本日のメインディッシュ ――「憲法改正」について考えるためのメモ

「新憲法第一次案 現行憲法対照表」
「憲法改正プロジェクトチーム「論点整理(案)」」
憲法改正少子化対策障害者自立支援法など、多くの争点があるなか、「郵政民営化」が選挙の争点らしいです。そこで、id:kwktさんが、「選挙までに考える参考」として、郵政民営化に関する議論について考えるヒントになるURLを紹介しています。また、「ビデオニュース・ドットコム」にて無料公開されている動画では、「反対派」の荒井広幸参院議員の話も聞けます。一方で「改革推進/改革後退」や「民営化推進/抵抗勢力族議員」という二項対立をよく聞きますが、「郵政民営化」が争点になった時点で、小泉自民党のフィールドに引き込まれている、とする見方もあります。



ところで、個人的には憲法の問題が気になっています。9条の問題が大きくピックアップされがちですが、上2つのリンクを読むと、気になるポイントは結構ありました。「改正」か「改悪」か、意見が分かれるところなので、以下、便宜的に「改変」としておきます。



「改正」論者は、何故改変したがるのか。「アメリカからの押し着せ」「時代的要請」「国民の教育のため」など、色々な説明がされるが、その正当性はどうか。「護憲」論者は、九条の重要さを説くが、その有効性はどうか。というか、そもそも「憲法」って何? そういうのが理解出来ないと、歴史学者小田中直樹さんが批判的に触れているように、「ノリやフィーリング」での議論にしかならない。以下、考えるためのヒントになりそうなものをメモ&クリップしていきます。





憲法を改変する理由とその正当性について。
「Voice2001年5月号 竹中平蔵・櫻井よしこ連載対談 目を覚ませ、日本人」で、ティピカルな議論が行われているように思うので、思いついたことをメモしながら読んでみる。どのような問題意識から改変を主張しているのか。



櫻井:日本が軍国主義になるか否かは国民が決めることです。国民は、1人ひとりの私たちの集合体のはずです。となれば、私という人間が軍国主義に走るのかどうかが、日本が軍国主義に走るかどうかの重要な決め手になってきます。つまり、憲法軍国主義も自分次第というところに行き着きます。だからこそ、自分は軍国主義に走るなんてことはないんだという強い意志と信頼感を自分自身に対してもっていれば、憲法改正への抵抗は小さくなるのではないでしょうか

竹中:「自分たちを信じられるか」というのがキーワードですね。日本という国は、戦後の再出発にあたってとても重苦しい悪夢、つまり自分たちが自分たちの暴走を止められなかったという反省からスタートしているのです。だから、自分たちは何をするかわからないから縛っておいてくれ、という思いが日本国憲法の根幹にあり、それが表明されたものが9条だと思います。


(1)この精神論的な議論では、「軍部の暴走」「政府の暴走」による軍国主義化等が想定されていない。
(2)(後期)近代社会では、自分の理性を信頼することと、他人の理性を信頼することは別で、必ずジレンマが生じる。「自分達」と無前提に信頼するスキームによる議論は現実にそぐわない。また、そのことを推進しても意味はない。
(3)国家権力の暴走を防ぐために憲法が存在する。憲法の根幹にあるのは、「自分たちは何をするかわからない」というものではなく、「国家は(自分たちを差し置いて)何をするか分からない」である。国民同士の信頼の問題ではない。
(4)また、国民は、一人ひとりの集合体であるという素朴な認識は妥当かというのも気になるところ。国家を、社会的機能というよりはひとつの共同体としてはいないか。「government」を、「country」や「land」と同一のものとしていないか。



櫻井:この章(第三章)を読んでおかしいと思ったのは、「国民の権利及び義務」という章にもかかわらず、「権利」と「自由」がたくさん出てきて、「責任」と「義務」がほとんど出てこないことです。ちなみに、数えてみたんです(笑)、「正」の字を書きながら。すると、「権利」が16回で「自由」が9回、「責任」が4回で「義務」が3回でした。では、いちばん少ない3つの「義務」は何かというと、「教育の義務」「労働の義務」「納税の義務」です。教育の義務は、教育を受ける人のためにもなるものですから、義務といっても権利に通ずるものです。2番目の労働の義務については、いまどき働かずに食べている人はいくらでもいるのですから、これも純粋な義務とはいえません。ならば最後の納税の義務が日本国民に求められる憲法上の唯一の義務ということになります。で、この義務を守っているのかといえば、両親と子ども計4人の標準世帯で課税最低限が368万円です。この所得税をサラリーマンの24%が払っていません。法人税にしても、250万近い法人の65%が赤字で国税を払っていません。事実上たった1つの義務である納税の義務すら守っていない人と法人がたくさん存在するのです。日本には、ほんとうの意味での「義務」がない。義務は果たさなくてもいいですよ、というのがこの憲法です

