵ファイル」は、半月前に本気でchikiとチャットやって批判しようか相談しました(笑)。





しょこらただものさんから伺った件については、視覚情報の問題、監視の問題とフェミニズムの問題がからむといっそう複雑ですね。





ただものご指摘のとおりだと思います。痴漢被害者の怒りが監視システムの肯定に接続させられているのですから、問題は厄介ですね。





しょこら女性の場合、監視は強姦等の被害を減らすかもしれないという可能性がありつつ、いっそう管理される危険性もあり、また、ただものさんが仰るように視覚情報をこうした仕方で用いるべきなのかという問題もあります。しかしその件について議論していると、ほかの方々から伺った様々な議論について同様、長くなりますので、先ずここで「とりあえずの締めを行いたいと思います。

今日は、様々な議論が聴けて嬉しく思いました、マーティン・ジェイの論点は視覚中心のあり方に批判的な視座を与えている点で――また、個別具体的なものを捨象しないような正義のあり方を論じている点で、今日議論されたようなことのいずれの論点ともかかわるところがあると思います。





chiki
ありがとうございました。もちろん今回は、様々な指摘が出たのみですが、このチャットを受けて新たに議論したり、必要があらば改めてチャットの機会を設けたりしたいと思います。しょこらさんレポーターお疲れ様でした! 







 




ブレイクタイム


chiki
それでは10分間のインターバルをはさみ、後半の『ニート』に移りたいと思います。ところで、次回からは一日に二つのテーマはやめましょう(笑)。脳が爆発しそうです。最初は全員に一冊ずつ挙げてもらおうとしてたんですよ(←バカ)。さて、後半まで、みんな、ストレッチをしたり、甘いものを食べたり、小休止してください! 



しょこら:わーい☆




shfboo
↑ばーかばーか




chiki
こらっBoo! しょこらさんになんてことを(笑)




shfboo
げっ!ごめんなさいいい>しょこらさん



しょこらうわああああんっ (ちょこ食べよう)




shfboo
いたずらしようとした罰があたった…。ごめんなさい、chikiというアホのことをさすつもりが、発言順番が入れ違ってしまった…。



Pin↑ばーかばーか>Boo




chiki
誰のことだゴルァ!




kwkt
お疲れ様でした(いたって冷静に)>しょこらさん




chiki
ちなみに、明日仕事ある人〜?



上山ないですよ♪




chiki
:ノシ




kwkt
僕は休みです。ノープロブレムです。




chiki
ひとりかよ…_| ̄|○



ただもの明日は、HOWSの文学ゼミです。あむばるさんが発表です。多分、明日の資料作りに追われて、今日は不参加なんでしょうね。誰でも、参加できますので、興味のある方はぜひ。




shfboo
おお!あむばるさんとは最近メル友中です(笑)




chiki
すごい! いきたいなぁ!





(などと喋っているうちに、10分休憩終了)












本日のテーマ2 : ニートについての考察を始めるにあたって気になる2、3の事柄。


chiki
後半のレポーターは、上山和樹さんにお願いしました。改めてご紹介するまでもないかもしれませんが、上山さんは『「ひきこもり」だった僕から』(講談社、1575円)の著者であり、BLOG「Freezing Point」で「ひきこもり」およびその「支援」に関する真剣かつ丁寧な考察を行っていらっしゃいます。上山さんの「ひきこもり」というテーマに関しては、後日改めて時間を設けたいと思っていますが、今回「今年の一冊」として玄田有史・曲沼美恵『ニート』をあげていただきましたので、当然、今回も上山さんのテーマに結びつける形の議論になりそうです。このあたりの選択は、やはり上山さんだな、と思いました(笑)。 

さて、<ニート>を語るにあたっては、差別的言説の分析やコミュニケーション方法の模索、階級や労働概念および貨幣形態の見直しなどの経済的視点、「改善」するための施政や立法、施設など行政のレベル、あるいは<自由>について考察するなどの形而上学的に見えるテーマ、さらには精神分析に関わる領域などなど、実に様々な視点があり、なかなか交通整理が難しい問題だと思います。もちろん交通整理が出来ていない理由としては、まだ注目を集めたばかりの概念だから、あるいは誰もが<道徳>的な視点などからイージーに語れてしまうという単純な理由もあるとは思いますが、それだけではないでしょう。 

