本日のメインディッシュ――「機会主義」の、分かりやすい呼び方ってないかな?

chikiは以前、「事柄を明らかにし、議論を発展させwin-win(どちらも得をする)の関係を築くように対話を進めていくのではなく、自己(サイド)の優位と相手(サイド)の劣位を宣言・固定(←証明、ではない)するためだけに議論する。そのためには手段を問わない」という議論の仕方を機会主義(opportunism)として把握し、エントリーを書いたことがあります。「機会主義」は、経済の議論をする際の用語のようなのですが、この場合の《自己利益の追求》の《利権》を大きく捉えた場合、普遍的な議論一般に当てはまると思い、使用しました。



この言葉は結構便利で、BLOGでの炎上騒ぎで、各コメントがこぞって「道徳」などを振りかざしている時など、議論の仕方に「おや?」と思ったり、例えば「言葉の上では正しいことを言っているんだけど、その言葉を書く行為がそれを裏切っている気がするぞ」って時に問題の所在がすっきりしたりします。



上記のように理解した「機会主義」にありがちなことを、思いつくまま羅列すると


・自分が優位に立つように(←ここが重要)優劣を付けることが目的であるため、手段は問わない。
・但し、相手の《卑怯さ》は、どちらつかずのグレーゾーンであったとしても徹底して批判する。そのため、非常に便宜的な形で「道徳」などが召喚されることが多い。
・優位に立つ、と判定するのは、世間や俗情に委ねる。そのため、イメージが重要。
・ちなみに、コメント欄や掲示板の議論は、一番最後にレスをすればイメージ的に優位に立ちやすいと思っているので、必ず自分で終わらせようとする(小学校の頃、喧嘩していると「仲直りしようぜ、これが最後の一発」と言い合いながら殴りあう男子がいた)。
・イメージが大事であるがゆえに、自分サイドには「熱弁した」、相手サイドには「目くじらをたてた」などなどと、修飾の仕方を露骨に変える。修飾の言葉を全部取ると、実はただの感想や悪口。
・自分サイド(味方認定された者)のミスは寛大に目をつぶる。
・自らの矛盾は問わない。というか見えない。
・細部を針小棒大に拡張し、相手を最低水準に設定する。「差別肯定」「ファシスト」「軍国主義」「共産主義」などの言葉が、レッテルとしてのみ使われる。
・一度言質をとったら、絶対手放さない。
・相手の認識レベルを最低限に留める。相手を、極論しか述べていない者として議論する。
・相手が自分よりバランスが悪いことを喧伝した上で、自分が仲介役を買うためにあえて批判する、という体裁をとる。即ち、先制反撃(preemptive counter strike)を好む。
俗流なんちゃって精神分析を使って、相手の性格を非難する。「フェミニストは家族愛に恵まれなかった可愛そうな人がなる」「男尊女卑厨は、モテない恨みから《女はこうあるべきだ》と考える」などなど、相手を憐憫の対象にし、あくまで自分はメタに分析、という手法を好む。
・「ちゃぶ台返し」「ほこりをすっ…そしてネチネチ」は、自分がやる場合は正義。印象操作も同様。
・それでも「真の平等」や「真の友好」を謳う。
・etc…

他にも色々ありそうですが、羅列ばかりしているとそれ自体が目的となったり、これがまた新たな揚げ足取り合戦にのみ使われたりと、久米田康治のようだったりと、他の問題が出てくるので、この辺にしておきます。また、これが当てはまると機会主義、というものではないです。イメージ操作やコンテクスト操作が政治手段であり目的となっているので、特に右派左派のつなひきの時などに顕著ですね。どちらであろうと、問題であると思います。



「ised@glocom」での、東浩紀さんの発言で、「規範意識や信頼が存在しても、むしろそれが複数化しているために炎上が起きている。炎上は、動物的な脊髄反射とコンテクストの争いが交差するところ、僕の言葉で言えば、ベタとメタが交差するところに起きている」とありましたが、機会主義について考察する際にも重要な言葉だと思います。炎上の際のレトリックって、小学校の頃に味わった学級会的いじめを思い出します。手続きや形式は一見民主主義的なんだけど、目的や結果が全然民主主義的でないというアレ(汗)。



ところで、何故今日このエントリーを書きたくなったのかといえば、今日が「北田×林論争リンク集。」を作ってから丁度一年がたった8月15日だからです。その間、「連続チャット大会」を開催したり、ネットでの「炎上騒ぎ」その他をみながら、ネットで議論することについて多くを考えさせれました。基本的に、chikiは大西巨人さんのこの言葉に共感しながら、論理的整合性と、倫理的な視点を出来る限り保持するよう努力(だけは)しています。機会主義的な議論は、どのように論理的に振舞っていても、感情表出が先行しているので綻びが出ます。倫理的でないことは、言うまでもなく、許されざる狡知であり、俗情との結託であるため、自戒を込めて批判したいと思います。



ただ、「機会主義」って、音で聴くと「機械主義」と混同するし、言葉からではイマイチ内容がつかめず、一般の人と共有が出来ない。かといって同じく「opportunism」の訳として用いられることの多い「日和見主義」「ご都合主義」では、ちょっとコノテーションやニュアンスが異なるんですよね。何か、もっとよい、分かりやすい呼び方はないものか。



最近のはてな用語に合わせれば「反-モヒカン主義」ということになるのかもしれないけれど、ローカルネタすぎる(参考:モヒカン宣言)。また、「他者を手段としてのみならず目的として見よ」を《倫理》の根底に捉えたうえで、「他者を目的のための(反)手段としてのみ捉えよ」とする反倫理主義、というのもどうも語呂が悪い。



単に《ガキ》と呼べばいい、という意見もありそうだけど、大の大人が、しかも「道徳」とか「歴史」とか「国家」の大事さをけんめーにとなえている学者とか政治家とかが当てはまるのでそうもいかない。「イメージ操作厨」とかも、ちょっとネット用語すぎるし。「後だし族」とかは、むしろ「メタ厨」のことになっちゃうし。だめんたりてぃとか呼んでみたものの、コレ自体が揚げ足取りゲームを加速させそうだったのでやめました。



というわけで、何か、よい呼び名はないものか、考えたりしています。何かヒントありません?