本日のメインディッシュ

第一回:「螺旋型右傾」と名づけてみますた
5月13日の戯言で述べたように、chikiが括弧つきで「右傾化」としたものの内実を明らかにするため、様々な立ち位置から焦点を当てて考察、議論するため、実験的に「連載」をしてみようと思い立ちました。フェミニズムポストコロニアル領域におけるマイノリティ運動、ポストモダニズムの思想闘争の諸形式が、社会学研究、文学研究の場に限らず、政治、法律などの諸領域においてなかなか理解されず、むしろバッシングやバックラッシュが顕在化しているのは何故なのか。かつて市民運動や労働者運動があまり盛り上がらない理由として、吉本隆明が「大衆の原像」(保守的で快楽主義的で、自らの生活圏から出ない、というもの)という概念を提示しましたが、そのような原像を個々人が(今なお?)内面化しているからなのでしょうか。どうもそれだけでは説明できなさそうです。



まず最初に明らかにしておきたいのは、chikiが便宜的に「右傾化」と呼んだ現象は、単に「戦前」への「復古」や「逆行」、及び単線的な「より戻し」を意味しているのではないということです。先のイラク人質事件を巡る「自己責任」論やwinny製作者47氏逮捕の経緯、ジェンダー(フリー)バッシング、「国民保護法」、「教科書問題」や自由史観主義、はたまた東京都がバックアップしているという「おやじ日本(参照)」など(他にもいくらでも挙げられますが、省略)をみると、一見「あのすばらしい日本をもう一度」と捏造されたノスタルジーに浸りながら「アイデンティティ」を保とうとする、「右派」のステレオタイププロパガンダ、とも取れるのですが、話はそう単純ではない。むしろこれらの潮流は、螺旋状に位相をかえながら「現代」に合うようにバージョンアップした「右傾」へと向かいつつあります。というわけで、(ダサいと思うけど)この連載では便宜的に「螺旋型右傾」とでも名づけておきます。「右傾化スパイラル」にしようかと思いましたが、どっちもどっちですね、はい(笑)。



では、どのようにバージョンアップし、どのように位相を変えつつあるのか。そのひとつとして、例えば哲学の領域では、フーコーからドゥルーズネグリ&ハートに受け継がれ、日本でも東浩紀さんという哲学者(評論家?)が現在積極的に進めている議論のなかに「規律型権力から監視型権力へ」というものがあります。日本で話題になっている「住基ネット」、河合隼雄「こころのノート」、「テロの管理」の3つを例に挙げてみますと、それぞれ「情報」「精神」「身体」の管理に相当します。もちろん、これらは情報化された現代においてはアプローチが違うだけで、どれもが広義の「情報」であることに変わりはありません。東浩紀さんが特に「情報管理型権力」と呼んでいた理由も、このあたりにあるのでしょう。但し、ここで便宜的に3つに分けたのは、現代においては実に様々な角度から権力の「監視型」化が進んでいることを説明したかったからです。教師が学生の「こころ」を監視し、国が国民の「情報」と「身体」(=死や健康)を管理し…。煩雑な作業になるので枚挙は割愛しますが、このような例はいくらでもあります。中山元が「俺はSuikaを使わないゾ!」と叫んでいるのも、位相を変えつつある「権力」に対し(単なる「反体制」ではなく)異を唱えるためでしょう(多分)。



管理型権力に関してもう少し踏み込んでみます。朝日新聞は2003年6月第3週(6月16日〜6月21日)に「セキュリティ」の特集を行いました。特集で取り扱ったのは、防犯カメラだけでなくe−チェックイン(電子の顔パス)、スーパー防犯灯、個人情報やネットワークの問題などで、その特集は明らかに『帝国』や東浩紀大澤真幸自由を考える』を意識してのものでした。近年、このような特集を組んでいるメディアは少なくありません。瑣末なところでは、世界を(単に日本のワイドショーを?)騒がした、有名なサッカー選手の妻子が誘拐の危機に瀕した事件の際、そのサッカー選手が子供の体にGPS対応チップを埋め込むか否かを検討していたという話、またはペットにチップ埋め込みが義務化するという流れも決して無縁ではありません。



具体例をひとつ挙げます。「株式会社エックス・キューブ」NTTグループと共同開発したロッカー「クロスキューブ」というものがあります。「クロスキューブ」は「携帯電話番号によるID認証を鍵として利用するという世界初のシステムを導入した、次世代型のモバイルロッカーシステム」 で、キーの変わりに携帯電話やPHSの番号通知機能が鍵になるもの。利用者はロッカーに電話をかけて施錠、開錠を行います。「鍵」をなくす心配のないロッカー、それが今、新宿駅をはじめとしてJRや私鉄の駅に進出しているようです。セキュリティの問題はテクノロジーの進化だけでなく、社会の要請を絡めて考えていく必要があります。この新型ロッカーの登場は、「単に鍵をなくさないですむから便利だね」という理由で作られた物ではありません。携帯番号を鍵とすることで、利用者の身元が把握でき、不審物や違法物の受け渡し、新生児の置き去り(コインロッカー・ベイビー!)などを防止するためなのです。かつてならば道徳・教育などの規律訓練がその役目を担い、モラルの問題として語られのですが、現在では情報管理と生政治の問題であり、セキュリティの問題とはこのような現状を意味します(この発明にいちゃもんをつけるつもりは一切なく、すばらしい技術だと思います)。