そのようなテーマに際して、上山さんはご自身のBLOGで、それらすべての視点を逐一フォローしていこうとする、つまり一人で何役もこなそうとするという色んな意味でとんでもない作業を担っていらっしゃる。また、ひきこもりと関連する領域であるため、今回もこの本を選ぶにあたっての思い入れは多いと思いますが、なにぶん時間が限られていますので(笑)、まずはこのチャットをはじめるにあたって、「今年の一冊」として同書を選んだ理由、それから今回メインテーマとして話し合いたい事柄などを伺いたいと思います。 それでは、まずはまず、上山さんから頂いた書評をご紹介します。










ニート―フリーターでもなく失業者でもなく

ニート―フリーターでもなく失業者でもなく

【上山さんによる書評】

今年5月の紹介的新聞記事以降、急速に耳目を集めた「ニート」について、本書を含めた3種の報告(分析)が知られている。それぞれで、「ニート像」は微妙に食い違う。本書の特徴は、「就職も進学もしない」数字として「89万人」という巨大な数字を挙げたあと、「そのうち就職希望もない人」という主観要因を掛け合わせ、「40万人」という3種中最小の数字を掲げていること。本書の議論のすべては、「ニートは、就職≪しない≫のか、それとも≪できない≫のか」という1点にかけられている。つまり、本人の能動的選択なのか、それとも受動的排除なのか。さらに「受動的排除」であるとして、その排除の主因は「主体の内側」(価値観・対人恐怖など)にあるのか、それとも「経済社会の側」(階層化・雇用状況など)にあるのか。あるいは、その両方の交点に何が起こっているのか。具体的処方箋の結実に向けて、私たちは何を考えればいいのだろうか。








chiki
この書評には、以下のリンクが役立つと思いますので、ご紹介させていただきます。









「上山さんのBLOG」
「「3種の報告」について@Freezing Point」
「Amazon.comの『ニート』紹介文・書評 」
「毎日新聞の記事 」
「読売新聞の記事1」
「読売新聞の記事2」
「読売新聞の記事3」
「プレジデントの記事」
「玄田さん、他によるニート勉強会の様子 」
「はてなキーワードより、「ニート」解説」











chiki
また、今回この後半チャットを開催するに際し、上山さんから「ネオリベラリズム新自由主義)との関連が気になるので、その点を話し合えれば」という要望を頂いておりましたので、簡単なリンク集を用意させていただきました。













「新自由主義・用語解説1」
「新自由主義・用語解説1」
「山本純一氏の経済学の授業風景」
「興味深いエントリー「フリーター階層のことを考える」」
「半年前のchikiのエントリー(汗)」
「上山さんも引用された、宮台真司「粗野で乱暴なだけがネオコンじゃない」
「はてなダイアラー、カタルさんのエントリー」

 






chiki
:それでは、後半の本題に入りましょう。まずは上山さんに『ニート』を選んだ理由、それから今回メインテーマとして話し合いたい事柄などを伺いたいと思います。 上山さんは後日改めてチャットのメインになっていただきたいと思っていますので、今回はその前フリと言いますか、枕、あるいは議題共有のための呼びかけになるかもしれません。それでは、お願いします。







上山はい。よろしくお願いします>みなさん。まず『ニート』を選んだ理由からです。少々冗長に感じられるかもしれませんが、玄田・曲沼『ニート』では、「ひきこもり」の経験者が多数登場しており、「ひきこもりはニートに含まれる」、つまり問題としとしては連続性がある、と認識されています。

「ひきこもり」について最も中心的に啓蒙的な活動をされてきた斎藤環氏は、精神科医としてのご自分のミッションを、「数人の仲間ができるまで」と規定されています。ところが私は、当事者の立場から、「仲間ができるまではかなり成功するが、本物のハードルはそこから先、すなわち≪継続的就労≫にあるのではないか」という疑義――というと大袈裟ですが――を出していました(拙著にて)。「ひきこもりというのは、けっきょく≪労働問題≫に収斂するのではないか?」というのが、私の以前からの問題意識だったのですが、しかし、「精神科医・カウンセラー」が取り組みの中心だった「ひきこもり」においては、「労働」の話はなかなかしにくく、取り組みの機会が見えにくかった。 あるいは、「就労」のことを問題にすると、「またぞろ≪働け≫というパターナリズムだろう」と受け止められる向きもあって。

