大学改革と監視社会 ――キャンパスでチラシを配ってたら牢屋に入れられた件について

2006年2月4日18時から、「早稲田大学ビラ撒き逮捕」をめぐるシンポジウム「大学改革と監視社会」が行われました。その模様をレポします。「署名を募集」しているようなので、読んで共感できる発言があったりしたらそちらもどうぞ。


シンポジウムの参加者は、パネリストとして、文芸評論家の絓秀実(すが秀実)さん、評論家の武井昭夫さん、憲法学者の笹沼弘志さん、社会学者の入江公康さん。発言者として、映画監督の井土紀州さん、文芸評論家の池田雄一さん、映画学研究者の木村建哉さん、ライターの松沢呉一さん、司会に音楽団体「太陽肛門スパパーン」主宰者の花咲政之輔さん。すがさんからのメールでシンポジウムを知り、chikiが学生時代に映画学を教わっていた木村さんも発言されるとのことで足を運ぶことにしました。



【開演前のエピソード】
会場入りする時、会場の前で叫びながら中に入ろうとする男性と、それを止めようとするスタッフ。男性は「入れろよ〜、民主主義だろ? 民主主義だろ? 押さないでくださーい」という趣旨のことを言っていました。後で説明を受けて、事件に関わっている安藤という教員だと判明。あー、こんな感じなのかぁ…と横目にみつつ会場入り。会場は50人程度の収容人数だったが、準備していた椅子が足らず、予備の椅子を出しても立ち見が出る状態でした。



【花咲さん、逮捕された青年による説明】
予定時刻より少し送れてシンポジウム開始。12月15日、青年がビラを撒いていた。ビラの内容は「2001年7月31日の早大キャンパス内サークル部室強制撤去以降行われている、早大当局による言論弾圧、集会破壊に抗議する行動を告知するためのもの」とのこと(下画像)。




手書きだ!




15日以前もビラを撒いていたが、たびたび安藤教員がビラ撒きを止めようとしていた。教員は「お前は立川の高裁判決を知ってるだろ。これがどういう意味か分かってるのか」という趣旨のことを繰り返し言っていたとのこと。対応に疲れた青年は、教員に「もう早く家に帰りなさいよ。待っている人もいるでしょ」と言ったとのこと。これが後で「問題」にされたとのこと。


20日、文学部のスロープ前でビラを撒いていたところ、追い出されたので門外で配っていた。しばらく経ち、授業の間に移動する学生に配布しようとしたところ、ビラを配る前にある教員に外に連れ出された。教員は外に出そうとしていたが、外に出ようとしたところで7、8人の教員が門のところで青年を拘束し、警察を呼ばれ逮捕されたとのこと。


この事件はいくつかの報道機関で報道され、その対応に対して公開質問状も提出された。それに対し、早稲田大学は「今回はビラ撒きで逮捕したのではなく、脅迫行為があったから逮捕した」と説明する文章を公開。PDFはこちらでも読めますが、以下に転載。


学生・教職員の皆さんへ
2005年12月15日の午後9時頃に、オレンジ色のマフラーを着用した不審者が、文学部の教員に対して脅迫を行ったことを知らせる掲示を、12月16日、文学部正門に立て、皆さんに注意を喚起しました。この不審者は、12月20日に、再び文学部構内に立ち入ってビラを配ろうとしたので、立ち退きを求めましたが、これに応じなかったため、警察に通報しました。なおこの件は、一部マスコミに報道されたほか、学内の教員から質問もありましたので、以下、誤解のないように、一連の経緯について説明します。
1)2005年12月以降、早稲田大学構内への立ち入り禁止の仮処分(2001年7月31日東京地方裁判所決定)を受けている者が文学部正門脇に立ち、それと共同して文学部構内でビラを配布する者が出没した。そこで、立ち入り禁止者の動向を注視していたところ、12月15日に、ビラを配布している者が、教員の一人に対し、その家族の安全に関することで脅迫を行った。
2)この事件について、文学学術院執行部で協議した結果、脅迫に関しては所轄警察署に通報し、文学部正門前の警備を要請した。当該教員のみならず、その家族の安全をも脅かす言動であり、放置できないと判断したからである。なおこの件は、12月20日の教授会において報告、了承されている。
3)12月20日の正午過ぎ、15日に脅迫を行った者が、文学部構内スロープ上に立て看板を置き、ビラを配布し始めた。学生証の提示を求めたが応じないため、構内からの立ち退きを求め、いったんは退去させた。しかし、再度構内に侵入し活動を始めた。そこで、繰り返し立ち退きを求めたが、応じなかったために、警察に通報した。
4)脅迫を行った者は、早稲田大学とは全く関係のない人物であることが判明した。もとより大学において、ルールに則り意見を表明することは自由です。しかし、上記のような不審者の行為に対しては、厳正に対処せざるをえません。学生・教職員の皆さんには、上記の事情をご理解願います。
以上
2006年1月10日
早稲田大学 第一文学部
第二文学部
文学研究科

