本日のメインディッシュ

Cocco「ゴミゼロ大作戦」


「ゴミゼロ大作戦 vol.0 正しい海への道のり〜ラブレンジャー参上〜 Coccoと若者たち総勢200名による10分足らずの演奏会 もしも私たちの歌声が届いたら そして それがあなたに響いたら 海のゴミを拾ってねの巻」というイベントのドキュメンタリーであり、Coccoの新曲が入ったDVD『Heaven's hell』を購入し、驚嘆した。
2年前に歌手活動をやめたCoccoが二年ぶりに出した新曲がすばらしかったばかりではなく、インタビューの内容やその行動などにも驚かされたのだ。


Coccoが歌手を辞めた理由は、「歌が好きで、音楽を続けたかったから」だという。彼女が歌を辞めたその日から、沖縄のゴミを拾い始めた。
そんな彼女が、2003年8月15日に一日だけの、一曲だけのライブを行った。8月15日にライブをやる理由を筑紫哲也に尋ねられると、「8月15日は、日本中がものすごく途方もない世界平和を願う日だと思うわけ。今まで沖縄は第三者のせいにばかりしてきた。基地や戦争、観光業者。でも、自分たちも海を汚してる。だからまず自分で拾う。怒っていても始まらないから唄う」といった意味のことを言った。


Coccoというミュージシャンが語られるとき、岩井俊二監督の『リリイ・シュシュのすべて』で描かれた虚構のアーティスト「リリイ」のように、過剰に神格化された語りが生じがちであり、その傾向には疑問を感じざるを得なかった。そのような記事を目にするたびに、それは結局各々に理想的な神を構築しているだけだ、アイドルと変わらないじゃないか、と反発すら覚えていた。

しかし、ポップ音楽の批評をすることは実に難しい。例えば雑誌『ロッキング・オン』のような文脈、つまりアーティストのライブに何度も足を運び、インタビューを繰り返すなどエスノグラフィックな態度をとることが『オリコン』に代表されるようなある種のランキング至上主義、メジャー至上主義へのカウンターカルチャーとして存在し、既にそれ自体が重要なファクターとして機能していることは評価できる。だが、そのことで作家主義的に陥る、というよりも聴き手の「解釈」の作業や批評の方法を巡っての議論が発生しないという点には頭を悩ませなくてはならない。ポップ音楽を映画や文学のように(?)批評するためにはどうすればいいかという検討、そのような作業なくして、音楽=思想を語るのは難しいだろう。


自分も割と熱心なCoccoのファンであるが、個人的な趣味にのみ基づく単なる作家賛美は決してするまいと思っている。だから何よりCoccoについて語ることには慎重な態度をとるように心がけている。


その意味で、DVDのCoccoが「ゴミを拾うこと=歌を歌うこと」というような発言をしたことには感動を覚えた。彼女は自分を「脳みそが小さいから」と嘆くが、彼女の思想は、確実にそのまま彼女の音楽として表現されていたからだ。


作家至上主義から距離をとりつつ、音楽について思考していくため、さらには不当な評価を受けている音楽を届く言葉で伝えるためにも、より多く学ばなくては、と奮起するchikiであった。





◆遠慮気味に付記。
蛇足のような印象批評を。音楽について触れないのは冒涜的なので一言くらい加えさせてください。
『Heaven's hell』は9分以上ある曲なのだが、時間の長さを感じさせません。
メロディラインの美しさは健在であるうえ、明らかに素人まるだしのバックミュージックにもかかわらず、テンションが高く、入り込んでしまいます。
カップリングされているソロレコーディングバージョンは、プロの編曲やサウンドくるり岸田繁などが参加)が加わった物ですが、こちらもやはり完成度が高いだけあって鬼に金棒です。
これだけ長い曲で、しかし時間を忘れて何度も聴いてしまうのはOASISの『WHATEVER』以来でした。

Cocco公式HP