そうした状況が、≪ニート≫というこの単語が流通したことによって、劇的に変化したように思うのです。これまでは≪内面の葛藤≫の問題としてのみ語られがちだった「ひきこもり」まで、一気に≪就労≫≪社会的環境≫との関連において語り得るようになってきた。







chiki
なるほど「ニート」という概念には、明確に「労働」をめぐる視点が強く意識されているのが特徴ですね。そして、現代において、「労働」について考えると、大きな枠組みとしてどうしても「ネオリベラリズム」が気になってくる、ということだと思います。そのあたりの関心の接点についても、もう少し詳しく伺えますでしょうか。





上山はい。基底となる問題意識のフォーマットとして、次のようなポイントを提出したいと思います(すでにレジュメで出しましたが)。≪「ひきこもり・ニート」は、「みずから望んでそうなっている」のか、「やむにやまれず、仕方なく排除されてしまった」のか≫という点です。まだ詳しく知らないのですが、ネオリベ的には、ニートは、「怠け者」にあたり、「放置せよ」ということなのだと思います(これについては、ブログの最新エントリーで、宮台真司氏の発言を引用しつつ、考えてみました。)。いっぽう、「構造的排除だ」と考えると、ニートは「社会的弱者」として、政策的対応の対象として正当化されることになるのだと思います。≪能動的脱落なのか、受動的排除なのか≫――あらゆる論点を、これとの関係で考え、具体的施策に向けて、皆さんのご意見――どのような論点が必要か――を、伺ってみたいです。







chiki
ネオリベでは、<自己責任>への排除が前提ですからね。





上山おっしゃる通りです>「自己責任」。「自己責任だ」を強調するイメージとして、たとえば次のような(暴力的)映像がすさまじく流通しています。 → 【参照






chiki
ニート君」ですね(付記:2004年の「BLOG流行語大賞」にもなりました)。



上山ええ。




chiki
ありがとうございます。それでは、上山さんの提案を受けて司会進行させていただきます。誤解はもちろんないと思いますが、この問題は「社会が悪い/個人が悪い」という話ですむ問題ではありません。「ニート」という概念に「労働」という視点を導入することで、「対策」について検討する際にクリアな問題設定を共有することが出来る可能性がありますが、一方で道徳論に回収してしまう流れが多かったりと、その二元論にとらわれるとどうしようもない状態になりかねません。

ところで「ニート」は、階級の問題と密接に関わってきますよね。例えば、一般失業者の中学卒、あるいは高校中退の割合が5・3%であるのに対し、ニートの場合、中学卒、あるいは高校中退の方は21%にまで跳ね上がります。こういうデータを踏まえると、単純な二元論では語りえない。そういうところから、どう考えることが出来るのか、ご意見を伺えればと思います。







shfboo
ニートというのはどの時代特有の存在なのでしょうか。例えば『それから』の代助はニートにあてはまるのかなと。ではなく現代特有のものかと。代助は学生じゃない働かない働く気ないけれど、高等遊民でお金持ちの庇護にあるからそれがちょっと違うのかな。




chiki
彼岸過迄』の松本や須永も、ちょっと違う気がしますね。漱石の小説には裕福な登場人物の方が多いですし(この点に関しては、石原千秋漱石と三人の読者』に詳しい)。ニートは、一見するといかにも(後期)近代的な問題にもみえますよね。この思考軸は「中世的なもの」への回帰なのか、という問題に関わると思いますが…。

ところで小杉礼子さんという方がニートを「立ちすくむ」型、「自信を失う」型、「つながりを失う」型、「せつなを生きる」型の四つに分けていらっしゃいますが、この分類だと漱石が描いた問題に近いようにも思いますね。これまでの指摘は「近代的自我とも関わりそうだなぁ」という雑感でしかありませんので、詳細な分析が必要なのですが。ただ、漱石の時代に「自己責任」的な雰囲気があったのかどうかは気になりますね。




上山玄田・曲沼の『ニート』には、時代考証はいっさい出てきません。しかし、興味深いです。






chiki
同書は明確に「原因追求はしない、原因はおそらくは解消されないからだ」というような宣言をしているようです。




shfboo
なるほど。



上山:「原因論(犯人探し)ではなく、具体的処方箋(施策)を!」というのは、斎藤環氏や――並列するのは失礼かもしませんが、私も――主張してきたところだと思います。(斎藤氏については保留します。私はご本人ではないので(汗))「能動/受動」に関連するのですが、「犯人探し」は、「けっきょくはニートは許されざる存在だ」という道徳判断を含んだ探求のようにも見えます。「降りる自由」が肯定されないところでは、「再参加の自由」も阻まれると思います。『ニート』にも出てきますが、「履歴書の空白による差別」というものです。






chiki
そういえば、chikiも進路調査証を提出していなかったので、「ニート」に含まれている可能性が(笑)。



しょこらあっ! 出してない!