教員の説明によると「もう早く家に帰りなさいよ。待っている人もいるでしょ」と言ったことが「家族の安全をも脅かす言動であり、放置できない」脅迫に当たるとのこと。これは脅迫と呼べるものではないし、あからさまな別件逮捕。さて、今回の事件をどう考えればいいか。




すが秀実さんの問題提起】
すでに「ポスト自治空間」をお配りしたので、そちらを読んで欲しい。この文章に異論がある人もいると思うが、自分は今回の事件で議論のステージが変わったように感じている。自分は7月31日の部室撤去の際も抗議に参加させてもらったし、それは井土紀州監督の映画『LEFT ALONE』の背景にもなっている。それは、今日の世界的な文脈に位置づけて考えられなければならない問題が含まれているように思う。以後、司会に回る。



武井昭夫さんの問題提起】
今回の問題は、報道の範囲や知人に聞いた範囲で知ってる程度。私の学生時代は敗戦直後で60年近く前の話。今の話に直接つながるところはないかもしれないが、但し戦後史の流れを振り返ると戦後の大学改革の問題がある。旧制大学から新制大学へ、現在の6・3・3・4への流れがあった。それは何を目指していたかというと、現在「大学改革」、そして独立法人化と呼ばれているものではないか。


大学改革はアメリカから日本に押し付けられる形ではあった。国立大学の予算をカットし、地方財政に任せることになった。但し地方財政だけでは不可能なので、地元の銀行の頭取などが管理者となって大学を運営していくこととなった。一橋大学など、当時「帝国大学」と呼ばれていたもののうち、旧植民地時代に作られたもの以外は地方委譲していった。その後大学はその自治において運営していくという制度への切り替えがあった。この流れにレスポンスする形で学生運動全学連)もできていった。武井さんは初代全学連総長。以後、レッドパージサンフランシスコ条約などの問題にレスポンスすることとなった。30年毎の展望的な感覚を持って語れるように思う。


ビラを撒いているだけで警官を導入する、監視社会を大学に導入するということは問題。但し、すがさんは「早稲田の歴史上なかった」と言ったが、早稲田当局はひどいと思われる大抵のことは戦後60年これまでもやりつくしてる(会場爆笑)。



【笹沼弘志さんの問題提起】
笹沼さんは憲法学者。11年間早稲田にいた。月刊「司法書士」の2月号で今回の事件を「珍事件」と書いた。ほとんど笑い話で、マジメに語るほどの事件なのかとさえ思ってしまう。バカバカしい事件が起こるバカバカしさに呆れている(笑)。


学問の自由や大学の自治について考えることは重要。今回は住居侵入罪という名目。大学の管理者の意志に反したということになっているが、「大学」という特権的な場所が何によって支えられているかといえば、憲法23条に明記されている学問の自由(第23条 学問の自由は、これを保障する)。


大学というのは、例えば「教会」のように大きな権力を持つものを近代国家に組み込んだ形でもある。また、「国家」のオルタナティブとして制度的に位置づけられる側面がある。大学は自由な学問を行う特権的な場所。自由なコミュニケーションなくして成り立たず、自由なコミュニケーションであるからこそ認められなくてはならない。撒かれたビラの内容というよりも、ビラを撒いた人を逮捕したということが早稲田大学の根幹を揺らがせているように思う。最近、週刊誌で早稲田大学では反早稲田的な発言を規制する内規ができたと書いていたが、これが本当なら労働組合的なものも不可能になる。


