本日のメインディッシュ

「珈琲時光」と歴史性について。
先日、テアトルタイムズスクエアにて『珈琲時光』を観ました。すばらしい映画だと思いましたし、できれば多くの人に足を運んでもらいたい、そして意見交換をしてみたいと思うので、今日は簡単な感想を述べさせていただきます。



この映画を観て、chikiが抱いた感想のキーワードは「歴史性」です。



同作は、台湾の侯孝賢ホウ・シャオシェン)監督が名匠、小津安二郎監督生誕100周年へオマージュとして捧げた作です。この映画が「小津安二郎へのオマージュ」を掲げていることから、先人に敬意を払いつつ、今の、そしてこれからの自分の成すことに対して出来うる限りの責任を担おうという決意表明のような映画になっています。即ち、自らが歴史を継承しながら、未来の築かれていくであろう歴史に対しても責任を取ろうとする態度です。それは物語の内容や細部にも表れていると思いました。そこで、まずは具体的に内容に触れてみたいと思います。





この映画は2003年の東京が舞台なので、「現代の東京物語」と言われています。『珈琲時光』のあらすじは次のようなものです。




台湾から戻ったばかりのフリーライター・陽子(ようこ:一青窈)は、神保町の古書店の二代目主人・肇(はじめ:浅野忠信)のもとを訪ねた。2人は陽子が資料探しのため古書街へ足を運んでいたことがきっかけで親しくなり、しばしば喫茶店で珈琲を飲みながら穏やかな時間を共有している。陽子は幼い頃、両親が離婚してしまったため、北海道に住む目の不自由な親戚に育てられた。今では実父と継母とも良い関係を築いている。そんなある日、彼女はお盆で久々に高崎の実家へ戻った際、突然両親に自分が妊娠していることを告げる。こちらを参照)



この映画の主人公である陽子は、既に妊娠しており、所謂「シングルマザー」として育てていくという決断をしています。しかし、性交した相手は(話の中でしか)出て来ないし、肇や他の登場人物との恋の予感などというものも一切出てきません。その代わりに描かれるのは江文也という、今はもうあまり知られていないのではないかと思われる(chikiに限っては全く知りませんでした)音楽家の系譜を辿る陽子の姿です。ここで描かれているのが恋愛ではなく、子供を生む準備でもなく、また結婚を巡る親や相手とのやりとりでもなく、見知らぬ音楽家の歴史を辿る陽子の姿であるのは何故なのでしょうか。




「シングルマザー」が今後の決意をする映画、と聞けば、恋愛相手と頑張ろう的なシーン、子供服の準備とかをしているうちに楽しくなっているシーン等、ある意味通俗的と言える「母の喜び」を発見していくという語りのものを連想するかもしれません。でも、『珈琲時光』にはそういうロマンチックな描写を選ぶこと(逃げること?)はありません。そういうロマンチックなものは、「君と僕がいるだけで幸せ」的な世界だけで逆に閉じてしまうおそれすらあるのですが、この映画はそれを一切排除しています(そのため、「シングル」なマザーとして語ることは適切ではないかもしれません)。その代わりに、見知らぬ人だけれど尊敬でき、惹かれる過去の人物=江文也の系譜を追うという、ある意味では歴史を継承しようという姿が描かれているのです。つまり、ここで描かれているのは「歴史」と向き合う陽子の姿です。





この映画にはかつて小津監督が繰り返し主題にしていたように見える「結婚」の話もほとんど出てきません。現代的といえば現代的ですが、陽子のその歴史性と向き合う態度は反時代的にも映る。小津監督が「結婚」を描くことで、ライフスタイル(生活であり、「生きる方法」)が変化していく過渡の期間に抱く葛藤や決断を描いていた、或いはそれまでの生活とのズレと、そのズレを責任を持って引き受けていくまでの過程を描いているのだと言えるのならば(すくなくとも、新たな歴史の分岐点を描いているだろうという確信はあるのですが)、この映画もまた、「結婚」という問題は出てこないけれどもしかし同様の「変化」と向き合う(女性の)姿を描いたと言えるのではないでしょうか。かつては生活の変化の契機として「結婚」があり、今は「出来ちゃった婚」に象徴されるように「妊娠」がある、という単純な(?)、時代的な違いもあるでしょうが、単に違う、というだけでなく、小津監督へのオマージュを捧げていることから分かるように、その違いについて意識的であったろうと思います。