chiki
あっ!(爆)



上山(笑)。若者が雇用されない理由として、玄田氏は別書で次のように主張しています。「不況の中、ローンや養育費を抱える中高年の雇用を守ろうとした結果、起業は新規採用を停止せざるを得なくなった」、つまり、ニートやフリーターを叩いているのは親世代なわけですが、その親世代を守るために、若者が労働市場から排除されてしまった、と。「企業は、解雇しにくい正社員を嫌い、安価なアルバイト雇用で不況を乗り切ろうとしている」という面もあります。つまり、ニートネオリベ的には「怠け者のアホども」なわけですが、構造的に排除されている面もあるのでは、と。それから、さきほどの「中世的なものへの回帰」のことですが、 当時のほうが寛容だったのではないか、とかの考察が気になりますね。「寛容」ということなんですが、先日、「社会生活から降りたからといって差別されてはいけない(降りる自由)」、しかし同時に、「再度参加してゆく自由も確保されねばならない(再参加の自由・権利)」という論点を提出し、私としては一定の整理ができたように感じたのです。「こちらのエントリー」などをご参照ください。




shfboo
なるほど。そこでの犯人探しは「誰が何がニートにした」という問いだと思います。それと「ニートとはどの時代のどういう存在をいうか」という問いは違う気もします。とはいえ、この質問にさほどこだわるつもりはないので、議論をすすめてくださっていいです。




chiki
今の上山さんの指摘と似たところでは、例えば近代家族のロールモデルになっていた「専業主婦」という存在が、バブル前後、「団塊」前後に成立しえたものでしかなく、いつまで可能なのか、という問題もありますね。リンクで言えば、kataruさんのBLOGが大変参考になるかと思います。Booさんの仰るように、時代毎の考察は重要に思います。


上山ちなみに、「専業主婦のひきこもり」が、一部で議論になっています。余談ですが、お笑いの「ヒロシ」に、「ひきこもるほど金がありません!」というネタがありました…。





Pin「専業主婦のひきこもり」興味深いです。





ただものニートについて、きちんと理解していませんが、構造的に排除された存在であるという意見には賛成です。ただし、さきほどのchikiさんの指摘を考えると、排除された存在の中での階層差を問題にしなければならないところもあるようですね。






chiki
そうですね。ところで階級差の問題を考えるとき、ひとつ気になることがあります。さきほどBooさんが漱石の登場人物を挙げていましたが、近代前/近代後という違いだけでなく、やはりそこにも階級の違いが関わってくのだと思います。専業主婦の問題も関わることですが、例えばネオリベに違和を表明したとしても、スガ秀実さんによれば(一部論者の提唱する)リベラリズムは「衣食足りて礼節を知る」という程度のものであり、公共圏が失われている現状でどこまで可能なのかという疑問がある。または経済的に裕福だからこそ可能だったもの、という。そのような問題について考えるなら、Booさんの提示した問題に真剣に取り組む必要もあると思います。高等遊民ではないですが、金持ちのニート財テクしているニートは今回のように、日本経済を中心とした「社会問題」には含まれない可能性もありますし。




kwkt
公共圏の問題が日本ではまだまだ過大だと思いますね。ずっと昔から言われてきたことなのでしょうけど。日本ではいまだフルタイムで働いていることが「公的」と思われている気がしてなりません。4月の人質事件について、宮崎哲弥氏の仮説が面白かったです。人質がもしイラクに仕事で行ってた場合は、マスコミや世間はどう反応しただろうかと。




chiki
『M2エイリアンズ』ですね。>イラクに仕事





上山ちなみに宮崎哲弥氏の「ニート対策」は、「こちらのエントリー」に。「ひきこもりやニートは、食えなくなれば働きだす。だから兵糧攻めにしろ」というのは、つねに噴出する意見です。ニートは、「私的な存在」であって、「社会から排除されているが、家庭に包摂されている」という言い方を、樋口明彦氏がされていました。「公共圏に出てこなければ話にならない」というようなことでしょうか。




chiki
極論で言えば「徴兵制度復活!」とか、「自衛隊に入れろ!」とかもそうですね>兵糧攻め。それが実際に黄河があるかどうかの議論以前に、結果さえ伴えば手段は選ばんぞ!というのはちょっと…。さて、kawakitaさん、Pinさん、土俵がまったく変わってもいいので、気になる部分はありますか? 