今回の事件が立川の事件と絡められるものかはともかく、早稲田の行為を警察が追認したことには重要。公共の場所でビラを撒いて逮捕されたという事件はこれまでもある。「パブリック・フォーラム論」、表現活動 のために公共の場所を利用する権利の問題があるが、これが「○○はパブリックフォーラムではないから逮捕」というような逆の形で使われてしまうことがある。早稲田大学がパブリック・フォーラムかどうかは意見が分かれるかもしれない。しかし大学は「言論の自由」「学問の自由」により特権的な自治を認められている場所であるからこそ、それらの自由を守らなければならない。


立川の事件は高裁事件で有罪ということになったが、あの判決が色々な形で振りかざされる。なお、東京地裁では「イラク反戦を呼びかけるテント村のビラは政治的表現であり、憲法二一条で手厚く保障されるべきもので、営利的な商業宣伝であるピザ屋のチラシなどに比べて優越的地位を有すところ、商業宣伝ビラが刑事責任を問われていないにも関わらず、反戦ビラが刑事責任を問われるのはおかしい」とする「二重の基準論」を使って表現の自由を護った。また、表現をめぐる問題においては、相互の自由なコミュニケーションによってまず解決すべきとしていた。しかし高裁では管理権者の意志のみで違法性を導き出した。管理者がビラの内容を不快だと思えば違法とされた。他にも多くの問題点があるが割愛。但し、ビラ配りだけで何を恐れているのかが分からない。




ビラ撒いたら牢屋行き。




入江公康さんの問題提起】
入江さんは社会学者。早稲田は来る度に新しい建物ができていて入りづらい(笑)。大学がテーマパークのようになっている。会員制高級クラブのよう。昨今の状況は「ネオリベラリズム」という形で問題提起される。大学改革もその中に位置づけられる。現在、大学が消費者化している。ひとつは学費の問題を考える必要がある。余談だが、教員になれたら奨学金免除、なれなかったら払えというのは矛盾を感じている(笑)。教員になれなかったら収入がないのだから余計払えない。閑話休題。消費者としては、高い学費を払わないものに対する排除という感情を抱くことはあるのではないか。そのため、今回への問題の無関心も生まれるのではないか。


もうひとつ。今回の事件は「文学部で起こった」ということが重要ではないか。「大学改革」が企業教育の場になっている。大学を、経済化、市場化、株式会社化されていくように動いている。「文学部」は市場に乗らない「無駄な何か」であると思われている。院生や非常勤講師、専任講師の反応の程度問題も関わってくる。この点は掘り下げる必要がある。


大学は、自治も警察にアウトソーシングするようになった。民営化のアナロジーで進んでいく現象を「ネオリベラリズム」の切り口で考えることは重要ではないか。



【ディスカッション1】
○すが:院生、非常勤の問題が入江さんから提案された。ビラを撒いていると専任教員がわーっとやってくる。そうでなくても専任教員は大なり小なりヘタレている。かつてなら学生と教師のネゴシエーションという形があったが、現在では大学がパブリックスペース、公共圏として機能しなくなっている。これは良い/悪いの問題ではなく、もはや不可能であるということが前提になっている。専任教員はそこそこ良い給料、1000万以上はもらえる。非常勤は200万もキツイ。院生は収入なんてない。ここに格差があるし、ばらつきもある。この意味で「文学部」で起こったのは確かに象徴的。文学部の教員になることは難しいし、就職も難しい。学問的に先鋭的なことを言っている人でも、動きは鈍い。「ビラ撒きで警察逮捕はさすがにひどい」くらいは言ってもいいのに、それすら言えない。それくらいのリスクは背負えばいいと思うが、言えば地位が危うくなる。他にも地位が危うくなる理由は出てきている。分断が進んでいるのでもはや取り返しのつかないところまではきている状態。


○笹沼:静岡の大学の学生と比べると、東京の学生は歩くスピードとか顔のしまり具合いが違います(笑)。静岡では学生も高校生みたいな感じ。昔は大学側が率先して、規則に反した学生を排除しようとしていたが、今は学生が率先して、大学の規則に反した学生を排除しようとしている。あるいは「自治会のやり方を教えてください」的なことを言ってくる。手取り足取りなんでも教えてあげないといけない状態。授業に出ずに独学で勉強していたような人が、結果的に有名な知識人や研究者になるというようなケースがある。大学側の立場に反するビラを配布することを取り締まらないといけないほどの厳戒態勢なのか、あるいはよほど暇なのか。