「義務がない」…憲法としてこれは「おかしい」かどうか。2001年5月、対談と同時期に出版された伊藤真伊藤真の図解憲法のしくみがよくわかる本』(中経出版)における憲法の原理原則について説明している部分を読むと、次のように書いてある(伊藤真氏は、伊藤塾の塾長として有名)。


立憲的意味の憲法の最大のポイントは、あくまで国家を制限するために作られたものであるという点です。人々が強力な権力を持つ国王や領主たちに支配され、日々の生活から、職業や結婚、宗教や人生観にいたるまで、がんじがらめに縛られてきた時代に逆戻りしないように、国家権力をあらかじめ制限して国民の自由を侵害させないようにすることこそ、憲法の存在する意味なのです。
憲法はもともと国民に対して向けられたものではなく、国家に対して向けられたものと言えます。それだからこそ、近代以降のどの国の憲法でも、国民の義務を定める規定は極めて少なく、自由と人権を保障する規定が中心になっているのです。
日本国憲法においても、九十九条で権力を行使する公務員に「憲法を尊重し擁護する義務」を課していますが、国民にはそのような義務を課していません。また、第三章の「国民の権利及び義務」の規定では確かに権利や自由の規定ばかりが目につきますが、それは憲法としてはむしろ当然のことなのです。憲法に国民の義務を数多く規定するとしたら、それはもはや憲法と呼べなくなってしまいます。近年、憲法改正についてさかんに論議されていますが、もしこうした方向にいくのだとすれば、それは憲法の改正ではなく、憲法の廃止です。


また、社会学者である宮台真司さんは、インタビューの中で、次のように(あえて挑発的に?)述べています。



憲法とは国民から国家に対する命令です。衆参両院の憲法調査会で「憲法に国民の義務が少ししか書いてないのはおかしい」という議論が出ていますが、まさしく笑止千万。というと、納税義務や教育義務が書いてあるじゃないかと反論する輩もいます。
憲法をよく読め。「納税しない人や子どもに教育を受けさせない人を、国家は法律を作って取り締まれ」との趣旨が書いてある。やはり国家への命令です。僕たちが税金を納めないとか子どもに教育を受けさせないからといって、憲法違反で捕まるかあ(笑)。

上記対談、および「憲法改正プロジェクトチーム「論点整理(案)」」などでは、「義務を書け」と「道徳を書け」というようなノリで議論が展開される。宮台、伊藤両氏の議論を読むと、近代憲法の談義として、この2つの指摘はありえないということになる。賛成、反対の問題ではなく、端的に憲法の議論の範疇ではない、ということか。
※《道徳》は、《倫理》とは明確に区別される。道徳は善き生き方などを「〜するように生きるべし」と説くが、倫理は、特定の道徳や「〜べき」の規則を共有しない者との共生の知である。大雑把にパラフレーズすると、道徳は共の、倫理は公のもの。「法と道徳の分離」はひとつの命題であると同時に、それ自体困難な探求テーマでもある。



竹中:(…)法人から税金を法人税というかたちで徴収し、同時に個人から所得税というかたちで徴税するのは、どこか間違っています。つまり、会社が儲かった場合には個人の所有する株の値段が上がるのですから、個人に課税すればいい。別の考え方、つまり法人税とは所得税の前払いだという理論に従うならば、社員が税金を払う必要はなくなるわけです。いまは二重取りをしているようなものなのに、どちらの考え方を採用するかという理念が曖昧で不透明です。しかも、儲かった人、頑張った人により多く課税し、頑張らなかった人には課税しないなんて、きわめて不公平です。

櫻井:懲罰的ですね。

竹中:そうです。ならば人格をもっている人には一律に税を課せ、ということになります。ある方との対談で、「いちばんいい税制は何だと思いますか?」と聞かれて、「人頭税でしょう」と答えたことがあります。これほど公平な税制はありません。究極の外形標準税ともいえる。

櫻井:儲けても儲けなくても、存在するものに対して課税するということですね。

竹中:われわれがほんとうに同じように責任を果たし、義務を負うのであれば、税は所得に対して課するのではなくて、人頭税が望ましいでしょう。こういう理念を明確にした憲法にしてほしい。

