思想塾公開トークセッション『若者の現在』

「思想塾公開トークセッション『若者の現在』参加@Kawakita on the Web」
「宮台真司情報@不機嫌な日常」(写真アリ)
「週末連続イベント@It's Now or Never―Social Connectivityをめぐって― 」
上リンクで既にレポがなされていますが、宮台真司さん、藤井誠二さん、浅野智彦さん、鈴木弘輝さん、堀内進之介さんが参加された「思想塾」の公開トークセッションにchikiも行ってまいりましたので、簡単にレポさせていただきます。



今回レポするのは、トークセッションの前半部分。後半部分はid:kwktさんのレポを合わせて読んでいただければ、伝わりやすいのではないかなと思います。また、「●」部分は、id:kwktさんの見事なあらすじと勝手にコラボレーションしてみました。併読する際の参照にしてください。なお、会場の雰囲気は松浦さんのレポを、等身大の体験記についてはtakagi_2733さんのレポをお読みいただくといいと思います。



●フランスのデモの背景と日本の若者言説の背景の対比
鈴木 フランスでのデモについて。18歳〜25歳の雇用の柔軟性を高めるという名目で、雇用して2年以内であれば26歳未満の若年労働者をいつでも解雇できるという法案をめぐって反発があがったという事件がある。この事件から、労働問題や若者問題についてお話をしていただきたい。



宮台 移民のときは「暴動」として捉えられるが、今回は「デモ」。日本では、メディア上では若者バッシングが喧しい。対してフランスでは、彼らを擁護すべく全国でゼネストで支援するというような構図がある。非常に対照的。フランスは国民的気質として、社会的合意として、デモや暴動が社会参加の一形態だという合意がある。社会参加といえば日本では投票行動などを連想する方が多いが、アメリカにもヨーロッパにも代議制を中心とする近代の民主制は不完全だという合意があるので、これを何で補うのかということが重要な課題として意識されている。フランスでは街頭行動が伝統であり誇りとされる。一方で、グローバリゼーションの流れに棹差さないよう、たとえ失業者がある程度生まれたとしても、ある種のプラットフォームや国民的合意を守るほうが重要であるという意識がある。流動性に抗う包摂的な立場(日本の文脈とは違う意味で、と留保付)。どのように社会が変化しようが「不安」にならずに済むためのプラットフォームを確保するという合意がある。アメリカもそのような合意は強いですが、支持しているプラットフォーム自体が対照的。



●若者イメージや若者論を受容する社会の側の変化
鈴木 今日は労働と教育がテーマ。そうすると、どういう社会を営むか、というテーマが問題になる。教育というテーマは若者というテーマと重なる。浅野さんから「若者にとっての失われた10年」といったもの、若者フォビアということについてコメントをお願いしたい。



浅野 アイデンティティ論や自我論が本業だが、関連として若者の調査をしてきた。現段階の私の見取り図を。70年代以降の主要な若者論を調べていると、強いインパクトを受ける発見がある。一つは、昔から同じことを言っているということ。例えばカプセル人間論、モラトリアム人間というような論があったが、これらは言葉を入れ替えただけで現在の若者論の言説に変形させられる。われわれは「最近の若者はこうだ」「こんなに変わったんだ」ということをずっと繰り返してきたが、その言説がまったく変わっていない。もう一つ。70年代の若者論者は若者に理想を託していた部分があった。現在への適応形態である、古典的な立場から批判してもしょうがないので擁護しつつ悪い方向に行かないようにするべきだ、というような部分。つまり、当時の若者論は、今と言っていることはほとんど変わっていないが、バッシングにはなっていなかった。


この10年は若者にとっての失われた10年であり、「若者論」にとっての失われた10年でもあったのではないか。今も不毛な構図が繰り返されている。例えば「少年犯罪の増大・悪化」「若者の人間関係の希薄化」「脳波が低下した」という言説があり、他方で良心的なアカデミズムの側から「実は変わっていない」というような応答がある。変わった、という言説と、変わっていない、という言説が対立している。言説のヘゲモニーから言うと前者が強かったと思う。私はどちらともいえない。実際は凶悪化はしていないが、ある種の変化はしている。その変化を語るための言葉、概念装置を私たちは持っていないがため、ここしばらく使い古された言葉での不毛な議論が展開されている。河合幹夫さんが「実は変わっていない、と一生懸命訴えかけるのはむなしい」という意見を書かれている。対立の不毛さから由来するものだと思う。