○すが:そういうことしてるから忙しくなってる(笑)。今の話はサークルや自治体でカリキュラム以外の授業が重要になってくるという話。「特定の団体」等に対する恐怖心を抱いているような雰囲気があるが、いつ頃から生まれたのか。


○武井:今回ちょっと苛烈に発言している安藤教員がいるけど、彼は特別というわけではなく結構そういう人はいる(笑)。文学部の話があったが、英文だったら文学ではなく英語だけ教えればいい、という状態になりつつある。学生と教授の交流が存在しなくなっていく。そういう先生が多数になったら学生はどうなるのか、ということを考えなくてはいけない。


○入江:「不審者」という表象が気になる。ネオリベラリズムは、「不審者」のレッテル貼りと排除が関わる。今回初めてなのか分からないが、学内に貼られた大学の公式見解には、不思議の国のアリスに出てくるようなウサギがニタっとしているようなイラストがついていて(下画像)、サディスティックな悪意を感じる。東京都も不審者MAPみたいなものを公開している。「不審者」の論法を使って学外者を排除することは、公共空間としての大学、ということを改めて考えさせられる。




大学から見た青年…って、こんな人間いるか!




○花咲:自治の問題とも関わるが、「早稲田大学生ではない」ということに積極的な意味を見出すべきではないか。


○すが:既にコミュニケーションがうまくいかなくなっている状態で、大学の自治アプリオリに可能であるかのように語るのはまずい。抗議をする一方、実態を把握する必要はある。



井土紀州さんの発言】
井土さんは映画監督。大学でシナリオを教えているが、それは映画学校でもなんでもなく、むしろカルチャースクール的な客寄せのため。逮捕された青年も自分の授業のモグリだった。今回は笹沼さんが言ったように「珍事件」。ところが若者に話を聞くと「私有地でしょ? 当たり前ジャン」という反応が返ってくる。あらかじめ議論がスポイルされている。漫画、アニメ、音楽というようなサブカル批評をしているような人ですら「ビラなんか撒いているからダメなんだよ。古いんだよ」というレスポンス。多くの人が違和を抱かず内面化している状態でどう発言すればいいのかを考えさせられる。



【木村建哉さんの発言】
木村さんは成城大学で映画学を教えている。青年にも映画学を教えていた。大学教員の立場から多く考えさせられる。事件そのものではなく、大きな歴史的文脈の問題を2点指摘したい。(1)大学の管理・監視の強化と学外者の排除の問題。そして表裏一体の問題として、(2)自治管理スペースがどんどんつぶされている、ほとんどつぶされてしまった、という問題。


自分が学生時代に入っていた寮には、学外者がバリケードを作って住んでいた。そこまで認めていいのかというと疑問があるが、自治として機能していた。その寮はすでに潰されている。また、サークルが部室に使っていたような寮もあった。そこも潰されている。法政大学にあった、すばらしい映画活動、劇場活動が行われていた学生会館も潰されている。自主管理スペースがつぶされ、大学が監視を強化している。学生は大学の言われるとおりの勉強をしていろ、という状況が強まっている。


果たしてこれでいいのか。大学は多少、社会や企業の要請に応じる必要はあると思う。しかし重要なのは、それだけを目指すとおそらくはその目的すら果たせなくなるだろうということ。今・企業が・役に立つであろうと・短絡的に思っているような・都合のよい人間だけを・効率的に育てようとするシステムは、長期的に見ると社会全体、あるいは企業や資本主義にとってでさえ大いなる害になってしまう。企業中心とした市場主義に対するオルタナティブという価値を提示する場所という側面が大学にある。現在の大学の監視・管理の傾向は、大学自滅の道ですらある。


今回の事件は「文学部」で起こった。文学部は≪すぐに役立つ学問≫ではないから規模縮小されようとしている。その切捨ては大学の自滅。ところが、切捨てられる側が、学外者に対しては切り捨てようとしている。やられていることを他人にすることで自分の不安を晴らすような状態。その意味で、共感はしないが同情や憐憫を感じなくはない。しかしそれは認識が間違っている。


