本日のメインディッシュ

加藤典洋『テクストから遠く離れて』の書評を書くよ。
アメリカの影』『敗戦後論』を著した作者が、『なんだなんだそうだったのか、早く言えよ。』で見せたような持って回った文体で「テクストから遠く離れて」いくとする同書を、斎藤美奈子に倣えば「おやじ慰撫文学観」の書と位置付けられるでしょう。要約すれば<ポストモダンをなかったことにしよう>とのみ主張する同書の「忘却」(無知?)は、ポストモダンを無視しているがゆえに「おやじ」からの賞賛を(第7回桑原武夫学芸賞を)受けています。ここで言う「おやじ」とは、「中年男性」のことを指すのではなく、自らの不当な利益に固執することを可能にするイデオロギーへの疎外論的な(反動的な)「回帰」を望む思想(の持ち主)のことを指します。



なぜ、「おやじ」は加藤典洋に「癒」されるのでしょうか。それは、同書が「モダン」や「リベラリズム」への「ねじれ」た「回帰」を保障してくれるからに他なりません。無論これは単なる「回帰」として捉えられる現象ではなく、浅田彰が「J回帰」と呼んだように、螺旋形を描いて新たな共同体を構築しようとするものです。となれば当然カルチュラル・スタディーズの「つくられた系」批判は一切通用しないし、「オルタナティブな公共圏」を主張するニューレフトは同書を賞賛を持って迎え入れてしまいかねません(ありえそうなことです)。



しかし、逐一指摘するのもわずらわしいほど、この本には頭を(腹を?)抱えるような論理展開が示されています。現象学的判断中止と「共同幻想」をポケットに潜ませながら、「こうとしか読めない」ということを証明してくれる「作者の像」を提示する姿を見ると、文学理論に少しでも触れたもののある人ならば「この人は受容理論を知らないのだろうか」と勘繰ることでしょう。また、例えば加藤は同書で「パロール言語学」について触れている論は「わたしの見る限り、見当たらない」と断言するのですが、このことからも、この書物はオースティンやバンヴェニスト等の名を忘却したうえでないと成り立たない本なのです。加藤さんの中ではどうも、大体50年近く前で時間が止まっているような気がします。



ちなみに、chikiは読みながら「ここは変だな」と思うところに付箋を貼りながら読んだのですが、付箋50枚セットがあっという間になくなりました。とても多くの文学者が首をかしげながら同書を読んだと思うのですが(というか、事実首をかしげていたのですが)、しかしこのような本を賞賛を持って受け入れる文脈があるという状況に対しても眼差しを向けなくてはならないでしょう。同書において、最初に柄谷行人を引用(目配せ)しておきながら、しかし柄谷の批評について一切触れない態度を見ても、加藤がヘゲモンになることのみを目論んで同書を書いたことは歴然としていると思います。ヘゲモニーをとるべく「忘却」することを戦略として掲げる「おやじ」達の代表論者として加藤を位置づけるのならば、その「おやじ」をとりまく一連の現象と重ねて考察していく必要があるでしょう。



このような「粗大ゴミ」(=疎外ゴミ…疎外論的なゴミ論文?)の書によって仮に「テクスト論」が敗れる(破れる)とするならば、この書が掲げる新しい概念によってではなく(そんなものはない)、それは同書が通俗的な観念に基づきながら「忘却」を行っているからに他なりません。ここで「テクスト論」がとるべき態度は、この本を嘲笑してすますというシニシズムではなく、「ねじれ」た「回帰」の根幹を見定めることです。それが、「テクスト論者」に求められる最低限の条件だと思います。



ちなみに、chikiはこの本を図書館で借りて読んだので、今回は怒りが費やした時間分の怒りだけで済みました。買って読んでいたら、多分、「おかしい」と思った部分を全て挙げ連ねていた気がします。お金の恨みは恐ろしいからね!



ルサンチマンは、控えめに。




参考リンク。
浅田彰「J回帰の行方」
すが秀実「文芸雑誌の排出した「粗大ゴミ」は、いかなる意味で粗大ゴミなのか? ―これは「喩え」ではない」
「以前、読まずに書いた戯言」