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第二回:リベラリズムを巡って
今回は、リベラリズムの形がどのように変遷していったかをごくごく簡単に触れた後、chikiが前回「螺旋型右傾=右傾スパイラル」(やっぱりダサい)と呼んだものにひきつけ、両者が具体的にむすびついている現象をいくつか指摘して次回につなげていきたいと思います。但し、chikiは経済思想史に明るくありませんので、詳細な議論が出来ずに一般的な把握に留まるとは思います。いくつかのメルクマールに着目して議論の枠組みを築きたいと思いますが、正確なテクニカル・タームの用法や解釈ではない可能性が十分にあるので、コメント欄で突っ込んでくれる方、募集中です。



リベラリズム」という言葉には実に様々な意味が含まれており、文脈によって全く逆の立場を指したりします。リベラリズム自由主義とは、アダム・スミス等の18世紀〜19世紀の「古典派」経済学者たちが主張した政策的立場でした。この連載では、アダム・スミスが『国富論(諸国民の富)』を書いた1776年を指標としておき、古典的リベラリズムとしておきます。リベラリズムは、資本主義を発展させるため、国家が市場に介入するのではなく、市場活動の自由を保障すると主張した政策です。アダム・スミスは『国富論』の中で、「個人の私利を目指す投資が見えざる手に導かれて、社会の利益を促進する」というあまりにも有名な一節を残しています。即ち、バラバラの個人が、それぞれの利害(interest)を追求したとしても、結果的にバランスは整う。人々が利己心に基づいて自らの利益だけを求めようとしても神の「見えざる手」がなんとかしてくれるよ、という(ある意味で牧歌的な――『道徳感情論』を書いたアダム・スミスらしい考え方(道徳共同体?)と思えば納得できる?)考え方です。



1929年の世界大恐慌の後、自由(放任)主義では不況に対処することが出来ないため、政府の市場介入したほうがよいとするケインズ主義が流行します(ルーズベルト大統領のニューディール政策が有名です)。これは国家が社会福祉などをし、ある程度弱者に対する救済の手=セーフティネットを張る思想です。諸個人の自由を出来る限り擁護する一方で、競争の結果生じ得る経済的な不平等を国家の介入によって是正するというものです。世界規模では大体45年くらいから、つまり冷戦体制に突入していくあたりから確立していきます。ここでは45年型リベラリズムとしておきます。



しかし、60年代末ごろから失業率が急上昇、ケインズ主義が破綻しだしました。その代わり、反ケインズ主義的な形として、政府が介入するのではなく市場に任せようという新自由主義ネオリベラリズム≒リバタニアリズム)が登場します。具体的には80年代の前半にサッチャーレーガン・中曽根によって促進されることになりますが、周知の通りサッチャリズムとは、完全雇用福祉国家労働組合等に代表される戦後体制を批判し、民営化、規制緩和行政改革による「最小限国家」を主張しました。現在、小泉内閣の下で行われている「構造改革」即ち国営化から民営化へ、国家介入から規制緩和へ、というような一連の流れは(道路公団民営化や郵政民営化、年金改革そして様々な施設のアッパラパーな(ホテル設備が20円!)放棄などなど)、このサッチャー主義の流れ、新自由主義の流れを受け継いでいるものとして考えられます。ここでは「68」年と「89/91」年をメルクマールに設定したいと思います。言うまでもなく68年は「世界革命」と呼ばれたパラダイムシフトの契機として、89/91年は冷戦体制崩壊の契機としての年号です。



ここまで大雑把に、古典的リベラリズム(18世紀〜19世紀)→45年型リベラリズムケインズ主義)→ネオ・リベラリズム(68〜89/91以降)という線を引いてみました。これらの年号を採用した理由は、現代思想ポストモダニズムに明るい人ならピンとくると思われますが、連載の中で少しずつ説明しながら議論していきたいと思います。ここまでの議論をさらに簡単にまとめるため、下に図示してみます。


18世紀〜19世紀。市場=資本主義=経済的自由主義はなんとかなる(古典的リベラリズム
↓だめぽ!(世界恐慌
20世紀中盤。福祉国家として政府が介入する(ケインズ主義、45年型リベラリズム
↓だめぽ!(政治の終わり)
68/89/91以降。新自由主義だ、放っておこう(サッチャリズムネオリベラリズム、リバタニアリズム)

