『時をかける少女』から「納得」を得るか「絶望」を得るか。

ようやく「時をかける少女」を観ることができました。とても面白かったです。それにしても、いやー、主人公のはつらつ元気っぷりがすごかった。しかも、ただでさえポジティブな少女なのに、さらに未来へと突き進む自分を肯定できるんだもの。降参。以下、ネタバレを含む感想です。

【あらすじ】(公式サイトより)
高校2年生の紺野真琴は、故障した自転車で遭遇した踏切事故をきっかけに、時間を跳躍する能力を得る。
叔母の芳山和子にその能力のことを相談すると、それは「タイムリープ」といい、年頃の女の子にはよくあることだという。記憶の確かな過去に飛べる能力。半信半疑の真琴だが、ひとたびその力の使い方を覚えると、それをなんの躊躇も無く、日常の些細な不満や欲望の解消に費やす。世界は私のもの!
バラ色の日々と思われたが、クラスメートの男子生徒、間宮千昭や津田功介との関係に変化が。友達から恋人へ!? 千昭から思わぬ告白を受けた真琴は狼狽のあまり、その告白をタイムリープで、強引に無かったことにしてしまう。
やりなおされた「過去」。告白が無かったことになった「現在」。ところがその千昭に、同級生の友梨が告白。まんざらでもなさそうな千昭。さっきまで真琴に告白していたのに! 面白くない真琴。その上、功介にあこがれる下級生、果穂の相談まで受けてしまう。
いつまでも3人の友達関係が続けばいいと考えていた真琴の望みは、タイムリープでかえってややこしく、厄介な状況に。叔母の和子は「つきあっちゃえばいいのに」と、のんきなアドバイス。真琴は果穂の恋を成就させるために、タイムリープで東奔西走するのだが…。


突然だけど、「タイムリープ」とは、パラディグム(Paradigme:範列)/サンタグム(syntagme:連辞)の選択関係を露骨に意識させられる手法だと言える。パラディグム/サンタグムは記号論の用語で、言語を発する際には、「どの言葉を選んだのか/どの言葉を選ばなかったのか」という緊張関係と(パラディグム)、「どのように接続していったのか/どのように接続していかなかったのか」という緊張関係(サンタグム)が、その意味の形成に大きな役割を果たす。つまり、別の選択可能性との差異が、その選択(の連鎖)の意味を方向付けるというわけだ。


さまざまな時間の中で生きていく主人公(自己)を「言語」のように捉えれば分かりやすいと思う。「タイムリープ」という手法によって主人公は、なにを数多ある可能性の中から選択し(選択せず)、どのように接続していった(しなかった)のかということに露骨に向き合わされる。そして、選ばれなかった可能性(時間)が、選択されなかったこと=不在であることで意味を形成することを知らされると同時に、選択肢(記号の連鎖)には無限の結びつき方があり、個人でそれらすべてと向き合ったうえで再選択することは荷が重いこと(その複雑性に人は耐えられず、踏み切り(=遮断されたはずの交錯への衝突)を前に涙を流し叫ぶことしか出来ない)、だからこそ自らの限定的な選択と向かい合わざるをえないことに主人公は「納得」する。


なぜ荷が重いのか。例えば自分にとってよかれと思った選択が、それによってもたらされた予期せぬ帰結をもたらすことがある。自分の意図とは違うメッセージの伝達が連鎖することがある(というか、そういうことしかほとんどありえない)。通常、人はそのような「誤配」に対してある程度目をつぶり、あるいは意味を与えて合理化することでやりすごしていく。しかしタイムリープは、そのような「誤配」の問題と向き合わされすぎる。自分の失敗を修正した場合、他人が損を被ること。他人のためを思った行動が、その人を不幸に陥らせること。再選択すら、他人の再選択の可能性を奪っていたこと(紺野真琴タイムリープを行うということ自体が、間宮千昭タイムリープの回数を奪っている)。それらに対し、「最もよい選択」と肯定する特意点を見出すのは不可能だということに気づかされ、立ちすくむ。


