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岩井俊二について思うこと(ネタばれ注意!)
先日、遅ればせながら岩井俊二『Love Letter』を観ました。chikiはこの映画を観て、岩井映画に抱いていた気持ちが少し明らかになった気がしたので書いてみます。ちなみにchiki、同映画には「泣ける」という前評判があったのですが、いわゆる泣かせのシーンと思われるところで爆笑してしまい、「あれ、泣けない…」と首をかしげております。数年前に恋人が死んだ雪山に向かって中山美穂が「お元気ですかー」と叫ぶシーンで、「いや、死んでるから」と突っ込んでしまい、爆笑。泣くどころではなかった(汗)。ただ、ここまで内面にこだわってていいのかなぁ、という印象を受けました。




同作品のストーリーは次のようなものです。婚約者を亡くした渡辺博子(中山美穂)は、忘れられない恋人への気持ちを忘れられず、彼が昔住んでいた小樽へと手紙を出した。すると、来るはずのない返事が返って来る。実はそれは、恋人と同姓同名で中学時代、彼と同級生だった女性、藤井樹(中山美穂一人二役)からの手紙だった。渡辺は藤井から、自分の恋人の昔話を手紙で伝えてもらい、藤井も、自分と同姓同名の男子と過ごした日々を思い出していく。そして…云々。




この渡辺さんという女性は、死んだ恋人に手紙を書いたり、文通なのにたった3行しか手紙に書かなかったり、そんな手紙とともにカメラを送りつけて思い出の場所の写真を撮るよう依頼したり、文通相手の家まで押しかけ玄関先で書いた手紙を投函したり、恋人が遭難した雪山に向かって泣きながら「お元気ですかー」と叫んだりする人です。例えばchikiの日常生活にそういう人がやってきたら実に迷惑だと思う。そして2ちゃんねるとかに「こういう人がいてさ」という話をすると見事に「電波キタ─wwヘ√レvv〜(゜∀゜)─wwヘ√レvv〜─ !!」という称号を得てしまいそうな、そんな人です(おい)。




とういわけで、リアリズムとして観たらとんでもないことになるような気もする岩井作品ですが、一連の作品には、『PicNic』の精神病(?)患者、『打ち上げ花火〜』の小学生、『四月物語』の野暮ったいダメ学生、『リリイ・シュシュのすべて』の中学生、『スワロウテイル』のスラム住民、『Love Letter』の電波女(仮)など、言語化能力に長けているわけでは決してない人物たちを主人公に選択し、「とにかくすごそうなもの」に出会ったり、「とにかくもどかしい状態」に遭遇したりする、という状況を作り出すことにこだわっているようです。わざわざそういう舌足らずな主人公たちを選択するのも、より「なんとなくすごい感」を強調させることができるからで、そのことが、いわゆる「淡い感じ」や「子供の頃に味わったあの感じ」を表すことに成功している所以でしょうか。




演出レベルでも、ここぞという時に逆光や火、電球など、妙に綺麗な「光」を使ったり、効果的に音楽を使ったりと、ミュージッククリップ作品出身の方だけあって、「なんか印象に残る一瞬の映像」を撮る(カット数もやたらに多い)。そのような特質を持つと思われる岩井作品は、多くの人(特に若者、らしい)の支持を受けているみたいです。



例えば宮台真司さんは、(表現から表出へ、意味から強度へ、という枠組みから)そこがいいのだと評価するような文章をいくつか書いています。また、浅田彰さんも、『リリィ・シュシュのすべて』に対して「何はともあれ現代と向かい合おうとして」おり(「『GO』の古臭さ」)、「その映像はすべて、男子中学生たちがホーム・ヴィデオで撮った西表島の映像の延長」ではあるけれど、「数々の欠点にもかかわらず、いや、おそらくそれゆえに、「リリイ・シュシュのすべて」は現在の14歳の世界を痛々しいほどリアルに描いた映画」であると評しています(「リリィ・シュシュのすべて」)。これらの評価を含めて考えると、おそらく岩井作品は、どんなに稚拙だと思われてつまらなそうなものでも、本人が「すごい」と思ってこだわってしまう「感覚」を描くことに成功している、ということになると思います。つまり、稚拙な崇高性の持つ牽引力を描けている、と。




そのような、稚拙な崇高性の持つ牽引力に対して、chikiも共感めいたものを抱かないわけではないんですが、それ以上に、そのようにとことん内面世界や自意識ににこだわり続けるのは果たしてどうなんだろう、という戸惑いがあります。『Love Letter』を観てから岩井作品を考え直してみると、それぞれの作品で惹かれていく、稚拙だからこそ感じる崇高性というのは、『Love Letter』のように、ノスタルジーと同質のものであると思いました(『Love Letter』では手紙のやりとりはしているけど、互いに自分の過去や内面に目を向けているのみですし)。



これは、村上春樹やJ文学にも感じるし、ギャルゲーやその「批評」と呼ばれるもの多くにも感じます。chikiは、当然のことながら内面性の肯定というのは絶対に必要なことだと思うし、例えばその点で恋愛の存在は非常に多くの人の心に承認を与えることに成功しているとも思います。サブカルのいくつかも、解消されない内面性を無毒な方向に向けてくれつつ、そのような内面性を肯定してくれたりもする。ノスタルジーも非常に大事な感情だと思います。その意味で、癒しの商品としては必要なのだと思う。




一方で、歴史性とか政治性とかとは別のところで評価軸を設ける必要があって、これが「成熟社会」の癒し商品であり、または動物化した社会の暇つぶしなんだとしたら…つまり心に余裕のある人や、ある種の金持ちの道楽的に楽しめるものなら、chikiのような貧民(!)には楽しめない部分もあるということで(汗)。chikiのことは冗談ですが、ノスタルジーや「共感」の連鎖だけでいけると思ったらまずいと思います。




例えば内容レベルでは、岩井作品にはそれぞれ「死」とか「光」とか、文学的な雰囲気のする「本」とか「音」に強烈に惹かれるシーンが必ず描かれる。『ARITA』のような一見趣旨の異なるように見える作品も、「意味不明なもの」、しかも何かを象徴しているわけでもない謎なものに強烈に惹かれている少女を描いている。で、ネットで検索すると「意味不明なもの」に取り付かれて共感しあっているコミュニティがある、と。『ARITA』は、その「惹かれる感じ」にだけこだわった作品です。ただ、惹かれた感覚だけを頼りにしてしまうと、人とのコミュニェーションを、共感できるか否かの問題にしてしまう。それだと共感できないけど付き合わないといけない相手とか問題とかが無視されちゃいそうで、その点にひっかかっていたんだな、と思ったりしました。







ちなみに、知人が韓国人のバックパッカーと何人か会ったとき、みんな岩井俊二を知っていて、とても好きだと言っていたそうです。思えば『冬のソナタ』も淡かったなぁ、岩井俊二ヨン様を主人公に撮ったら恐ろしいことになりそうだな、とぼんやり考えながら就寝。おやすみなさい。








付記。はてなキーワードの『Love Letter』をみて、納得。韓国で大ヒットしたんですね。
付記2。死んだ恋人は、初恋の女性に似ているからという理由で主人公に惚れたわけで…。






【関連】
「花とアリス」
「リリイ・シュシュ」