本日のメインディッシュ

小説がんがれ!
2003年に話題になった5作を取り上げまーす。ルールはただひとつ、意地でも誉めること。本当は腹を立てているのかもしれないが、それを悟らせずに書くこと。これである(笑)。




矢作俊彦『ららら科學の子』
「ノスタルジック68」であり、「ノスタルジック68」を戯画化した小説でもある。世界革命的な「68」ではなく、四方田犬彦的な、或いは村上春樹的な「68」であるため、読者の疎外感を揺さぶらずにはいられまい。その生き生きとした描写から、当時を知る者はもちろんのこと、当時を知らない者でも懐かしさを覚える。ああ、懐かしい。この懐かしさだけを感じることが出たなら、明日から元気に働くことが出来るというものだなぁ。



阿部和重シンセミア
雨が降らない、便秘が治まらない、夫婦愛が微妙だ、パンが売れない、事件が解決しない…。それら全て、下巻の後半から一気に解決へと向かうスペクタクルがすばらしい。「粉」に着目すれば、そのスペクタクルが徐々に快楽の暴発へと向かう享楽を見れる。実に多才で器用な作家であるため、彼に「安定」を求めるのは酷だろう。好奇心旺盛に、かつ勤勉にこのスタイルを続けていただきたい。ちなみに、中上健次紀州サーガのパロディであるといわれているが、chikiには筒井康隆のパロディに見えた。気のせいかもしれない。



島本理生『リトル・バイ・リトル』
何もおこらない小説。それが逆説的に、日常において微細な差異からおこる「変化」を描き出すことに成功している。ドラマチックな出会いも告白もセックスもない。淡々と、しかし少しずつ差異を重ねながら進んでいくのが日常であり、タイトルの通りに「リトル・バイ・リトル」を徹底していることで、「青春小説」への批判たりえているのである。たまには誰かと、夜中に逢引をしてみたいものである。



綿矢りさ蹴りたい背中
「教室の皆」から疎外されつつも割り切れない、そして「ひがんでない」といいつつも明らかにひがんでいる、やや斜に構えた――だからこそ「普通」の――少女が主人公である。この少女の言動を見ると、綿矢りさの顔を思い浮かべずにはいられまい。「萌え文学」という言葉の発端である本書において、「言葉にし難い複雑な感情を言語化することに成功した」などという戯言は単なる嘘八百であり無意味であろう。読むなら萌えろ、萌えないなら読むな。電通が映画『インストール』を宣伝するために芥川賞を与えたという話を内部関係者から伝え聞いているが、そのような「イメージ」戦略において勝利を収めている小説なのだ。萌えなければ、意味がない。



金原ひとみ蛇にピアス
身体改造、SM、脈絡のないセックス、唐突な死。「現代的小説」の諸要素をブリコラージュしたような本書は、それでも近代的自我を摸索する。その彷徨に、思わず共感する読者(特に女性)は多いだろう。「パンクなくせに、癒し系」という言葉は、もはや逆説でもなんでもない。何が癒し系で、何がパンクか――そのような確証がどこにもない世界だからこそ、人は(安易に?)痛みと快楽で「自己」を確認する。その姿を、村上龍山田詠美よりもさらに「若者の感性」に近いポジションから描いたのが今作が芥川賞を受賞した所以だろう。おめでとう。






…どれを本気で誉めていないかがバレバレで、逆効果な気がする。
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