『ショートバス』が目指した「911以前」への後退

シネマライズにて、ジョン・キャメロン・ミッチェル監督『ショートバス』鑑賞。細部には印象深いシーンも多く有益な体験だったが、物語として、映画として、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』の次作として、どうしても評価しきれない映画。

グラウンド・ゼロを見下ろす部屋にプロのSM女王セヴェリン。ベッドにはなじみの客。だけど、今日も彼女は一人ぼっちだ。
一方、別のマンションの一室で自らの自慰をビデオにおさめている男がいる。ジェムズだ。
そしてそんな彼の姿を隣のビルの窓からストーキングする男カレブ。
そんな中、ジェイムズを心から愛するパートナー。ジェイミーが帰ってくる。そんな二人をカレブは見つめ続けていた。
また、別のマンションではカップルカウンセラーのソフィアが夫のロブとアクロバティックなセックスを楽しんでいる。
しかし、ソフィアはさまざまなカップルの悩みを解決する一方で人には言えない悩みを抱えていた。
彼女は、オーガズムに達したことがなかったのだ。
そんな人々のさまざまな思いや悩みを飲み込み、今日もニューヨークの一日が過ぎていく。
数日後、彼らはそれぞれにサロン“ショートバス”を訪れる。そこには、“愛”を求め、セックスに身を委ねる大勢の人々。
そこは、誰もが思いのままに愛を求める場所だった。
主人のジャスティン・ボンドは言う。「“ショートバス”の意味を知っている? ここは少し変わった、特別な人たちが集まる場所なの。」
ジェイムズとジェイミーは新たな出会いを求めて“ショートバス”を訪れていた。そして、二人に憧れる、若くて魅力的な男、セスと出会った。
一方、ソフィアもSM女王セヴァリンから自分の写真を手渡される。
そんな“ショートバス”の出会いの中で、みんな自分の本音を語りだす。
それぞれの想いが交錯する中、ある日、ニューヨークの町は大停電に陥り、暗闇に覆われる。
しかし、一つだけ光のともる場所があった。
ショートバス
彼らはその光に導かれるように、“ショートバス”へと集っていく。
オフィシャルサイトより

舞台は911後のNY。ミニチュア風アニメのNYをカメラが漂い、映されるグラウンド・ゼログラウンド・ゼロを見下ろす部屋の中、「グラウンド・ゼロの前でピースをする人?」「イラク戦争反対派?」と話しかけるなじみの客に、早くことを終わらせたげなセヴェリン。この構図に象徴されるように、『ショートバス』は「911以降」に、大きな政治ではなく、自らのセックスに関して悩む登場人物たちにスポットが当てられている。


911以降のNY」で繋がりを求め、スクリーンを漂うキャラクターたち。同時に、繋がることに対して重みを感じるキャラクターたち。それぞれアクロバティックなセックスやスワッピング、3P、SM、バイブプレイなど、様々なプレイを試みるも、決して満たされることはない。特に重要なことに、「特別な人たちが集まる場所」である「ショートバス」でも満たされることはなかった。彼らの苦悩は、「人が繋がりを求め続ける」限り、保たれるものだからだ。


登場人物たちは、「ショートバス」自体によってではなく、停電の後、キャンドルの光(に象徴されるもの)の元でそれぞれの重荷を下ろす。停電によって作られた小さな光の半径は、瞬間的なコミュニティの回復でもあると同時に、それまでのつながりの断絶でもある。賑やかなバンドの演奏、穏やかなアイコンタクトの中、オーガズムに達するソフィア。ラストで一気に光に包まれていくミニチュア風のNY。冒頭で映された、沈滞したNYのイメージが一挙に塗り替えられる。


911とNY停電の使い方からも分かるように、ジョン・キャメロン・ミッチェルは、徹底して図式的な監督だと思う。事実『ヘドウィグ』は周到に、巧妙に作られた力作だった。しかし同時に、巧妙に作りこまれた細部に、強度あるメッセージが乗り移っていた。『ヘドウィグ〜』のラストシーン、自己の肯定の叫びの後に歩き出す姿には、「1981年」に0歳であった自分でも説得的&感染的なものとして映った。しかし非常に残念なことに、本作にそのような力を見出すことはできなかった。


ミッドナイト・スクリーニング in カンヌによれば、監督は「社会の中に居場所がなく違和感を持って生きてきた人たちが生き易い町だったニューヨークが9・11以降変わってしまった。あの町を取り戻したい」と語ったという。他のインタビューでも、同様の趣旨の事を述べている。しかし、この「あの町を取り戻りたい」なる切望は、失われたグラウンド・ゼロ=事後的に意味づけられる権威やノスタルジーの回復と容易に重ねられうるし(いくらケツの穴に向けて国歌を叫んだとしても)、実際映画の中では「ショートバス」的なコミューンの喪失と回復という筋はほとんど強調されていない。少なくとも、「あの町」を知らないものにとって、説得的あるいは感染的なものとして描かれてはいない。


「あの町」を知らない私のような観客であっても、その「セカイ」観に、性の悩みや「あれがなければ」的リグレットを重ねることで共感を覚えることが可能かもしれない。しかし、ラストに訪れるオーガズムとは対極に、そこにはある種の突き抜けた強度、観たものを積極的に巻き込んでいく力はやはり不足しているように思える。911をシンボリックに描く映画は数多くあるけれど、911というシンボルに頼ることで関心を持続させるタイプの映画を観ると、未だ世界貿易センタービルを亡霊のように立たせているような、同時代的でありながらも妙な時代錯誤を味あわされる場合がある。本作にもそれに近い感覚を抱いてしまう。




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