さて、お解かりのように、古典的リベラリズムネオリベラリズムの考え方はある意味で非常に似ています。今回の「螺旋型右傾」の議論にむすびつけると、「なんだ、じゃあやっぱり昔に戻ったのネ?」と思われるかもしれませんが、そうではありません。我田引水でなく、そう断言するのは難しいと思います。また、「じゃあ、可能なるリベラリズムをもう一度摸索すればいいんだね?」という意見もあるでしょうが、それもいくつかの理由から困難で、事実福祉国家という概念は数十年にわたり多くの批判を浴びてきていました。後者の議論については連載の最後の方でもう一度触れることにしまして、まずは前者について説明するために、いくつかのレベルから考察していきたいと思います。



まず、かつての古典的リベラリズムと現在のネオリベラリズムと、何が決定的に違うのか。それは「理想」の位相の違いです。現代社会が向かっている先は、「現実主義(理想を掲げないという立場)という理想(主義)」です(これはつまりネオコンの問題にて顕著ですが、ネオコンの問題については次々回に触れると思います)。



スラヴォイ・ジジェクが『斜めから見る』という本の中で、アダム・スミスの「見えざる手」のことを「大他者」と名指し、その上で「大他者は存在しない」という議論を行っています。ジジェクのこの本ではアダム・スミスの思想についてこれ以上は触れていませんが、これだけでもとても重要な指摘だと思います。この指摘をリベラリズムの議論の場にひきつけて分かりやすく言い換えれば、かつては「なんとかなる」という形の放任でしたが、今はそんなことを誰も信じておらず、大雑把に言えば「どうとでもなれ」という放任だということになります(苦笑)。18世紀は市場原理に対する信頼=大きな物語が存在したけれど、現在、68年と89/91年を経た私たちが目にしている新自由主義にはそのような信頼は一切ない、ということです。アダム・スミスのイニシャルはたまたまA・Sなのですが(笑)、ラカンジジェク風に言えば彼の理論は既に誰も信じておらず、既に大他者は機能しない。故に「A」にも「S」にもすでにスラッシュが入っているが、一方でそのことを埋めるためにナショナリズムや「崇高」を巡る議論がふたたび問題になっている、ということになるでしょうか(「父‐の‐名」や「フェティシュ」の問題に踏み込むのはやや複雑化すると思うので、今回はここで留めておきたいと思います)。



ここまで論じてきたように、現在の政治状況は要するに国が行う大規模な放置プレイなのですが、SMでの放置プレイは(主にMが)「まだか、まだか」とじらされた挙句に相手(主にS)がやってきてセックスを行うというものですが(これがまた気持ちいいわけです)、このように苦痛が快楽へと転換する過程を楽しめる訳です。しかし、国家が国民をじらしたあげくに快楽=保障を与えてくれることはまったく見込めず、しかし国民は保障を与えてくれると思い続けて放置されたままであるという点で決定的に違います。そして、現在のネオリベラリズムが「理想」として掲げているのが、先ほど指摘した「現実主義という名の理想(主義)」つまり、「政府が介入してもどうしようもならない(現実主義)から、市場に全部任せる方向に動かして皆が自己責任で勝ったり負けたりすればいいじゃん(理想主義)」というもの。



国が保障や介入を放棄し、「おまいら、勝手にしる!」と放置する一方、国民には「自由=自己実現/自己責任」という新たな問題が登場するわけですが(この問題については後日改めて触れます)、しかしそのことによって「国家」が単純に縮小されるのではなく、むしろそこで新たな権力、即ち前回触れた監視型(コントロール型)の権力が発動されます。また、放置された人々が逆に「愛国心」「体制強化」を唱えるようになることは、「教育(=対内的)」や「イラク(対外的)」を巡る最近の議論で顕著だと思います。ネオリベラリズム(全てが自己実現のための労働であり、全てが自己責任であること)を当然のこととして内面化する(現在の体制を認める)か、反動的にリベラリズムを求める(福祉国家復権を望む)かの違いはあれ(これを物語性の回復と考えた場合には、さらに「崇高なるもの」について考察し出す人もいます、これらは宮台真司氏の「転向」、及び『探求3』以降の柄谷行人氏の問題意識にも絡んでくるでしょう)。イラク人質事件の時に「自己責任」というタームが出てきたのは実に象徴的で、一気にネオリベラリズムのムードが顕在化したように思えました。



ここまで指摘した議論は全てポスト構造主義の問題とパラレルに関わってくると思います(◇参照◇)。




※後付注
調べれば調べるうち、精密な分析が必要だと感じたので、連載をしばらく中断します。