藤井 少年犯罪の改正(厳罰化)について。芹沢さんとの対話をブログにアップしているが(思想史家・芹沢一也氏との対話。「罪」と「罰」と「贖罪」の間で。)、そこで芹沢さんから私の仕事に対して、凶悪化していないのに凶悪化したかのような社会不安を増大するための後押しをしたのではないかと指摘された。これは影響力を買いかぶりだと思うけれど、社会の寛容力が低下していることがあるのは一方で自覚している。それが良いか悪いか、どうなっていくのかはまだ分からない。今、宮崎哲弥さんとの著作で、50年代からの過去の少年犯罪を全部検証している。昔から凶悪な犯罪はあって、いくつかの山があり、今は4回目の山ではあるが、急増も凶悪化もしていないし、発言がそう読まれないよう注意してきた。しかし雑誌などで「凶悪化!」というようなキャプションをつけられることは多々あった。一方、現状では矯正プログラムがほとんどない。社会が犯罪被害者を「発見」するようになり発言力を増している中で、厳罰化の方向に動いていくとしてそれを社会がどのように内包していくのかという議論は必要。



堀内 ニート問題について本を出そうとしたら本田由紀さんに先を越された(笑)。ニートが増加しているというのは間違いで、実は無根拠。2001年の段階で急激に増えたといわれているが、それは「若年無業者」というカテゴリーが変わっただけ。在学をしながら実際は行っていない者、既婚者、主婦という人はそれまで「若年無業者」に含まれていなかったが、2001年に改定されて含まれることになった。しかもまずいことに、改定後のカテゴリーに基づいてそれ以前の情報も修正された。かように急激に数値的に増えたことによって、背びれがつけられて「ニート100万人」とか言われるようになった。総人口に対して労働力の全体の割合は下がっている。労働者の数が全体として減っていて、若者の無業者の数は減っているが、比率だけは増えているともいえる。これが余計にイメージを強調している。



●他者(若者)の行動の「不透明性」と社会の「不安」
堀内 NEETという言葉があるイギリスでは、70年代から議論されていたが、日本ではバブルが続いたので議論されなかった。政策の周回遅れ。イギリスでは、職業について知ってもらうという方向から、動機付けへのプログラムへと変化している。「自立」の問題から「自律」の問題へ移行した。日本でもようやく議論がされている。現実と論との接点が見つかろうとしているが、難しい。犯罪の話であれば、被害者が発見されるような問題提起者が出てきたが、若者の就労問題においてはそういう第三者がいない。経営者/労働者、大人/若者という構図だけがクローズアップされ、媒介項がいない。修復的司法の問題とも絡む。



宮台 webサイトにレジュメ(明日の思想塾公開講座の参加者に参考資料を緊急にお知らせします)をアップしましたが、読んだ人はどれくらいいるか?(半分以上が挙手。藤井さんが「すげぇ(笑)」と感嘆)あそこに書いたことは本質的。現在は不安と不透明性がキーワードになる。不透明性ゆえの不安が増大している。凶悪化、激増していなくても、不透明性が増すことによって不安が増大し、不安が増すがゆえにそこに割かれる人員や予算がつきやすくなっている。そこから先はマッチポンプ。例えば数年前、「窃盗」というカテゴリーに、それまで含めなかった自転車の盗難を含めるようにしたがため、数値的に「窃盗」の数が激増し、警察官の増員の要求の根拠に用いられた。官僚側の組織的利益を念頭に置いているということは、社会学者であれば周知のこと。堀内さんが指摘した若年無業者の話も同じ。予算配分、人員の増減にも口実が必要。



●少年犯罪の重罰化と修復的司法
宮台 藤井さん同様、重罰化には賛成。しかし条件付き。現行システム変化を肯定するなら重罰化しかない。重罰化に合わせて修復的司法が(本来は重圧化への対抗ではあるが)それ自身楽観できない権力の配置を帰結するので手放しには褒められない。日本はもともと共同体的温情主義、警察や司法、刑務所において更正しなくても、共同体に戻せばそれなりに更正するという期待があった。刑法犯の刑罰が軽く、終身刑や累積刑もない。