憲法観もさることながら、竹中氏の経済観が興味深かったのでメモ。




(1)「公正」の捉え方は様々で、大きく分けると「機会の平等」と「結果の平等の議論」になるが、現実に様々な格差がアプリオリにある現実では、政府は両方の平等理念に配慮しながら政策を行っている。機会の平等が実現されていない領域では結果の平等で補う場合もあることに顕著(それを、リレーでやるか否かなどは別問題)。これをパラフレーズすると…

    • 1.絶対的平等のもとでは実質的平等は存在しない。
    • 2.絶対的平等のもとでの形式的平等では格差が広がるだけ。  ←竹中氏?
    • 3.相対的平等の元での形式的平等では格差はそのまま。
    • 4.相対的平等のもとでの実質的平等では格差が縮まる

即ち、「人頭税」は、《頑張った者が報われる社会を推進するする税制システム》としては適さない。(※例えば、ハンディキャップを持った「頑張れない人」「頑張ったとしても、既存のルールでは認められない人」は無視される。そもそも「頑張った」の基準が書かれていない。)
(2)この議論抜きで、単に「頑張った人/頑張らなかった人」という精神論で区分するのは、よくありがちな論理的陥穽。経済学者であれば踏まえられるはずだが…?
(3)「人頭税」はネオリベラリズム的にはOKかもしれないが、自民党の国策とは齟齬をきたすところが多い。その矛盾はどのように理解されるのか。







憲法のどこが、なぜ、だれのために、どのように変えられるのか。
次に、「新憲法第一次案 現行憲法対照表」を見て、法学シロートの素朴な疑問を列挙。賛成/反対をする以前に意味がよく分からない、というのが率直なところ。国民として、このような疑問に対する説明責任は求めてもいいだろう、と云う意味で、恥を感じず思いつくままに書く。


第十二条
(旧)「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」

(案)この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、保持しなければならない。国民は、これを濫用してはならないのであって、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う。

十二条、十三条、二十一条、二十九条にて、「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に書き換えられた。また、九条の二においては、「自衛軍は、自衛のために必要な限度での活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和及び安全の確保のために国際的に協調して行われる活動並びに我が国の基本的な公共の秩序の維持のための活動を行うことができる」とある。



第十二条と第二十九条と第九条の改変で、「いざとなったら軍優先」的な拡大解釈が可能になるのか否か。つまり「国民は《公の秩序》に反してはならない」→「自衛隊は我が国の基本的な公共の秩序の維持のための活動を行うことができる」→「自衛隊の活動は公共の秩序の維持を意味し、国民はそれに反してはならない」という三段論法を使われないだろうか。我ながら苦笑する三段論法だし、左派が「危険です!」と喧伝しそうなロジックではあるけれど、その歯止めがあるのかどうかは気になるところ。比較衡量論のバランスが変わる可能性があるか否かも気になるポイント。




第九条の三 自衛軍は、内閣総理大臣の指揮監督に服する。
第五十四条 衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する。
第六十四条の二 政党の政治活動の自由は、制限してはならない。
第七十二条 内閣総理大臣は、行政各部を指揮監督し、その総合調整を行う。


このように、内閣総理大臣の権限、および政党の自由が拡大されたこと。それに加え、


第九十六条
(旧)この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

(案)この憲法の改正は、衆議院又は参議院の議員の発議に基づき、各議院の総議員の過半数の賛成で国会が議決し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票において、その過半数の賛成を必要とする


と、クリアのラインが下げられ、憲法の改変がやりやすくなったこと(「特別の国民投票」って、なんだろう?)。これらは、ちょっと「自民党に都合が良いように変えようとしている」という疑問があってもしょうがないように思う。八十九条も同様。


第八十九条
公金その他の公の財産は、社会的儀礼の範囲内にある場合を除き、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のために支出し、又はその利用に供してはならない

靖国参拝はセーフで公明党はグレーゾーン、ということになるのだろうか。ちなみに、9条の問題と、宗教分離の問題に関しては、それぞれ「砂川事件」「津池鎮祭事件」の判例が既にある。どちらも違憲判断としては行われていない。「愛媛玉ぐし料訴訟」では違憲判決。※津池鎮祭、愛媛の判決の違いは「目的効果基準」による。


第七十六条 軍事に関する裁判を行うため、法律の定めるところにより、下級裁判所として、軍事裁判所を設置する。


などは、司法制度などに大きく関わるところだと思う。第七十九条「前項の場合において、投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は、罷免される」が削られることも同様でしょうか。このあたりは、もう少し調べてみる必要がありそうです。






