「香田証生、イラク、人質事件」キーワードめぐり

「イラク日本人人質事件 」
「イラクで日本人拉致 福岡県の香田さん自衛隊撤退を要求」
昼は毎日出かけているので、帰宅してから事件を知り、キーワードをめぐったり、ネット上の議論をいくつか見てみました。「<前回>はジャーナリストだったから使命もあったし許せるけど、<今回>は危機感のない観光目的の馬鹿だから自己責任(自業自得)」という意見が多いです。逆に「自衛隊撤退させて不足している新潟に派遣しよう」という意見もなぜか多いように見えました。前者の意見の方も新潟には同情を示している方が多く、中にはマスコミ(マスゴミ)に対して義憤(偽墳?)を燃やしている方もいたりします(被災者の気持ちになってみろ! という意見)。あるいは「日本は地震で大変だから、構ってられんよ」との意見も。非常に多くの人が新潟地震と結びつけて語っているのですが、それとこれとは別問題でしょう(汗)。



加えて結構多かったのが、「地震、救助、イラク…みたい番組がつぶれるじゃんよぅ」というもの。番組を流す/流さないの是非はともかく、そこまで自分の日常に固執したいのか、とのけぞりました。「自己の日常への固執」ということから考えてみると、地震の場合は、天変地異という人智を越えた(?)問題を前にすれば無前提に同情できるし、「かわいそう」と言っていれば現状肯定できてしまうのですが、イラクの場合は人智による人と人との交渉ごとでもあって、理性と倫理のまなざしなどを向けなくてはならない問題。それをあっけなく放棄するのは、やはり面倒だから、そして現状肯定できないから、という点が大きい気がします。そのため新潟(同情できる)>イラク(むしろ嫌悪)、という線引きを、自己の正当化の論理として使っているように思えるのです。



chikiの意見。香田証生さんが「死んでもいい」とは決して思いません。自分で(望んで)行ったからといって(それが「軽薄」なものだとしても、「同情」出来なかったとしても)、ほうっておいてよいわけがい。彼は救いを求めているのであって、「死を望んでいる」のではない(自分で死にたがっていればほうっておく、というわけでもありませんが)。chikiは政治問題にはまるで無知ですし、また、自分がこの事件を前に何もできないことを知っています。また、たとえば新潟なら「募金」もすぐできますし、そのことで「善意を表明すること」は容易いのでしょうが(誤解なきように言っておきますが――募金をめぐる「偽善」論争というのがあるようなのですが――chikiは募金を「偽善」と言うことはしません)、この事件は(グローバル社会だとか言われても)「一般人」に出来ることはほとんどないでしょうし、何をもって善、または良案と言えるのか問い辛い、非常に解決困難な問題だと思います。さらにぶっちゃけて言うと、状況もほとんど絶望的であるとすら思っています。



それでも、「自分とは無縁である」という留保点を探し出して想像力を遮断してしまうこと、あるいは何も感じず「へぇー」程度で済ませたりするのは大変な問題だと思うのです(結局番組は中止せず、「トリビアの泉」も放映されていた模様)。「ま た イ ラ ク か」というコメントも(2ちゃんねるではなく、はてなに)かなり多く見られたのですが、当人にとっては反復でもなんでもない、一回性の途方もない事件であるものを、「またか」の一言を添えて済ませるのも同様に思います。



このような懸念を表明すると、「<想像力への意思>を唱えるだけのあまりにも凡庸な意見ではないか」であるとか、「<命は大事>という発言は思考停止だ」という批判もあるかもしれません。確かに、ある社会システムの枠組みや論理的枠組みのなかでは(例えば、「リアルポリティクス」を掲げた損得勘定、例えば予めプライオリティ(優先順位)を確保しておく議論においては)「前進」のできない「思考停止」ともとれるかもしれませんし、確かに凡庸な言葉であるとも思います。ただ、(他)人の死が、政治的な問題や論理の前に無効になるとは思えませんし、そのことを想像する力を放棄することは出来ない。また、多くのコメントなどは、むしろ先に指摘したような俗情的な反発が先にあり、論理以前の反感の表出でしかなく、その表出が凡庸な差別構造を作り出しているのであれば、この凡庸な言葉、懸念の表明に意義がないとは思いません。




出来れば皆様のご意見も伺えたら、幸いに思います。(後日、リンク集などを作成するかもしれません)