犯罪が激増したというわけではなく、共同体温情主義への期待がされなくなったことは大きい。被害者家族の孤立も関わっている。共同体温情主義への期待が機能すれば、加害者が更正しうるのと同じように、被害者が共同体で感情的な回復をはかることが期待できるが、前者が期待できなくなると後者も期待できなくなる。このようにメカニズムが壊れた状態で社会的流動化をよしとするならば、論理的帰結として重罰化は免れ得ない。修復的司法がもちこまれるのも致し方ない。


どういう社会のグラウンドデザイン≒ビッグピクチャーを描くのかによって、重罰化、修復的司法、いずれも条件付で判断される。無業者がたとえ増大しなかったとしても、フーテン、プー太郎、隠居は昔からいたとしても、その存在が共同体の透明性の内側にいるのか、外側、異物としているのかで対処がまったく変わってくる。数の問題の正否は重要であり、それによってなされる扇動も重要だが、一方で過剰流動性に伴う不透明性や不安の増大がある。



藤井 今の指摘は被害者と加害者をめぐる最先端の議論。(レジュメで批判されていた)被害者や加害者が繰り返しそのポジションに立ち返らなくてはならないのか、というような指摘は重要だが、修復不可能にも関わらず修復的司法を礼賛することには違和感がある。地域の委員会との契約の中で加害者が許され、社会へ還元するということはアメリカが苦労して作ってきたシステム。誰がそれを担うのか、などの細かいプログラムがされている。日本の共同体的なものとは質が違うため、単純に輸入することは難しい。うまくいくかは不透明。


修復的司法というものは重罰化へのカウンターとして出てきたもの。少年法、観察法を作られてしまった左派系の人がカウンターパートとして出した。間に入って被害者と加害者をつなぐ、と。しかし被害者が許さない場合はどうなるか。強制力を担保していくことになれば、被害者と加害者が関わらなくてはならない状況が生まれる。それが被害者にとってよいことなのか。あるいは、すぐに死んでほしいという方、目のつかないところに行って欲しいという人も多いと思うが、その人たちにとってよいことなのか。


もう一つは、誰が何の権限を持って行うのか。千葉、東京、大阪ではじめられている。民間のボランティアなどがコミットしている。弁護士ならリーガルサービスの一環であったかもしれないが、「善意」によって介入するとして、どのようにして対面させるのか。あるいは十数年つとめあげた人が、被害者家族が相対から出て来いといわれて出てくるか。弁護士すらリーガルサービスの一環で、権力もなにもない。現場での混乱が起こっている。簡単には礼賛できない。



鈴木 藤井さんからは具体的なハードケースを紹介していただいた。宮台さんからは思想的背景を説明していただいた。浅野さんのほうからコメントをお願いしたい。



●共同体的温情主義を忘れられない人々が不安を埋め合わせるため少年犯罪の重罰化を主張している矛盾
浅野 共同体的温情主義の解体はそのとおりと思う。その延長線上、不透明性が不安を生むということもそのとおりと思う。それを理由に重罰化が許されるのかというと違和感がある。もしそのような理由で重罰化するのであれば、そのことを明示する必要が手続き上ある。理由を明示せずに重罰化することは、道徳的退廃を内側に含み、世代間の断絶、対立を激化する。


以前、国会で少年法が「改正」された際、改正案提出者の中には松浪健四郎がいて、「最近の若者はキレやすく、すぐナイフを振りかざして許さん」「厳しくしなくてはならん」的な意見を主張していたりした。あるいは社内で化粧をするのは脳がおかしいからだと主張していた著名な大脳生理学者の方がセクハラで大学をクビになる。こういうのをまっとうな若者が見たら、「自分のことを棚にあげて何を言っているんだ」という感覚が出てくる。若者バッシングとしてこういうロジックを使うと、そこに道徳的退廃を見出す若者と上の世代のコンフリクトが強まる。



藤井 世代間のギャップが乖離したまま議論が進むと、「上の世代の合意」に「下の世代の合意」が得られない。松浪のような方、彼のようなロジック(若者けしからん!)で「少年法改正」を主張されると、当事者にとっては迷惑になる。



