災害時の犯罪流言が、支援を遅らせる可能性について
東日本大震災後、多くの人が避難所に身を寄せた。避難所には、多様な医療ニーズがあった。石巻赤十字病院では、三〇〇か所もある避難所を一軒一軒調査し、必要に応じて対応していく「避難所のトリアージ」を行っていた。
医師たちが活動する中、ひとつの流言飛語が医師たちの耳に入った。ある地区の治安が著しく悪化し、殺人さえ起きかねない(あるいは殺人が起きている)、というものだ。石巻赤十字病院+由井りょう子『石巻赤十字病院の100日間』(小学館)、PP.119〜PP.122には、次のような記述がある。
しかし、そこで浮かび上がってきた問題の一つが、先にもふれた津田看護師長のいた渡波小学校だった。避難所の環境はどこも劣悪だったが、渡波港をかかえ、石巻魚市場に近い、つまり海に面した渡波小は、いちだんと悲惨だった。
校庭はがれきがそのまま山になっている状態なので、ヘリコプターが降りられない。傷病者の搬送もできなければ、物資の投入もできない。看護師がすでに四人いるといって、医療は後回しにされる。
アセスメントをした金田副院長からも、また新潟県中越地震を経験した医療者からも、手を洗う水がない、土足で避難所に上がっていることなどの指摘があり、早急に改善すべきだという声が多数上がる。
それに対して、治安が悪く、殺人さえも起きかねない、という情報をもたらす人がいる。
石井はいう。
「一人の医師が五〇〇人の命を救うことができるとしよう。医師が死んでしまったら、救えるはずの五〇〇人の命が救えなくなってしまうんだ。いまは何よりも医師の命が大切なのだ。そんなところへ医師を送り込むわけにはいかない」
「それなら、渡波を見捨てるというのか。非人道的なことが許されるのか」
と、怒る声があがる。
石井はその日の夜遅く、みずから警察署に出向いて、渡波の治安について確認した。少しくらい悪いことをするやつはいないわけではないが、殺人が起るようなことはない、渡波だけが特別じゃない、と聞かされて決断した。渡波に医師を行かせる、と。
二五日は渡波小学校へ行き、避難者の様子、トイレや水事情を見る。和式トイレに新聞紙を敷き、そこに大便をする。それを新聞紙でくるんでポリ袋に入れて、一か所に集める。そのあと手を洗う水もないのだ。
これでは下痢や嘔吐、感染症の多発も当然といえた。まずは水の確保だ。日赤本社を通じて海外の難民キャンプで水を供給する簡易水道を送ってもらうよう手配する。大きなビニール製のタンクに、給水車から水を入れて、先のほうにいくつかの蛇口がついたパイプをつなぐ。タンクに水を入れれば、蛇口から水が出る。こんな何でもないことが、渡波では大きな喜びになる。それほど過酷な避難所だった。
『石巻赤十字病院の100日間』は2011年10月に出版された本だ。その後、この本にも登場する医師、石井正氏が2012年2月に『石巻災害医療の全記録』(講談社)を出した。そこには、当時の模様が、さらに詳しく書かれている(PP.79〜PP.83)。
3月15日、2人の看護師が無事であるとの吉報がもたらされると、僕はさっそく広島赤十字病院の救護チームに渡波小への巡回を依頼し、翌日以降も渡波地区への救護医療チーム派遣を継続した。渡波地区に出向いたチームの報告によると、「がれきを自衛隊が片付け、新たな道を作っているため、カーナビの指示通りの道ではなくなっている。その道路も、路上にトラックが倒れたまま放置してあったり、冠水していたりでアクセスが非常に困難だ。当然、避難所も水は出ないし、下水も機能していないので、いつ感染症が起きてもおかしくない」とのことだった。
その一方で、本部にはこんな情報も入っていた。
<渡波地区は治安が悪化しており、殺人さえを起きかねない状態だ>
もしこの情報が事実ならば、そんな地区への救護チーム派遣を継続するわけにはいかないと思った。
第一章で述べた、発災当日に現地の安全を確認しないまま救護チームを行かせた苦い経験があった。しかも、“医療資源”は限られている。仮に1人の医師が500人の命を救うことができるとして、その医師が死んでしまったら500人の命が救えなくなってしまう。そう考えると僕は、渡波小への救護チーム派遣継続には反対せざるをえなかった。
17日の夜ミーティングで「救護チームの安全が担保できないので、渡波地区への救護チーム派遣を控えたい」と提案したところ、すぐさま渡波小に行った救護チームから反対意見が相次いだ。
「電気もガスも使えず、とてもひどい状況で耐えている渡波の被災者を見捨てるのか」「そんなことは人道上、断じて納得できない」
救護本部では僕の提案に対する批判が集中し、「救護班を送れ」「いや送れない」の議論は堂々巡りの様相を呈した。
僕はいったんこの案件を保留とし、ミーティング終了後、救護チームのリーダーだけを集め、渡波地区への派遣を継続するか否かをあらためて協議した。その席上、当時ブレーンとして本部に入っていた内藤先生がこう発言した。
「圧倒的に支援が遅れた地域が出現するということが、この日本でも起きてしまっているのだろう。もしかしたら、そのために渡波は治安が悪化しているのかもしれない。だとすれば、われわれにできることは、むしろ率先して医療支援の手を入れることではないのか」
この意見に反対するものは誰もいなかった。ただし、慎重には慎重を期して「渡波小に派遣するメンバーはいずれも屈強な男性で編成しよう」ということになった。