憲法の理念と、「現実」とのズレ
伊藤真は、前述『伊藤真の図解憲法のしくみがよくわかる本』にて、憲法の原則を次のように説明している。


1 法律は強い者が弱い者を支配する道具になってしまうことがありますが、憲法は逆に弱い者が強い者に歯止めをかけて自分の身を守るための道具です。
2 法律は国際情勢や経済状況に応じて随時改正されるべきものですが、憲法は時代に流されない恒久的な価値を示すものであり、短期的な視野ではなく長期的な視点からその国の方向性を規定しています。
3 法律は現実とかけ離れていると意味がありませんが、憲法は理想をかかげるものですから、現実と食い違っていてむしろ当たり前です。


先ほども紹介したURLで小田中直樹さんが触れているように、その論理的根拠は「歴史」に求められる。その点で、伊藤氏は徹底した近代主義の立場であるとも言える。その論理展開は極めて説得的で分かりやすい。近代法について議論する際の参照項としては重要である一方、それ以外の議論も必要になる。 ※西洋中心主義、近代中心主義、ダーウィニズムの問題などから。



なお、伊藤氏は「押し着せだから変えるべき」という論点に対して、歴史的経緯や立憲的意味での憲法であるという観点から疑問を投げかける(論旨割愛)。




以下、「押し着せ」の議論に役立つかもしれない個人的な思いつきの参照メモ。







◆他者の暴力と法
加藤典洋の『敗戦後論』で「ねじれ」という議論がされていた。加藤氏は、戦後日本にはふたつの「ねじれ」があるという。すなわち、憲法の「ねじれ」と死者との「ねじれ」。その「ねじれ」のため、日本は全うな国家主体になれない。そのため加藤氏は憲法の「選び直し」によって、ねじれが解消され「われわれの」憲法になる、と主張する。死者との「ねじれ」については、「自国の3百万の無意味な死者を無意味ゆえに深く哀悼することが、そのまま2千万のアジアの他者たる死者への哀悼につながる」と主張する。果たしてそうか。いくつもの疑問が残る。後者の問題は割愛し、前者の憲法の「ねじれ」についてメモ。



(1)ラカン精神分析のタームで疑問を言語化すれば、主体に入ったスラッシュを回復することは可能か、という問い。それならばおそらく「否」となる。 ※だからこそ「転移」が問題になっていると解釈するべきか否か。
(2)上と関わるが、「選びなおし」の作業によって、様々な他者の痕跡が抹消されないか。ひとつの共同体であることを前提としているのではないか。
(3)「未来の他者」もそのことによって「選択」したとみなされるのか。「選びなおし」た瞬間に、不断の選び直しが必要になるのではないか。
(4)そして実効性はいかほどか。この言説自体が機能するものであるか。また、選ぶものの「理性」を無前提に議論できるのか。




法と暴力の関係について分析している古典的名著、ベンヤミン『暴力批判論』には、次のようにある。



「暴力批判論の課題は、暴力と、法および正義との関係をえがくことだ、といってよいだろう。というのは、ほとんど不断に作用しているひとつの動因が、暴力としての含みをもつにいたるのは、それが倫理的な諸関係のなかへ介入するときであり、この諸関係の領域を表示するのは、法と正義という概念なのだから。まず法の概念についていえば、あらゆる法秩序のもっとも根底的で基本的な関係は、明らかに、目的と手段との関係である。そして暴力は、さしあたっては目的の領域にではなく、もっぱら手段の領域に見出されうる。」
「手段としての暴力はすべて、法を措定するか、あるいは法を維持する。法的協定は、当事者達によってどんなに平穏に結ばれようとも、けっきょくは暴力の可能性につながってる。議会主義は、生きた諸問題のなかで何に到達するかといえば、それは期限にも終末にも暴力をまといつかせた、あの法秩序でしかあり得ない。」

『暴力批判論』においては、上のように法措定的暴力と法維持的暴力という二つの暴力について触れている(その後、神話的暴力/神的暴力という議論が展開される)。単純な理解では、法措定的暴力とは、法を作ること自体の暴力。法維持的暴力とは、法を維持し、実行する暴力ということになる(他の解釈も、批判ももちろんある)。





なお、ベンヤミンについては、「高橋哲哉氏講演「国家の暴力 − 戦争・死刑・人権」報告」にて、『暴力批判論』の簡単な解説が述べられている。高橋氏は、加藤氏の「ねじれ」論を批判したこともあり、その内容は「小熊研究室の論文」にて、学生が簡単にまとめているものも読める。また、馬場靖雄氏の論文「正義の門前:法のオートポイエーシスと脱構築」において、デリダ-ルーマンの議論から、『暴力批判論』について触れられている濃密な論考も(デリダ『法の力』は、『暴力批判論』について大きく取り扱っており、また、高橋哲哉氏は、デリダの研究者として著名)。