宮台 自分が何を主張しているのか分かっていない人が多い。重罰化を行えば道徳的な退廃は必ず起こる。それを織り込み済みで言う可能性もある。例えば社会的プラットフォームの変質は動機の不透明性を生み、生育環境の分岐は殺人の理由を把握できない状況を生む。これは蓋然性のレベルで必然的に起こる。そのプラットフォームをよしとするのであれば、動機不透明な殺人くらいでオタオタするな、コミュニケーションの可能性などは放置して厳罰化すればよい、というスタンスを取れば、共同体的温情主義や社会的信頼はズタボロになるが、「どうせそうなるなら早いうちにそうしろ」という立場をとれば、言説の水準では一挙にクリアできる。


「重罰化」を主張する人にこういう自覚があるのか。共同体主義的なものをサポートしつつ、メディアによって共同体に未練を持っている人たちを煽ることで重罰化を煽ること、これらは無自覚でされている。しかし、自覚せよといっても難しい。重罰化の理由は法律にかけない。国会で立法意思を検討し、メディアで報道しても、合意が得られるか。


刑罰、処罰の社会的機能は多様。人によっては抑止と捉える。しかし統計的にみると、抑止が機能するのは軽犯罪と性犯罪のみ。凶悪犯には通用しない。「それでもいい、抑止できてると思い込めることが重要なのだ」という論陣を張る人もいる。被害感情の回復をはかるため、とする人もいる。共同体が失われたからこそ、むしろカタルシスを実現することが重要であるとする人もいる。あるいは社会システム論での議論のように、法的な意思の貫徹という立場もある。これらを整理して一本化することはできない。感情的ベースを手当てできないのであれば、立法に失敗しても、反復される。そこまで含めて議論をしなくてはならない。



堀内 共同体温情主義というのは「主義」であって、それが実際にあったかどうかは別。実際あったかといえば疑問。確かに期待はあった。しかし、期待すらできなくなった、ということが誰の目にも明らかになっている状況。



浅野 最終的にはどういう社会を設計するのか、という違いに着地する。正しい理由を表明することが重要なのか、という立場もある。私は理由の表明は重要だと思っている。



藤井 堀内さんの言うように、本当にそういう共同的なもの、あるいは加害者の「本当の反省」というものがありうるのだろうか。



宮台 僕は予期理論にコミットしている。「愛」や「真の理解」というものは学問的には何の意味をもたない。意味を持つのは、「愛」や「真の理解」ができたとおもえる条件は何かという探求。共同体的温情主義も、それがあるかないかというものは実証できず、世論がそれに対して期待さえできさえすれば、それが存在することを前提としたコミュニケーションを行えるようになる。人々を変えるのではなく、期待のあり方を変えさえすればよい。このような理論は不人気。思い込みの中でかみ合えばよい、とする立場だから。しかし、論理的にこれを上回ることは不可能。ただ、この論理を多数が前提とすることはないので、そこでどうするかを語る必要がある。



堀内 私は批判理論にコミットしている。現在の批判理論は、ハーバーマスルーマンの対話以降の影響を受けている。本来性があると思われていた期待があればよいというのは昔から変わらず「埋め合わせ」。不安を埋め合わせるためのひとつのモデル。「自然」というものが元々あったわけではなく、発見されるもの。17世紀以前には、「自然を愛でる」という行為自体がなかった。



宮台 プラットフォームが壊れたときに、本質や普遍などが「あるということになる」ということ。理論的な話は後半に。




…と、ここまでがセッションの前半部分の大雑把なメモ書きです。欠落している部分があるかと思いますので、参考程度の主観的メモとして読み留めてください。この公開講座の内容は、近刊の宮台真司さん編『こころ真論』(ウエイツ)に掲載されるそうなので、そちらを必ずチェックしてください。後半は「思想塾公開トークセッション『若者の現在』参加@Kawakita on the Web」をお読みくださるといいと思います。



しかし、みんな思想塾に入ったんですねー。私はなぜかパスしてしまった。今後も受講可能かもしれないので、興味のある方はその機会を逃さないようにしてくださいまし。次回のテーマは「セクシュアリティ 」。このサイトで何度か言及している例のアレが話題になるかもしれません。