その夜、午後10時半頃、不安が拭い去れなかった僕は、石巻警察署に向かった。渡波地区の治安状況がどのようなものかを、警察に直接、確認するためだった。石巻赤十字病院の災害救助係長の高橋君と、臨床工学士の魚住拓也君が同行してくれた。日赤救護班として数々の派遣経験を持ち、DMAT隊員でもある2人は、震災発生直後から救護本部専属ロジスティック担当として僕を支えてくれた。
応対した石巻署の生活安全課長は、僕の質問にこう答えた。
「こちらでも定期的に渡波地区を巡回しています。被災したコンビニなどから飲料水を盗むくらいの事案はないことはないが、殺人などはありません。大丈夫です」
つまり、あの情報はデマだったわけだ。さらに課長からは、
「本当に治安が悪化しているのであれば、ギャング団などが跋扈して、弱肉強食の世界になっているはずです。それが、殺人など起きていない何よりの証拠ではないですか。もともと渡波は人情が厚く、みなで助け合って生きている地区であることは、先生だってご存じのはずです」
と、たしなめられてしまった。思わず僕は椅子から立ち上がり「その通りです」と頭を下げると、すごすごと警察から引き揚げたのだった。
翌18日朝のミーティングで僕はこの情報を全員に伝え、渡波地区の定期巡回継続を決定した旨を告知した。
この後、渡波小の避難所を訪れた際、トイレ環境が劣悪で、感染症の蔓延が懸念される状態だったという記述が続く。
2013年11月。僕も石巻で石井氏を取材した。その際、この本の記述について直接お話を伺った(流言の取材ではなかったが、話の流れで)。石井氏はこの流言を、「信頼ある人」から聞いたという。そのうえで、「もし、本当だったらどうしようか」というリスクの問題としてとらえたという。「マネジメントする側からしたら、余所の地域、県外のドクターが行って、殺されましたなんてなったら、奥さんとかどう思うだろう」とも語っていた。確かに、「万が一」と頭をよぎったら、流言かもしれないと疑っていたとしても、無視できなくなるだろう。
結局、警察に「確認」しに行くことで、医療チームの派遣が見送られることはなくなった。ミーティングで異論が出なかったら、氏による「確認」がなかったら、と考えさせられる。災害時には、多くの流言が発生する。流言への対処は一筋縄ではいかない。丁寧に調べられればいいが、それが困難な場合も多い。誤情報は簡単に流せるが、それが本当かを確かめるのは手間がかかる。
ちなみに、警察庁資料を見ると、「主な被災県である岩手、宮城及び福島の3県(以下「被災3県」という)においては、大震災発生後、侵入窃盗が増加するなど特異な状況が見られた」という記述もあり、「震災便乗詐欺事件」も起こったことが分かる。
一方で、「被災3県においては、発災直後、武装した犯罪グループによる略奪、性犯罪の多発等といった流言飛語が流布したが、特定の手口の窃盗を除き、いずれの罪種も前年同期に比べて減少している。強姦、強制わいせつについても、いずれも前年同期に比べて認知件数が減少し、震災に関連して発生したと思われる性的犯罪は数件にとどまっており、被災3県合計の検挙件数、検挙人員は、前年同期に比べそれぞれ減少しているが、検挙率は上昇している」という記述もある(https://www.npa.go.jp/toukei/seianki/h23hanzaizyousei.pdf)。
もちろん、被災地の犯罪については、混乱の中で認知件数は下がるのではないか、人命救助が優先となり犯罪対応がなされにくくなるのではないか、申告しずらくなり暗数が増えるのではないかという意見もある。逆に、普段以上に相互監視が高まる、応援の警官や自衛隊も多いために通報はされやすいのではないかという意見もあり、「答え合わせ」は難しい(「被害体験」のアンケートを行うことにより、比較する試みも一応ある→「大災害後の防犯対策に関する研究」。犯罪論議の中では、「被害体験」のアンケートを全国的に毎年とることで、「認知率」では把握できない数値推移を測ろうという提案もある)。また、警察に「確認」をしても、警察が間違える可能性も否定できない。災害史上には、警察が流言を拡大させた事例もある。一番有名なのものとして、関東大震災中に犯罪流言を拡大させたケースがある。
「流言かもしれなくても注意喚起の意義がある」みたいな意見も聞く。だがそもそも、注意喚起自体は、起きていないものを起きていると言わずとも、増えているかわからないものを増えていると言わずとも、できる。煽って不安を拡大させることが、誤った判断を誘うこともある。「○○ではこんなことが起きてます。注意して!」という流言はしばしば見たが、「もしもの場合はこちら」という情報がつけられていないものがほとんどだった。これでは、単に混乱に乗じてはしゃいでいるようにも見えてしまう。少なくとも支援地や、検証に時間の割くことのできるネット上などでは、支援などの足を引っ張らないよう、冷静な情報拡散が求められる。
災害支援を発展させるためには、成功例ばかりを集めるのではなく、失敗例を集めることも重要となる。多くの活動団体はついつい成功例をアピールしがちだが、同じ失敗を繰り返さないためには、具体的な失敗例こそ丁寧に記される必要がある。あえて苦い経験をも丁寧に記してくれたこの2冊は本当に貴重な資料だ。
- 作者: 由井りょう子,石巻赤十字病院
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