本日のメインディッシュ

大西巨人さんとすが秀実さんの対談に行ってきたよ
普段は30名くらいの講座なのに、今日は立ち見が出る勢いで人が溢れかえっていました。さすがのすがさんも、緊張気味のご様子。『文學界』2004年6月号に入っている斎藤環氏の「外傷性の倫理」というテキストを参照にしながら、すがさんがインタビュアーとして大西さんに話を伺うというものでした。




主な論点はいくつかに絞れますが、主眼となった点をまず述べます。まず、かつてベストセラーであった野間宏の『真空地帯』を批判する際、大西氏は「俗情との結託」という言葉を用いて批判なされました。野間氏は軍隊を「真空地帯」と呼んだけれども、軍隊は「真空地帯」などではなく階級社会であり、それを見ずに軍隊の特殊性という問題に回収するのは「一見もっともにみえる見方」に便乗しているだけではないか、「俗情との許されぬ結託」なのではないかということです。そして、実はこの批判が現在でもアクチュアルな問題ではないか、例えば最近の文化研究(カルチュラル・スタディーズ)では、野間氏のこの小説(の主人公の通俗性)を、サブカルチャーの文脈で再評価する動きがあるようですが、しかしそれは大西氏の批判を無視しなければ成り立たないのではないか、しかも大西氏の方がサブカルには通じており、野間氏のそれは触れているかのように振舞っているだけではないかということです。もちろん、「俗情との結託」という批判派、アカデミックな場所に限らない普遍的な問題として話し合われていたように思います。




その他にも、何故大西氏は「鏡山」という地名にこだわるのか、一般に言われている東と西の「鏡像的」な関係を表すとすれば、そこにどのようなものが読みとれるのか、という問題(事実として、鏡山市と宝満市を入れ替えて書いたということ、「虹の松原」を「霧の松原」に置き換えたことを大西氏はお認めになりました)。一見ありえなさそうな物語即ち「反‐リアル」な物語を選択する上でどこにリアルなものを見出していくかという問題(それが腕の見せ所です、と)。石原慎太郎太陽の季節』を批判した際の批判「鶏のように」と、『深淵』におけるペットでないけだもの(「en-taxi vol.5参照」)の差異の問題(大西さんは、昔鶏を飼っており、その鶏の節操のない乱れ振りを思い出しながら書いたとか:苦笑)。そして、『深淵』からは離れますが、クィアと生産の関係性をどのように捉えるべきか、という問題(『週刊読書人』での鎌田哲哉さんのインタビューに対する返答について、訂正するつもりは全然ないとお答えになりました)が論じられました。




大西赤人さん、渡部直己先生、二松学舎大学文学部教員で、HOWSでも教鞭を取っていらっしゃる山口直孝先生(ご挨拶が出来て光栄でした)もいらしており、大変盛り上がっていました。また、大西さんが「批評は、作者が思いもよらなかったことを知覚せしめるのが本領」という言葉を冗談交じりに使っていましたが、chikiは実はかなり気に入っています。いい言葉だなぁ。




ところで、chikiが『深淵』を読んでいて個人的に気になったのが、「山」という漢字の入っている地名、人名が(特に「西」「深」「中」などの「位置性」と関わる漢字と共に?)かなり多く登場したということです。ざっといくつか挙げてみると、「大宮市の被差別部落田」「西海地方の鏡」「函館市在住の中堅小説家中明次」「釧路市西方郊外米町」「秀堂書店」「学藝四季社発行月刊綜合雑誌『脈』」「看護婦窪深雪」「新潟県刈羽郡西町」「西精神神経科医西教授」「秋」「秋信馬」「カフカ作『城』、Kの城村行き」「飲食店、海」「将棋をさした本和成君」「同人雑誌『火帯』」などなどなど…。一方で多くの資料を過剰なほどに引用しつつ、一方でひとつの「記号」的なものを過剰に盛り込んでいくことが同小説、ひいては大西氏のスタイルにどのように絡んでいくのかを、「鏡像」や「リアル/反リアル」の問題と共に今後(大西研究をしている親友と共に)考えていければいいなぁ、と思いました。実は『神聖喜劇』をまだ読んでいないchikiですが、今年中に必ず読むことをこれを機に誓います。




というわけで、とても刺激的な体験となりました。『深淵』をまだご覧になっていない方は、こちらで見られますので、是非! 読んでください!











ちなみに、大西さんの自宅まですがさんと一緒にお迎えに行かせていただいた親友が、「何も聞けなかった…挨拶すら出来なかった…」と凹んでいます。が…がんがれ(ノД`)。負け犬同士、類は友を呼ぶのだなぁ_| ̄|○