「勉強」ってなんのこと?

「大学教員の日常・非日常」さんの、「大学は何をするところだっけ?」というエントリーを読んで頭を抱えました。以下に率直に批判をしますが、BLOG主の「フラスコ」さんに個人的な憤りをぶつけるつもりはなく、認識に誤りがあったら指摘してくだされば幸いです。批判の前に、私は「大学は市場のためだけのものではない」「大学は大学が準備した「勉強」だけを学生にこなさせるものではない」というスタンスであることを明示しておきます。


主な批判対象は、フラスコさんの次の3つの発言に要約されます。

1.「勉強が好きでも得意でもないのに、大学に来るということが信じられません。」
2.「少子化で労働力が少なくなるというのに、こんなのを4年間も大学に置いといても時間のムダ」
3.「教員が研究する姿を見せ、その一端を紹介し、あとは学生が這いずり登ってくればいい」


批判のポイントを簡単に言うと、フラスコさんの「あるべき大学像」は一元的に映ること。そしてその「あるべき大学像」を掲げることが、翻ってこのエントリーの作者であるフラスコさんの考える「あるべき大学像」から遠ざかっていくだろうということ。どちらも昨日のエントリーと関わります。


具体的に内容に移る前に議論の前提を。「大学は市場のためだけのものではない」が「大学と市場と関わりがないわけではない」。そしてその関わり方の変化が、昨今の大学そのものの変化と関わってくる。どういうことかというと、これまでは大学を出てさえいれば一定のOSを積んでいると見なされたので、試験などでOSの稼動具合を検査した上で、あとは企業がセミナーなどを通じてさまざまなアプリケーションソフトをインストールすればOKとされていた。ところがさまざまな要因によってライフコースが多様化し、社会がより流動化しているので「大学」のあり方も変わってくる。昨今では企業がアプリを準備するコストを渋るので、就職の時点でいくつかのアプリを自分であらかじめ積んでおかないといかなかったりする(※同じOSの共有も無理になった)。


この変化を受けて、例えばフラスコさんは「もうそろそろ「そこらへんの大学卒業」なんて、以前のように就職のパスポートにはならないってことに気づきませんか?」と書いています。しかし、「親」の期待や要求はともかく、学生は誰かに言われるまでもなくそんなことにはとっくに気づいている。大学が「階級」と密接に関わることを知りつつ、それでも「夢」や「手に職」を求め続けるような「自己啓発」にはノリきれなかったりするわけだし、むしろ大学から外に出てないくせにエラソーに説教ばかりする「大学教員」の就職アドバイスほど邪魔くさいものはないとさえ思ってる。また、同じ「手に職」を持つのであれば、高卒よりは「二流、三流大学」を出てからの方がマシだとも思ってるし、結局どちらのルートをたどっても同じ給料なんだったらせめて4年間遊んだほうがいいとも思っているだろう。


もちろん「大学」だって気づいている。だからこそ「大学」は、市場に受け入れられるように自ら進んでカリキュラムを書き変えたり、コミュニティカレッジやオープンカレッジ、サテライト授業などを増やしている。「二流、三流大学」であるほど「消費者」を対象に試行錯誤せざるをえず、俗耳に響きやすいカリキュラムやコンテンツを取り入れる。「弱小大学」であるほど「余計な弱小者」を抱えておけなくなり排除するようになる。前提おわり。


このような傾向をどう評価するかにもかかわりますが、私にはフラスコさんの「あるべき姿」は一元的に見えます。例えば、「勉強」というのが、大学のカリキュラムに書かれている「勉強」を指す、あるいは「アカデミズム」を指す、あるいは「市場で役立つもの」を指すのであれば、それは理系の大学教員という「大学システムのごく一部の側面」で成功を目指している人が、その成功の形だけを特化したいだけの似非エリート主義に見える。マシなエリートなら、どんな基盤が自分をエリートとして成立させているのかということを考え、そこに責任を持ち、その基盤を持たざるものに配慮をするはず。まして教員は、研究と授業に対する対価として給料をもらっているのに、自分のやりたい研究だけで居直るのは不相応な選民意識に見えます。


どうしてそこまで「効率」にオブセッシブでならなくてはならないのか。果たして「今の世代」を難じる「上の世代」はそう振舞ってきたのか。「勉強」は好きになったり得意でないといけないのか。「勉強」は「ためになること」をやらなくてはならないのか。なぜそこまで自己啓発しなくてはいけないのか。その自己啓発の向かう先が正しいのか。大学に入ってから結果的に勉強好きになった人とそうでない人にどのような差異を見出すのか。「勉強」は国民や労働力になるためにするものなのか。そこまで日本って余裕のない国だったのか。大学とは、そのような非常に狭い定義の「勉強」をするところだったのか。このような疑問が次々にわいてくる。


さきほど「理系の大学教員」と書きましたが、私のこの疑問はフラスコさんが理系の教員である点に重要な意味があるのかもしれません。特に「文学部」の場合、例え勉強が好きで入学したとしてもほとんど就職と関係ない。教員を目指し這いずり登ろうとしてもポストがない。出口なしの状態で知人の大学院生も何人か自殺している。大学内ですらものすごい格差がある。産学連携批判、実学指向批判というものが文学部などでかつてリアリティをもたれていたのは、一面的な、数値化されるような「合理化」では「文学部」は余剰なものとしてまっさきに切り捨てられるからでもある。


また、フラスコさんの「あるべき姿」を想像してみるに、「勉強を好きな人だけがきて」「教員が大して教育しなくても成長し」「そういう優秀な人だから就職にもつながって企業に褒められる」ということなんでしょうか。でも「二流、三流大学」がその選択肢を肯定するとまっさきに淘汰されると思いますし、フラスコさんがそれでもサバイブできたとしても、説教された学生がサバイブできるかは別。


おそらく大学がその「あるべき姿」に回帰しようとすることは不可能でしょう。しかも単に不可能であるばかりでなく、その言説が「大学でしっかり準備された訓練を受けよ」「サバイブのために自己啓発せよ」というメッセージと重なり、市場主義的な大学の形を容認する言説として受け入れられることにもなると、大学にはさらにサービスと効率のみ求めるようになり、自治管理スペースなどの≪過剰なもの≫が切り捨てられ、「学」が成り難くなるように思う。このように、「大学は勉強するところ」という「正論」のフレーズは、使いようによって色々とシニカルな結末を招きそうです。


誤解しないでいただきたいのは、だからといって大学によって手取り足取り面倒を見ろというレベルの批判ではありません。「教育しろ」と言っても、何から何までやれというわけではないし、エントリーから推察するにフラスコさんはそのあたりのバランスは丁寧に考えているお方に見えるので、現場リアリティの苦言としてはおそらく正当なものだと思います。私が言いたいのは、「大学はこういうところ」と一元的に定義せず余剰物を受け入れたほうがいい、という一点のみ。余剰物を受け入れないで一面的な合理化を進めることが、実は学問を衰退させることにもなる。


ただ自問自答せざるを得ないのは、このように「余剰」を受け入れる余裕を求めることも酷なのではないか、ということ。「二流、三流大学」であればあるほど、余剰物を受け入れる余裕がなかったりする。長期的スパンで余剰をケアせよといっても、短期的につぶれる恐れのあるものが余剰を切り捨てることを止めることはできない。でも、だからこそそのような現実を「大学は勉強するところ」のスローガンのみで覆い隠すことはできない。