もちろんここでは、結婚が新たな人生の始まりだとか、人生の目標=墓場であるとか、そういうことを言うつもりは一切ありません。また、実際の「結婚」がそのようなものだ、というつもりも全くない(そもそもchikiには「結婚」という仕組みに懐疑的なところさえありますし、その手の話につきもののロマン主義には基本的には――必要でありなくならないであろうと思う反面――クソくらえと思っています)。ただ、恋愛や結婚制度などとは別の視点から考えたとき、「歴史」の継承と継続という側面があると思うのです。(「近代家族制度」とは別に)自分が子を作り、親になることの連続が歴史を形成していると云う点でもそうですし、過去の他者から未来の他者へと歴史を継承する担い手になる、という意味でもそうだと思います。『珈琲時光』に恋愛や結婚が安易に使われず、丁寧に陽子の生活や表情を描いていくことでその継承の過程を描くことに成功している映画だと思います。




その(歴史の継承への)配慮はさまざまな細部からも見て取れます。舞台が「鬼子母神前駅」(参照:鬼子母神伝説)であったり、墓参りの姿が描かれたり、仏壇が映っていたり。それから登場人物の、何より、何も言わず(言えず?)沈黙を保つ父の口から、「中絶」という言葉がイージーに(中絶がイージーなものだとはchikiは絶対に思いませんが)語られないことからも伝わります。比較的イージーに使われてしまうことも多い、その言葉が出てこない緊張感の中で、陽子の歴史(過去、ではない)と向き合う態度が強調されてはいないでしょうか。





いくつか横道にそれながら指摘しますと、ご飯を食べるシーンが多く、そして必ず食事を準備するシーンがあったり、映画の始まりは、洗濯のシーンからだったり、「お茶いる?」等の実に平凡な会話ばかりが出てきたりと、生活感があるようなところも同様だと思います(あまりに自分の知っている生活に近いものなので、本当に「ハンディを背負」った台湾の監督なのかと驚いてしまいました)。珈琲を飲まずにミルクを飲む陽子の姿がさりげなく映されたりするところからも、侯孝賢監督が細部にとことんこだわっている様が分かりますので、すごく丹念に作ったのだろうということが伺えます。





このように、誰もが忘れようとしている音楽家の系譜を追う陽子(もちろん彼女はライターなので、生活がかかっているわけですが)の忘れられそうな日常を丹念に描くことは、歴史へのオマージュを捧げること、日々の雑多な生活の声をリスペクトすることであり、そのような作品だからこそ、小津監督へのオマージュとして捧げられたのだと思います。また同時に、古書店で働きながら、誰もが聞き逃し、瞬間で消えゆく電車の音を収集している肇の姿が描かれるのも実に象徴的ですし、また、映画の中で何度か音が途切れることも、断続と連続について非常に考えさせられるきっかけになると思います。





以上、情念ばかりが先行してまとまらない文章を書いてしまいました。映画好きの方からお叱りの聞こえてきそうです。見ての通り、どの構図が小津的だよね、とか、映像についてはほとんど触れませんでしたし、小津監督についてもほとんど触れませんでした。また、一見保守的なキーワードが多くあるので、誤解も招きやすいテキストであると思いますが、「歴史」や「責任」といったことについては、「メインディッシュ」を書かずにいたこの3ヶ月の間、ゆっくり考えていたテーマであり、これからもじっくり考え続けていきたいので、このエントリーを皮切りに、何か皆様に示唆を頂ければ幸いです。














ところで、キャスト名に「蓮實重彦」の名があり、どうやら古書店の客としていたらしいんだけど、発見できなかったよー!







(久しぶりに「メインディッシュ」を書いたけど…長っ!! なぜchikiはかくも長文を書く癖があるのか。粘着質だからに違いあるまい。メイビー。)