ところで、イラク人質事件の時に「家族の責任」が問われましたが、少年犯罪が報道される時と違い「教育」があまり問題にされなかったのが特徴的です。話題となった「新潮」の記事でも、教育について触れるというよりは、ゴシップ記事にありがちなラベリングもどき(共産一家じゃあしょうがないよね〜、昔大麻をやっているような奴ならしょうがないよね〜、…というような)でしかありませんでした。そのかわり、「家族」をめぐる議論は「何故止めなかったのか」というレベルで進められていたように思います。これは、言い換えれば「何故3人(5人)の渡航や入国を「管理」できなかったのか」ということになるでしょう。人質事件が「解決」の兆しを見せたとき、「渡航禁止令」が本格的に検討されてもおかしくないような雰囲気(だけでなく多くの発言)がありましたが、このような雰囲気が「国の足手まといにならないでほしい」という意見と全く同口から発せられたことを忘れてはいけません。



5月2日の戯言で、朝日新聞が羽田事件(リンク切れなので、新たにリンク)をきっかけに「国はもっと監視しる!」と鮮やかに「転向」したことを取り上げましたが、出来るはずもない「テロの管理」の号令の元、「管理型権力」を強化していることに注意しなくてはなりません。これが位相を変えた「螺旋型右傾」(やっぱりダサい)の兆候のひとつとして指摘できます。もちろん、「管理型社会」に向うのにはある種の時代的必然性のようなものがあるので、「権力反対」を短絡的に叫ぶつもりは一切ありません。どのような社会構築を行っているのかについて自覚的でないといけないよなぁ、という思いと、現状はちょっとまずいよなぁ、という懸念です。



この問題に絡めて、流行語大賞にノミネートせんばかりに流布した「自己責任」という言葉をとっかかりに考えてみましょう。「自己責任」という言葉の背景には二つの文脈が潜んでいます。「自分の選択の結果は自分で補う」という建前のもと、差別を隠蔽することが一点目。「お国のため」に反することはすべからくして「自己責任」であると恣意的に使われるという点が二点目です。



一点目は、例えばホームレスが貧しいのは働かないことからくる自己責任、女性が就職できないのは能力がないことからくる自己責任などというように使われる際、社会背景に潜んでいる「階層」の問題、差別の問題を隠蔽することになります。今、日本には「雇用機会均等法」というアホな法律があります。この法律がアホなところは、雇用の「機会」さえ均等であるかのように振舞っていればそれでよく、しかも罰則規定もなにもないので効用が全くないところにあります。そして、最もアホなのは、男女の格差を「均等にする」という名の下に、実は単に差別の隠蔽をしながら新たに複雑化した差別構造を作り出している点にあります。例えば、大学の実学主義に基づく「専門学校化」(すが秀実『大衆教育社会批判序説』参照)や「資格」ブームなどから(これはこれでいいことだとは思いますが)、「勉強しなかったやつが悪い」「スキルを磨かなかったやつが悪い」という風潮がそろそろ出てきだす頃だと思いますが、女性が就職できないのもそれと同様、「自己責任」で「男」より劣っているだから、と切り捨てられています。「機会の平等は与えたよ。でもね、女の方が出来が悪かったんだからネ!」という論理なのですが、これは完全な欺瞞です。性の階層化に基づく差別が完全に社会化されている点を無視しているからです。当然この問題は、女性差別の問題に限りません。これは二点目の、「国」(「一部」のマジョリティ)による「国民」(「多数」のマイノリティ)の排除にもつながります。「国民保護法」というこれまたアッパラパーな法案が通りかねないようですが、chikiが指摘するまでもなくこの法案は「国民」を「保護」するための法ではなく、体制強化のためでしかありません。



少し余談になりますが、男女雇用機会均等法が「画に描いたモチ」だということは、これまでの差別訴訟判決の結果を見れば分かります。均等法施行以降に勝った判決では、憲法民法労働基準法を法理として論理構築したものであり、均等法が法廷闘争の根拠として役に立っていないことが証明されてしまっています(上野千鶴子『ラディカルに語れば…』参照)。



閑話休題。このような現状を見る限り、「セキュリティ」(リスク管理)の問題は単に監視カメラなどの技術(アーキテクチャやメディア等)の問題でなく、法や雰囲気、新たなモラルのレベルでも問題となっていることが分かります(最近の東浩紀氏の執筆活動に関して「波状言論」以外のものをchikiは読んでいませんが、おそらくどこかで論じているのではないかと推察します)。



では、一体いつごろからこのような傾向は強まっていったのでしょうか。そのことを論じるため、次回は非常に簡単にではありますが、経済思想史に触れながら「リベラリズム→リバタニアニズム」の問題について考えてみたいと思います。しばらくは一般論が続くと思いますが、議論の準備のためと思ってご辛抱ください。





※ちなみに、連載は毎日続けるのではなく、少しずつ勉強しながら書き足していきたいと思います。不勉強なのと無知なのとで、色々不明な点、間違えなどがあると思いますが、コメント欄で皆様から参考URL、予備知識、具体例、語弊などの「注釈」を頂きながら進めていければいいな、と思っていますのでよろしくお願いします。



m(_ _)mペコリ