Pin日本ではいまだフルタイムで働いていることが「公的」とkwktさんのおっしゃること、わたしもそう思います。「履歴書の空白による差別」は、まさにそれによって起こってくるのですから。専業主婦もそうだと思うのですが、いったん労働することから外れた場合、再度正社員にカムバックすることが難しい。能動的であれ受動的であれ、どっちも自己責任で切捨てられ、カムバックを阻んでいると思われます。



上山ううむ。「公共圏」か。――余談かもしれませんが、先日ネットラジオで「社会人とは何か」という話をしていたんですが、「公共圏に出ている」という意味にも取れる。しかし、英訳して「member of society」とすると、「公共圏に向けて総動員」されていなくても、「社会の一員」であればいいことになって、そうすると「子供」も、「専業主婦」も、「ニート」も、「member of society」ではある。






kwkt
ちょっとずれた議論をしてしまったらすみません。先日の「バックラッシュ〜」のときに司会の鈴木謙介氏が発言されていたのですが高度成長期以来、国家が企業を保護し、企業が個人の生活を担うということをやってきたと男性社員を支える専業主婦も含めて、それは一種の総動員体制と理解することができると。そのモデルから変化しなければならないことはおそらく70〜80年代から言われ続けてきたはずなのにその制度的齟齬がいたるところで起きているのではないかと感じます。齟齬の例として先ほど上山さんが挙げられた中高年の雇用確保という構造的側面があり、団塊の親やそのイメージを見てきた子供たちは、そうまでして親と同じようになりたくない(なれない)という心理的な面もあると思います。





上山イメージ・絶望感などの「内面問題」と「社会的排除(階層化)」については、山田昌弘氏が「希望格差社会」として提出されていますね。






kwkt
ネオリベラリズムと国家重視(社会軽視)は日本では相性がよいので、構造的にニートが生み出されているという意見にかなりの程度賛同します。

これはイベントレポに書かなかったのですが(ここで使えると思いまして:笑)、先日参加した「That's Japan 連続シンポジウム・こころ真論2」において、高岡健氏が宮台氏が提示した「国家重視か/社会重視か(最近良く出てきている問題設定です)」で社会を重視するのであれば企業のあり方を(就労のあり方を)変えるべきだと。






ただものとすると、ニートバッシングは、何を目的としていますかね?>>kwktさん






kwkt
今のところ、以前の就労意識が残っているというのもひとつだと思います。フルタイムで(空白期間なく)働いてこそ一人前みたいな。先ほどの話を続けますと――高岡氏の提言ですが3分の1が年功序列・終身雇用・労使協調・フルワークの会社3分の1が総収益の2分の1を労働者が獲得する収益獲得・分配型の会社3分の1が週休3日半でそれなりの賃金が得られる会社という構造が国際競争/社会維持両面に対応できるのではないかと。そのためには明らかにこれまで日本がモデルとしてきた家族・就労形態を元にしてきた税制や社会保証体制を改める必要が出てくるだろうと。





ただもの割り込みすみませんでした。他の世代の雇用不安から目を逸らさせるためのスケープゴートにされていることになりますかね。そういう彼らは、底なしの労働に引きずり込まれることになっていきますね。好むと好まざるとをえず。




chiki
となると、ニートはある意味で感情労働させられているとも取れるわけですが――さて、お話の途中ですみません。Pinさん、kawakitaさん、ありがとうございます。「公的」なモデルをめぐってPinさん、kawakitaさんから二つの指摘を頂きましたが、どちらもフェミニズムにとっては重要なテーマですよね。そしてもちろん、ニートの問題にも密接に関わってくると思います。ここからが本題、というところだとモいますが、時間がたつのは早いもので、そろそろお時間が近づいてきました(汗)。後半はやや駆け足になってしまいましたが、続きはまた後日行いたいと思います。今回はやや抽象的なところを話し合えたと思いますので、次回は具体的な部分に焦点を当てていければと思います。最後に、ただものさん、しょこらさんに感想をいただき、発言途中であった上山さんに「締めの一言」をお願いしたいと思います。(以上、強引な司会者、田原総chiki郎です)