これらをヒントにメモ。




(1)法措定的暴力は、常に外部から突然訪れるものであらざるをえない。
(2)どのような法も「未来の他者」にとっては「過去の他者による押し着せ」を逃れられない。「他者の押し着せであるから」というロジックでは批判として機能しない。
(2-2)無論、だからといって全ての法措定暴力がフラットであるというわけではない(植民国が宗主国に与えられた不平等な法など)。
(2-3)暴力の発露の是非の基準を、どこに置くか。ベンヤミンのように「神的暴力/神話的暴力」等で明確にするのは事実上困難である以上、適しているか否か、というプラグマティックな議論と、どのような国家を設計するのがよいか、という議論が必要になる。
(2-4)刑法や民法等と違い、憲法は国家を操舵する理念を書くもの。であるからこそ、法は国民を縛り、憲法は国家権力を縛る。とすれば、「適している」か否か、というものの妥当性は、単純に「現実」にのみプラグマティックに求めることは回避される。
(3)少々論理を割愛するが、ここで、「手続き」、適切な暴力の問題が出てくる。なお、「政府が縛られて動きにくいから変える」は、立憲的意味の憲法理念に反する。重要なのは、国民側、市民側の憲法意志の表明の手続き。「このように国家権力を縛り、このように操舵していく」という立法意志の表明が、立法意志が実現される参照枠として適しているか否か。 →但し、小室直樹氏は、今の日本人のリテラシーからは到底無理、としている。




(続く)






これから考えるメモ
●「しかるべき手続き」を、自らが不当と思ったもののみに戦略的に要求する(右派?)or黙認する(左派?)類の機会主義の問題。また、歴史的事実と、そのどこに論拠を求めるか、その正当性は何によって求められるのか、という議論はそれぞれ異なる。 →機会主義に関する議論
●「ねじれ解消」「理念」「実効性」等、様々な論点が並ぶ中、憲法のプライオリティはどこにあるのか。理念と手続きの問題、そして民主制と、設計プランの問題。おそらくは、。(1)国家を監視できるか(2)恒久理念として適切か、という2点がプライオリティの上位を占めるだろう。
●当然のことながら、上述議論(特に前半部分)は、近代社会やリベラリズムを前提としている。そうではない、後者のような(特に構造主義以降の)人文系の議論、およびその接点をどこに設定するか。
ベンヤミンの議論で言えば、「憲法」は法の二重の暴力を監視する暴力、ということになるか否か。※暴力とメタ。
●「ねじれ」がラカンの《転移》の問題であるのならば、同時に、ありうべき国家、アメリカ、天皇等へのフェティッシュの問題も生じる(これは、主に右派)。
直接民主制の不可能性にも関わるが、「世論」を論拠にする問題。(1)十分に議論、説明がされていない中、(2)形式の民主主義と実質的な民主主義の差異を見ず、(3)特定の利害に基づくよう機会主義的に議論を進められた場合、「アメリカの押し着せ」から、「○○の押し着せ」と、主語を変えただけになってしまう。機会主義的に、「押し着せ」を、便宜的に、口実としてのみ批判することとは区別されなければならない。
●各立場が、プライオリティの配置、あるいは暴力の発露のベクトルを一定方向に求める場合、どのように留保をしても、最終的に党派同士、エリート同士の鍔迫り合いは展開される。「運動」と機会主義、決断主義は不即不離ともいえる。 →鈴木謙介さんの文章「思想のマチズモ」にて、エリートと決断主義の関係が平易に書かれている。
憲法が近代市民社会のものだとしたら、後期近代、ポスト市民社会においてその手続きとありようはいかなるものか。権力の形、社会モデルの変容などは、「憲法」をいかに規定するか。




頻繁に出される「コスタリカ」について。
「最近のコスタリカ評価についての若干の問題」
「鍛えられた平和主義(1)コスタリカと日本」
「コスタリカと日本の違い」







※関連リンク集などを含め適宜更新する予定。本文表記は変更される可能性が高いです。まだこのエントリーについてコメント欄等で議論する意志・予定は今のところありません(お盆も終わりますし)。
※「改正」を主張する人は、もちろん様々な立場があり、「改正論者」「護憲論者」双方に批判的な宮台真司氏も、但し書きをつけながら改正の必要性も指摘している。