『サブカルチャー神話解体 増補―少女・音楽・マンガ・性の変容と現在』

サブカルチャー神話解体 増補―少女・音楽・マンガ・性の変容と現在
サブカルチャー神話解体 増補―少女・音楽・マンガ・性の変容と現在』を読んだ。同書は、1993年に発売された『サブカルチャー神話解体―少女・音楽・マンガ・性の30年とコミュニケーションの現在』に、文庫増補版へのまえがき、文庫増補版へのあとがき 、序章、および上野千鶴子氏による解説「宮台真司はどこへ行く?」が新たに加えられて文庫化されたもの。現代のサブカルチャーの分析こそありませんが、サブカルチャーをめぐるコミュニケーションの系譜を知るには相変わらず重要な一冊。


文庫を手にして久しぶりに読んだのだけれど、以前読んだときより遥かに体力が必要だった。本書に書かれていない、歴史の空白部分を埋めるための言葉を模索しながら読む必要があったからだ。もちろん、1993年以降にどんなアニメが流行し、どんな音楽が消費され…といった系譜を埋めていくだけならそれほど難しくない。ウェブ上でもそのような年表はいくらでもあるし、それらの感想やレビューのログもまた膨大にある。ただし、それらがある言説群のもとに語られるの意味、すなわち「意味の意味」の水準で捉えなおそうとすると話は変わってくる。


例えば、音楽、マンガ、性。本書で扱われているいずれの領域も個人的に親和性が高いものが多いが、ここで扱われている対象のほとんどが chiki にとっては「過去」あるいは(同時代にどれだけ“メジャー”なものでも)「サブカル村」のもので、同時代的なツールではなくなっていた。1993年といえば12歳。ゲーム、マンガ、ファンタジー小説カンフー映画にはどっぷりハマっていたけれど、音楽や性には目覚めてすらいなかった。15歳頃からサブカル性コミュニケーションにハマり、分析されている対象となるテクストを手にしていても、明らかに異なる意味の体系の中で体験したと思う。テクスト受容もさることながら、例えば援助交際に対する見方ひとつとっても、高校生の時から身近に「当事者」がいた身としては、単純な説教も安易な肯定も受け入れ難かったことなど、各体験と意味との距離の取り方に差異を覚える。それらの体験を単なる「自分語り」(好きなもの分析)としてではなく「意味の意味」のレベルで吟味する作業と、「宮台システム論」で配置された「観察の観察」を解体し再構築する作業は、一筋縄ではいかない。「宮台システム論」を再解釈することの難しさもさることながら、90年代サブカルチャーを分析する際には、同書自体を同時代的に求められた言説の一つとして、意味の体系を形成した言説の一つとしてとり扱うことが求められるからだ。


かような本書は、本編のクオリティもさることながら、上野さんによる解説がとにかくアツイ。上野さんは解説において、丁寧な解読のほか、「宮台真司の著作のなかでベスト・ワン」と惜しみない賞賛を送りつつも、「宮台システム論」の「機能主義的前提」やフィールドワークの変遷に対する自己言及を批判しながら、それらの理論的検討や同書の続編は若い書き手に任せつつ、「大家」になる前に本書を越える仕事をするように檄を飛ばしている。昨今の「回顧モード」や「時局発言」を超え、「次のステップ」に進めという、研究者同士の信頼に基づいた発言だ。

宮台は、96年以降、フィールドワークを縮小した理由を、援交第一世代に代表される「ポジティブな時代」が終わったからだ、と述べる。これは後付けというべきだろう。もっとはっきり、「共感できなくなった」「わからなくなった」というべきなのだ。事実、彼は「自分の方法が通用しなくなった」と書く。だが「ポジティブでなくなった」と言われようが、同時代に生きている者はその現実から逃れることはできず、それ以上の世代には理解も共感もできない現実を等身大で生きざるをえない新しいフィールドワーカーは必ず登場するだろう。
文庫版解説「宮台真司はどこへ行く?」より


chiki も以前宮台さんに、冗談半分で「2007年あたりに転換があるかも」と言ったことがあったけど、もちろん「次のステップ」なるものの期待はあったりする。一方、サブカルチャーをめぐる観察の「次のステップ」は、「現実を等身大で生きざるをえない」世代に対する期待の方が大きい。宮台さんの議論と、上野さんの解説からエールを受け取った若い論者が登場すること期待したくなる一冊だった。


なお、ウェブ上にて、共著者である石原英樹さんによる関連エントリーも書き始められています。こちらも楽しみです。