大学は滅びていいという考えもあろうし、まもなく滅びるかもしれない。10年後にはつぶれる大学も相当数出ることは間違いない。てっとりばやく、企業の役に立つとなんとなく思われているものに特化・純化していくことは大学の滅びへの道になってしまうので、教員は危機意識をもった方が良いのではないか。



池田雄一さんの発言】
池田さんは文芸評論家。笹沼さんの仰るように今回の事件は確かにバカバカしいが、バカバカしいと言ってスルーしてしまうと事例による陣地戦みたいな形で今後利用されてしまう可能性がある。学生と交流する場がなく、「演習」を運営するのに最低限必要なコミュニケーションさえもない状況をなんとかしたく思い、頻繁に飲み会をやっているが、非常勤は金がないので大隈講堂前などで飲んだりしている。が、それすらも10時になると警備 員に追い出され行き場を失う。学生がコミュニケーションできる空間がない。カリキュラムもそうなっている。ゼミというものがなく、環境的に管理されて いる。


学部学生の反応は良かった。「あの人はブラックリストだから当然」という意見を聞くが、その際「ブラックリスト」なるものがどういうものあるかは問われることはない。イラクの人質事件での自己責任論のよう なものを感じる。


今回の件で問われることになるのは「大学が自由な空間である」という理念に対して、保守的にふるまうのか、破壊的にふるまうのか、ということでしょう。 このような理念などはすでに「嘘」なのだから、大学などなくしてしまえ、という考えをもつか、自由の空間を死守せよと、考えるかによってまるでちがった 立ち位置をとることになると思います。理念に対して保守的な人は、最近の学生に「抵抗しろ」とか説教したりするかもしれませんが、最初からそういう環境 がないわけですから、それもちょっと違うと思います。


○すが:論理というより、合理化したいという動きのほうを感じる。答えが先にあって、それを何とか納得したがっているような印象がある。


○池田:大学はもうだめだから、他でやるしかないのではないか。


○すが:大学がダメだってのは自明。ところが大学に変わるものというものもない。ダメだといわれ続けていても、他のシステムがないというディレンマがある。そのディレンマをスルーさせないように、様々に異化しつつ顕在化させなくてはならない。今週号の週刊新潮で、大学教員のセクハラ問題が載っていた。セクハラで解雇されるということだが、反早稲田的な発言をしたら「セクハラ」などを利用して解雇されるという問題が一方である。「セクハラガイドライン」は80年代フェミの成果ともいえるが、現在はそれを文科省が引き継ぎ、大学の管理の論理に使われている。こういう動きは実は「エロ本業界」に既に起こっている。



松沢呉一さんの発言】
松沢さんは早稲田出身のライター。これまでは「風俗ライター」と名乗っていたが昨年4月で廃業した。理由は端的に食えなくなったから。規制が強まりすぎていて仕事どころではない。すがさんは「新しいステージ」が来ると行っていたが、風俗産業はとっくに「新しいステージ」に追いやられている。今、大学で起こりつつあることは、実は既に「エロ」という分野で既に全部やられている。


具体的には、法律の極限までの拡大。ここ数年のことで言えば、風俗嬢がどんどん逮捕されるという事件がある。ほとんど報道してくれないが、売春防止法の幇助ということで逮捕され、前科がどんどんついている。本来であれば女性が「被害者」とされていた。また去年、東京都の迷惑防止条例の改正でスカウトマンがつかまっている。これは実はとんでもないことで、声をかけること自体が制限される。ナンパ禁止条例というものを作ろうとしている自治体もある。スカウトマンが表向きナンパし、ナンパ相手に仕事を紹介するというケースがあり、そのケースは摘発できないから。


ビラ配りで言えば、迷惑防止条例で、敷地内にピンクビラを貼っただけで逮捕される。仮にそこが完全に私有地でも、公道から見えただけで逮捕。去年の7月からできている。また一昨年、東京都の青少年健全育成条例により、エロ本にシールが貼られるようになったが、あれはメディアをいつでも潰せる状態を作ったということ。一般にはエロの規制だと思われているが、第二条には「犯罪行為を助長する」ということが書かれているので、酒、タバコ、ギャンブルのようなものを書いただけでも潰すことは可能。昨年もWebでソープランドのガイドをしているHPが売春防止法で潰されている。これが他のジャンル(例えばオタク?)だったらもっと話題になっていただろう。


