準備中。

ちょっと待ってね。

こんにちわ。「メインディッシュ」はあと数ヶ月禁止しているchikiです。解禁したら(これまでは小説を語ることに慎重になり、避けてきたところがあるのですが)本格的に文学を読んでいきたいなー、なんて思いつつ、今日は(全然慎重じゃないような)ちょこっと文学に関係ありそうな備忘録的文章。なので支離滅裂。



夏目漱石『こころ』が雑誌「スペリオール」にて、榎本ナリコの手により漫画化されています。「日本近代文学の最高傑作を「現代語訳解釈」で描く新連載」とのこと。で、漫画の出来云々は括弧に括って、気になったのは次の一点。すなわち、「先生」が「ひきこもり」として描かれていることです。ここに描かれているのが「ひきこもり」かどうかは議論の余地があると思うけれども、「ひきこもり」が「現代」を代表する「病」として捉えられているんだと改めて実感したのでした(一元的に「これがひきこもり」と断言できないところがまた特徴的?)。



漱石の登場人物は「神経衰弱」の「高等遊民」が頻繁に登場します。それが「現代語訳解釈」(!)によれば、「インテリ+トラウマ+貯蓄+厭世(+etc…)」になるらしい。それがchikiには「ひきこもり」の表象のされ方のひとつとして妙に気になったのでした。ただ、その点に触れるには漱石の小説を精読する必要がどうしてもある。漱石の小説には実に多くの論文が書かれていますし(『漱石研究』という雑誌もあるんですよ〜)、「神経衰弱」や「性」に焦点を当てた論考も数多く存在しますから、「『こころ』や『門』に登場する夫婦がセックスレス夫婦」とか「高等遊民のパーセンテージ、及び生活」等、様々なヒントが転がっているような気がするので、その辺りを調べてみたいな、と思い立ったわけですが、時間が無いからまたいつか(涙)



◇『こころ』と言えば大逆事件との関連で、渡部直己さんが「不敬文学」として位置づけていました(その論旨の詳述はここでは省きます)。現代には阿部和重ニッポニアニッポン』という、「ヒキコモリ+不敬文学」という構造によって描かれている見事な小説があります。この小説で描かれている「病んだニッポン=天皇制(解決としてのテロ)/ひきこもり(ニッポンの現代病)」という図式が、漱石を、そして『こころ』を読む上で重要となるキーワード「病んだ日本=天皇制(大逆事件)/神経衰弱(時代病としての)」と重なっているように思えるのです(時代背景が大きく異なるのは当然ですが)。そもそも「文学」時代が「鬱病」的なものだという説もあるくらいですから、かなり大きな問題設定でいきなり躓いてしまいそうですが(汗)



◇「近代化」進む日本を眼差し、漱石は『現代日本の開花』の中で次のようなことを述べています。


「西洋の開花は内圧的であって、日本の開花は外圧的である。ここに内圧的というのは内から自然に出て発展するという意味で丁度花が開くようにおのずから蕾が破れて花弁が外に向かうのをいい、また外圧的とはそとからおっかぶさった他の力でやむをえず蕾が破れて花弁式を取るのを指したつもりなのです。(…)我々の遣っていることは内発的ではない、外発的である。これを一言にして言えば現代日本の開花は皮相上滑りの開花であるという事に帰着するのである。無論一から十まで何から何までとは言わない。(…)我々が維新以後四、五十年の教育の力で達したと仮定する。(…)西洋人が百年の歳月を費やしたものを(…)その半ばに足らぬ歳月で明々地に通貨しおわるとしたならば吾人はこの驚くべき知識の収穫を誇りえると同時に、一敗また起つ能わざるの神経衰弱に罹って、気息奄々として今や路傍に呻吟しつつあるは必然の結果として正に起こるべき現象であります。(…)われわれの開花が機械的に変化を余儀なくされる為にただ上皮を滑って行き、又滑るまいと思って踏ん張る為に神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒と言わんか憐れといわんか、誠に言語道断の窮状に陥ったものであります」
(引用は岩波文庫、1986。「青空文庫:現代日本の開化」参照)

漱石が「神経衰弱」を通して当時の日本を見事に分析したように、「時代病」からその時代の問題(しかもとても大きなレベルの)についてどのように描かれたのか、その点について知るために才能ある作家の文章を分析することは意義あることなのかもしれません。もちろんchikiは精神病理学などに関して無知ですから、これらについて考察することが、ひきこもりの方々の直接の助けになることはなく、あくまで「隠喩」として見ることでしかないでしょう。「ひきこもり」という隠喩が何を表しているのか。(数多くあるうちの)ひとつは、失業(貧富)、(女)性、健康(生死)など、様々なレベルにおいて生活の形(ライフスタイル)が問われ、「問題」視されること。「自己責任」(選択意思)と「甘受」(選択放棄)の枠組みにおいて考えられること。このレベルで考えると、私たちは皆、潜在的には「ひきこもり」であると言える(漱石が「神経衰弱」と言ったような意味で。この考えがひきこもり当事者の声を隠蔽するものであれば撤回します)。もちろん、これはあまりに雑駁な意見なので、もっと慎重な議論が必要になると思いますが、漱石が西洋/東洋を「啓蒙」という視点で捉えていたように、「ひきこもり」も、啓蒙された状態に訪れるアパシーの(シニシズムの?)ひとつとして捉えることが出来るのではないかと思っています。的外れかどうかは、小説の中から実際に読み解く作業を待たなくてはならないでしょうから、思いつきのメモ程度として書き記しておいた次第です。多分漱石の引用が一番役立つと思いますが



ちなみにこの思いつきは昨日の「19歳少年が餓死、体重は32キロ 母親から事情聴取」について考えていたものですが、「19歳無職」という言葉から「ひきこもり」を思い出し、「働ない/働ない」「学校に行ない/行ない」の違いについて考え、しかしそもそもこの差異を軸に考えることが「意思」の問題にしてしまっているのではないかうんぬんかんぬん等のループに陥り、ええい、そもそも「ひきこもり」ってなんやんねん、なんで問題になるんやーという順序を経ておりますので、こんなごちゃごちゃしているわけです。難しいですね。大雑把に考えていっても意味が無いと思うので、扱うときは具体的に、緻密にいけたらいいな。





以下は私信。
上山(id:ueyamakzk)さんの文字通り命がけの対話の姿勢を心から共感し、リスペクトしています。ここ数日、お体の具合がすぐれないとのこと、どうぞご自愛ください(「病院に行くオフ」とか開催してみたり:笑)。chikiは現在、blog上では思考停止みたいな状態になっていますが(苦笑)、陰ながらいつも応援させていただいております。「思考停止状態」が終わったとき、上山さんとblog上ないしチャット等で対話の機会が頂ければ僥倖の極みと思っております。今後ともよろしくお願いします。