インターネット時代の「小さなメディア」の使い方
今週の土曜日、朝日カルチャーセンターで仲俣暁生さんと喋ります(残席あり。お早めに!)。
http://www.asahiculture-shinjuku.com/LES/detail.asp?CNO=26402&userflg=0
そして仲俣さんが、セミナーの予告エントリーを公開しています
http://d.hatena.ne.jp/solar/20080615#p1
「小さなメディア」という言葉は、先日論座に寄稿した際に使った言葉でもあります。
http://publications.asahi.com/ronza/story/200805.shtml
基本的にはリオタール以降の議論を受けていることは言うまでもなく……のつもりだったのだけれど、仲俣さんは、津野海太郎の『小さなメディアの必要』から用いているとのこと。定義のズレもおそらくあるかと思うので(津野の場合、「大きなメディア」の代表がコンピューター、だもんね)、その辺りの定義についてまず話しながら、(1)「小さなメディア」の乱立状況について確認しつつ、(2)状況から見えてくる原理的な話と互いの立場、それから(3)送り手/受け手になる際の「心構え」みたいなものを話すことを求められているような。以前、既にシノドスのセミナーでお話いただいた際は「一億総小林秀雄化」について語っていただいたので、それも少し関わるかもしれない。
仲俣さんからは、小さなメディアが乱立することによって、マネタライズや業界作りが出来るかどうかという点を話しあいたいと振っていただいた。僕の方からは、「小さなメディア」が乱立する状況は、実はより多くのリテラシーをプレイヤーに求めてしまうこと、しかも「リテラシー」が発揮されるスタンスへのコンセンサスが成立しがたくなり、同時にシステム管理への希求と、管理者への不在が浮かび上がるという点を確認したい。
「小さなメディア」というのはメディアのサイズの話ではなく、状況的な議論である以上、「反-メディア」といった態度に意味がなく、「非-メディア」というスタンスもありえない。そこで「小さなメディアってサイコー」といった態度をとっても、単に既存の市場にヨリカカリしていながら(あるいは市場から追い込まれながら)、「可能性」を叫んでいる「から元気な人」、ということになりがち。そういう状況で、「路地」や「シノドス」などの「実験」から何が見えるかとかも、話してみると楽しいかも。是非ご参加を。
#今ちょうど、MGS4をとても面白くプレイしているのだけれど、そのモチーフは結構参考になりそう。戦争が日常化した近未来の舞台において、「兵士/一般人」の区別だけでなく、ナノマシンやID管理システムなどによって「ベテラン兵士/素人兵士」などの区別も失われている。全ての兵士や武器はID管理されており、そのためにシステムの肥大化が生じる一方で、ID監視システムを逃れることの出来る人=ヘイブン(回避地)を利用できる人は、常に高見に立てるという状態をシステム自体が用意している。