人は、世界を認識するフレームを選択することで(何かの当事者であることを引き受け、他の当事者性を排除することで)、情報を縮減し、意味の中を生きていく。コミュニケーションの複雑さに露骨に向き合わされたとき、人は立ちすくみ、コミュニケーションの複雑さに畏怖する。『時をかける少女』の場合、タイムリープという手法がそれを可視化する(その手法が、交錯するデジタル数字の列挙だというのがニクい演出だと思う)。この映画の場合、大きな事件をめぐって謎を解き明かすような「タイムトラベル」ものと違って、非常に些細なことにばかりタイムリープが使われるが(例えば、話題の振り方、学校を歩くタイミング、電話のタイミング、班分けなどのやり直しに。もったいない!)、そのことが逆に、些細な選択の蓄積(パラディグム/サンタグムの微細な緊張関係)が日常の形成に大きな意味を持っていることを痛感させる。


主人公はコミュニケーションの複雑さに(一時的に・濃密に)直面することで、その中で自ら選択した「時間」、縮減されたうえで構築された自分のリアリティのあり方に「納得」する。そして自分の当事者性を(単に今までのライフスタイルを自己肯定するという意味ではなく)肯定し、今後の選択も「納得」する。それが進路選択とか、恋愛とか、友情とか、生活とか、学園生活の様々なレイヤーに重ねて描かれているため、とても良質なジュブナイルになっている(青春時代って何かと複雑さに直面しがちだし、また、青春映画には、それまでそりの合わなかった自らの日常に対して、個人的な儀式を通じて「納得する」タイプのものが多い)。


ジュブナイルであるがゆえに、映画には「《納得》出来るように生きよう」(時に賭けろ)というポジティブなメッセージがある。映画ではあからさまに、「未来に駆け足で行きたくなる」ような主人公の姿に羨望を覚えるような構成になっている。それにしても、主人公は過剰なほどにポジティブだと思う。


映画を見終わった後、元ひきこもり当事者の上山和樹さんとこの映画について話をした。上山和樹さんの感想は、正直 救いがなかったというものだった。これは、上山さんが「あらゆるコミュニケーションに対して常にオン状態」になっていると時に表現される「ひきこもり」の代弁者だから、だけではないだろう。あの映画をみてポジティブさに感染するか、救いようのなさに絶望するか…すなわち「残酷さ」を前に「納得」するか「絶望」するかも端的に運次第という「残酷さ」があり、「絶望」を感じ取ってしまった場合の処方箋はこの映画の中では直接的には明らかにはされていない*1。上山さんの感想はその残酷さとの遭遇を言葉にしたものだ。


上山さんの感想から明らかなように、「《納得》出来るように生きよう」というメッセージは、それ自体がかなり残酷なもので、だからこそ主人公のポジティブさが涙を誘うのだろう。さて、自分の涙はどっちだったんだろうなー。絶対後者だな。ちきしょうめ。

*1:処方箋の有無は映画の評価には関係がないけど、あえて処方箋について吟味するなら、『嫌われ松子の一生』がいいテクストになると思う。上山さんは以前、『嫌われ松子の一生』という映画にはナルシズムの陰鬱さを感じない、というようなことを仰っていたと思う。私は逆に、『嫌われ松子の一生』はナルシズムの全肯定の映画だと感じた。そして、自分も確かにこのようなナルシズムを生きていると共振したからこそ、涙を流せた。耐え難い現実だからこそ、自分に都合のよいファンタジーで飾ること(このような構造をミュージカル仕立てで描いたことから、頻繁に『ダンサー・イン・ザ・ダーク』と比べられる)、孤独で残酷な現実だからこそ、不幸でも誰かと共にいることを望むこと、家族と実際には和解できなかったものの、最後の最後で想像上の和解をすることが救済になること。これらを徹底して肯定しており、そのような価値観に羨望を覚え、感染するように作られていた。