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『電波男』を読んだよ。
本田透著『電波男』というサブカル系ギャグエッセイを読みました。ネットジャーゴンを多用した文章ならではのテンポのよさや、おたく・引きこもり・ニート・負け犬・オニババなどのテーマのビビットさから、すらすら読むことができ、なかなか楽しめる一冊でした。ただし、前者の長所ゆえ、ローカルルールを共有していない人は読みづらく、後者の長所ゆえ、数年後には読むためのコードを共有している人が確実に減っていることから、共時的にも通時的にも読者を選ぶ一冊であることには間違いないでしょう。



この本を読む楽しみは、Ⅰ.ほとんどの言葉を理解できた、ということを確認する楽しみと、Ⅱ.過剰なルサンチマンの暴走ぶりへの共感と享受という楽しみ(含、なんて不憫な…と憐憫のまなざしをむけつつ、自分は遥かにマシなんだとほっと胸を撫で下ろす楽しみ)の2つにほとんど支えられていると言えます*1。Ⅰ、Ⅱを合わせて一言で言えば、「そうそう(笑)」あるいは「そうそう(滝涙)」とか言いながらローカル言説の確認と感性の確認をするのが楽しい一冊。chikiも、使われている用語をほとんど全て注釈なしで読める自分に複雑な感情を抱きました*2



ところで、「そうそう」という楽しみ方をすることからも明らかになることですが、「オタクによるオタクの勝利宣言書」と自らを規定することからはじめるこの本は、マルクスという学者の『共産党宣言』『資本論』を引き合いに出しながらも、著者が叫ぶような「革命」の書というよりは、むしろオタクによる保守宣言の書として位置付けられます。



同書がオタクの保守宣言=現状肯定の書たる所以は、いくつかの理由がありますが、簡単にその理由を指摘すると、「アナログ恋愛」に対する「デジタル恋愛」の優位性、あるいは「デジタル恋愛」に対する「アナログ恋愛」の劣位性を叫び*3、オタクをある種のニュータイプとして、オタクこそあるべき形として疎外論的に自らを肯定するためです。オタクは自己変革する必要は特にない、と。つまり『電波男』は、オタクに「この世がまちがっていて、君たちはそのまあんまでいいんだよ」と言ってくれるという慰撫の書であり、癒しの書。だって、オタクはすでに「勝利」している、と位置付けることから始まっているのですから。あらゆる意味でマルクス的ではない(笑)。ニューレフトのように、疎外論批判*4とかしないしね。



例えば編集者の竹熊健太郎さんは、同書をある意味「改革(革命)」の書として位置づけてたうえで、図式の不完全性やその他(通俗マルクス批判のように、人は観念のみで耐えられるものではない、という種の?)を指摘しているようにも見えます*5。しかし、癒しの書たる同書は「世界平和」のための書物ではなく、オタクの「脳内」の平穏を確保するためのものなので、ある意味一貫しているといえます。



もちろん同書の図式は「風が吹けば桶屋が儲かる」という種のギャグであって、現状分析としての正確さを狙うものではなく、むしろキモメンのルサンチマンから見た世界観の「歪み」を楽しむものなので、例えばその図式が単線的であることや、まったく「経済」的ではないこと*6を大マジメに指摘して論じるものではないでしょう*7。最初に読者が限定されていることを指摘しましたが、あらゆる意味で「現状の快楽」のみを対象とした一冊として楽しめばいいと思います。ネタとして。



「『電車男』にさえも疎外された君たちへ(’A`) 」というキャッチコピーが似合いそうな同書の狙いはそこ(癒しネタ)にあるのですが、それは全然アリで、その快楽追求の姿勢がとても面白く共感を持てましたし、ぶっちゃけ癒されもしました。しかし、その保守宣言=現状肯定の書である『電波男』が、なぜオタクバッシングを批判しつつ「電車男」を批判し、負け犬女を「萌えないゴミ!」と罵倒し、フェミニストを目の敵にし、「オニババ化する女たち」というクズ本に共感したりするのでしょうか。差別的に振舞われたことに傷ついたにもかかわらず、なぜ新たに差別的に振舞おうとするのでしょか。以下にその理由を考えていきます。



まず面白かったのは、その著者の保守的な感性です(これも「保守宣言の書」たる所以ですが)。同書には、アナログ恋愛/デジタル恋愛と差異化したうえでデジタル恋愛の優位を叫ぶという、一見すると「反主流」、アナーキーな立場を取っているようにも見えますが、その実は大変に保守的な著者の感性が見てとれます。背表紙を見ればわかるように、ギャルゲーのキャラを「家族」とみたて(「家族とともに」!)、キャラと結婚をしたがることや、デジタル恋愛の数少ない弱点として「部屋のゴミを捨ててくれない」「飯を作ってくれない」(あとは「おっぱい」)などを列挙することからも明らかなように家事を求め、さらには純愛(処女!)を求める。