みなさんほとんど関心なかったと思いますが、自分がずっと訴えてきて相手にされなかったこと。既に手遅れ、現実はもう作られている。「エロ本はしょうがないだろう」「ピンクビラはしょうがないだろう」「セクハラはしょうがないだろう」と、問題の根幹を考えずになんとなくやり過ごすことでここまで拡大されてきた。もう既成事実はできているので、あとはさらに拡大するだけ。「エロビラは不快だから当然」というロジックの場合、どのようなビラも不快に感じる人はいるので、どんな内容であれ捕まえることができてしまう。これまで自分は「エロがつぶされていいのだったら、お前らも潰されろ!」と思ってた。それが皆さんのところにようやく来た(笑)。もう手遅れ、やってもしょうがない。でも、カラオケ仲間がいるからここに来た(笑)。


セクハラに関しても、本来は要件を厳しく設定する。しかし、被害者が嫌だといえばセクハラ、というようななローカルルールが適用されているケースがあり、時効なども設定されていないのでローカルには数十年前のこととかでいつでもクビにできてしまう。早稲田大学の教員もそれを恐れている。こういうものが、行政や大学に不都合な存在を潰すため、例えばフェミニズムを潰すためのロジックや手法に今後使われてくる。




【ディスカッション2】
○笹沼:これまで「表現の自由」というと焦点になってきたのは「猥褻」だった。今後は変わるのかもしれない。セクハラで言えば、個人的なことは政治的なことというスローガンにあらわされるように、プライベートな問題をパブリックに考えなくてはいけないことはある。DV防止法やストーカー規正法などは治安国家化と共に批判する傾向もあるが、微妙に距離がある。

例えば、「権力」には介入する権力と見殺しにする権力(介入しない権力)がある。ホームレス問題を例にすると、住居を奪うという権力を振りかざす一方、社会保障が不十分だからホームレスになる層がいて、そちらは「見殺し」にされているという問題がある。ホームレスに仕事を与えるというケアの形があるが、そもそも仕事を失っても保障さえあれば路上に行かなくても済んだケースが多い。70歳のホームレスに就職活動をさせる支援があったりするが、就職できるはずがなく生活保護をするべき。最近高齢者の「詐欺」が増えているが、その内実は無銭飲食のこと。介入する権力/見殺しにする権力については考える必要がある。一方で「権力」と言えば、例えばセクハラの問題ではフェミニズムの成果を利用する「権力」の問題もある。

大学の問題で言えば、大学で不当な扱いをされている人が抗議するとさらに排除される。どんどんレッテルを貼られ、ネゴシエーションが不可能になってくる。監視社会は、「誰が何をしたか」が問題になるのではなく「誰か」のみが問題にされる。ダメな人は何をしても許されなくなる。



○すが:大学などは環境によって「接触」をしないように設計しようとしているが、私たち人間はどうしても「接触」するのもので、「接触」しないことは不可能。このことはフェミニズムが前提としてきたこと。それでも「接触」を禁じようとする、「リアル」なものの排除をしようとしている。早稲田大学以外の学生なんて、排除しようとしたって入ってくるもの。建前上排除しておけば健全な状態を作れるという幻想がある。


○笹沼:セクハラの問題で言えば、恣意的な「アウト」を使わせないためのものがガイドラインであるはず。ところが、それを恣意的な「アウト」のために逆に利用する人がいる。「セクハラ」をテコに反骨的教授を排除するかつての「反骨的大学」たる早稲田、という笑えない状況。


○すが:イラク反戦の時は元気だったが、今は黙っているというタイプの教授がいる。しかも、そういう教授がむしろ大学の看板、セールスポイントになったりしている。早稲田が今回、「酒井隆史の『暴力と哲学』を入試問題に出したじゃないか。これほど当大学は自由な発言を認めている」と言ってきた(笑)。免罪符のために飼われている、という教員の問題もある。構造化された「反体制」なら客が呼べる。