ただものshfbooさんが述べていられたように、ニートが歴史的にどう存在していたのか、点検する必要があるようです。近いところで、例えば1970年代や80年代、彼らはどのように認知されていたのだろうか。おそらく、今ほど不寛容な空気に包まれてはいなかったはずで、そのあたりをもう少し解明して、議論できればいいなと思いました。それにしても、ニートの否定的な表象形成にも、視覚的な情報がずいぶん影響しているんですね。そのあたりも、次に議論したいです。




chiki
ありがとうございます。見事にしょこらさんのテーマとつなげていただきました。




kwkt
僕はshfbooさんの問題提起を聞いたとき、今の時代に「書生さん」っていないよなぁと思いました。しかも書生「さん」って尊敬されることにいたっては皆無かと。マイナスの言葉になってますよね、「書生」って。






chiki
しがない院生ならごろごろいますが(滝汗)。





しょこらわたしは今日伺いましたようなニートの問題とフェミニズムの交差点が気になっています。例えば卑近な例ですが、わたしの同年代の女の人は、父親のような企業戦士にはなりたくない(そこには女性であるために不利な条件で働かさせられるという状況もあり)、母親のような専業主婦にはなりたくない、あるいはなりたくてもなれない、という環境にあるわけで、現在の労働のあり方を前提にニートを批判するネオリベ的な考え方では問題は解決できないと思います。その点を含め、今後とも、皆さんからご意見を伺えたら嬉しいです。上山さん、素晴らしい発表をありがとうございました。



上山こちらこそ、しょこらさんの発表から多大な恩恵を得ました。>「視覚と正義」






chiki
ありがとうございます。次回につながる明確なテーマをいただきました。それでは、上山さん、お願いします。



上山まず、しょこらさんの発表との連続性に驚きました。そして、個人的には、kwktさんのおっしゃった「専業主婦まで含めて、公共圏は総動員化されている、だからそれに乗ってこないニートは叩かれる(大意)」という見解に感銘を受けました。それから、shfbooさんのおっしゃった「ニートという存在の地理性・歴史性」について、非常に気になります。

そうした、いわば原理的・探求的理解が必要であると思う一方で、やはり現実には、こうしている間にもニート(その最深刻版としての引きこもり)は、どんどん追い詰められ、排除されているという焦りがあります。原理論的なことを考えつつ、そこからどうやって具体的施策を案出していくか――さきほどしょこらさんもおっしゃっていたと思いますが――「原理論と、現場の実状を掛け合わせ、具体的な努力の手続きを発明する」ことが、最重要かつもっとも難しいのだと思います。

さきほどお名前の出た(精神科医の)高岡健氏は、苛烈な(?)斎藤環批判で存じ上げていたのですが、じつはそれ以後の展開を知らず、今日はkwktさんから高岡氏のきわめて具体的な「雇用」論をうかがい、驚きました。 高岡氏の斎藤批判の核心は、「無理に引き出すな」ということだと思っていたので(斎藤氏は反論されています)。「無理に引き出さない」話と、「雇用」の話を高岡氏がどのようにつなげておられるのか、非常に気になります。







kwkt
「総動員体制」に、福祉政策で国家が面倒を見る(企業が面倒を見る)ことが難しくなったためのネオリベ化を加えられるでしょう。高岡氏の雇用の話は「社会」を考えた場合の議論ですので、「無理に引き出さない」話とどう関連づくか興味ありますね。





上山なるほど…そうした社会的観点は、私にとってまだ馴染み始めたばかりのものなので、非常に新鮮ですし、ぜひ今後もご教示いただきたいです。そうしたディテールも含め、(さきほどchikiさんから「抽象から具体へ」というお話がありました通り、)ニートという問題に取り組むにあたっての「具体的手続きの案出」について、ぜひ皆さんのご意見を伺ってみたいです。 ニートやひきこもりといった存在を「認めるのか認めないのか」といったきわどい点まで含め。今日は本当にありがとうございました。お疲れ様でした。>みなさん (以上です)






chiki
以上で第一回チャットを終えたいと思います。皆様お疲れ様でした! 今回のチャットは、不慣れでつたない司会のため、「これ言いたかったのに言えなかった」という部分が多くあるのではないかと思いますが、回を重ねるごとに改めていきたいとおもいますので、今後ともよろしくお願いします。個人的には、初めてのチャット大会としては懸念していたより整理されていたのではないかと思います。

さて、第二回チャットでは「バックラッシュ」について話し合いたいと思います。気になるあの問題や、あのエントリーについて、思う存分語り合いたいと思います。本日はお疲れ様でした!!!





kwkt
お疲れ様でした。楽しかったです。


しょこらみなさん、ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします!


上山お疲れさま!


ただものみなさん、ありがとうございました。


Pinおつかれさまでした。次回またよろしくです。


shfbooありがとうございました!みなさん、また!


chiki今日の議論は以上でーす!!
















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