本日のメインディッシュ

気になる「模様」 ―黒沢清『回路』
映画なりドラマなりを観ているとき、無性に一つのことが気になることがよくあったりする。ジャン・ポール・ベルモンドの煙草の吸い方や笠智衆のしゃべり方などは気になって当然としても、例えばなんか無性にこの小道具が気になる、なんかこのしぐさが気になる、等々、多くの人に経験があるのではないでしょうか。全く同様に、chikiは無性に黒沢清『回路』における白と黒の「市松模様」が気になってしょうがありません。



『回路』には実に多くの部屋が登場します。登場人物各々の部屋から仕事場、研究室、図書館、管理室…黒沢映画の中でも最も多くの部屋が登場するのではないかと思うほどです。そして、そのほとんどの部屋にチェス盤のような「市松模様」が登場します。全く違う建物なのにフローリングが同じ市松模様だったり、床が普通のフローリングでもベッドにある毛布が市松模様だったり。



chikiは始めて黒沢清の映画(『アカルイミライ』でした)を見たとき、「この人は絶対にポストモダニズムを通過した人に違いない」と思っていたりしたのですが(この推測は彼の『ドレミファ娘の血が騒ぐ』を見たときに確信に変わる)、そのせいもあって『回路』もその枠組みで見ていました。そのため、「市松模様」にも同様の意味があるに違いないと踏んだわけです。となると気になって気になって。



本日は黒沢清論ではなく、「市松模様」に限定して語りたいと思うのですが、そのために少し『回路』の内容に触れなくてはなりません。簡単に言えば、『回路』とは「あの世」と「この世」の境目がなくなる物語です。といっても死者がよみがえる、もしくは「この世」が「あの世」へとつながってしまうという類のものではありません。「あの世」が飽和状態になってしまったため、生きている者には「死」ではなく「永遠の孤独」が与えられてしまうようになる。人々は次々に失踪、謎の死を迎え、それらの人は黒い壁の染みに変わる。そのような意味で「生」と「死」が機能しなくなった世界を描いているのです。



これら「死=END」の奪われた世界というのは、宮台真司的に言えば「終わりなき日常」であり、フランシス・フクヤマ的には「歴史の終焉」を迎えた世界、即ちポストモダンのメタファーとして機能するでしょう。市松模様も、その枠組みで語ることに一枚噛んできます。チェス盤のような「市松模様」は、違う色が差異を交互に強調しあうことによって成り立つデザインです。そして、白と黒の色をそれぞれ「生」と「死」に対応させてみれば分かるように、「市松模様」が機能するためには「生」と「死」の両方が必要になります。



ところがこの映画は、人間から「生」も「死」も奪われてしまった、という世界を描いています。となると、市松模様の意味が変わって見えてくる気がします。市松模様は白と黒が交互に並びながらも、重なることは決してないデザインです。つまり、「生」と「死」は常に隣接していながら、「生」同士が隣接することは決してないデザインなのです。この映画内において、登場人物同士でコミュニケーションが成立することがほとんどないのと同様、生きているもの同士が同化することも決してなく、「永遠の孤独」を生きなくてはならないという物語(なんてこった)。そこで仮に同じ色同士が触れようとするならば、「死」に触れなくてはならないのですが、しかし「死」すら奪われている世界ですからそれも適わない。…とか考えていると、絶望的になってくるわけです。いやぁ、なんてホラーな映画なのだろう(汗)。



今のところchikiはこのように考えているわけですが、しかし未だに「市松模様」が気になっています。いまいち納得がいかない。何か他の「意味」があるような気がしてならないのです。うーん、誰かヒントをくれないでしょうか?












まー、気分転換に、もう少し涼しくなったらあのシャツを着て街へ出ようっと。








追伸
ところで、最後に登場する役所広司を『カリスマ』の役所だと思ったのはchikiだけでしょうか?