○花咲:カルスタ、ポスコロが反動として機能している(笑)。


○会場より、大野英士(『ネオリベ現代生活批判序説』の編者):時期的な問題もある。早稲田の場合、1文、2文が文学部と文化構想学部に再編される。その際、700人前後の講師が一度解雇という形をとる。その時期になかなか大学に「反対」の声をあげるのは難しい。一方で、今は「学校」が誰かに要請されるまでもなくネオリベに過剰適応しようとしている状態がある。その意味で、この問題は大学批判だけにとどまらない。


○花咲:引き続き議論を継続していくので支援をお願いしたい。





【雑感など】
レポは以上です。以下、雑感など。個人的には松沢さんの「性」の視点からの問題提起、木村さんの合理性への過剰性が非合理な結末を招くというシニカルな未来像への批判が特に印象深かったです。また、法律の専門的な話や、この問題に限らず広い視点をとるような問題提起も参考になりました。


シンポジウムを聞いて、今回の逮捕が不当なものであることだけでなく、「異質なものを排除」しようとする傾向が高まっていることを容認するような雰囲気は問題であると思わされます。知人の木村さんやすがさんが参加しているからということではなく、内容面で抗議に同意します。


但し、時折垣間見えた「最近は学生の質が下がった」的なニュアンスや、「運動に対して誰がより忠誠心を抱いているかごっこ」的なノリの部分はまったく賛成できない。また、正義感(orルサンチマン)の表出をラディカルに行えばよいというスタンスは私は取れない。アプリオリに「公共」を保つことが不可能ということが前提にあるならば、単に正義感を思うままにアウトプットすることと「正義」が実現するように振舞うことは別。もちろんそのようなスタンスを好む人がいることに異論はないし、そういうスタンスを煽ることも重要で、なおかつそういうスタンスの人がいないと実現の回路を構築することも難しいことは分かるが、アンバランスに写ります。


また、内容的な面ではなく、形式的な部分での違和感というものもあります。例えば「抗議のHP」サヨク趣味的デザインや、署名がほとんど有無を言わさずHPに掲載されること、およびメッセージが「連帯メッセージ」として扱われることに違和感があるために署名しない人も多いように思う。また、そのフォントサイズはどうなのよとか、その運動用語はどうなのよとか、その修飾語なんとかならんのとか、すごく同調ムードが高いのはどうよとか。


内容に同意しても署名してwebで公開されると就職活動中だからちょっと嫌、というようなケースも少なくないと思います(実際何名かそういう声をヒアリングしているし)。私はそのようなケースに対して「ビビッテンジャネーゾ」と恫喝するタイプのラディカリズムには嫌悪感を抱きます(今回がそうだ、ということではないです)。「署名くらいでビビるな」と、単に覚悟の問題で済ませるのはパフォーマンスを無視しすぎ。内容が崇高であれば同意せよと迫ったり、あるいは自分のスタイルに同意せねばディスリスペクトという状態はまずく、今回の「事件」へのレスポンスは、むしろそういうものに対する違和感の表明であると思っている。だから方法は色々あってよいと思う。私のような「ヘタレ」でもね(というか、そういう「ヘタレ」に向けてメッセージを発する必要があるだろうし)。


私はデモや署名がどの程度の効果を持つのかは知りませんが(それでもビラを配ったり署名をするのは効果はあると思う)、ネットに限定して言えば、例えば読みやすいBLOGなどのスタイルも取れたのではないかと思います。単にサイトを作って立場表明するだけでなくより多くのリンクを集める必要があるのだから。多分、BLOGにしておけばそれだけで署名の数はかなり違ったはず。幸いにも(?)メールフォームは独立しているので、まだまだ継続するのであれば今からでも別BLOGを運営したって遅くはない。サイトはひとつでないといけないという理由はないし、色々試行錯誤してもいいはず。


これは半ば趣味の問題でもあるから(サヨク的な雰囲気って苦手なもので)、だったらお前がBLOG作れとか言われそうです。内容賛成で形式反対なら、自分にあった形式でやれよと。この要求には異論はありますが、HPは作らない代わりに以下のように提案。


もし抗議の内容に同意しつつ上サイトの形式に違和感がある人は、このエントリーにリンク貼ってください。また、署名の際も、署名フォームのコメント欄に「webには名前をupしないでね」と明記しておけばよいかと。よろしくお願いします。