また、著者がそれらを求める理由として、あとがきにおいて、家族によって傷ついたがために完璧な家族を求めるというAC的な自己分析を行っています。それが同書に「この世がまちがっていて、君たちはそのまあんまでいいんだよ」というメッセージを含ませつつ、「君たちはそのまあんまでいいのに、この世(環境要因)がまちがっているね」というメッセージを持たせている。



タイトルからも明らかなように、電車男」に対するアンチとして位置付けるこの本は、『電車男』によって(特に「電車男」映画バージョンの、主人公のイケメンっぷりによって:汗)はっきりと意識させられることになった<オタク内恋愛格差>*8に対する反動*9として書かれています。『電波男』の分析に沿えば『電車男』は、エルメスのために電車男脱ヲタし、お洒落という恋愛ゲームに参加する、という見立てになるわけですが(事実、その趣旨によってディレクターズカットされている)、あくまで市場競争に耐えうるようなイケメンオタク、恋愛ゲームだろうと美少女ゲームであろうと両立できるタイプの両刀ヲタは恋愛ゲームに駆り出され、そうでないキモヲタは決定的に排除・断念させられる、という「現実」への反動として書かれている。つまり、恋愛格差に傷ついてオタクになったのに、オタク内にもその競争原理を持ち込んだ(かのように見える)『電車男』に怒っているというわけです*10



同書は、『電車男』を読んで「俺たちにも女神が光臨するかもしれない」という癒しを得られず、むしろ「やっぱり自分には女神は光臨しないかもしれない」という不安を抱くことで、反動としてギャルゲーへの愛を叫ぶ、という図式になっています。そのギャルゲーへの愛が、逆に共同体的なものを呼び起こすというのは、徹底的に共同体(この場合は恋愛資本主義≒家父長制度)から排除されたがゆえに、逆にそのものを希求するようになるということでしょうか。



オタクだろうとテニスだろうとバンドだろうとバイクだろうとなんだろうと全てワンオブゼムの趣味で、個人的強度以外は代補可能、とするのであれば「革命」的だなぁ、と思ったりしましたが、「あれもこれもワンオブゼム(オタクで何が悪い!?)」として位置付けるのではなく、あくまで優位性「オタクこそすばらしい(あるいはオンリーワン)」を叫ぶのは――そういう主張を声高に叫ぶ必要は認めつつも――ちょっと残念な気もします*11。でも、そこを楽しむ一冊なんですよね、これは。良くも悪くも「あるある」の本ですから。でも、確かにオタクを無視してきたフェミ、という問題はありそう。正面から論じているのは小谷真理さんくらいでしょか。




さて、ここまでご紹介してきた『電波男』ですが、オタク精神について考察するにはとっても良い一冊だと思います。前書き部分に相当する文章はネットで読めますし、PDFファイルでためし読みもできます。著者のサイト「しろはた」も合わせて、なんだかんだ言っても面白いと思うので、皆さんもチェックしてみてください。





*1:chikiはそのように楽しみました、という程度かもしれません。

*2:え、選ばれた読者!?

*3:この指摘の部分がとても面白いんですよ、ほんと。

*4:「あるべき形」がこの世にはある、という考え方こそが差別などの問題を生むんだよ、という指摘。

*5:「本田透君が心配だ(1)」「本田透君が心配だ(2)」「[電波女]男は宇宙のカス」をそれぞれ参照。

*6:例えば、資本のフローの最下層にいるブサメンをヲタないしデジタル恋愛に誘うとして、親の経済的支援があるからオタクを続けられる人が多くいる、という経済的視点がなかった。ルサンチマンから「歪めて」見るのが売りだとしても、この黙説は気になりました。無論、そのことを強く意識しているからこそ、「完璧な家族」を求めるのかもしれない。

*7:ちなみに「歪み」と書きましたが、それは「イケメンに比べて世界観が歪んでいる」等の、否定的、差別的な意味づけを目論んだ修飾ではなく、スパイスの効いたテーマ批評としての面白さを表す言葉として利用するものであることを補足しておきます。

*8:今作った言葉です。

*9:あるいは「バックラッシュ」。

*10:もちろんこの<オタク内恋愛格差>は、『電車男』ブームが作り出したわけではなく、オタク内にさえもともとあった差異をまざまざと見せ付けられたに過ぎません。

*11:オタクが「アキバ系彼女」の新堂二貴太のように「真のオタク」等の純血主義的な語りをすることともしばしばあるのも関係するかもしれませんが、それはまた今度。